73話 すず
73話です。
よろしくお願いいたします。
首すじに生じたひりつく痛みで、
山田 すず(やまだ すず)は起きた。
少しだけ、眠っていたようだ。
目の前には、変わり果てたクラスメイトの平野がいる。
平野の変異した鑢のような舌が、すずの首を舐める。
「う・・・」
幾千と繰り返されたせいで、すずの首すじは爛れて、
浸出液が流れ落ちている。
同時に腐った肉のような平野の呼気が、
すずの顔に吹きかけられた。
臭い。
苦しくて身動ぎしたすずの両腕を、
人とは思えない強力な握力で掴まれる。
「・・・いた」
もし平野の指に爪があったなら、
すずの腕からは夥しい出血があったことだろう。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい」
すずは呪文のように平野に謝罪を繰り返した。
しばらくして平野は腕を放し、皮の剥けた手ですずの頭を撫でた。
「ききききききききき」
平野が奇妙な笑い声を上げる。
顔は皮膚が剥けて、筋肉と脂肪が剥き出しになっているため、
実際に笑っているのかはわからない。
すずは反射的に笑顔を作った。
そうしないと、平野が激昂して殴りかかって来ることがあるからだ。
すずが笑っていると、平野は満足したように頷いてまた舐め始めた。
「う・・・・ぐ・・・うっ・・・」
断続的な痛みがあるせいで、すずの意識は途切れそうで途切れない。
そういえば、ここはどこだろう。
長い時間こんな風に過ごしているせいで、
すずはここが学校の教室だということを忘れてしまっていた。
◇
あの日、すずは少し遅い時間に学校にいた。
いつもは最後の授業があるとすぐに帰宅するのだが、
その日は気懸かりがあって戻ったのだ。
「ああもう。私としたことが」
教室に戻ると、机の中に入れていた手指消毒用の
アルコールの残りがあるのかを確認する。
もし中身が無かったとしても、
次の日に家から替えのボトルを持って来れば解決するのだが、
そうすると予備のボトルを買わなくてはならない。
一度学校で『汚染されてしまった』ボトルは
家に二度と持って帰れないからだ。
すずは、学校に置くボトルが2つになってしまうような、
無駄なことは絶対にしたくない。
生来からの性格で、すずは無駄なことをするのが大嫌いなのだ。
すずは常に身の回りのことは効率よく、無駄なくする。
だから、その日は確認を怠った自分に心底腹が立っていた。
机の中にあるアルコールの入ったボトルは、
3分の1を下回ったくらいの量ある。
「まだ、あるわよね。
そうだと思った」
それなのに、すずの脳裏に残るある出来事が、
集中力を薄めて伸ばしてしまったのだ。
あと何日アルコールが使えるのかをよくよく確認して、
スケジュール帳にメモをする。
メモの内容を数回に渡って慎重に確認すると、
すずは顔を上げた。
遠くに、夕日を跨ぐようにして上がっている黒い煙が見えた。
火事だろうか。
「・・・」
すずはその姿勢のまま、しばらく茫洋としていた。
頭の片隅にある気懸かりなことが、また浮かんでくる。
それはクラスで浮いた存在の、赤井葵のことだ。
葵は極度に人目を気にしているせいで、いつもおどおどして、
自分の意見を持たない、気の弱い女だった。
葵は周りの目を気にしているくせに、
肝心な時に周りが見えておらず、
教室の入口や廊下の真ん中でよく立ち止まり、
しばしばすずが歩こうとするのを妨げた。
他意なく「邪魔よ」と声をかけると、
こともあろうに葵は嬉しそうにする。
「ありがとう。すずちゃん」
あまりに頭が悪くて、無駄の多い女。
だから、すずにとって葵は『ゴミのような女』であった。
人の邪魔しかできない、自分の意志も持たない、
葵のような女は、何のために生きているのだろうか。
そういう意味で―――例を挙げるなら、
外来生物の習性や生態に興味を持つのと同じ感覚で―――
すずは葵を知ろうとした。
「好きなものはあるの?」
葵の好きなものなど全く興味はないが、
それとなく聞いてみたことがある。
葵は考えていたが、結局何も言わなかった。
きっと、この女には好きなものなどないのだ。
すずは、不潔なことと効率の悪いことが嫌いだが、
それ以上に意味のないことが嫌いだ。
人が生きる意味とは、自分の好きなことを為すことだと
すずは思っている。
だから、為すべきものを持たない人間に存在理由などない。
