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53話 清十郎

53話です。

よろしくお願い致します。

清十郎の家には金がなかった。

原因は父親のギャンブルだった。

母親はパートをかけもちして頑張っていたが、

それでも生活はいつもギリギリだった。

小学6年生の1年間は、

家族で狭い軽ワゴンに住んでいたこともある。

金がなくなると、父親は清十郎を連れて

近くの山に山菜を取りに行った。

勝手に他人の山に入って山菜を取るのは犯罪だ。

見つかると、父親は清十郎を残して逃げ去ることもあった。

山菜が取れて、いくらか金になると父親はすぐにパチンコ費やした。

それで家族関係が悪かったといえば、そうではなかった。

ギャンブル好きの父親は母親をたくさん苦しめたが、

ユーモアがあり、冗談がうまくて、いつも家族を笑わせてくれた。

幼い頃の清十郎は、父親が好きだった。

母親の方も文句をいいながら、そんな父親の面倒を見るのが

好きなようだった。

そんな父親が、清十郎が中学生に上がったタイミングで、

失踪してしまった。

原因はわからない。

他に女を作ったとか、大きな借金を残したとか、

そういうことではなさそうだった。

ただ清十郎と母の前から姿を消してしまったのだ。

「何も残して行かなかったのね」

残された母親は寂しそうだった。

父親がいなくなったことで清十郎は中学2年の時から、

アパートで生活できるようになった。

赤司あかし むらさきとは以前から仲が良く、

度々会って遊んでいたが、中学2年の時から親交が深くなった。

クラスの子ども達に、「こいつは風呂に入っていなかった」や

「家が貧乏だ」と言って見下された時、紫はいつも助けてくれた。

紫は体格にも容姿にも恵まれており、

小学生の頃から野球をしていて、

男子にも女子にも好感を持たれる人物だった。

そんな紫がなぜ清十郎を気にかけるのか、わからなかった。

清十郎と紫の仲が良いため、

いつしか周囲は清十郎を見下す態度をやめた。

なぜ助けてくれたのか、大人になってから聞いてみた。

すると、紫はこう答えた。

「保健体育の授業あったろ。

あの時さ、中絶するのをビデオで見たじゃん。

腹の中で、まだ生きてる赤ん坊を殺しているのを見て、

俺はすげぇ腹が立った。

だって、ちゃんとゴムを使えば、子どもはできないのに、

そんなこと、誰だってわかるのに、考えなしに

セックスして、子ども作って、殺すなんて無責任すぎるだろって

俺は思ったんだ」

真人間で、直情的で純粋な紫は続きをしゃべった。

「6人のグループで、そのビデオの感想を一人ずつ

言うことになってさ、みんな俺と同じような意見だった。

中絶は悪いことだって。だから、俺もそう思って、

みんなに言ったんだよ、中絶はクソだって。

最後にセイの順番になった。

お前もみんなと同じような意見を言うと思ったよ。

だって、セイは目立たないし、よく周りにいじられてたから。

でも、その時セイは、『もし親に、子どもを育てられないって

いう自覚があるんだったら、俺は中絶してもいいと思う』

みたいなことを言ったんだ。

みんな怒ってた。

当たり前だよなぁ。

俺はそれでも、金具に挟まれて殺されるのは

あんまりだって言った。

情けないけど、少し泣きそうになってた。

セイは、『無理矢理襲われて、子どもが

できてしまったパターンもある。だから中絶自体は

必要なんじゃないか。親に愛されないのは、

金具に挟まれるよりも苦しい』って言ったんだ。

おまえ、この時中学3年だぞ。

俺は、こいつなんなんだ、すげぇなって思った。

運動とか、勉強とか、そういうことができるやつらより、

お前のがすげぇって思ったんよ。

俺はセイが中絶を良いことだって言っている

訳じゃないのがすぐにわかった。

でも、周りの奴らは、お前のこと最悪なやつだって言った。

曲解ってやつ?

