91話 紫
91話です。
よろしくお願いします。
できれば、数日の間横になっていたいくらいの疲労感はあった。
「俺は辺りの安全確認をしてくる。
伊都子ちゃんはここで、みんなを見ていてくれ」
歩き出した紫の手を、伊都子が掴んだ。
「紫さん。
頭から血が出ています」
伊都子がハンカチを女神の噴水に浸すと、紫の額を拭った。
「傷の位置がわかりません。
ちょっと座って下さい」
彼女のハンカチは真っ赤に染まっていた。
「ちょっと小石が飛んできただけだ」
「だめです」
立ち上がろうとしたら彼女の身体が近付いてきて、押し戻された。
汗ばんだシャツに目を奪われる。
「大丈夫だって」
ひりひりとした痛みが引いていく。
傷は奇跡によって無事塞がったようだ。
伊都子は紫に強い視線を向けると、
「紫さん。私も一緒に行きます」そう言い放った。
こうして紫は、清十郎たちに留守を任せ、
伊都子と一緒に学校の敷地内を見回ることになった。
「伊都子ちゃん。
もし腫瘍持ちがいたら、大声で知らせて」
「はい」
伊都子は氷のように顔を固めながら頷いた。
会敵のリスクがないとは言い切れない。
紫は校舎脇にあった物置から、箒を取り出して彼女に渡す。
こんな得物でもないよりマシだろう。
「逃げるのが最優先だ」
「は・・・はい」
校舎裏には、いくつか壁が崩れている場所があった。
救出作戦の最中に突然現れた『あれ』の仕業だろう。
苛烈な戦いの痕跡に、2人は立ち尽くした。
「これは」
紫は屈んで地面に触れた。
地面が所々焦げて、まるで溶接されたみたいに固くなっていた。
どれだけの熱量があれば、こんな風になるのだろうか。
何か引っ張られる感覚があったので振り向くと、
涙ぐんだ伊都子が紫のシャツを掴んでいた。
紫は伊都子の手を掴んで、一緒に奥へ向かって進んだ。
開いていた裏門を2人で閉じ、物置から持ち出してきたロープで固定する。
「はぁ・・・はぁ・・・」
蓄積した疲労と極度の緊張に耐えられなくなったのだろう、
伊都子が膝をついた。
「やっぱりみんなと休んでて」
彼女はひどい顔色だった。
「だめ。私もやります。
みんな命懸けで戦ったんだから、私が今、やらなきゃ」
目尻には涙が光っていたが、そこには強い意志も秘められていた。
紫は彼女の前に膝をつくと、肩に手を置いた。
「それなら、2、3分毎に少し休憩を取りながら移動をしよう。
最後まで体力がもつように」
「2、3分?」
「そう。
こまめに休憩を挟むのが長く動くためのコツだ」
箒の柄を掴んでいるゆっくりと引っ張り、伊都子を立たせてやった。
伊都子の呼吸は浅くて頼りなかった。
「ちゃんと息をしてないな。だから疲れるんだ。
呼吸は深く」
「は・・・はい」
「はいー。すってー・・・はいてー」
2人でゆっくりと深呼吸をする。
「ああ・・・楽になったかも」
伊都子の頬が緩んだのを見て、紫は口の端を上げた。
「そうだろ?
じゃあ、次は校舎の中を見ていこう。
使えそうなものがあったら、チェックしておいて」
「わかりました。
その・・・」
「なに?」
「紫さんって、やっぱり、頼りになりますね」
彼女にそっと掴まれた手から、暖かいものがこみ上げて来て、
顔面が熱くなった。
「おじさんを褒めたって、何もでないぞ」
紫は空を見上げて誤魔化した。
「こんな状況で、何か出るなんて思ってないですよ」
荒野に咲いた小さな花のように、伊都子が微笑んだ。
2人が歩き出した時、
「おーい。サキー」
「伊都子ー」
結希達と一緒に校庭にいるはずのキーラとソーニャが走ってきた。
「お前ら、何してんだ!