その頃のすずは、葵を汚らわしいとすら思っていた。
すずにとっては自然の摂理ともいえる流れで、
葵はクラスでいじめるようになった。
それなのに、葵はなぜ自分がいじめられるか分からないようだった。
本当に愚かな女だ。
ただ、葵がどれだけ愚かであっても、
いじめている連中を肯定するつもりはない。
嫌いなら、ハエにたかられた人のように、
手を振り回しながら距離をとれば良い。
わざわざ追いかけて行っていじめる必要はないだろう。
汚らわしいと思う相手にわざわざ近づいて触れるのは、
あまり頭の良い行為ではない。
そう。
葵だけでなく、クラスの全員がすずにとって愚かな存在だった。
愚かな連中に囲まれていると、本当につまらない。
すずは気まぐれに、いじめられている葵の窮地を救ってみた。
そんなことをすれば、すずに矛先が向く危険性もあっただろう。
すずでなければ。
すずは同年代の誰よりも聡く、美しかった。
だから、クラスメイト達の矛先をコントロールすることなど、
息をするのと同じくらい簡単だった。
すずは葵に感謝されたところで全く面白くなかったが、
愚かなクラスメイトのこころをコントロールするのは
少し面白いと思った。
すずはゲーム感覚で、たびたび葵の窮地を救うようになった。
すずが葵を救ったことを周囲に目立たないようにしつつ、
みんなが葵に向けた矛先を空中分解させ、
さらに、葵自身にはすずが葵を救ったことを
理解しやすいよう演出した。
だが、すぐに退屈になる。
なぜ人は、こんなにも簡単にコントロールされてしまうのか。
もう少し自分で考えて動けないのだろうか。
此処の高校の偏差値は、日本の上位10パーセントの
人間が通うレベルである。
それなのに、なぜみんな自分の考えを持って動く
ということが出来ないのだろう。
そういったことを考える度に、すずの胸中に
なにやら怒りがこみ上げてきた。
みんな頭が悪すぎる。
そんな頃、あることが起こった。
葵がクラスのいじめに逆らい、破壊したのだ。
彼女が劇的に変わったわけではない。
彼女の中にはまだ弱さがあった。
だが、弱くても、弱いなりに葵は変わろうとしていたように見えたのだ。
彼女は持って生まれた力ではなく、努力と思想を武器にしていた。
それはすずにとって、とても価値のあることだ。
すずのように狡猾に立ち回るのではなく、
努力と思想を正面からぶつけようとする葵を見て、
すずは負けたと思った。
それは、単位で測れるようなものではなく、
自分の中にある『感覚的なものさし』によって決められた負けだった。
だから、言い訳の仕様がなかった。
何が理由で葵が変わったのか、それはわからない。
追憶から戻ると、すずは奥歯を噛み締め、カーテンを乱暴に閉めた。
「・・・ふぅー・・・」
自分は葵に嫉妬している。
その時だった。
窓ガラスが割れて何かが教室に飛び込んできた。
黒くて巨大な質量が、すずの脇を通り過ぎたかと思うと、
机と椅子を吸い込みながら、教室を横断して
廊下側へ突き抜けて行った。
凄まじい力が教室にいた数人の生徒を、
一瞬で細切れにしてしまう。
すずは叫びながら駆け出し、掃除用具室に逃げ込んだ。
◇
すずはしばらくの間、掃除用具室に隠れていたが、
先生の呼ぶ声が聞こえたので、外に出ることにした。
他にも生き残っている生徒がおり、廊下で何人かとすれ違った。
「や、山田さん」
振り返ると、そこにはクラスメイトの平野がいた。
平野は頬に切り傷をつけて、真っ青な顔色をしていたが、
大きな怪我もなく健在だった。
平野は駆け寄って来て、すずの腕を抱え込んだ。
「ちょっと、触らないでよ」
非常時で動揺しているのか、すずの言を無視して、
「どうなったのかな?」
平野は目に涙を浮かべて言った。
「・・・わからない」
すずは頭を振って、平野の腕からやんわりと逃れる。
汚い。
後で消毒をしなくては。
すずは平野と一緒に、階下を目指した。
行きがけに自分のクラスを通り過ぎた時、
教室にあったはずの机と椅子が、
廊下の壁に突き刺さっているのを発見した。
すずは絶句し、平野は悲鳴を上げた。
恐ろしい力が生じて、全てを吹き飛ばしたのだろう。
遺体は一つも残っていなかった。
「あ、あれ」
平野が窓を見て、校庭の方を指さした。
すずが視線を向けると、校庭の真ん中に大きな噴水が2つあった。
「あんなものあったっけ?」平野が首を傾げると、