好きだよな、あのくらいのガキはみんな。

いーや、大人もみーんな好きだよな。

自分が間違った理解をしているのに、正義面してさ。

悪いと思ったやつを叩くの。

いやさ、間違いだとか正義だとか、そんなもの、

本当のところ、この世には存在すらしねぇよな。

お前はそういうことに、俺に気付かせてくれたんだ。

俺はあのとき、セイのことをすげぇって思った。

だから、すげぇって思ったやつが、

頭の悪いゴミみたいなガキどもに、

いいようにされるのが、気にくわなかったんだよ」

捲し立てるように言って、紫は静かになった。

もしかしたら、言った後に恥ずかしくなったのかもしれない。

紫は自分にはもったいないくらい良い友人だ。

中学を卒業すると、紫は普通科の学校へ行き、

清十郎は奨学金をもらって看護学校に進んだ。

別に看護師に興味があったわけではないが、

母親を助けるためには、それが最適だと思ったのだ。

父親が失踪してからの母親は、抜け殻のようになり、

週に2回外出するのが関の山の状態になっていた。

今思えば、母親にとって、パチンコで金を使う父親の存在が、

生きて行く理由になっていたのかもしれない。

心底腹立たしかった。

清十郎はずっと、そのことが納得できなかった。

卒業をして、奨学金をもらっている総合病院に奉公就職をした。

清十郎は外来に配属された。

結論から言うと、清十郎はいじめ抜かれて、

1年足らずでそこを辞めることになった。

辞めてしまうと、奨学金は自腹で払わなくてはならなくなる。

だからこそ、職場は清十郎をいじめたのかもしれない。

奨学金を与えると約束をすることで、学校が学生を集めやすくなる。

そして、卒業していざ就職したら、

徹底的にいじめて辞めさせる。

そうすることで、病院は学費を負担しなくてよくなる。

学校側にも、病院側にも、特にデメリットはない。

まぁ、どこにでもある話だろう。

清十郎は世間の仕組みの一端が理解できて、

得心がいった気持ちだった。

金のこともあり、当時の清十郎には余裕がなかった。

母親に顔を見せるのが減り、孤独にさせてしまった。

うつ状態を1年で克服した清十郎は、すぐに再就職した。

就職したのは、精神科だった。

残業なし、夜勤なしの、リハビリをするには丁度良い、

良心的な病院だったと思う。

清十郎は、作業療法を補助する専門の看護師として

業務に携わることになった。

清十郎が仕事をする部屋には、作業療法士と臨床心理士、

社会福祉士など、計9名が常駐していた。

慣れない仕事内容に戸惑いはあったが、

夜勤がないのは、体調面ではかなり助かった。

海外の論文で、夜勤をした看護師の平均寿命が、

夜勤をしなかった看護師の平均寿命と比べて、

10年短かったという内容のものがあったが、

それも頷けるというものだ。

最初、職場の人間関係は良好に見えた。

パワハラもセクハラもない。

人柄は優しくて、会話などの交流も多かった。

しかし、5年勤めた辺りで、最初に抱いた印象とは変わってきた。

部屋には谷口という清十郎と同じ看護師の女性がいた。

綺麗な人だったが、額や頬、うなじをいつも真っ赤にしているので、

その美しさは痛々しさを伴っていた。

人づてに聞いた話では、日光過敏症で、

長時間日に当たると水ぶくれができるらしかった。

朝出勤すると、勤務者全員で15分

掃除をする時間が設けられている。

谷口はいつも外掃除を押し付けられていた。

だが、谷口は愚痴ひとつ言わず、

いつも掃除を真面目にやっていた。

気が付いたら、谷口のことを目で追うようになった。

惹かれていたのかもしれない。

しかし、低身長で胴長短足、20代なのに腹の出ている清十郎に、

誰かと相思相愛になることなど、期待できるはずもなかった。

清十郎にとって恋とは、

自分を好きになってもらうことではなく、

誰かを好きになることだった。

そして、

清十郎にとって、誰かに愛情を向けるということは、

相手に何も求めず、自分ができることをしてあげるということだった。

清十郎がこんな考えになったのは、きっと母親のせいだ。