まだこっちは危ないかもしれないのに」
「ジューローに言われて来たんだよ」
「ソーニャもきたんだよー」
「いや、お前ら子どもはあっちで待ってろ」
「やだよ」「いーやーだー」
2人は何を言っても、
「ジューローとスカーに言われた」の1点張りで、
いくら言い聞かせても帰ろうとしなかった。
「伊都子ーソーニャも行くのー」
ソーニャにしがみつかれた伊都子が、苦笑いを紫に向けた。
「ちょ、ちょっとソーニャちゃんったら・・・。
紫さん。どうしましょう」
「うーん」
結希達の戦いを見た伊都子がそうであるように、
キーラとソーニャも何かの役に立ちたいと願っている。
「仕方ない・・・一緒に行くか。
その代わり、俺の言うことをちゃんと聞くんだぞ!!」
「うん」
「いくいくー」
結果からいうと、中はあちこち荒らされていたが、
校舎内に腫瘍持ちの姿はどこにもなかった。
「ベッドがあるよー!」
ソーニャが飛び跳ねながら部屋を指さした。
「保健室だね。
見つけてくれてありがとう、ソーニャちゃん」
伊都子がソーニャに追いついて、小さな体を抱き寄せた。
『ポータル』が『3人』にぶち込まれた時の突風で、
ソーニャと伊都子の顔は砂まみれになったままだ。
「あんまり先に行かないの」
「だって、もうお化けはいないよー」
背中を突かれて振り向くと、
「サキ。
あっちの部屋は崩れてる」
キーラが建物の奥を指さして言った。
「キーラ。
もうそっちには行くなよ」
「わかってるよ。
チェックしているだけだから」
キーラはうっすらと光る不思議なペンを使い、
建物の内情を、『賢者の真心の王国』に記録しているようだった。
「紫さーん。
保健室でみんなを休ませてあげられないでしょうか」
「そうだなぁ。
ただ、建物が崩れないかちょっと心配だな」
キーラが『賢者の真心の王国』から光を放った。
「サキ。これを見て」
目の前に、立体的な学校の見取り図が浮かび上がってくる。
「へー」伊都子と紫が感心していると、
「ここが、今の現在地」キーラが赤い光点を指さした。
「崩れている箇所は、こことここ、そしてここ」
「キーラくんすごいっ。
いつの間に記録したの?」
伊都子が思わずといった様子で、キーラの頭を撫ぜた。
彼は少し目を細めたが、嫌がる様子はみせない。
「あっ。ごめんなさい。
私ったらつい」
伊都子が慌てて手を離して、一歩下がる。
「いいよ・・・。
そ、その、伊都子はイヤじゃないし」
「え・・・あ。うん」
キーラの言葉に、伊都子は衝撃を受けた様子だったが、
すぐに満面の笑みを浮かべて、再度キーラの頭を撫ぜた。
「私も嬉しい。
本当に、いやじゃないの?」
「そ、そんなの、スカーにもいつもやられてるし。
あいつはそれ以上だし」
唇を尖らせて言い返しているものの、キーラの耳は真っ赤になっていた。
「じゃあ、俺もーがはっは」
紫は伊都子とキーラを抱きしめて、頭を撫でまわした。
「だぁー。サキはやめろよ。
粗っぽいんだよ」
キーラが身を捩ったところに、
「ソーニャもー!!」とソーニャが突撃して来る。
ソーニャは思い切りキーラの背中にぶつかった。
「うぎゃあっ。
こ、こうなるからヤなんだよ・・・」
キーラは眉間にしわを寄せているが、まんざらでもなさそうな表情である。
「ほ、ほら。
もう結希達の為に動かないと」
キーラが咳払いをする。
「保健室は崩れたところから遠いし、
構造上休んでいても問題ないと思う。
ただ、みんなで寝るにはベッドが足りないね」
キーラの頭に手を置いたまま、紫は頷いた。
彼がこころを開いてくれているのが、自分も嬉しかった。
