61話 伊都子
61話です。
来週のつもりでしたが、更新させていただきます。
あの日からずっとお腹が冷たい。
体調が悪いわけではない。
ただ、震える程に冷たいだけだ。
◇
伊都子は朝早くに目覚める。
クロエが早朝から起きて朝食の準備を始めるからだ。
「うーん・・・っと」
目を開けて体を伸ばすと、
エプロン姿のクロエがテーブルを拭いているのが見えた。
慌てて起き出すと、クロエが温かい緑茶を出してくれる。
お茶の葉は、結希と月子が近くの店から見つけて持ち帰ったもので、
キッチンの下に大量に置いてある。
「すみません。
寝坊しちゃった」
「私もさっき起きたのよ」
促されて椅子に座ると、クロエがやってきたミニトマトの
いくつか入った小鉢を置いて隣に座った。
「昨日捥いだのだけど」
「おいしい・・・」
起き抜けのミニトマトは、
身体に染みわたるような美味しさだった。
伊都子が喜んでいると、
クロエが微笑んで小鉢から1つ摘まんで食べる。
「むふふ」
「うふふ」
2人は顔を見合わせて笑う。
クロエは優しくて明るくて、人懐っこい良いひとだ。
もし伊都子に祖母がいたなら、クロエのような人が良いと思う。
こんなことを、此処にいる全員がそう思っていても不思議はない。
伊都子がそう言い切れるほど、みんなクロエのことが好きだった。
2人は微笑んだまま、ゆっくりと茶を飲んだ。
「・・・」
伊都子はまだみんな眠っていて、順番に起き出してくる少し前の、
時が止まったかのような、しんとした瞬間が好きだ。
クロエの手伝いというのは建前で、本当はこの時を味わうために、
早起きをしていると言ってもいいかもしれない。
お茶を飲み終えた頃、月子が起きてきた。
こちらを見て申し訳なさそうに頭を下げると、
彼女はいそいそと噴水の方へ向かって行った。
顔を洗うのだろう。
伊都子も月子に習って顔を洗いに行く。
「月子ちゃん。
おはよう」
月子はこちらを向くと、両手を腿にあてて深々と頭を下げた。
噴水から水を汲むと、オドのまばらな光を頼りに、
2人で洗面所に歩いて行く。
顔を洗い、歯を磨いていると
ボッサボサの髪型をした葵がやってきた。
「おはよー・・・ございやす・・・」
「おはよう、葵ちゃん」
葵が「うがーう」と大あくびをする。
彼女は朝に弱いタイプで、起床の際はいつもしかめ面だ。
「あおいー」間延びしたソーニャの声が聞こえてくる。
呼ばれた張本人が動かないので、
伊都子が代わりにソーニャの方へ行ってやる。
目を閉じたまま手を差し出してくる小さな体を抱きかかえて、
洗面所まで連れていく。
「ふぎゃあー・・・伊都子眠いよぅー・・・」
「ソーニャちゃんは、まだ寝ててもいいのよ?」
「やだー起きる―」
そろそろにぎやかになってきた。
ソーニャが洗面と歯磨きを終えると、
ホールの隅に留まっていたオド達が光を増して動き始める。
「伊都子さーん。
そろそろ紫さん達を起こしてきてくれる?」
伊都子は頷くと、出入り口付近にある
清十郎と紫の寝床に向かって歩いた。
「あら」
2人の寝床にはキーラもいた。
彼は清十郎の手を握って、寝息を立てていた。
「まるで親子ね」
キーラに伊都子は目を細める。
「かわいい」
起こしてしまうのは申し訳ない、
そう思っている内に紫が目を覚ました。
「あっ。
おはよう伊都子ちゃん」
「おはようございます。
朝ですよー」
「サンキュ。ああ。腰いてぇ」
顔を顰めて腰を擦っている紫に、伊都子は笑ってみせた。
「昨日は、トウモロコシでしたっけ」
「そうそう。ソーニャの人使いが荒くてさ。
最初はプランター20だったのに、30になっちゃって。
伊都子ちゃんは大丈夫だった?」
「はい。私は途中からだったから。
大丈夫です」
伊都子も手伝ったが、力仕事は全部紫がやってくれた。
紫は厳しい意見を言うこともあるが、
周囲に気遣いができる優しい人だ。
まだ眠っている2人を起こすのは紫に任せて、
