6話 結希
6話目です。よろしくお願いします。
結希は自分が女神に与えられたという、
『トールの雷』という言葉を調べるために図書館にやってきた。
昨日あまり眠れなかったので、頭が少しぼうっとする。
都内でも有数の敷地面積を誇る○○図書館は、
最近建て直しがあり、以前よりもさらに広くなったそうだ。
エントランスに入ると、床や他の建材の多くが木造になっており、
新鮮な木の良い匂いがしてきた。
建物にはかなりの費用がかかっただろう。
結希は読書家というほどでもないが、
以前から本を読むのが好きだった。
最近は仕事で忙しくてご無沙汰だったが、
こんなに素晴らしい図書館があるなら、
もっと早く来るべきだったかもしれない。
木の良い香りを味わいながら、館内を散策する。
時間があればぜひ読みたいと思っていた、
お気に入りの女性作家のコーナーで足を止めた。
以前読んだことのある本を手に取る。
それは結希が手に取った最後の本でもある。
なんとなく出版日を見ると、5年前だった。
本を読まなくなって、もうそんなになるのか。
今までの自分は、どれだけゆとりがなかったのだろうか。
冒頭を読むとすぐに物語の中に入り込んでいける。
繊細な表現や、登場人物の心情が分かりやすく文章にされているので、
胸の中に自然に落とし込まれていく。
物語の中に人が生きているような感覚を得るのが好きだった。
読んでいる間は、自分も物語の一部になれる。
周囲に溶け込めない自分の醜さや不適応、
不全感を忘れて没入することができた。
懐かしい感覚が戻ってくる。
この作家に中学生だった結希は救われたかもしれない。
はたと手を止めた結希は、ようやく本題を思い出す。
「本題本題・・・」
漏れ出た笑いを、慌てて手で隠した。
まずはトールという語句を探す。
どこにもない。
PC端末で検索をかけて調べたが、該当する本はない。
勇気を出して司書に尋ねることにした。
結希は本棚の影から、貸出コーナーのカウンターを覗き見る。
大きな図書館というだけあって、
カウンターには数人の司書が忙しそうに動いている。
平日の午前中にもかかわらず、利用者が3人並んでいるのを見て、
結希はカウンターの司書に尋ねるのをあきらめた。
周囲を見渡すと、返却された本を棚に戻している司書が、
忙しそうに歩いているのが見えた。
小柄な司書が目の前を通り過ぎていく。
「・・・あ」
喉からほんの少し声が漏れたが、それ以上は何も言えない。
心臓が高鳴っているのを感じる。
結希はもともとコミュニケーションが得意な方ではない。
職場でも、忙しそうにしている同僚に声をかけるのに、
何分もかかってしまったことがあった。
そうこうしている内に、結希は自分がとても場違いな
存在なのではないかと思い始めた。
利用者はとっくに仕事をリタイヤしたような高齢の人や、
子ども連れが多い。
自分のような年頃の男は見当たらないのだ。
自分のような人間が、平日の朝から図書館に
来ているのは変だと思われるかもしれない。
結希はすぐにこの考えに囚われた。
徐々にいたたまれなくなっていく。
開放感のあるエントラスがひどく狭く感じ始めた。
天窓から入り込んだ光も、自分を急き立てるように、
追い回すように目を眩ませてくる。
呼吸は荒くなり、脳天にじっとりと汗がにじんできた。
口を押さえて、動揺を隠そうとした結希は、
こちらをじっと見つめている幼い男の子と目が合った。
男の子は結希の様子がおかしいと思ったのだろう。
母親の手に体重をかけた後、こちらを指さした。
母親は子どもの指先を追うようにして、結希の方を見た。
「っ・・・!」
結希は思わず外に逃げた。
図書館に隣接された、就業生活支援センターという看板を通り過ぎて、
小さな公園に辿りつくまで、結希の足は止まらなかった。
公園に設置してある屋根付きのベンチに腰掛けて、大きなため息をつく。
少しすると、だんだんと呼吸が楽になってきた。