「俺は雑魚寝か、廊下でもいいけどな」
「ソーニャもいいよー」
「そんなのだめだって・・・。
さっきの場所から西側の方に、
宿直室っていうのがあったよ。そこにベッドあるかも」
キーラが黄色い光点を指さす。少し離れているが、
崩れている場所を迂回して辿りつくことができそうだ。
「そうか。
よく見つけたな」
「うん。
施設にもそういう部屋があったから、すぐにわかった」
「そっか。
じゃあ、ちょっと2人で見に行こう」
紫はキーラと協力して、宿直室からベッドと布団を運んだ。
ベッドは汚れていたので、ソーニャと伊都子がシーツを取り換えてくれた。
「洗濯機が欲しいわね」
汚れ物をひとまとめにしてビニール袋にしまいながら、伊都子が呟いた。
「伊都子。
部品があればすぐ作れるよ」
重たいものを運んだ後のキーラは、額から汗を落としている。
「ありがとう。紫さんに頼んでみる」
「うん」
「ね。サキー
着替えもあるよー」
ソーニャはひとりごそごそとしていると思ったら、
保健室の箪笥から、予備のジャージを見つけ出した。
「お。やるじゃん!」
伊都子がジャージと体操服を広げて喜んだ。
「きれいです。
すぐに使えそう」
「じゃあ、あいつら寝かせる前に着替えさせてやるか。
ぼろぼろだったし・・・」
「はい」
紫達は一旦、結希達の元へ戻った。
結希と葵、月子はまだ目を覚ましていなかったが、
葵が助けた女子生徒は、意識を取り戻していた。
彼女は半ば放心状態で佇んでいたが、
名を訊くと「山田すずです」と答えてくれた。
紫はスカーに声をかけようとしたが、清十郎に止められた。
まだ『ポータル』の調節がうまくいかないようで、
会話は難しいとのことだ。
「セイ。校舎は安全だ。お前たちも来いよ」
清十郎は頭を振った。
「まだ駄目だ。
一段落するまで、スカーと一緒にいる。
あとでいろいろ教えるから、ちょっと待っててくれ」
「わかった」
紫は結希を抱えて保健室へと運んだ。
伊都子はすずに付き添ったり、葵をおぶって運んだりと、
なかなかの重労働をよく頑張ってくれた。
最後に月子を運び入れ、倒れた3人の脈拍と呼吸を慎重に確認する。
問題はなさそうだ。
伊都子達に3人の介抱を頼むと、
紫は職員室に備蓄されていた固形食料と飲み物を取りに向かった。
最後まで、きちんと分配されていたのだろう、
食料の入っていた段ボールにはマジックで、名前や数字が刻まれていた。
非常時であっても冷静さを失わない大人が、ここにはいたのだ。
「すみません。もらいます」
紫は保健室にいる伊都子達と、外にいるスカーと清十郎に食料と水を渡した。
それでも少しだけ残りはあったが、自分の分を食べる気にはなれなかった。
「ちょっと外見てくる」
1人校庭に出ると、敷地の外を見た。
道路を隔てて、夕日を映す大きな川がある。
夕日は水面に反射して、オレンジ色の道を作っていた。
「こんなところに、川があったんだな・・・」
校門前に、戦いの傷が癒えたばかりだというのに、
見張りをしてくれている虎と三毛がいた。
「よぉ」
紫が手を挙げたら、2匹は礼儀正しくおじぎをしてくれる。
校門の外には、銀の姿があった。
彼はこちらを見るなり、走って行ってしまう。
葵が以前言っていたが、銀は野性の狼と同じく周囲にマーキングをして、
外敵を寄せ付けないようにしているらしい。
「すまんな。
みんな働いてもらって。終わったばかりなのに」
頭を下げると、三毛はこちらへやってきて、
木の実を一粒くれた。
「これ・・・なに?」