離れようとした時、キーラが目を覚ました。
「お、おはよう、キーラくん」
少しぎこちない笑顔を浮かべてしまった。
これならまだ無表情の方が良かったかもしれない。
伊都子は、以前からこちらを観察するような
冷たいまなざしを向けてくるキーラが苦手だった。
「おはよ」
キーラが小さく言った。
「え。
う、うんっ」
珍しく挨拶を返してもらったので、伊都子は嬉しくなる。
伊都子は、キーラの横にいる清十郎を見た。
一緒にいる清十郎が、彼に影響を与えているのかもしれない。
「ジューロー。起きなよ」
キーラに身を揺すぶられて、清十郎が身を起こした。
「おお。キーラか。
伊都子さんも、おはようございます。
ふがぁー」
「おはようございます」
最近の清十郎は少し痩せた。
連日の農作業やバリケードの作成、倉庫内の整理など、
たくさんの仕事を清十郎は紫とともにやってきたからだろう。
「もう少ししたら、みんなで来て下さいね」
「はーい」
◇
朝食を終えた伊都子と葵と月子は、食器を手早く片付けて洗濯を始めた。
倉庫にあった大きなタライに洗剤と洗濯物を入れ、手で擦っていく。
最初は洗剤の量がわからなくて、
泡がすごい量出て来て困ったものだったが、今は適量が分かる。
最初はみんな黙々と作業をしていたが、葵が話し始めた。
「昨日ね。
屋上で作業をしてたら、鳥が飛んできたんです。
見たこともない鳥で、黒くて、目がたくさんありました」
「へー。目が多いのはちょっと気持ち悪いね」
伊都子が言うと、葵は眉を寄せて頷いた。
「そうそう・・・ちょっとキモかったです」
月子が葵の方へ顔を向けた。
「ううん。
外敵っぽかったけど、小さい鳥で。
うん。
悪いオーラも感じなかったから、大丈夫っぽかったです」
月子が言葉を発しなくても、葵には何となく内容がわかるそうだ。
月子は黙ったまま頷き、葵が一方的に話しているだけの
不思議な会話をしばし見守る。
「頭が2つある、カラスみたいなやつもいますよね」
「それ、私も見たよ。
てかさ」
伊都子は不思議に思って聞いてみた。
「その鳥。
育てているお野菜を食べていかないかな?」
「うーん。
ソーニャと一緒にじーっと見てたんだけど、
そういう感じもなくて。不思議だった」
「そっか」
「屋上を一通り見回っているみたいで、
その後すぐに飛んでいっちゃった」
「不思議ね」
「ねー」
2人の話に月子が頷く。
「あ。食べると言えば、
今度みんなでクッキー作ろうって話」
「本当?!」
伊都子が喜ぶと、意外にも月子が顔を輝かせた。
「月子さん甘い物好きなんですね。
でゅふふ」
葵が可笑しな笑い方をしながら、月子と頷き合っている。
何だか懐かしい。
自分も祖父とこうして並んで料理を作ったっけ。
「・・・?」
伊都子は少し頭がぼんやりした。
2人の会話は台所事情へ移っていく。
だが、ついて行けずに、伊都子は閉口したまま首を傾げた。
思考が狭く収束していく。
2人に悪いから、とにかく一生懸命になって話を聞いていると、
伊都子のぼんやりはどんどんひどくなっていった。
◇
突然訪れた異変。
多くの死と混乱。
「逃げろ」と言って、伊都子を庇い亡くなった祖父。
言われるままに逃げ出してしまった自分。
燃えて無くなってしまった、家族が愛した店。
靄と光に導かれて、皆に出会った。
そして。
「あ・・・」
伊都子は我に返った。
どうやら白昼夢の最中にいたようだ。
午後の日差しが目に染みたので手をやると、指先が濡れた。
自分は泣いていたのだ。
冷えた身体とひどい頭痛を顧みず、首を振って周りを確認した。
ここはソーニャの農園だ。
「あれ・・・?」
自分は確か、みんなと一緒に洗濯をしていたはずだった。
「伊都子ちゃーん」
「ぎゃっ」
急に聞こえてきた声に吃驚して、慌てて顔を下げた。
泣いている姿なんて、誰にも見られたくない。
「ちょっと肥料取りに行ってくるわー」
彼の声が伊都子と一定の距離があると分かって、ほっとする。
