9話 結希
9話目です。よろしくお願いします。
結希は目を覚ました。
すぐには何があったのか思い出せない。
リビングの中央で大の字になったまま、結希は慎重に頭を動かした。
部屋の中は特に変わりない。いつもと同じだ。
しかし、すぐに大きな失敗に気付く。
上に何もかけずに、横になってしまったのだ。
これは風邪を引いたな、とぼんやり思う。
結希は幼いころから、上に何もかけずに寝てしまったときは、
夏であっても風邪をひくくらい、体が弱かった。
おそらくこれから体の怠さと、熱が出てくるだろう。
思わず大きなため息が出た。
早く体を温めるために、シャワーを浴びないといけない。
あわてて起き上がる。
「え」
持ち上げた体は、すぐにでも走り出せそうなほど軽かった。
結希は首を傾げながら、服を脱いで浴室に入った。
シャワーを浴びながら、身体の調子を確かめる。
踵を上げたり、背伸びをしたり、屈伸をしてみたりしたが、
身体は快調そのものだった。
結希が頭を洗っていると、ようやく倒れる前のことを思い出した。
「ああ!!電気出した。僕。あの時!!」
耳が痛くなるような炸裂音と、
指先の焦げた匂いを思い出して身震いする。
反射的に指先を見ると、赤みを帯びていたが、
痛みは完全になくなっていた。
掌から腕にかけて入っていた赤い筋も、
少し残っているだけで、あまり目立たなくなっている。
「・・・」
間違いない。
現実とは思えないが、自分にもトールと同じ力がある。
少し身体の疲れはすぐにとれてしまい、
手から電気を出すことができ、
うたたねをしても風邪を引かず、火傷も治る。
結希は風呂から上がると、途端にまた
掌から電気が出るのではないかと不安になった。
祈りながらゆっくりと全身を拭く。
掌を擦ったときに放電したので、体に触れるのが怖い。
無事拭き終えてリビングに戻り、
時計を見るとすでに朝になっていた。
「一晩寝たんだ・・・」
結希はすぐに朝食の準備を始めた。
椅子に腰かけて、テレビをつける。
世の中には、特に大きな変化は無いようだ。
食事を終えてから、なんとなく結希は自分の頬をつねった。
やがて、じんわりと痺れるような痛みが頬を刺す。
痛みが夢ではないと教えてくれる。
結希は繰り返して自問自答していたが、最後には
気を取り直すために、両手で頬をぴしゃりと叩く。
力は使える、それは事実だ。
とりあえず、ノルマにしている今日のトレーニングを
しなくてはならない。
少し体を動かしただけで、背中にじっとりと汗をかく。
格段に汗が出やすくなっている。
代謝が良くなっているのかもしれない。
後に行った、筋トレもランニングも、
前日よりかなり余裕をもってこなすことができる。
昼寝をしたあとは、また体が軽くなったので、
再度同じトレーニングをした。
少し休んだだけであまりにも早く体が回復するので、
感覚がおかしくなりそうだった。
さらに、休んだ後は体力が大幅に向上しているのか、
溜まってくる疲労自体がどんどん少なくなっていくので、
ますます頭が混乱する。
結希は気付けば、
前日に行ったトレーニングを10回も繰り返していた。
体力の向上もめざましい。
腕立ては最初10回しかできなかったのに、
今は余裕で50回できるようになっている。
昨日悔しがっていた交差点も、
余裕でタッチしてアパートまで折り返すことができる。
思いっきり走るのは楽しかった。
頭部の振動はその間に3度起こった。
もしかしたら、運動する毎に頭が振動するのかもしれない。
いくら走っても少し休んだらすぐに回復するため、
無限に体を動かせるのではないかと思い、
試しに休憩なしで走ってみることにする。
すると、一定の所で体が動かなくなり、息が上がり始めた。
最初はなぜ体が動かなくなったのか分からなかったが、
休憩をした時に、原因は水分不足とエネルギー不足だと分かった。
短時間の間にあまりに多くの運動をしたため、
水分とエネルギーを消費しすぎてしまったのだ。
『困難を与えられるほどに強くなる肉体』の力で
身体の疲労は取れても、必要な補給をしていないと、
きちんと回復できないのだ。
急いでプロテインとスポーツドリンクを一気飲みしたが、
