93話 月子
93話です。
よろしくお願いいたします。
「・・・ああ」
月子は実家の道場にいた。
また此処に来てしまったのだ。
床をつま先で蹴ってみる。
どんどん。
この弾力と音は、間違いなく道場の床だ。
手に持った木刀を認めると、軽く振ってみた。
産土流は、足先の動き、膝の動き、腰の動き、
部位が体の中心に近くなるほど、
重要で緻密な動きが必要になっていく。
だからとても難しい。
未熟だった頃、月子はたったひとつの所作習得に、
1ヶ月かかったこともあった。
祖父はあまり褒める人ではないから、
月子にとって鍛錬はいつも辛いものだった。
「今日の冴えは、親父以上だった」
確か高校1年だったか。
祖父にそう言われた時、始めは褒めてくれたのかわからなかった。
後の人生、月子はその日の自分を追い続けることになる。
祖父は実践を経験したことはあるが、人を斬ったことはないそうだ。
現代の世では当たり前のことだ。
だが、曽祖父は斬ったことがあるそうだ。
そういう意味で、曽祖父は祖父が越えられない壁を
越えている人だといえる。
だからこそ、祖父の「親父以上だった」という言葉には、
特別な意味があると、月子は思っていた。
そして月子は、
全てを失って死に、そして自分だけが戻ってきたあの日に、
祖父に褒められた自分と久しぶりに再会することになる。
あの時、月子のこころはかき乱され、体内にはいくつかの不一致があった。
心技体が、まったくといっていいほど整っていなかったのだ。
だが、それでも月子は至った。
始めて『皮無し』を斬り殺した時、
ほんの一瞬だけだが、月子は新陰流の最先端にいる自分を意識する。
新陰流とは派生の末に真髄を異にするようになった産土流だが、
この流派を剣を握った日から一度も稽古を怠らなかった月子が、
現代では決して超えられない実践という垣根を超えたことで、
奇跡的な高みに到達せしめたのだ。
陽子を素手で押さえたあの時、捉えた手がまるで彼女の命を吸いこみ、
自らの力に変えているかのような錯覚に陥った。
直後。
剣術は学ぶものではなく、自分自身が成るものだと察した。
身の程をわきまえず、恐れ多いことは承知の上だ。
だが、それほどまでに、あの時の月子は強かった。
返陽月が幾分しか力を発揮しない中で、
力を十分に行使する陽子と渡り合えた。
だが、陽子には勝てなかった。
陽子が持つ憎しみの炎を断ち斬ることができなかった。
驕りが過ぎたのかもしれない。
手にした木刀が長い時を経たように、みるみる朽ちて崩れていく。
突如、道場の床が抜けて、月子は暗闇に放り出された。
着ていた道着は闇と同化し、月子は一糸まとわぬ姿となった。
剣も、服も、矜持も失った月子は、ただの女だった。
なんて心細いのだろう。
なんて頼りないのだろう。
一寸先も見えない暗闇を前にして、
これからどうすれば良いのかさえ思いつかなかった。
「・・・」
闇の中で、長い時を過ごすうち、
これこそが自分の剣なのだ、と思い至る。
技が強くとも、教えが深くとも、刀を握る者のこころが弱い。
まるではりぼてのような剣が、月子の剣なのだ。
ああ、この程度で剣の道などと、自分はのたまっていた。
月子はただ、自分の位置もわからないまま、
虫のように蠢動いていただけだった。
目の前には、腕をギプスで固定した陽子が立っている。
陽子はゆっくりこちらに近づいてくる。
陽子が一歩進む度、ギプスに灯された小さな火が大きくなっていく。
陽子が燃え盛る手で月子の喉に触れた。
月子は為す術なく首を燃やされ、やがて全身を焼かれた。
◇
「ああっ」
跳ねるように身を起こす。
そこには灼熱の炎はなく、暖かい日差しだけがあった。
額と首は、水をかけられたように汗まみれになっている。