「は、はーい」
袖で汗と涙を拭っていると、少しずつ状況を思い出せるようになる。
伊都子は紫の手伝いで、トウモロコシの苗を
大きめのプランターに植え付けているところだった。
「また・・・ぼんやりしてたのね」
これで何度目だろう。
最近の伊都子はふとした瞬間に、
意識が無くなってしまうことがある。
作業中でも、会話中でも、寝ている時でも、それは突然起こる。
「こんなことじゃあ駄目。
もっとしっかりしなきゃ」
清十郎のように、キーラのこころを溶かすことや、
紫のように頼りになる兄貴分には自分はなれない。
月子のように強くはなく、
クロエのようにあり合わせで立派な料理を作ることもできない。
他のみんなとは違い、自分は何の役にも立っていないのだ。
だから、一番役立たずの自分が泣いているところを見せて
迷惑をかけるなど、絶対に許されない。
「ふぅー」
伊都子は腹に溜まった空気を吐き出した。
喉が枯れていたので、伊都子は水の入ったボトルを取る。
だが、飲む資格が自分にはあるのだろうか。
祖父や店を見捨てて逃げて、誰の役にも立てない自分に、
生きている価値があるのだろうか。
伊都子は葵を思う。
以前の葵は、伊都子の目から見ても気持ちの弱そうな子だった。
でも、今は違う。
自分の意見をしっかり言える、強い人に成長したのだ
それなのに、あれから自分はずっと変われていない。
同じところで滞っているだけだ。
「・・・だめだ。だめだ。
こんなことじゃあ、だめなのに」
涙が止まらない。
身体に大きな穴が開いていて、塞ぐことがどうしてもできない。
呆然と涙を流す伊都子の傍に、1つのオドが降りてきた。
降りてきたオドは、伊都子の膝の上に乗った。
「・・・?」
これはいつも見ているオドとは色が違っていた。
おぼろげだが、オドには羽や身体があるようにも見える。
「え・・・」伊都子は思い出した。
何もかも失い、行く当てもなく街を歩いていた時、
伊都子は靄の中で光を見つけた。
その光に向かって無我夢中で歩き続け、
最後に紫と清十郎と出会った噴水公園に辿りついたのだ。
あの道標となる光がなければ、
伊都子は外敵に襲われてどこかで死んでいただろう。
この光は、あの時道標となってくれた光とそっくりだ。
「あの時の・・・?」
訊くと、光はまるで恥ずかしそうに、
伊都子の視界から隠れるように飛んだ。
「ま、まって」
声を出すと、光はまるでハチドリのように
中空でホバリングをした。
伊都子はゆっくりと光に近づいた。
しかし、近付いた分、光は同じ分離れてしまう。
「待って」
伊都子が光を見ているように、
光もこちらを見ているように感じる。
「あなたは、誰?」
声に反応して、光が揺れた。
この光には、何か意志のようなものがある。
備え付けの少し錆びた柵が見えた。
だが、構わずに伊都子は光を目指して歩いていく。
「こっちに来て・・・」
手を差し出すと、光はゆっくりとこちらに向かって飛んできた。
その時だった。
強い力で体が持ち上げられて、そのまま後ろにひっぱりこまれた。
「だああああああぁぁぁ!!」
「きゃああああ!!」
伊都子の身体は持ち上げられ他と思ったら、
反転して逆側に落ちていった。
「わあああああ」
伊都子は叫びながら身を竦めたが、
着地の衝撃はほとんどなかった。
「・・・?」
それもそのはず、紫が伊都子の体の下敷きになってくれていた。
伊都子は体を横回転させると、
自分の下敷きになっている紫から身体を退けた。
「む、紫さん!
だいじょうぶですか!?」
ゆっくりと揺すると、彼が小さく唸った。
「いてー。
ちょっと待ってくれぇ・・・」
紫が後頭部と目元を押さえて、ぐったりとした。
頭を打ったのかもしれない。
「頭打ったんですか?
ごめんなさい」
「いてて、いや、大丈夫だいじょうぶ。
このくらい」
「すみません。でも、どうして」
訊くと、紫は急に体を起こした。
「どうしてじゃないよ!!