ああ、よかったと人心地つくと、結希は水道で顔を洗った。
今日は図書館はやめておこう、そう思った瞬間だった。
フォルトゥーナの声が聞こえた気がした。
深呼吸をする。
「もう一度、逃げずに、生きてみたいです」
声に出して言ってみると、すっと体から力が抜けた。
膝の辺りが痺れた時のように、じわじわと脈打っているのがわかる。
何かに後押しされるように、結希は立ち上がった。
自分はおかしくなったのかもしれない。
だが、心地良いおかしくなり方だと思った。
もしかしたら、他人にどう見られても良いのではないか。
平日の午前中から無職の男が図書館に
行ってはダメだという法律は存在しない。
おかしいと思っているのは、
恥ずかしいと思っているのは他でもない自分自身だ。
結希はカウンターの前まで来た。
幸いなことに並んでいる人はいない。後は声をかけるだけだ。
「あの、すみません」
『トールの雷』に関する本を探していると説明する。
対応してくれていた司書が、
すぐ後ろにいる「イツコちゃん」に声をかける。
小柄な司書ははきはきとした返事をしながら前に出てきた。
「この子は本のことに詳しいから、知っているかもー」
対応してくれた中年の司書がのんびりとした口調で言った。
もう一度事情を説明しようとすると、
イツコちゃんは手をかざして結希の言葉を遮った。
「トールという神様がいるとのことでしたが、私は知りません」
イツコちゃんはカウンターのPC端末を触りながら言う。
今。ネットや館内で検索をかけましたが、そういうものはありませんでした。
ちなみに、トールの雷、ということでしたが、
雷の神様が、トールという名前だったということでしょうか
他にはなにかヒントとか、キーワードがありませんか。
そもそも、どこでそういう本があると知ったのですか。
矢継ぎ早に聞かれて、結希は言葉に詰まった。
「ちょっと、記憶があいまいで・・・。すみません。
あ、トールという神様の知り合いに、
フォルトゥーナという神様もいたような。
それと、困難を与えられるほどに強くなる肉体、
というのが本の中で出てきたんです」
イツコちゃんは結希の説明を、素早く用紙に書いていく。
達筆なイツコちゃんの字と、切り揃えられた綺麗な前髪を、
結希はしばらく見守った。
「どんな本だったか、表紙の感じだけでも思い出せませんか?」
イツコちゃんが前のめりになって聞いてくる。
結希が驚いて仰け反ると、
イツコちゃんは頬を赤くしながら咳払いをした。
「また、こちらにいらっしゃいますか?」
聞かれた真意が汲み取れずに、曖昧な返事をする。
「私の方で調べておきます。こちらにいらっしゃったときには、
井上に声をおかけください。平日ならいつでもおりますので」
伊都子は胸ポケットから名刺を取り出して、
丁寧な動作で結希に渡してきた。
井上伊都子という氏名と、
横に描いてある可愛い猫のロゴが目に入った。
話を終えると、結希は伊都子おすすめ本を1冊と、
前から読みたかった女性作家の本を1冊借りた。
エントランスから出ると、太陽の光が頬をつついてきた。
先程会った子どもが、母親に手を引かれながら歩いている。
結希の視線を感じたのか、子どもが振り返った。
「あ」
結希は少し肩を強張らせたが、それも束の間。
子どもははにかんだ笑顔を見せると、
母親の体に身を隠すようにして歩いて行ってしまった。
自分は一体、何を怖がっていたのだろうか。
こころの中で手を振る。
少しだけ口の端が上がる。
遠くから大気を揺らして響いてくる音が聞こえる。
見上げると、青い空に一筋の雲が見えた。
殆ど一直線に描かれた軌跡から、結希は勇気をもらう。
今日はちょっとだけ真っ直ぐ歩けた。
大きく背伸びをして、深呼吸するととても気持ちが良い。
身の回りの全てに労ってもらっているような気分だった。
「こども本の森 中之島」という素敵な図書館があるそうで、一度行ってみたいと思っています。
○○図書館は、ここをモデルにしています。