感覚的には、いくら飲んでも食べても足りないくらいだった。
かなりの量を飲み食いして、少し休んだ後は体力が全快する。
午後は休みにして、結希はもう一度『トールの雷』を試すことにした。
もしものときのために、結希は部屋に氷水と絆創膏を準備した。
服が焼けたら困るので、上着を脱いでシャツ一枚になる。
いざというときになると、肉が焼ける匂いを思い出し、
吐き気がこみ上げてきた。
なんとか落ち着くため、深呼吸する。
繰り返していると不思議なもので、どれだけ高鳴った心臓も、
やがて落ち着いてくる。
何度も呼吸を繰り返して、適度な鼓動になるまで待つ。
結希は意を決したように顔を上げて、掌を合わせて擦ってみた。
何も起こらない。
今度は電気を想像しながら、少し強く擦ってみた。
すると、以前よりもやや小さめだったが、
あの炸裂音が指先に生じた。
「おあ・・・」
掌全体が強く拍手した時のように、じんと熱くなる。
白煙が上がったが、掌には大きな痛みがない。
もしかしたら、
『困難を与えられるほどに強くなる肉体』の力によって、
抵抗力を増して、雷の力に対応できたのかもしれない。
今度はもう少しゆっくり掌を擦ってみる、
両手の間に隙間を作ると、隙間を高速で電気が行き来しているのが見えた。
ジリジリとした音が部屋に響き始めたので、
結希は隣人に迷惑がかからないか心配になる。
すると、ジリジリと鳴っていた音は、
すぐに小さくなり消えてなくなった。
コントロールできる。
結希の表情が、緊張から安堵へと変わり、笑みが残る。
「う、うまくいったぁ」
結希は思わずソファーに倒れ込んだ。
雷は身体の中心から、手先に向かって流れている感覚があった。
流れた部分には痛みに近い、刺すような疲労感が残っている。
休憩をはさみつつ、繰り返し『トールの雷』を試した。
電気を出すときは、手を擦ると出しやすいが、
それ以外に、強くイメージするだけでも出せるようだった。
電気の強弱も、強くしよう、弱くしよう、と念じることで
任意に変えることができる。
発生させた電気を、そのまま帯電させ続けることも可能で、
帯電の範囲も、腕全体から指先まで、
イメージするだけで細かく変えることができた。
適度に休憩・睡眠をとりながら、さらなる練習をしていると、
また頭が振動した。振動の頻度が前よりも上がっている気がする。
夜更かしは身体によくないのでそこで中断する。
翌日はまた運動をした。
ここ数日の間に、結希の体つきはみるみる変わってきた。
以前と比べると、ずいぶん細くなっている。
大量に汗をかいたことで身体の余計な肉がなくなり、
痩せたのかも知れない。
『トールの雷』の練習によって、肩こりに効くくらいの弱い電流や、
静電気レベルの、微細な電流もコントロールできるようになった。
弱い電気はいくらでも練習できるが、
強い電流になると、近所迷惑や周囲への影響もあるため、
なかなか出来ないのが歯痒い。
やがて結希は、現状の雷の最大出力も試してみたいと思うようになった。
繰り返し練習をしたことで、掌が痛むことはなくなった。
強い電流を流しても、きっと問題ないだろう。
ただし、最大出力の電流となれば、かなり大きな音が出る。
近所迷惑を考えると、アパート内で試すことは出来なかった。
どこか良い場所は無いか、と頭を巡らせる。
結希の住んでいる辺りには、人通りの少ない場所はあまりない。
ふと、新入歓迎会の時、郊外の山にあるキャンプ場で、
バーベキューをしたことを思い出す。
確かその時は社長も参加しており、結希は運悪く隣の席になり、
アルコールをたくさん飲まされたのだった。
「平日の昼間で、あの辺りなら人は少ないかも」
キャンプ場までは、車で40分くらいの距離だったはずだ。
さっそくスマホで道順を調べる。
「走って行けるかも」
結構な距離があるが、体力を向上させた結希にとっては
丁度良いトレーニングになりそうだ。
もしものときは、休めば回復するので、
ゆっくり行って帰ってくれば良い。
翌日の早朝、結希は急いで食事を摂ったあと、
ジャージに着替えて、郊外の山へ向かって走り始めた。