落ちそうになってたんだから!」
「ご、ごごご、ごめんなさい・・・」
「うん・・・分かればいいんだ」
紫はまた頭が痛くなったのか、後ろに体を倒した。
「何で・・・私なんかを助けてくれたんですか?」
こんな暗い質問をするなんて、負担をかけるだけだ。
それでも止められなかった。
紫はしばらくの間黙っていたが、やがて口を開いた。
「俺が、伊都子ちゃんのこと好きだからだよ」
戸惑った伊都子は、いきなり息を吸い込んだ。
体を起こした紫が、手の平をこちらに向ける。
「でも、待った。
伊都子ちゃんの気持ちはわかってる。
佐藤のことが好きなんだろ?」
「え?!
わ・・・私」
「あーごめん!!
今のことは忘れてっ!!!。
ただ、悔しくてさぁ・・・」
俯いた紫が普段とは違い、少し幼く見えた。
「伊都子ちゃんは良い所たくさんあるし、
みんな君のことが好きだ。
だから、1人で抱え込まずに、もっと頼って欲しいんだよなぁ」
紫は顔だけではなく、首まで真っ赤にしていた。
「・・・でも、良かったぁ。
無事で」
真っ赤な彼が、心底安堵したように微笑みを浮かべた。
その顔を見ていると、伊都子は喉の奥が痛くなった。
「さっき・・・伊都子ちゃんは、
飛び降りようとしたんだよね?」
伊都子ははっとして、先程まで立っていた場所を見た。
「・・・私、飛び降りようとした?」
「違うの?」
「い、いえ・・・」伊都子は自問自答する。
もしかして、自分は死のうとしたのか。
伊都子は何度もその言葉を、口の中で繰り返した。
もしかしたら、そういう気持ちもあったかもしれない。
「で、でも・・・」
伊都子は、紫が止めてくれなかったら、
あの錆びた柵を超えていたかもしれない。
此処の人達はみんな良い人で、伊都子は恵まれている。
生活は充実している
楽しい。
笑うことも多い。
それなのに、自分はさっき死のうとした。
瞬間的に、伊都子は感情の在処を見失った。
「私。
飛び降りようとしたのかも!!」
とめどなく涙が出てきて、嗚咽を抑えられなくなる。
「みんな好きだったのに、みんないなくなった!」
「うん」
「とうさんも、かあさんも、お、おじいちゃんもっ」
「うん」
紫の大きな腕が、伊都子の体をすっぽりと包み込んだ。
「図書館も、司書になったばっかりなのに」
「うん」
「おじいちゃんの店も、何もかも」
「うん」
「みんな優しいのに。む、むらさき、さんも、
葵ちゃんも、クロエさんも」
「うん」
「助けてもらってばかりで、ごめんなさい」
「うん」
「それなのに・・・・えっ・・・うぇっ・・・えっ」
今でも祖父があの家で燃えているような気がする。
「うええええええええん」
自分の声が、とても遠くに聞こえる。
空も、緑も、何もかもぼやけて現実感がない。
優しい人達の面影すら、ここには届かないのだ。
また白昼夢の中に入って行きそうになる。
だが、その中で、伊都子の体に確かに感じるものがあった。
「大丈夫。俺が一緒にいる」
それは、抱きしめてくれている紫の温かさ。
靄の中に浮かんでいた、あの光のように。
温かさは、伊都子をこの世界から引き離さないようにしてくれる。
船を縫い止める錨のように。
だが、それに縋ってもいいのだろうか。
逡巡した伊都子の背中を、力強い紫の腕が押してきた。
温かい。とっても。
「一緒にいるから」
