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82話 葵 月子

82話です。

よろしくお願いいたします

炎が、羽生と植山を焼き尽くしていく。


葵は、ただ茫然としたまま、


野良犬のように彷徨っていた自分を助けてくれた、


こころ優しき人達が目の前で消えていくのを目撃した。


「せんせっ・・・せんせい・・・」


初めて電話で話した時、優しい声だなって思った。


自分の立場が悪くなるのを承知で、葵を守ってくれようとした。


大人であるにも関わらず、葵を子ども扱いしなかった。


正直に話してくれた。


葵の話も聞いてくれた。


その上で、味方でいてくれた。


昼休みに食べた唐揚げ。


おいしかった。

おいしかったのに。


    ◇


陽子が背伸びをしている。

陽子が欠伸をしている。

陽子は自分の妹だ。

彼女は生前、剣道をするために1人で上京して、

全国トップレベルの活躍をしていた。

そして、有名になったせいで男達に襲われ、

こころを壊され、最後には自らの命を絶った。

「ちゃんと生きていてくれてうれしい

あのぼんくら女神なんかに頭を下げた甲斐があったわ」

陽子は、月子が幾度も見た彼女の幻影そのものだった。

間違いない。

まぎれもない陽子だ。

「返事もしてくれないなんて寂しいもしかしてこれ知り合いだった?

でもどうせ死んでるからいいでしょ」

陽子が消し炭と化した『あれ』を指さして笑った。

陽子の笑い声に違和感があったせいで、月子は少し面食らった。

おかしいな。

違和の理由を想像した月子は、死ぬほどそれを認めたくなくて

手の平に爪を立てた。

陽子は確か、神になるために勉強をしているのではなかったか。

以前の月子は無意識的に、

フォルトゥーナが言っていた台詞を素直に信じることで、

陽子の未来が健やかなものになると思い込もうとした。

それが間違いだったのだ。

ああ。

気付いたときには、精神は奈落に落ちていた。

景色が遠のく思いがして、ふらついた。

陽子は生前の憎しみを、弟神ミーミルに利用されたのだ。

彼女の輝かしい剣が、人殺しの道具にされたのだ。

怒りなのか、悲しみなのかわからない何かが、

両足を震え上がらせる。

「月姉大丈夫だよみんなすぐに会えるから」

陽子が下段に構えたまま、地を這う獣のごとく走った。

狙いは葵とすずだった。

月子は何とか葵と陽子の間に割り込んで、剣戟を受け流す。

硬質な刀同士が擦れ合い、かすかな火花を散らした。

「震えてるじゃん」

陽子が間髪入れず、月子の腹に向けて蹴りを放つ。

しかし、蹴りは鍔迫り合いを嫌った月子の動きと偶然かみ合い、

空をきった。

「おっ」

陽子の体が前方向に流れたところに、打ち下ろす。

だが、そこに彼女はいなかった。

見事に回り込まれ、顔面に裏拳を打ち込まれる。

「っつ」

強烈な打撃に体勢を崩された月子は、後方へ転がった。

受け身を取ることすら惜しみながら起き上がると、

葵の首すじに太刀が押し付けられているのを見た。

「友達なの?」

月子は光を失った葵の瞳と、弧を描いた陽子の唇を見比べた。

大好きな2人がこんな形で並んでいる事実が、

容赦なくこころを貫いた。

「そうだよね必死で庇ってるもんねじゃあ殺そうかな」

皮膚を斬られた葵の首から血が流れてきた。

「さっきからさぁ月姉ぇなんでしゃべらないの?

妹に刀躱されて技かけられて無様に転んでるくせに

いつまでそうやってすかしてんのさ」

陽子の意識の全てが月子へ向かってくる。

気迫と憎しみに目を細めて耐えた。

陽子の太刀を自分に向けさせるため、月子は間合いに入った。

「遅い」

陽子がこちらの首を断つべく横一文字をつくった。

こちらの踏み込みが浅かったおかげで、

肩と胸を薄く切られただけで済む。

「うわおっそ」

陽子は本心から呆れている様子だった。

彼女はさらに踏み込み、鬼のような剣戟を打ち込んでくる。

「ねぇなんとか言ったらどう?」

月子は防戦一方で、ただ後ろに引くことしかできなかった。

飛び退いてさらに距離を取る。

生きていることを不思議に感じつつ、月子は正眼に構えた。

正眼。

防御重視で月子の最も好む構えだが、今は蜻蛉のように頼りない。

斬られた傷から流れる血が、手先に達しようとしていた。

月子はすかさず上段に構え直して、柄が血で濡れないように工夫する。

それを見て、陽子は少しだけ満足そうに顎を上下させた。

「遅すぎるよ月姉もしかして手加減してる?