早朝は人通りも車も少なく、走って移動するには最適な時間帯だった。
周囲は静かで、空気はとても澄んでいる。
できたばかりの新鮮な空気が肺に入ってくるみたいで気持ちが良い。
そのおかげか、どれだけ走っても呼吸が楽だった。
足の疲労は少しあるが、このまま休憩なしで継続できそうだった。
心地よい風が頬をさすっていく。
風が汗を蒸発させて、ひんやりとした感覚が広がる。
体を動かすのはとても気持ちが良い。
思うように動いてくれるともっと気持ちが良い。
全身の血流が巡っているのを感じる。
伴って頭の中も澄み渡ってクリアになっていくような気がする。
足を進める度に、前向きな気持ちになれる。
ストレスが解消されて、気持ちが軽くなるのかもしれない。
デスクワークばかりしていた頃は、寝ても疲れが取れないことがあった。
運動をすると、身体に疲れがたまってしまうと思いがちだが、
本当は疲れが取れていく。
不思議だが、人間の体はそういう作りになっているようだ。
人間の血液を循環させているのは、心臓がポンプの役割を
果たしているからだが、そのポンプは心臓だけでは足りない。
筋肉を使用することで、筋肉が心臓の補助をするポンプの役割となり、
それによってようやく血液は、十分な循環をするだろう。
結希は筋肉の動きによって、血液が身体中を巡っていくのを想像した。
結希は予想をかなり上回る速さで、
郊外の山のふもとに到着した。
ふもとには大きな駐車場があり、中にはサイクリングコースを
走るための、ロードバイクの貸し出し場が設けてあった。
心地よい発汗と、運動後特有の爽快感を味わいながら、
駐車場内に設置された自販機で、スポーツドリンクを買う。
1本目はあっという間に飲み干してしまい、
2本目は体操しながらゆっくりと飲んだ。
体操は身体のストレッチ以外にも、身体の悪いところはないか
チェックすることも兼ねている。
足の疲れはほとんど溜まっておらず、まだまだ余力は残っていた。
山頂へと続くサイクリングロードは、
かなり起伏が激しいが、今の体力なら十分登れる。
平日の朝ということもあってか、車や人通りはない。
きっと気持ち良く走れそうだ。
考えるだけで気持ちが高ぶった。
屈伸をして、また走り出す。
リズムよく呼吸をしながら、坂道を登っていく。
平坦な道を走るよりも大きな負荷を足腰に感じながら、
結希は、ようやく充実したように笑った。
トールも故郷を走り回っている時、こんな風に笑っていた。
楽しい。
もっと力を出したくてペースを上げる。
ここまで走ったうえで、まだペースを上げられるなんて、
今までの自分では考えられない。
結希は、つま先で跳ぶように坂道を駆け上がっていく。
あまりの気持ちよさに上を仰ぎ見ると、
道の両脇の木々が、道の上に覆いかぶさるようにして
生い茂っているのが見えた。
まだ上がりきっていない太陽の光が斜めから零れ落ちてきて、
結希の目の前を光りながらすれ違っていく。
酸素が肺いっぱいに吸い込まれて、一気に吐き出される。
血液内の酸素が、効率的に全身に循環されて筋肉に力を与える。
夢中になって走っていると、山の中腹まですぐのところまで来る。
長いようで、短かったが、もう目的地まで着いてしまったようだ。
中腹には駐車場があり、奥に入るとこぢんまりとした休憩所があった。
休憩所はコンクリート造りだが、屋根付きで木調の塗装がしてあり、
落ち着いた雰囲気がある。
奥まったところにある休憩所は、道から見えることはないので、
最大出力のトールの雷を試す格好の場所だ。
呼吸が整うまで、備え付けのベンチに座って休憩する。
周囲は緑に囲まれているが、休憩所は清掃が行き届いていて、
居心地が良い。
木々の間から零れ落ちてくるような風が、
熱くなった体を冷やしてくれる。
「あー気持ちいい・・・」
結希はしばらくの間、静かな自然を楽しんだ。
自動車が1台坂を上っていったのをきっかけにして、結希は立ち上がった。
ジャージを脱いで、ベンチの上に投げる。
周囲に人が居ないか、道路まで出て念入りに確認をする。
「よし」
準備はできた。最大出力の雷を出す覚悟も決まった。
小さく吸って、全て吐き出す。