母親はいつも何も求めず、周囲に与え続ける人だった。

清十郎は無意識の内に、母親を鏡にして生きていた。

清十郎は谷口が外で掃除をする時間が少しでも減るようにと、

先回りして掃除用具の整理をしたり、

不自然でない程度にあらかじめ掃除を

したりするようになった。

谷口がいつもよりも早く掃除を終え、

詰所に戻ってくるのを見て、清十郎はとても満たされた。

谷口はいつも仕事が正確で丁寧だったため、

他部署のスタッフに一目置かれるようになるまでに時間はかからなかった。

だが、それが良くなかった。

それを見た作業療法士の同僚が、嫉妬に目の色を変えたのだ。

そいつは水面下で谷口に外掃除を押し付けている一人だった。

その日から、作業療法士はもちろん、精神保健福祉士、

臨床心理士など、部屋にいる人間すべてが

谷口に対するいじめを敢行した。

あらかじめ言っておくと、

谷口が日光過敏症なのは部署以外の人間も知っているくらい、

徹底認知され、谷口の負担を減らすよう、

野外での活動はなるべく他の職員が受け持つように指示が下っていた。

あるスタッフが、職場のブラインドを開けながら言った。

「この部屋暗ぁーい。

PCの文字がみえなーい」

別に暗くはない。

人はそこまで醜くなれるのかと、清十郎は愕然とした。

詰所は西側にあったので、午後の日差しはかなり強くなる。

その日の谷口はひたすら耐えている様子だった。

なぜか翌日に席替えをすることになり、

口裏を合わされたのか、谷口は窓際の席になった。

周囲の様子を見て、頭を下げながら、

少しだけ谷口がブラインドの角度を変えると、

「くらーい」と声が上がった。

夏場で、日差しの強い日だった。

清十郎は歯ぎしりしてその光景に耐えた。

話は少し変わるようだが、

清十郎には『前提を作る』という特殊な癖がある。

例えば、誰かが悪いことをしたときに、

その悪い行いを否定するために、

「人間なのに」とか「成人するくらいの年なのに」などと、

前提を作ってしまうのだ。

今の清十郎の前提は、

「この部署の人間は皆、障がいのある人を支援する

資格をもっているのに」というものだった。

谷口は日光過敏症という障がいをもっている。

作業療法士、精神保健福祉士、臨床心理士という職種は、

いろいろな事情で障がいを持ち、

社会的に弱い立場にいる人達を支援する立場にいる。

それが、今、清十郎の目の前で、

総出になって弱い立場の人間をいじめているのだ。

めまいがした。

谷口は日焼け止めを厚塗りし、

室内なのに帽子を被って仕事をするようになった。

部屋の皆がそれを見てほくそ笑んでいる。

例外は、なかった。

清十郎は毎日胃が痛くなる程悩んだ。

そうしているうち、清十郎はひとつのことに気付いた。


人間だからとか、精神保健福祉司だからとか、

作業療法士だからとか、そういう『前提』など、

どこにもないのだということに。


清十郎は人というものを買い被っていたのかもしれない。

人は所詮、前頭葉が少し発達しただけの、下等な動物なのだ。

人は理論的な思考や、『前提』が通用する相手ではない。

その証拠に、東大を出た政治家が、

糖尿病だったり、痛風を患っていたりする。

上位数パーセントの学力を誇る人でさえ、

自分の食事量すら調節できない、低俗な種族が人間なのだ。

俺も似たようなもんだよなぁ、

と自分の腹を擦りながら、清十郎は思った。

人は所詮動物の端くれで、それゆえ人の世は生きにくい。

谷口のように、生まれながらに障がいを持ち、

優しく真面目な性格で、周囲に弱みを握られやすい者は尚更だ。


じゃあ、俺は、どうしたらいい。


自問自答の末、清十郎は決めた。

残業のふりをして居残り、詰所の窓にUVカットシートを張り付けたのだ。

UVカットシートはアパートの窓でも試したが、

少し注意して見れば、窓が光を反射する感じや、

透明度が以前のものとはかなり変わってしまうため、

詰所の人間に気付かれる可能性は高い。

清十郎にとっては、ひとつの賭けだった。


   ◇


清十郎は朝早くに職場にやって来た。

前日に貼り付けたUVカットシートは、朝日を遮っているが、