もしかして私が利用されたとでも思ってる?

でも間違い私は望んでここにいる」

上段に構えた月子の間合いに、陽子が堂々と入り込んでくる。

思わず体が反応してしまった。

陽子は返陽月の切っ先が振り下ろされる間際になって、

間合いから抜け出した。

隙を縫うようにして、陽子が月子の首を狙う。

対する月子は、振り下ろす腕が止まらないうちから、

膝を折って後ろに仰け反っていた。

鼻先を太刀が通り過ぎると、間髪入れず陽子の足を狙う。

横薙ぎに払った返陽月を、陽子は飛び越えて躱した。

「遅いよ遅いもっともっと

もっともっともっともっともっと来てよ

てか何かしゃべってよ!」

月子が身を翻して飛び起きたと同時に、

陽子の太刀が襲いかかってきた。

月子は脇を締めて柄を絞り、鋭い突きを放つ。

先の先を狙った一撃を、陽子はあろうことか素手で払い除けた。


馬鹿な。


唖然とする月子へ、陽子が突きを放ってくる。

それは肩に刺さり、背を突き抜けた。

「うあっ!!!」

燃えるような痛みが思考を破壊する。

「弱すぎる」

陽子の狂気に満たされた顔面が、月子の鼻を打った。

鼻血が噴出し、視界が歪んだ。

「この耳私が噛んだやつ治してもらわなかったんだ」

陽子が月子の襟を掴み、顔を寄せてきた。

狂ったような笑い声が耳朶を叩く。

もし快楽殺人鬼が瀕死の獲物を前にしたなら、

こういう声を上げたことだろう。

「私は全部治してもらった何もかも元通りに

あいつらにされたことも全部なかったことになったもう

私は誰にも傷つけられない一方的に傷つける側だから」

陽子は切っ先を引き抜くと、回し蹴りを月子の頭部に見舞った。

躱すことも、受けることも出来ず月子は地面に伏した。

眼球に触れるくらい間近くにある雑草が、

くるくると3回転したところで、腹に蹴りを入れられる。

「うあっ!!」

踵を狙って返陽月を振るうが、

陽子はそれを上から踏みつけた。

「まるで駄目だね」

陽子は太刀を振り上げて肩に乗せた。

まるで破落戸のような所作だった。

陽子が空を切るようにして、

燃えるような波紋を持つ白刃を振り下ろす。

可燃性の液体に着火されたように、炎の塊が燃え上がった。

「最初からこれで殺せてたけどしなかった

どれだけ腕をあげたのか見たかったからでもよわい」

腹を押さえながら、けらけらと陽子が笑った。

「まだ前の方がマシだったこんなところでお友達作って

ぼうっとしているからゴミみたいに弱くなるのよ」

眩暈が収まった月子は陽子の顔を睨みつけた。

「どうすんのさ何とか言いなさいよ」

普通の人が見たら、陽子は甲高い声で笑っているだけに見えるだろう。

だが月子には陽子の顔が―――

後悔という名の牢獄で、孤独な巡礼を続けてきたからこそ

―――今までの人生で、一番悲しんでいる人の顔に見えた。

陽子がずっと、泣きそうな顔をしている。

自分の言葉を待っている。

言わなきゃ。


「よ・・・ようこ・・・陽子、ちゃん」


声は轟と鳴く炎にかき消された。

陽子の周りにいる、あの炎が憎い。

りーん、という鈴の音が聞こえた。

月子の周りだけ雨が降ってくる。

糸のように細い雨は、月子に当たってはじけて、空に戻っていく。

りーん。りーん。

この音はもしかしたら鈴ではなく、雨の音なのかもしれない。

雨は、水。

水の流れは新陰流の、産土一刀流の極意だ。

水は邪な動きを一切しない。剣の道もそうあるべきだ。

ふと、肉の焦げるような匂いがした。

「・・・」

陽子の太刀から生み出される業火は、彼女自身の手を焼いていた。

体が元通りになったとしても、陽子のこころは今も焼かれている。

こころが痛み、それゆえ、月子の水は細く研ぎ澄まされる。

