79話 すず 葵 月子
79話です。
よろしくお願いいたします。
誰かが泣いている。
この泣き声は、教室で何度も聞いた。
目を開くと顏のすぐ横で、彼女が体を小さくして泣いていた。
「・・・・」
ああ、うるさいなぁ。
それに、身体中痛いよ。
怠い、疲れた。目を閉じてしまいたい。
でも、どうしてもこの泣き声が耳障りだった。
「うるさいよ」
枯れた喉を酷使して言うと、泣き声が止まった。
「すず、ちゃん?」
わずかに首を動かすと、彼女の顔がよく見えた。
いじめられていた頃と同じ、
うんざりするほど醜く情けない顏だった。
「変わったんじゃなかったの。
あんた」
腹が立ってきて、気付いたら口走っていた。
すずは全身全霊で首を動かして、顎を引いた。
苦しい表情を見せないために、歯を食いしばる。
「いつまで泣いているの」
「え」
こちらを見た大きな瞳が、まるで琥珀のような神秘的な光を放つ。
圧倒されながらも、すずはそれを微塵も悟らせないように面に力を入れる。
「何しにきたの?」
すずにとっては当然であった問いが、
葵にとってはあまりにも意外な言葉だったのだろう、
輝く瞳が左右に揺れた。
「え・・・」
小さな口から漏れた声が、宙を彷徨って落ちる。
すずは息を吸った。
すべてを捨ててでも、今言うべきことがある。
「あんたキモい」
しっかりと声が出せたので、ひとまずほっとした。
鼻白む彼女に向かって、すずは続ける。
「あんたの、意志がないところが嫌いだった」
暴力すら受け入れ、抗わなかった葵の姿を思い出す。
でも、本当は抗えなかったのだ。
変わり果てた平野に、従い続けたすずのように。
「誰にでも尻尾を振るところが嫌いだった」
そう見えた。
あの時の自分には。
「すぐに泣くところが嫌いだった」
すずは、トイレで吐いている葵を知っている。
本当の意味で、自分は人の痛みが分からなかった。
「とにかく、嫌いだった」
その言葉は葵に向けて言ったものか、
それとも自分に向けて言ったものか、わからなくなる。
―――ずっと―――
「うぬぼれないで」
―――本当は―――
「あんたは友達なんかじゃない。
あんたの助けなんか、私は望んでない」
―――いつも葵が読んでいる本に、興味があった―――
◇
葵は混乱の坩堝にいた。
あの鳥はどこに行った。
いや、今は腫瘍持ちとなってしまった
羽生と植山から目が離してはダメだ。
だが、『あれ』は果たして腫瘍持ちといえるのか。
救えるのか。
助けられなかったら自分のせいだ。
どうにかして助けなきゃ。
みんなに迷惑をかけた分、自分が頑張らなくては。
そう思えば思う程、身体はこわばり重くなった。
「キモい」
すずは言った。
葵は沼に咲く気高き花のような、すずの姿を思い出した。
すずは他人に靡かなかった。
周りに流されるのではなく、自分の意志で生きていた。
だから、葵にとっては、他の誰よりも美しく見えたのだ。
「あんたは、私の友達なんかじゃない」
すずが言った。
すずの言葉は、葵を傷つけない。
むしろ、内から無限に湧き出る雑念を、完全に取り払ってしまう。
解き放たれる。
なぜか。
自分は嫌われ者だった。
嫌われているくせに、好かれようとした。
だから苦しかった。
何かの結果は、好かれるか、嫌われるかだと思っていた。
他人から受ける評価が、すべての行いの結果だと確信していた。
人の評価なんてものは、木の葉のように揺れ動くものだ。
時間とともに、人と共に。
だから不安だった。辛かった。
これから自分がどんな評価を下されるのか、
それがどっちに転ぶのかわからないことほど、
怖いものはない。
だが、いじめてきたクラスメイト達ですら、
「葵が嫌い」と断じてくれる者はいなかった。
学校での葵には、無限の苦しみと不安がいつもあった。
しかし、すずははっきり「友達じゃない」と言ってくれた。
なんて楽なのだろう。
結果は出た。
そして、今後もすずは揺るがないだろう。
こうなったら、周りを気にせずに、
ただ、自分がしたいことをするだけでいい。
「そうだよね。
すずちゃんは、私のこと嫌いだよね」
本当は、何をしても結果は変わらないのかもしれない。
だったらせめて、助けたいと一心に願う。
それだけでいいんだ。
葵は一度目を閉じてから、大きく見開いた。
「『呪視』力を貸して」
◇
葵に向かって突進していた『あれ』の足が硬直する。
すると『あれ』体は前に閊えるように、盛大に転倒した。
「・・・!」
仰向けになった『あれ』が形容しがたい奇声を上げて、
虫のように手を動かしてもがく。
何が起こっているのか分からず、月子は唖然とした。
ともかく『あれ』の脇をすり抜け、月子は葵の元へ急いだ。
「月子さーんっ」
走った先で、手を振った葵に迎えられる。
目から血を流して痛々しいが、口元には笑顔があった。
彼女の頬に触れて、血に濡れた瞳を覗き込む。
『呪視』を使ったの? 大丈夫なの?