三毛はみゃーみゃー鳴きながら、
実を食べるジェスチャーを繰り返している。
「うわ。すっぱい」
実は口に入れるとかなり酸っぱかった。
しかし、極度に疲れた体に入れるには、丁度良い気がする。
「もう1個くれよ」渋面で言うと、虎は喜んで10粒もくれた。
「これ、癖になるな・・・」
校舎側を見ると、きっとキーラがやったのだろう、
保健室に灯りがついていた。
「戻るわ。2人ともありがとう」
三毛虎は紫に一礼すると、にゃーと返事をした。
保健室に戻ると、
「あ。
サキーおかえりんごー」
ソーニャが足に抱きついてきたので、
紫は少女の脇を抱えて持ち上げた。
「ソーニャ。ただいまんごー」
室内灯を指さして、
「キーラがつけてくれたのか」
キーラは『賢者の真心の王国』を膝の上に置いたまま、
顎を引くように頷いた。
「大変だっただろ」
「んーん。
オドがいたから、すぐにできた」
「ドローンはどうなった?」
キーラは小さく首を傾げ「全滅」
紫は肩を上下させて「そうか」
「でも、今回のことで、あれの有効性は示せた」
キーラが光を操って、ドローンの設計図を空中に浮かべた。
「改良したのをまた作るよ」
横顔はまるで長年研究を続けている学者のようだ。
「もっと丈夫にして、しゃべったり、ロケット砲が撃てるのがいいな」
紫が冗談を言うと、「本気で言ってる?」とキーラは訝しんだ。
「それはそうと、
キーラとソーニャは食べたのか?」
双子が頷かないので、紫はどっかと座り、
テーブルの上で固形食料の包みを開けた。
「じゃあ、みんなで食べようっ。
伊都子さんも」
紫は明るい調子で言うと、みんなが集まって来る。
「すずちゃんも来いよ」
紫は部屋の隅に座っていたすずも呼んだ。
「まだ作業が残ってるんだけど・・・」
「まぁ、いいじゃんか」
月子の顔を拭っていた伊都子の手を引く。
「伊都子さん。一旦休もう。
ぶっ倒れちまうよ」
「は、はい・・・」
しかし、口にした固形食料は、ほとんど味がしなかった。
砂を噛んでいるようだ、とはよく言ったものだ。
クロエの作った漬物と、おむすびが食べたいと思ったが、
紫がそれを口に出すことはない。
「ほら、こっちはチョコレート味だってさ」
紫は、負の感情に表情が引き摺られないよう必死で努力した。
「そうですね。
これ、割とおいしいかも」
こちらの思いに気付いたのか、伊都子も明るく振る舞ってくれた。
「う~ん。
もさもさしてあんまりおいしくない・・・」
ソーニャが言うので、慌てた伊都子が
ボトルのキャップを外して水を飲ませる。
「ソーニャちゃん。
お水飲みましょうね」
「うん・・・」
空気を変えたくて、後ろで眠っている結希達を見た。
「それにしても、良かったな。
みんなが無事で」
キーラに微笑みかけると、彼の愁眉がわずかに開いた。
「確かに、無事でよかった。
だけど」
キーラが釣り針を飲み込んだみたいに、
苦痛の表情を浮かべる。
「スカーがどれだけダニエル達を閉じ込めておけるか、わからない。
きっと、そんなに時間はないんじゃないかな」
彼の額が真っ白に光っていた。
「そうだな」
後ろを振り向いている時間はない。
だが、今日くらいは息をついてもいいのではないか。
そう思った矢先、キーラは言った。
「僕。
これからできることを、たくさんやる」
キーラは勢いよく固形食料を齧る。
「えらいな。キーラ」紫は彼の頭に手を置いた。
食事を終えると、
ソーニャはいそいそとは葵のベッドに入り、眠りについた。
キーラは作業をするつもりだったようだが、
紫は断固として眠るように言った。