だから、伊都子は必死でその腕にしがみついた。
◇
伊都子と紫は抱き合ったまま、
風と光と青々とした植物に囲まれていた。
紫の呼吸は伊都子よりも深くて、ゆっくりしている。
不思議なことに、抱き合ったままでいると、
伊都子の呼吸が紫の呼吸に過不足なく重なっていった。
それを伊都子はただ感じている。
しっかりと感じることが生きることなのかもしれない。
涙はいつの間にか止まっていた。
風が目に染みたことで、
自分が紫の前で泣いてしまったことを思い出す。
彼は、自分のことをどう思っただろうか。
いい年をして、みっともないと思われただろうか。
くっついているのが恥ずかしいけれど、まだ離れたくない。
2つの相反する気持ちが交錯した上で、
子どもみたいに心地の良い方を選択することの贅沢さを、
伊都子は味わった。
少しだけ笑ってしまう。
「なんで、笑ってるの?」
紫が掠れた声で言った。
伊都子は紫に体を預けながら、
「わかりません」吐息のように言った。
木陰の下、万緑の季節を感じつつ、伊都子は目を閉じた。
「ただ、気持ちよくて・・・」
「そっか」
伊都子のこころの中にある、
いくつもの楔の中のひとつが抜け落ちると、
半鐘の鳴ったような音がする。
それを、じっと聞いていた。
「・・・ん?」
ふと、瞼の外に眩しさを感じて目を開けると、
あの光が伊都子の前にいた。
正確には、紫の肩の上に。
「わ」
伊都子は静かに、光が少しずつ輪郭を詳細にしていくのを見守った。
背にトンボのような4枚の羽が生えている。
身体は真っ白でふさふさの毛が生えており、
姿はモルモットのように愛らしい。
「きれい。
あなた」
枯れた声で伊都子が褒めると、
モルモットは嬉しそうに紫の肩の上で跳ねた。
「すごい・・・すごいねぇ」
伊都子が喜ぶのが嬉しかったのか、
モルモットはバク転や側転をしてみせた。
「うわぁ・・・やるねー」
「い・・・伊都子ちゃん。
どうしたの?」
まずいものを目撃した男の子のような顔をして、紫が言った。
「わぁ」
モルモットは紫の声に驚いて、伊都子の額に飛びついてくる。
「ちょっと、わわわ」
「ど、どうしたの?
伊都子ちゃん」
伊都子はよく見せるために、紫の方へ顔を近づいた。
「これっ。見てください」
「こ、これ・・・って?」
紫は困ったような表情になった後に、
伊都子へ向けて唇を突きだした。
「ぎゃあああああ!!」
思い切りビンタを食らわせる。
「いてぇえええ!!」
伊都子は顔を仰け反らせて紫から離れた。
「・・・ご、ごめんなさいっ。
違うの。ただ見て欲しくて」
泣きそうな顔になっている紫へ、
伊都子はまた少し顔を近づけた。
「な、なんなんだよ・・・」
「紫さん。これです」
伊都子は自分の額にくっついたままの珍獣を指さした。
「ん?
なんのポーズ?」
紫が伊都子と同じように、額に指をさしてみせる。
間抜けな様子に思わず失笑してしまう。
「・・・違いますって。
ふざけているんじゃありません。
私のおでこにくっついてるものを見て」
「ん・・・。
おでこには、何もくっついてないよ?」
「紫さん。
この子が見えないの?
・・・・よーーーくみて下さい」
お願いすると、紫がモルモットへ顔を寄せた。
また、2人の顔が近くなったので、
伊都子は少し恥ずかしくなって俯いた。
「わっ!!
こいつは!