「・・・どこ?」
ここは、どこだ。
自分がベッドの上だと気付く。
陽子と戦っていたことを思い出す。
確かに、月子は妹と刃を交えて戦ったのだ。
そして、どうなった。
「どう・・・なったの?」
思考を中断させるほど、左手が疼いた。
身体のバランスがおかしいのに鞭を打って、
月子は身体に載せられたシーツを剥いだ。
左手がない。
呼吸が止まる。
汗まみれの皮膚の下から、さらなる汗が噴き出してくる。
脳裏にいくつもの言葉が浮かんだ。
剣。
陽子。
道場。
産土流。
祖父。
家族。
順番に思い描いたすべてが、朱の炎に焼き払われる。
「あ・・・・ああっ」
月子は無い左手を虚空に伸ばして掴もうとした。
だが、すでに失われてしまった手で、何かを掴めるわけがない。
「あ・・・」
すべて夢の通りだった。
月子は夢の中で焼かれ、現実でもなお焼かれて続けた。
「うううううう・・・・うぐぐぐぐっ」
月子は頭を抱え込んだが、
当然あるはずの左手の感触がないことでパニックを起こした。
「ぐぐぐぐぐぐぃぃぃぅうううううう」
感情の濁流にのみ込まれる寸前、声が聞こえた。
「月子っ!!」
小さな手が、月子の手を掴んだ。
キーラの手だった。
彼は唸り続ける月子を抱きしめてくれた。
「・・・月子っ」
「ううううううううああああああああああ」
夢中でキーラを掻き抱いた。痛みに呻くのが聞こえる。
それでも、何かの支えが必要だった。
月子は呻きながら、じわりと伝わってくる体温と、
髪の柔らかさを感じ続けた。
彼が月子の背を撫ぜてくれたおかげで息ができる。
だんだんと、身とこころの灼熱が鎮火まっていく。
「うう・・・ううう・・・」
左腕の肘から先がないことを、右手が知る。
何度もなんども思い知らされ、その度に胸が串刺しになる。
だが同時に、キーラの温かさもそこにある。
「うう・・ぐず・・・ううう」
彼がいたから、月子は狂わずに済んだ。
「キーラ・・・くん」
「月子。
落ち着いた?」
その声が真水のように月子を安心させた。
「うん」
両足をベッドから降ろそうとしたら、「まだ寝てないと」
キーラは月子を押し留めて寝かせると、シーツをかけ直してくれた。
月子の心細さを察して、彼が手を繋いでくれる。
「キーラくん」
「うん」
「キーラくんがいてくれてよかった」
「えぇっ?
そ、そんな、僕は、ただここに座ってただけで」
月子はキーラの泳いだ視線の先を見た。
テーブルの上で、中身のこぼれたペットボトルが倒れていた。
きっと、月子のために慌てて落としたのだろう。
「ありがとう」
「う、うん・・・。
う・・・んん?」
キーラは目を見開いてまじまじと月子を見た。
「月子。しゃ・・・しゃべべ。
しゃべってるっ!
ち、ちょっと待ってて。伊都子を呼んでくるからっ!」
キーラは駆け出すと、伊都子の名を呼びながら部屋から出て行った。
「・・・キーラくん。
いっちゃった・・・」
慌ただしい足音が遠くに行ってしまった後、
月子は何かに呼ばれるように窓際を見る。
古びて黄ばんだカーテンが膨らんだ下に、返陽月が横たわっていた。
「か、かえり・・・陽月」
動きの悪い体を叱咤して、返陽月へ手を伸ばす。
左手が無いのを思い出し、月子は戸惑った。
どうにかして、返陽月の姿を見たい。
「・・・これで、どうにか」
鞘を首と肩で挟み、ゆっくりと慎重に引き抜く。
うまくいった。しかし
水のように美しい刀紋は、半ばで断たれていた。
折れている。
ああ。そんな。
陽子と剣術だけではなく、ついには刀も失ってしまったのか。
「も、申し訳・・・・」
月子は返陽月を抜き身のまま抱くと、
海に沈むように首を垂れ、押し殺すように泣いた。
ありがとうございました。
次話も近く更新いたします。