キーラは最終的に、結希のベッドに入って眠った。
伊都子がすずの面倒を見て、彼女を横にならせたのを確かめると、
紫は保健室から出た。
「あ・・・あれ?」
途端に下半身の力が抜けて、廊下に座り込んでしまう。
疲労が限界に来てしまったようだ。
「あーだらしねぇな・・・このくらいで」
顔を手の平で擦ってみたが、疲労感は時間とともに重くなっていく。
「・・・疲れた」
空を見ると、夕日はとっくに景色の奥に落ちた後だった。
座位に耐えられず、紫は大の字に寝転ぶ。
天井すれすれを、ひとつのオドが飛んでいく。
あれは他のオドとは少し色が違うような気がする。
そう思ったら、伊都子にくっついていたはずのベルだった。
「あ」
ベルが降りた先には、廊下側のドアからこちらを覗く伊都子がいた。
「こんなところで寝たら、風邪を引きますよ」
彼女は保健室の灯りを消して、こちらにやってきた。
「・・・伊都子ちゃん」
ベルがふさふさの毛を彼女の横顔に押し当てた。
伊都子は人懐っこい犬のようにじゃれてくる
ベルを手の平で撫でながら、紫の横に座った。
「ベルったら、今までどこにいたのかしら」
頼りになる灯りは、ベルと星空だけだが、
紫にはそれで十分であるような気がした。
「いつの間にいなくなって、いつの間にもどってきたよな。
すずちゃんは、どうだった?」
伊都子のまつ毛が、研磨された金属のように煌めいた。
「すぐに寝ましたよ。きっと、すごく疲れていたんでしょう。
それより・・・。
紫さん、半分残したでしょう?」
金属のまつ毛が絹のように柔らかくしなると、
固形食料が胸の上に落ちてきた。
「ああ」
紫はため息をひとつ置いて「食う気がしねぇー」と言った。
「みんなにはあれだけ食べろって言っていたくせに」
伊都子はいたずらっぽく笑ったが、声色は低かった。
「食べないと、みんなに告げ口しますよ?」
「ああ。それは勘弁して。
それにしても・・・伊都子ちゃんは強くなったなぁ」
「強い女性に囲まれていますから、
このくらいは」
ベルに顔を舐められて片目を閉じている伊都子を、
紫はまじまじと見た。
「ど、どうしたんですか?」
「伊都子ちゃんは、
たくましくなったなぁ」
「たくましくなんて・・・。
紫さんと違って、休みやすみ動いたからですよ」
「違う違う。そういうんじゃなくて、大人の女性になった」
「こんな時に、ふざけているんですか?」
横顔にかかった髪を耳に引っかけると、伊都子は表情を沈ませた。
「大人に、なったのかなぁ・・・。
そんな風には感じません。
でも、うまく見ないようにはできているのかも」
「何を?」
訊くのは酷だっただろうか。
あわてた紫は、伊都子が答えなくて済むように、
「辛いことを?」と付け加える。
薄く笑った彼女は、ベルを胸の前に置いた。
「うん。
自分の体とこころが、離れちゃったようにも感じます。
こころが浮いて行って、身体を見下ろしているような、
直接はちゃんと感じられない、不思議な感じ。
佐藤さんと、葵ちゃんが眠ったままなのも、
クロエさんが死んじゃった・・・のも、あまり感じない」
冷静に話したつもりだろうが、声には動揺が混ざっていた。
沈黙ののち、紫は携帯食料を食べた。
数秒ほどで一気に平らげる。
「はやい」
「だろ」
粉っぽい口を動かしながら、紫は伊都子の腿の上に頭をのせる。
「あ」
後頭部がじんじんと脈打った。
紫自身、精神的にぎりぎりの場所に立っていた。
だから、彼女が嫌がらなかったのが心底有り難かった。
紫はさっきもらった酸っぱい木の実を口に入れた。
「何ですか?