・・・なんか、もふもふのモルモットみたいなのが!」
「そう! それ!!」
よかった。紫にも見えた。
伊都子はとりあえず安堵した。
紫が大声を出したせいで、
モルモットが跳ねてどこかに飛んで行ってしまう。
「あ。
逃げちゃった」
紫が「あ~・・・ごめん。伊都子ちゃん。
でも、あれ。どっかで見たような」と首を捻る。
「そうだ!!」と紫が手を叩いたので、
少しずつこちらに戻って来ていた珍獣が
また逃げ出してしまう。
「噴水公園に行く途中に、見えた光と同じでした」
「え」
「清十郎と一緒に歩いていたら、霧が出て来て、
あいつと同じ光が見えて・・・追いかけてたら、
公園に着いていたんですよ」
「じゃあ、紫さんも」
「伊都子ちゃんもそうなの?」
「はい。
それで皆さんと出会って」
「うひゃあ・・・」
空を飛んでいるモルモットを見上げながら、
2人同時にため息を漏らす。
「あいつって、ずっと伊都子ちゃんのそばにいたのかもな」
「でも、さっき初めて見えたんです」
「うん。俺もそうだよ。
だからさ、見えなかっただけなのかも」
「見えなかっただけ?」
紫が頷く。横から見ると、とても鼻が高い。
「ずっと、一緒にいてくれた・・・」
じっと彼の顔を見ていると、モルモットが戻って来た。
何やら手足を大きく振って、紫のことを怒っているようだ。
「怒ってんのか。
ごめんごめん。悪かった」
紫が頭を下げると、モルモットは溜飲が下がったようで、
大人しく伊都子の掌に着地した。
「すごく懐いている。
やっぱりこいつは俺達の恩人だ」
紫の声の後に続いて、あの半鐘の音が聞こえてくる。
伊都子の胸が温かくなる。
「そうですね」
「みんなにも紹介してやらなきゃなぁ・・・。
せっかくだからさ、伊都子ちゃん名前つけたら?」
「名前?」一瞬戸惑った。
大きな喪失を経験した伊都子は、
何かを得る時、失うことを想像する癖がついてしまった。
もし名前をつけて、この子まで失うことになったら。
「でも・・・」
紫が両手を頭の後ろで組んだ。
「ほら。
伊都子さんがつけないと、
きっとソーニャがへんてこな名前つけちゃうかも」
伊都子は小さい頃に好きだった妖精を思い出す。
大好きで、何度も見ていたアニメだ。
「・・・じゃあ、この子はベルちゃん。
ベルちゃんにします」
◇
不思議なモルモット、『ベル』は最初みんなには見えなかった。
だが、伊都子が紹介すると、少しずつ見え始めて、
最後にははっきりと姿を捉えてもらえるようになった。
「まぁまぁ、可愛らしいネズミさんね」
ベルを認めたクロエが両手を合わせて幸せそうな顔をする。
「クロエさん。
ネズミじゃなくて、モルモットです」
なぜか紫が自慢するように言った。
「紫さん。
モルモットじゃなくて、ベルです」
伊都子が訂正する。
「モルモットだけど、
トンボみたいな羽が生えてるな」
清十郎が言うと、キーラがベルの羽にそっと触れる。
「この羽はトンボとは違う。
翅脈と翅室があるけど、トンボ独自の三角室や縁紋がない」
「昆虫博士かっ」
「クラスにひとりはいたよなぁ」
ベルはキーラに触れられるのが嫌だったのか、
伊都子の頭の上まで非難する。
ベルはみんなに受け入れられるのがすこぶる早かった。
今の世界は不思議でいっぱいなせいで、
みんなこういうことには慣れてきているのかもしれない。
伊都子はベルを順番に紹介して回った。
冷凍庫から出て来た葵が、ベルを見て突然大声を上げた。
「ああっ。こいつ!!
トンボモルモット!」
大声に反応して、ベルが伊都子の陰に隠れる。
「葵ちゃん。
この子が見えるの?」
「え・・・えっと、まぁ・・・はい」
伊都子が問うと、葵が少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「え。この子を知ってるの?」
「・・・伊都子さんの周りで大暴れした妖精、です」
「・・・いつ見たの?」
「あ、あの、図書館で最後に話した時に」
伊都子は息を吐いた。
紫の言う通り、ベルは以前から伊都子と一緒にいてくれたのだ。
「ほらぁ、俺の言った通りじゃん」
後ろから紫がずいと前に出てきて、伊都子を横目に見た
とても背が高い彼から視線を逸らして、葵に照準を合わせる。
「そんなに前から知ってたのね?」
「え、えへへ・・・」
「えへへって、何でその時に言ってくれなかったの?」
伊都子が腕を組むと、葵が頭を下げる。
「はい。すみません・・・。
あの時は、こいつ私にしか見えてなかったから、
変態だと思われたくなくて・・・」
葵の気持ちは伊都子にも分かる。
紫に顔にひっついたベルを見せた時、ちょうど同じ気持ちだったからだ。
「・・・まぁそれもそうかぁ」
葵がベルの胸を指さす。
「てか、あんたのせいで伊都子さんと気まずいじゃん!」
気に障ったのか、ベルが葵の指に齧りついた。
「いだっ!!」
葵が手を振ると、ベルは素早く伊都子の傍まで逃げてくる。
「ごめんなさい。
全然いうこときかないの」
伊都子は自分のせいではないのに、なぜか謝ってしまう。
「葵さんは、ベルと図書館で会ったのよね?」
「はい。伊都子さんが持っていた、ほら英語の、
あの黒い本から出てきたんですよ」
「え!?