両手を合わせて、そこを中心に弱い力で雷を発生させる。
掌に少し隙間を作ると、ピリピリと音を立てて、
雷気が行き来し始める。
少しずつ力を上げると、すぐにアパートで暴発した時と
同じくらいの出力で、雷気が掌の中でのたうち回った。
今はもう痛くない。
ちょっとくすぐったいくらいだ。
雷気を絶えず左右に往復させながら、両手の距離を離していく。
手の動きにしたがって、力も苛烈になる。
雷気が結希の胸の前で、大物を捉えた竿のように撓った。
腹筋に力を入れるため、そのまま細く息を吐いた。
額から汗が流れ落ちてくる。
色濃く、密接にするイメージで力を増していく。
まだ、まだ上げられる。
もっと。
掌から、生物が本能的に恐怖を覚える音が響いている。
もし、自分の力で無かったら、聞いただけで腰を抜かすような音。
これは、雷の音だ。
臨界点が、ようやく来た。
雷はつねに逃げ場を求めている。
少しでも気を抜いたら、すっぽ抜けてどこかに
飛んで行ってしまいそうだ。
硬い物を削るような音を立てている雷を見て、
結希はなぜか可愛いと感じた。
両手が肩幅より広がった時、結希は雷を手放すことを決心した。
手の間でつながっていた電流が、
引っ張ったゴムが切れた後のように反発して、
左右それぞれの手に引き戻されてぶち当たる。
掌が火を拭いたように熱くなる。
突如、両腕に怒り狂った轟雷が降り注いだ。
それは、物語の中で見たことのある、トールの雷そのものだった。
雷は結希の制御により真っすぐ、縦に引き絞られ、
2本の雷が木々を越えて空高く打ち上げられる。
雷は、見るも美しい龍だった。
番いの龍は、仲良く身体を擦り合わせながら、雲を突き抜けて
どこかに行ってしまった。
結希は思わず膝をつき、前かがみに倒れそうになった体を、
なんとか両手で支えた。
見ると、上腕には血管に沿って赤々と電流の通った痕が残っている。
痛みはないが、小刻みに震える腕にはほとんど力が入らない。
雷の龍を生み出すために、身体中の力を全部出し切ったのだ。
汗が多量にしたたり落ち、土に染み込んでいく。
息を止めていたのに気付いて、ようやく息を吐き出した。
次は全身が震えはじめた。
大きな力に対する恐怖で、身体が震えていたのだ。
震えが無くなるまで、結希は肩を抱いてじっとしているしかなかった。
◇
気付けば結希は、休憩所で眠っていた。
あれだけ疲労していた体は、眠っていた間に回復しており、
手足にもしっかり力が入るようになっている。
立ち上がると、結希は自らが生み出した雷の龍を思い出した。
身震いがしたが、当初のような恐怖心はない。
それよりも、結希は龍の美しさに囚われていた。
間近で見た結希には、雷は恐ろしくもあり、美しくもあったのだ。
また見たいな、と思う。
腹が鳴った。
強烈な空腹感に襲われて、結希は薄く笑った。
ここから山頂に向かって少し登ったところに、
小さなコンビニとキャンプ場がある。
そこで食事を摂ることにする。
結希は景色を見ながら、ゆっくりと坂を登った。
少し拓けた場所に出られたので見下ろすと、街が一望できた。
普段は近くにある雑踏が、今はとても遠くに聞こえていて、
さみしいような、心地良いような、妙な感覚になる。
全てを振り絞って出した雷は、まるで巨大な龍のようだった。
結希はこの力を、『トールの雷竜』と名付けた。
この強大な力がもし人に向かっていたなら、おそらく即死だったろう。
いや、人とはいわず、地球上のどんな生き物であっても、
直撃すればきっと耐えられない。
この力は面白半分で使って良いものではない。
周りの被害も考えて、
結希は『トールの雷龍』を封印することに決めた。
コンビニに到着すると、結希はスポーツドリンクを2本と、
プロテインバーを1本、幕の内弁当を2つ買った。
本当はもう少し食べたかったが、店員に変な目で見られるのも
嫌だと思い、少な目の量にしておいた。
結希の考えとは裏腹に、店員は全く興味を示さない様子で、
たんたんと商品をレジに通していく。
胸をなでおろしながら、結希は店を出た。
外に出て少し歩いたところに、ベンチとテーブルが置いてある。