それ」
「これ。虎にもらった。
伊都子ちゃんも食べてみ」
紫はポケットからひとつ摘まむと、伊都子に見せた。
彼女は怪訝な顔をしながらも、少しずつ顔を近付けてくる。
耳にかかった髪の毛が、さらりと小さな音を立てて流れ落ちた。
目が合う。
ベルがわずかに身じろぎしたせいで、彼女の瞳が右から左に煌めく。
実が彼女の唇に吸い込まれていく。
柔らかい部分に指先が触れた。
赤みが差した頬と滲んだ瞳に誘われ、紫は少しずつ身を起こした。
ようやく重ねようとしたとき、
「すっぱーい!」
伊都子が声を上げた。
「伊都子ちゃん。声でかっ」
紫は断念して、よろよろと伊都子の腿へ着地する。
残念無念。
やけくそになって残りの木の実を、全部口に放り込む。
「すっぱー・・・」
口をすぼめた紫に、伊都子が相好を崩す。
紫も一緒になって笑った。
「伊都子ちゃん」
「はい?」
「前に、清十郎が言っていた。
俺達は脇役だって」
「・・・はい」
「俺さ。初めてダニエル見た時、本当にびびっちゃって、
まったく動けなかった」
紫は、しゅるしゅると黒い煙を吐くように言った。
「私も・・・」
彼女の細いため息が聞こえてくる。
「いざとなったら、佐藤や、葵ちゃんや、
月子ちゃんに任せるしかない」
紫は悔しさを隠さなかった。
「あんなガキどもにさ」
「うん」
「だから、俺はほんとうに何もできない脇役だよ」
見て欲しくないと願ったからかもしれない、伊都子がふと顎を上げた。
「頼りにならない」
好きな女の前で、自分を卑下してしまう自分にひどくうんざりする。
「そんな風に思ってたんだ・・・。
紫さんは頼りがいがあって、いつも明るくて、
そんなこと思ってるって、知らなかった」
「知らなかった?
俺は結構怖がりなんだよ」
伊都子が口に手をあてて、くすくすと笑う。
「・・・実は私もずっと思ってました。
葵ちゃんすごいなって。敵わないなぁって」
「そっか」
「でも、私にもできることがあります。
私だけにしかできないことも、きっとあるはずだーって思うんです」
紫は伊都子を注視した。
彼女のことは今まで何度も目にしてきた。
だが、ベルの光が伊都子の輪郭をはっきりさせてくれたおかげで、
今まで以上に鮮明に見ることができる。
彼女はただひたすらに、自分らしくあろうとしていた。
「紫さん」
伊都子の目が命そのもののように、濁りのない直線的な輝きを放つ。
自分も、きっとそうでありたいと思う。
「脇役も、大事な役ですよ。
だって、主役たちを助けられるんですから」
射貫かれたような動揺を、隠し通して返事する。
「あー。
まぁそうだけど」
軽く言い返してみたものの、彼女から目を逸らせなかった。
逸らしたらダメな気がした。
「あのさ、伊都子ちゃん。
あの、あー・・・。
俺、伊都子ちゃんが頭撫でてくれたら、がんばるかも」
もし断られたら、すぐに立ち上がって離れよう。
そして笑って誤魔化せばいい。
胸が痛いくらい高鳴っていた。
「仕方ないなぁー」
伊都子が紫の頭に触れる。
寒気がするほど、嬉しかった。
じわりと涙が目尻に溜まってくる。
10も年下の女の子に、頭を撫でられただけで
こんなに満たされるなんて。
「俺達には、俺達のできることがある・・・のかな」
「はい。
出来ること、あると思います」
「自信あるんだなー」
「クロエさんに、言われましたから」
じわりと胸に生じてきた温かなものを紫は感じた。
「そっか」
「紫さんも手伝って下さいよ。
必死にやってみましょ」
「俺みたいなおじさんでいいのか」
「いいですよ。
必死でやってみて、倒れたら私が拾ってあげます」
「それって・・・骨ってこと?」
聞くと、期待した通りの笑顔で、伊都子は親指を立てた。
ありがとうございました。
次回は近く更新いたします。