りーん、と音を立てて雨音が強まった。

陽子の炎が、雨を浴びてほんの少し弱まる。

激昂をかろうじて抑えた陽子の声が、

鈴の音が大きくなりすぎて、とても遠くに聞こえた。

返陽月を踏みつけている陽子の足が、

集まって来た雨によって押し返される。

「なんだこれ?」

警戒した陽子が一歩下がったのを見てから、

月子は素早く立ち上がった。

血が雨で流されたので、返陽月を正眼に構えることができる。

月子はすでにびしょ濡れだったが、

何百もの滴は温かくて、今の自分にはしっくりきた。

はじけた雨が、返陽月に集まっているのが見える。

「月姉が、やったのかよ?」

表情を歪ませた陽子が正面からきた。

以前の彼女の人柄を表すような、純粋でまっすぐな動きだった。

変わっているものと、変わらないものが混同しているせいで、

月子は少しわからなくなっていた。

新陰流の定跡に逆らい、太刀を躱さず受け止める。

受け止めるということは、刀の動きを制限することと同義である。

しかし、今はそうするのが一番なのかもしれない。

月子の水と、陽子の炎が交わって、水蒸気が生まれる。

水蒸気は朝日に照らされて、雪のように輝いた。

妹に力負けしてよろめきながら、綺麗だなぁと思った。

陽子が何かを叫んでいるけれど、月子にはあまり聞こえない。

ただ炎を消してやりたかった。

苦しみから解放してあげたかった。

だから、月子は何度も陽子の太刀を受け止めた。

炎が水に触れる度、小さくなってくる。

それが嬉しい。

だが、呼吸が苦しくなってくる。

陽子。

もうやめよう。

月子は自分の関節を固定し、

陽子の腕をそっと斜め下に向かって押さえた。

それだけで、妹は次の行動に移れなくなった。

身体の動きが始まる点穴を押さえたのだから、

仕組みを深く知らなければ身動きは取れないだろう。

陽子が体の異常に気付き、歯を食いしばる。

月子は陽子の動きに合わせて、押さえる力の方向を変えていく。

何とか、陽子の動きを制することができた。

「なにしたの?」

陽子が身をよじるように動き続ける。

その度に、月子が押さえる。

陽子が額に汗をにじませて、唖然とした顔を向けてきた。

まるで小さな子どもが、親に初めて手をあげられた時のような、

こころから傷ついた顔だった。

「月姉がまた私をっ」

妹の顔が、くしゃくしゃに歪んでいく。

唇を噛んだせいで血が出ている。

「また私の上をいく」

月子は身を固くした。

妹が泣いているのが耐えられなかった。

思わず陽子を拘束から解放し、その手に抱こうとした。

「月姉はいつもそうだよっ」

月子の遅々とした手を躱して、陽子は叫んだ。

目の前で紅蓮の炎が生み出される。

月子は必死で太刀を受け止めたものの、水の力はすでに枯れていた。

灼熱が刀を伝ってきて、手が焼け爛れてくる。

「ぐうっうううっ・・・!」

月子は熱された返陽月を、どうにか手放さないよう

歯を食いしばって耐えた。

「・・・陽子ちゃん」

灼熱のせいで、手がどこにあるかわからなくなってきた。

どうあっても押し返されてしまう。

陽子の炎が、周りの全てを吸い込んでいく。

月子は頑丈な檻に放り込まれた自分を想像する。

そこで独り焼け死ぬのだ。

それは良い。

だからせめて、言いたいことがあった。

言わなきゃ。

「陽子ちゃんっ・・・」

望んだ融和は訪れないと分かっていたが、

最後まで月子は言おうとした。

だが、全て消し飛ばされた。


ありがとうございました。

次話はすぐに更新予定です。

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