見晴らしの良いそこで、少し早めの昼食を摂ることにした。
首を振ると、コンビニの駐車場に停まる四駆が見えた。
小さな子どもを連れた夫婦が、その車から出てくる。
昼近くになったことで、少しずつ人通りが増えてきているようだ。
男1人が場所をとってしまうのも申し訳ない。
どこか、別のところに行こうか考える。
プロテインバーをかじりながら、
結希はいつでも立ち上がれるよう荷物を整理しつつ、
道行く人々を確認していた。
その中で、ふと気づく。
結希ばかりが周囲の目を気にしており、
周囲の人は、誰も結希を見ていないことに。
ここには、みんな自然を見に来ているのだ。
そんな当たり前のことに気付くと、すっと肩の力が抜けた。
プロテインを食べ終わってから、
すこし考えて、結希は幕の内弁当箱のふたを開けた。
人が来ても、逃げる必要などないのだ。
先程の3人家族が、結希のすぐ隣にあるテーブルについた。
3人は楽しそうに話をしながら、サンドイッチを食べ始める。
小さな子が手に持ったサンドイッチを落として、泣き始めた。
父親が慌てて新しいのを与えようとすると、
小さな子は尚更ひどく泣いた。
「ああ、すみません。迷惑をかけてしまって」
父親が苦笑いをしながら、結希に頭を下げた。
「い、いえ」
驚いたが、なんとか口許を緩ませてから頷いてみせる。
以前よりも、周りの目が気にならなくなっている。
自然と他人に笑顔を向けることができるなんて、
自分の中にこんな自分がいたのか。
なんで自分は、こんな風になれたのだろう。
トレーニングをしたからだろうか。
走ってここまで来られたからだろうか。
それとも、雷を出すことができたからだろうか。
わからない。
だが、結希は少しだけ変わった。
それだけは、確かだろう。
平日の昼間から、一人で弁当を食べていても、
となりに家族連れがいても、大丈夫。恥ずかしくない。
子どもが、結希の近くまで歩いてきて、膝に触れてくる。
母親が「すみません、ダメでしょ」と言いながら連れ戻す。
子どもは結希に興味があるようで、手を振ってくる。
顏が熱くなるのを感じながら、結希も手を振り返す。
図書館で見たあの男の子に、なぜ結希は恐怖したのだろうか。
食事を終えて立ち上がったとき、結希は清々しい気持ちで、
空を見上げた。
◇
結希は軽やかな足取りと表情で、帰路につく。
今はアパートの近くにあるファミレスで食事を摂り終えて、
コーヒーを飲んでいる。
帰りに一度、頭が振動した。もう慣れたものだった。
振動する度に、というわけではないが、
自分という人間に厚みが生まれていくような気がする。
振動がおとずれることが、結希の自信にもなっていたのだ。
まだ食べ足りなくてパスタを頼むと、
店員が意外な顔をしたが、あまり気にならなかった。
余裕で平らげてから、支払いを済ませて外に出る。
駐車場から本道に出ると、
すぐに自分の存在が雑踏に紛れるのが分かった。
自分の存在はここから100メートルも上空から見たなら、
わからなくなってしまうような小さな存在だ。
人目を気にしていようがいまいが、変わらない。
それなら、なるべく気にせず、なるべく恥ずかしがらずに生きていこう。
ほんの少し、自分の人生が充実したことで、
結希はとても嬉しくなっている。
本当はみっともないことなのかもしれない。
周囲から見れば、大した変化ではないのかもしれない。
だが、結希が今思うことは、自分本位で良いのだ、ということだ。
他人の視線や評価は考えず、自分が満足する道を進めばいいのだ。
明日からも、この気持ちを忘れずに生きていこう。
◇
気分よくアパートまで戻ってきた結希だったが、
玄関前にやってくると、影はすかさず心中に差した。
ドアを開けて早く中に入らなければならないという焦燥感と、
得体の知れない何かに追われているような不安感が大きくなっていく。
思うように頭も体も動かない。
鍵を出すのにずいぶん時間がかかった。
震える手でドアを開けて中に入る。
ようやく息をつくと、後ろ頭がいつもより熱を持っているのがわかった。
耳鳴りと頭痛が少しずつ大きくなる。
さーん、よーん、ごーお、ろーく。