「なかった」すずはため息交じりに答えた。
先生の呼ぶ声は断続的に聞こえて来た。
階段を下りていくと、その声は徐々にはっきりと聞こえるようになる。
「ああ。
先生がいる」
平野がまた腕を掴んできたので、すずはため息をついた。
痺れるような不快感が全身を包む。
「そんなにくっつかないで」
「だって、怖いんだもん」
平野はずっとクラスの中心であったが、
葵の反逆に遭ったことで孤立していた。
孤立は人を貧弱にする。
目の前の平野のように。
「山田さん。平野さん。
無事でよかった」
養護教諭の植山が階段の下で、生き残った生徒の誘導をしていた。
「先生。
一体どうなっているんですか?」
「先生にもわからないの。
校長先生も教頭先生も見当たらなくて」
植山が不安そうに目を背けた。
「これからどうしたら・・・」
「とりあえず、一旦体育館に集まってもらいたいの」
「わかりました」
植山が指した方向には名前は知らないが、
何度か見かけたことのある事務員の女性が立っていた。
「みんなー。こっち」
何度振り解こうとしても離れない平野と一緒に、廊下を歩いていく。
すずのクラスがある3階と違い、1階の教室は綺麗なものだった。
「2人とも、大丈夫?」
事務員に声をかけられて、平野とすずは頷いた。
「床は冷たいかもしれないから、これ使って」
事務員は薄手のひざ掛けをくれた。
「ありがとうございます」
平野が大げさな仕草でひざ掛けを抱きしめ、
「あの。
学校はどうなっているんですか?」
と声を高くして言った。
養護教諭が答えられないことを、
事務員が答えられるはずもないのに。
すずは眉を顰めた。
「わからない。外でも事故があって、救急車を呼んでいるの。
みんなはとにかく安全なところで待っていて」
体育館に入って一夜を明かすと、生徒会役員が
非常時の備蓄である飲み物や食べ物を配り始めた。
生徒達の動揺は次第に落ち着いていったが、
すずの動揺は反比例して高まっていった。
大きな事故と死者が出たのに、一夜明けても助けが来ない。
大人の姿も、あの2人以外に見かけていない。
もしかしたら、重大な事態に巻き込まれているのではないかと、
すずは思った。
数日が過ぎると、生徒達は家に帰りたがった。
先生達が学校の外は危険だと説明したが、
数人の生徒は出て行ってしまった。
すずは生徒会の役員の男子と事務員の羽生と、
植山と一緒に怪我人の世話や、寝床の準備や、
食べ物の管理をして過ごした。
平野はずっとすずの隣にいたが、何も手伝わなかった。
事故の影響からか、無口になっていた平野が、
静かになって丁度良いとしか、その時のすずは思わなかった。
ずずは学校での生活に疲弊していった。
家に帰りたかったが、見たことのない怪物達がうろついているので、
外には一歩も出られない。
ストレスのせいか、平野の様子が明らかにおかしくなった。
続くように、学校に残っていた数人の様子がおかしくなった。
すずと植山と羽生と生徒会の男子だけが、
正気を保っていた。
学校に避難してきた人を、おかしくなった平野達が襲った。
平野達の力は強く、すずには止められなかった。
おかしくなった数人の生徒のうち、数人が死んだ。
死んだ瞬間、光になって消えたように見えたのは、
すずの気が狂ってしまったからかもしれない。
やがて、生徒会の男子もおかしくなった。
すずは平野に囚われて、首を舐められるようになった。
平野に逆らうと、自分も殺されてしまうかもしれない。
そう思うと、すずは動けなかった。
幾度か羽生と植山が来てくれたが、それもなくなった。
◇
根を抜くように、すずは回想から引き戻された。
原因は平野だった。
平野は、すずの下腹部の辺りに顔をうずめている。
痛い。
強い力で吸われている。
「うっ・・・ああ・・・あ」
あまりに悍ましくて、変な声が出た。
自分はどうなってしまうのだろう。
このまま死ぬのか。
「う・・・ぐっ・・・あ」
他のみんなは、どうなったのだろう。
いや。
みんな、おかしくなるか、死んでしまったのかもしれない。
すぐに自分の番が来る。
ありがとうございました。
今週は更新が遅れてしまい、申し訳ありません。
次話は、今週末に更新いたします。
参考文献
『日本のおかしな現代妖怪図鑑 朝里 樹』
『図説 眠れないほど怖くなる! 日本の妖怪図鑑 志村 有弘』




