75話 紫
75話です。
よろしくお願いいたします。
紫はスカーと清十郎を見ていた。
まさか清十郎が、海外のそれも人気歌手と付き合うことになるとは。
誰にも見られていないのを確認すると、紫は口の端を吊り上げた。
スカーは口が悪く性格も歪んでいるが、
人として肝心の部分は曲がっていない。
紫は、清十郎が始めから美しく上向きなものよりも、
美しくあろう、上向きであろうとした結果、美しく上向きになったもの
が好きなことを知っていた。
だから、彼がスカーに惹かれるのも当然だろう。
童貞が女に惚れやすいのとはわけが違う。
2人は運命のもとに出会ったのだ。
清十郎が、スカーからわずかな時間でも
離れることを嫌うようになった時には、存分に茶化してやろう。
スカーに尻を触られても、清十郎は離れようとしない。
むしろ、触れられることを喜んでいる。
スカーの方も一見ふざけているようにみえるが、
彼に触れる際には、かなりの覚悟が必要なようだった。
目の前で、不器用な愛が育まれていく。
そうだ。
それでいい。
斜に構えることでしか、醜い現実を直視できなかった男が、
今はただ1人の女を真っ直ぐに見れば。
そこに矛盾など存在しない。
そのシンプルさが、清十郎を自由にしていく。
このタイミングで思い出す。
過去、清十郎という男の隣には、いつも矛盾がつきまとっていた。
◇
黄昏時、橋の上。
子どもの頃の紫と清十郎がいる。
清十郎が話すと、自分が笑い、自分が話すと清十郎が頷いた。
何を言っているのかは、はっきりと覚えていない。
どんな会話をしていたか、紫は思い出そうとした。
基本的には他愛のない、仕様がない内容だったと思う。
だが、この会話だけは覚えている。
「サキ。あのさ・・・」
「おお、なんだよ」
「あのさ・・・」
重要な話をするときの清十郎は、「あのさ」からの沈黙が長い。
時間を経て、少年は意を決したように口を開く。
「食べる物がない時、急に腹いっぱいになると、
次の日の空腹が辛くなる。
だから、俺は腹いっぱい食べない」
話の流れがつかめないが、紫はとりあえず頷いた。
「そんな俺に、親父は言ったんだ」
「ああ」
確か丁度この頃、清十郎の父親は蒸発していた。
「お前がたくさん食うなら、俺は一生懸命働きたくなるって」
清十郎の父親は、妻が稼いだ金でギャンブルをするような、
人間のゴミだったはずだ。
そんなことを言うだろうかと、紫は首を傾げた。
紫の苦々しい表情を見て、清十郎が笑う。
憂いを裏側に隠した笑顔だった。
「働いたこともない親父がさ、そう言ったんだ。
おかしいよなぁ。
でも、俺は子どもだったからさ。
ああ、そうなんだ。
俺がたくさん食わないのが悪いんだ。
俺が食わないから、親父が仕事をしないんだって思った」
何を言えばいいか分からず、紫は閉口した。
しばらくしてから、「そうか」と伝えるのが精いっぱいだった。
「サキ。
俺がもし、たくさん食うガキだったらさ、
親父は働いたと思うか?」
清十郎が真面目な顔をして訊いてきた。
すぐに答えが浮かんできたものの、容易には答えられない。
逡巡していると、清十郎は力なく呟いた。
「親父はさ、わかってた。
俺がきっとたくさん食うガキにはならないって。
だからこそ、お前がたくさん食うなら、働くって言ったんだ」
紫の胸に火が灯る。
それは怒りの火だった。
「セイが腹いっぱい食える環境を作らなかった親父さんが、
たくさん食うなら、働いてみせるって言ったんだな」
彼の父親がしたことは、自分の責任を棚に上げて、
子どもだった清十郎にすべての罪を被せて逃げるという、
人でなしの行為だ。
気にする価値のある言葉ではない。
だから、忘れてしまえばいい、と紫は思った。
だが、言った本人は不思議なくらい簡単に忘れてしまうが、
言われた方はよく覚えているものだ。
まるで呪いのように。
清十郎は、父親を憎むことができなかった。
どうしてだろうか。
お前は微塵も悪くないじゃないか。
なぜ父親を責めず、自分を責めるんだ。
どれだけ苦しかっただろうか。
どれだけ、悩んだだろうか。
最初から親のいなかった自分には、察するべくもない。
紫が何も言えないでいると「だから」と清十郎は言った。
「俺は条件をつけない。
もし、俺に子どもができたらさ、
子どもが何かをするから、俺は頑張るなんて、
絶対に言ってやらない。
自分の所に来てくれただけで嬉しいんだから」
清十郎の目に、涙が浮かんでいる。
「そんな大人になるのが、俺の夢なんだ」
清十郎の立派な決意に感動し、紫は泣きそうになりながら頷いた。
清十郎の首に腕を回して引き寄せた。
「じゃあ。
まずは相手を見つけなきゃな」
「ああ・・・その問題があったな」
◇
紫は閉じていた目を開いた。
清十郎はまだスカーと話している。
この件がうまくいって、スカーと清十郎がうまくいったら。
もし、あいつが親になったら、盛大に祝ってやろう。
そう思った。
ありがとうございました。
次話は、この後に更新させていただきます。