あの本って・・・・」
伊都子は急いで走り自分用の棚から、黒い本を持ってくる。
「これ?」
「そうっ。それです」
ベルは黒い本を認めると、天の隙間からするりと入って消えた。
「は、入っちゃった・・・」
伊都子と葵は茫然と本を見つめた。
「さ、最初もこんな感じで、いきなり出てきたんです」
葵が恐る恐る、伊都子の持った本の端をつつく。
「そうだったんだ」
「そういえば、始めて伊都子ちゃんに会った時も、
光が本の中に入っていったよね」
2人のやりとりを見ていた清十郎が言った。
「ああ。あったな」紫が首肯する。
「この本。
何だか手放せなくて、
家を出る時も、これだけ持ってきたんです」
「俺、よっぽど大事な本なんだなって思ってた。
結果的に、すごい大事な本だったな」
清十郎が伸びた顎髭を擦る。
「はい。
もっと他に持ってくるべきものがあったんでしょうけど。
あの時は、何も考えられなくて」
伊都子は笑われることを覚悟したが、
清十郎と紫は腕を組んだままだった。
「笑わない?」目の前の葵に問う。
「笑いませんよ。いきなりだったんですから。
私だって、あの時は、役に立ちそうなものなんて、
何も持って行けなくて」
「そっか。じゃあ、私達、同じだね」
伊都子は葵の手を引いて、テーブルについた。
図書館で初めて会った時の、葵を思い出す。
大人しくて、いつも本棚の影に隠れるように歩いていた、
ちょっと考え込み過ぎな少女。
多少声が大きくなって、元気になっても、
本質は変わっていないのかもしれない。
伊都子は、ずっと葵に黙っていたことを言おうと決心した。
離れた場所でソーニャをおぶっている結希を見る。
「紫さんに聞いたんだけど、ベルはね。
みんなの道標になったんだって」
「ああ。
ピカピカ光っていますもんね」
「うん。そう。清十郎さんや、紫さん、
クロエさんを呼び寄せたみたいなの」
「そっか。それで、みんなあそこにいたのね」
「わかるの?」
「ええ。なんとなく。
ベルってば、女神様の噴水とも関係ありそうだし」
以前の自分なら、きっと話せなかった。
一度だけ、視界に映っている紫を見る。
伊都子は身を乗り出した。
「この黒い本のおかげで、
私はみんなに会えたんだって思うことにした。
葵ちゃんにも、隠し事はしない」
いつからか不思議な光を放つようになった彼女の目を、
まっすぐに見つめ返す。
「この本の人、佐藤さんなの」
再会してから、ずっと言えなかった。
「え・・・!!
じゃ、じゃあ・・・」
葵の目が左右に泳ぐ。
ああ、とうとう秘めていた思いを言ってしまった。
だが、まだ続きがある。
「あ・・・あのあの・・・」
『真実を見通す目』という能力は、
伊都子が隠してきた思いまでは見抜けなかった。
手を震わせて慌てている葵を見て、伊都子はくすりと笑った。
気付かれる前に、言えて良かった。
「そう。
英語の本をすらすら読んでしまって、
すごいなって思った人が佐藤さん。
食事にも誘った。
ずっと、言えなかったの。ごめんね」
知らなかったとはいえ、葵が想っている人を
食事に誘ってしまったのは申し訳ない。
「え? あ、ああ・・・いえ」
葵にも、伊都子と同じような思いがあったのだろうか。
目の前の少女が、弱々しく頭を抱えた。
「葵ちゃん。
でもね。
佐藤さんは諦めたから」
全身に寒気がした。
ただ思っているだけなのと、それを誰かに向かって
明らかな言葉にするのは違う。
でも、ちゃんと言えた。
伊都子は息をゆっくりと吐いて、紫の温かさを思い出す。
そうすることで、ようやく人心地につけるような気がした。
「・・・」
葵が『目』で、伊都子の何かを見ている気がする。
伊都子の胸に痛みがあることを、
結希への想いが本気だったことを、
きっと葵は今、知ってしまった。
もう、戻れない。