葵はしっかりとした口調で、「大丈夫。少しだけだから」と言った。
月子は長息をついた。
無事でよかったよ。
「大丈夫大丈夫っ」
葵は月子に笑みを見せてから、険しい視線を『あれ』に向けた。
葵の目が徐々に光を増すと、『あれ』がさらに強く騒ぎ立てた。
『あれ』の動きを止めている力は、葵の力で『呪視』という。
『真実を見通す目』の力ではないが、
『目』のおかげで二次的に得た力であると聞いていた。
だが、『呪視』にはリスクがある。
以前、銀を押さえるために限界まで使い、
視力がなくなったことがあるそうだ。
自分の力が及ばないせいで、
危険な力を葵に使わせてしまったのだ。
月子は返陽月の柄に爪を立てた。
「女神の噴水まで、羽生さんと植山さん達を誘導する。
そこで、結希に腫瘍を破壊してもらおう」
教科書を音読するように葵が言う。
「ごめんなさい。月子さん。
私ってば、すごく動揺しちゃって。
全部、分かっていたのに・・・。
もしかしたら、こうなっているかもって、思ってたのに」
月子は首を振ると、掠れた声の葵を抱きしめた。
「どうなるかわからない。
でも、最後までやりたいの。
いいかな?」
息で触れられる程近くにある瞳を、正面から見つめ返す。
いいよ。最後までやってみよう。
「ありがとう」
頭を撫でてやると、葵は鼻を啜って笑った。
月子は『あれ』の隣までやって来た平野を指さす。
あの子の相手は、私に任せて。
「わかった」
よし。行こう。
「うんっ!」
2人で力を合わせて、すずを引っ張り上げる。
葵がすずをしっかり背負ったところで、
平野がこちらに駆けてきた。
『邪視』を使おうとする葵を制止して、月子は平野に向き合った。
「・・・!!」
正眼に構えると、平野の足が止まる。
彼女には、切っ先でのけん制は成立するようだ。
「月子さん」
葵が裾を引っ張ってくれるのに合わせて、月子は少しずつ下がった。
このまま女神の噴水までじりじりと下がっていけば良い。
もがいていた化け物が手足を伸ばして地面を掴むと、
体を反転させた。
だが、『邪視』の拘束を受けているので、動きはかなり鈍い。
あまり無理をしないで。
「大丈夫っ。
先生達の方は、『邪視』で何とかなりそう」
葵と月子が下がった分、『あれ』と平野が前へ出る。
2人は重圧の中、一歩ずつ下がっていった。
「このまま、このまま・・・」
いいリズムね。
月子が頷くと「うん」と葵が返事した。
その時、一陣の風が吹いた。
乾燥した風は少し焦げ臭い。
「・・・?」
気付けば首の筋が切れそうな位、引き攣っている。
なんだ。
月子はただならぬ異変を感じていた。
それは、普段使っている視覚や聴覚ではわからない、
第六感や、肌でのみ感じることのできるものだった。
びりびりと空気が震えている。
最初に見えたのは、マッチに灯るくらいの小さな火だった。
火は美しい弧を描く。
自分の体が本能的な硬直を生じている。
危機がすぐそこまで迫っている。
それなのに、どうしても火の軌跡に目を奪われてしまう。
弧が巡るほどに、火は大きく膨れ上がっていった。
紅蓮となった火は、辺りの空気を吸い込み斥力を増していく。
次の瞬間、目の前が真っ赤に染まった。
ありがとうございました。
次話もすぐに更新いたします。