どこかで聞き覚えのある子どもの声が頭の中に響く。
「なんだ・・・これ」
息苦しさに目を閉じると、
暗い玄関前の景色が脳裏に浮かんできた。
聞こえてきた声と浮かんできた景色は、
結希のこころを鋭利なもので突き刺す。
「・・・・う」
なーな、はーち、きゅーう。
辛い。悲しい。寂しい。
3つの感情が結希の全てになった頃、
暗い景色と子どもの声は、記憶の波に飲まれて消えていった。
膝が力を失い、結希はその場にへたり込んだ。
呼吸を繰り返す度、少しずつ耳鳴りと頭痛が収まっていく。
両手で自らを強く抱いていなければ、
感情が爆発して叫びだしそうだった。
荒い呼吸をしながら感じたものがいつの記憶だったのか、
必死に思い出そうとする。
しかし、何も浮かんでこない。
川辺に浮かべた紙の船のような無力さが結希を苛む。
しばらくの後、結希は思い出すのをあきらめた。
「うまくいったと思ったら、すぐ、これか・・・」
先程までは笑えていた自分。
少しは変われたような気がしていた。
しかし、根本はそうでもなかったようだ。
肩を落として、うなだれる。
思えば、この症状は中学生の頃から始まった。
原因は分からず、始まったときは、
ただ自分が情けなくて辛かった。
分かっていることは、玄関前に来ると、
早くカギを開けなければ、という焦燥感と
何かに追われるような恐怖感が、中に入るまで止まらないということだ。
大きく息を吐き出しながら、靴を脱いでそろえる。
たくさん汗をかいているので、靴下からにおいがした。
無理やり引きはがすように靴下、上着、シャツを脱ぐ。
風呂場前の鏡を見ると、そこには引き締まった体があった。
変わらないことに辟易し、何もかも手放したくなっている自分に、
良くなったこともあるのだと言い聞かせた。
「大丈夫・・・大丈夫」
口に出すと、少しだけ楽になる。
口に出した言葉は、自分の耳が聞いている。
受験勉強の暗記科目に取り組んでいる時みたいだ。
その通り。
今、結希は生まれて初めて、生きるための
勉強をしているのかもしれない。
嫌なことがあっても、前を向くための勉強だ。
「最初からうまくいく訳ないんだ。
今までさぼって分、やっていくしかないんだ」
自分に言い聞かせる。
浴室に入り、熱いシャワーと冷水を交互に浴びながら、
体の疲れを癒していく。
たくさん走ったにも関わらず、まだ体は元気だった。
左足を後ろに伸ばし、アキレス腱を伸ばす。
ぐいぐいと体重をかけていると、体のバランスが
以前よりもしっかりしていることに気付く。
少し揺れただけでは体の軸がぶれなくなっているのだ。
自然と姿勢も良くなり、腰痛や肩こりもなくなっていた。
シャワーを終えると、結希はタオルで体を拭きながら、
リビングへ行った。
プロテインを作りながら、情報収集のためにテレビをつける。
飲もうと思って口元まで上げたシェイカーが、
寸前のところで停止した。
最初に目に入ったのは、「ギリシャ調の噴水公園が突如現る」
という大きなテロップだった。
ニュースでは、日本だけではなく、世界各地に
謎の噴水公園が出現した、と報道していた。
カメラは都内で発見されたという3つの噴水公園を映しており、
女性リポーターは敷地内を歩きながら、いろいろと説明している。
噴水公園のあった場所は以前、銀行だったり、学校だったりと、
それまで何らかの建物があった場所だったが、
一夜のうちにそれらは無くなり、噴水公園が出現したのだという。
誰がどうやって建造したのかも、全く不明だという。
アナウンサーがいる噴水公園は、結希のアパートから歩いて
15分という場所にあった。
記憶が確かなら、噴水公園のある場所には銀行があったはずだ。
カメラは公園の中心部にある立派な噴水を映す。
噴水内には妖精をかたどった彫刻が置いてあり、
その周囲には同じく彫刻で豊穣を表現したような、
色とりどりの花や作物が並んでいた。
素人の目から見ても見事な意匠で、アナウンサーは
見惚れたような表情でそれを見ていた。
結希はこの噴水に見覚えがあった。
トールの物語に出てきた、女神の泉とそっくりだった。
書くことは楽しいです。
これからも継続していきます。