覚悟を決めて、「葵ちゃんの応援をしたい」
伊都子は言ってのけた。
少しだけ自分を誇らしく思う。
「い、いや。
私そんなんじゃ・・・」
否定する葵に、伊都子は微笑んだ。
「佐藤さんのこと、好きなんだよね?」
葵の顔がみるみる内に朱に染まっていく。
ああ、やっぱりそうだよね。
そう思っていたのに、一度緩んでしまった涙腺が、
自身の許可なく崩壊した。
「ごめ・・・違うっ」
下を向いてごまかそうと思ったが、間に合わなかった。
「ぎゃっ・・・伊都子さんってば」
「ごめんごめん・・・」
しばしの沈黙の後。
「伊都子さん・・・そんな。
結希のこと、本当に?」
「うん。本当よ。本当。
でも、泣くつもりなんてなかったのよ」
「ごめんなさいっ。
私、何も気付かなくて。
ああもう。肝心なことばっかり分かんなくてっ」
両手で頭を抱える彼女の手をとると、
自然と正面で視線が交わった。
「そっか。まぁ、逆に良かったわ。
葵ちゃんに気付かれないように、必死だったんだから」
笑顔になると、葵の目が涙で一杯になるのが見えた。
2人が騒ぎ始めると、ソーニャとクロエがやってきた。
「あらあら。
伊都子さんどうしたの?」
「伊都子ー泣いてるっ」
なんだ、なんだと清十郎とキーラやってくる。
「葵さん・・・もしかして伊都子さんを」
「違うわよっ・・・違わないかもだけど!」
どこからか結希と紫、三毛虎も集まって来た。
「どうしたどうした?」
紫と目が合ったので、
「なんでもないよ。大丈夫だいじょうぶ・・・」
伊都子は大慌てで弁解した。
どうしよう。みんなに心配をかけてしまう。
その時、ベルが本の隅から飛び出して、
オドを蹴散らしながらホールを一周した。
そのせいで一時的にオドが光を失い、ホール内が真っ暗になる。
「わー。真っ暗ー!」
ソーニャが、台風が来た日の小学生のようにはしゃいだ。
「こら、ソーニャ。
走り回ったら危ないわよ!」
「セイ。
どうなったんだ。これは」
「わからん」
暗闇の中、みんなが騒然となっている。
伊都子は手探りで葵の手をぐっと引き寄せた。
「わっ。伊都子さん?」
「葵ちゃん。
ごめんね、ずっと黙ってて。
ご飯に行ったことも、ごめんなさい」
「そんなっ。伊都子さんは何も悪いことなんて」
「あのね。葵ちゃん。
私、言いたいことがあるの」
「・・・何ですか?」
時間をかけて息を吸った。
「佐藤さんのこと・・・応援してるから」
返事はなかったが、彼女の腕が伊都子の背に回った。
抱きしめた葵の身体から、嗚咽が響いてくる。
「ありがとね。
話、聞いてくれて」
オドが落ち着き、ホールは明るさ取り戻すと、
葵の目が真っ赤だったのが見えたので、
伊都子はもう一度ハグした。
「葵ちゃん。
私、あなたのことも大好きなんだから」
自分の中に、これだけ素直で美しい思いがあるのかと心底驚く。
「うええええん。伊都子さぁん」
葵の頭を毛並みに沿って撫でてやる。
「はいはい。よしよし・・・。
今まで通り、仲良くしましょうね」
「びええええっ」
「ほらほら、泣かないよ」
葵は本格的に泣き始めたが、
まだホールを飛び回っているベルのおかげで、
みんなの視線はこちらに集まらない。
「ああ。
やっと明るくなった・・・」
「ベル。まだ飛んでるよー
キーラ、捕まえてー」
「やだよ。
ほっとけば勝手に帰って来るだろ」
「佐藤さん。
オドってありがたいわね」
「そうですね。
前はなかったから、ずっと真っ暗だったんです」
交錯する会話の中に身を置いていると、
伊都子は自分のお腹の辺りが温かくなるのを感じた。
「あれ・・・?」
そっか。だから、私は。
いつまでも泣き続ける葵を抱えたまま、伊都子は微笑んだ。
ありがとうございました。
今までで一番難しい回でした。
次回は来週末に更新を致します。