角度を変えて窓を見ると、明らかに青くなっていた。

誰かに気付かれるかもしれない。

そうなったときは、谷口への連日の嫌がらせを見かねて、

自分がやったのだと告げるつもりでいた。

清十郎は結果として、谷口へのいじめの矛先が

自分に向いても良いと覚悟していた。

そうなったら、こんなところ辞めてやる。

清十郎はブラインドを半分閉め、出勤してくる職員達を待った。

最初に、臨床心理士の女が来た。

20代後半の臨床心理士は、

何事もなく席についてPCの電源を付けた。

数度窓を見やって半分閉まっているブラインドを開けたが、

特に反応することなく退室していった。

「は・・・気付かなかった」

次は作業療法士の男と女だった。

こいつら2人が谷口いじめの主犯といえる。

2人はテレビでやっているバラエティ番組の

内容について楽しそうに話している。

女の方が、ブラインドをさらに上げた。

さすがに気付くかもしれない。

清十郎は無意識に背筋に力が入った。

しかし結局、作業療法士の2人は、窓に反応することはなかった。

「な・・・なんで?」

なぜ気付かないのか。

続いて精神保健福祉士と、看護師が入ってくるが、

皆何の反応もしなかったので、ついに清十郎は愕然とした。

気分が悪くなってきた清十郎は、

立ち上がり詰所から出ようとして飛び上がった。

目の前に、谷口が居たのだ。

谷口は窓をじっと見ていた。

そして、小さく「あ」と口を開けた。

谷口の視線が、窓から清十郎へとフォーカスする。

目が合った。

「おはようございます」

「お、おはようございます」

挨拶して素早くすれ違い、清十郎はトイレに駆け込んだ。

谷口だけが、気付いていた。

清十郎は高鳴る心臓を抑えるために10分トイレに籠っていた。


   ◇


翌日も、その次の日も、1ヶ月後も、

窓ガラスの変化に気付く者はいなかった。

谷口は相変わらず日焼け止めを厚塗りしていたものの、

室内で帽子をかぶることはなくなった。

時折、彼女は窓の方をぼうっと見ていることがある。

その横顔が、以前よりも赤みがかかっていないので、

清十郎は得意になっていた。

しかも、そのことに清十郎と谷口以外、誰も気付いていない。

人は表面的なことを気にして、妬んだりいじめたりするくせに、

本質的なことは何一つ見ることはないのだと清十郎は気付いた。

清十郎が本を読むふりをしながら谷口の方を見ると、

はたと目が合う。

清十郎は恥ずかしくなって、すぐに視線を逸らす。

年の暮れ、谷口は職場を退職した。



奨学金を返し終えた時、清十郎は35になっていた。

うつ病の母親は1年前に亡くなった。

死はあっけなかった。

谷口が辞めた職場で今も仕事をしながら、

清十郎は時々死んだ母親を思い出す。

母親の残したものは、汚れた布団とわずかな衣服だけだった。

すべて処分すると、

母親が生きていた名残は地上から完全に失われた。

もし、母親の生きた証があったなら、それは自分だ。

遺伝子を引き継いでいるから。

そして、母親と関わってくれた人々の記憶。

だが、それすらも、時が経てば消え去ってしまう。

人は、生きた証を永遠に残すことなんてできない。

だが多くの人は、残せずに死することを怖がるかもしれない。

その恐怖を克服するために、

人は長い歴史のなかで、死後の世界という概念を作った。

死後も意識を保ち、生者のときと同じように生活できると考えた。

しかし、

物質が支配するこの宇宙で、身体という物質を失った生命が、

記憶を維持し、死後の世界とやらに行って生活するなど、

よほど宗教心がある人間でないと信じないだろう。

では、母親の生と死は一体何だったのだろうか。

意味や価値があったといえるのだろうか。

清十郎は母親が死ぬよりずっと前、

自分が生まれた時から考えていた。

母親や自分はなぜ生きているのだろう。

自分の家が貧乏なのはなぜだろう。

金持ちのやつらは、なんであんなに偉そうなのだろう。

自分は持っていないのに、周りのやつらは皆持っている。

平等なんてものは、この世にはない。

そう考えたとき、1つだけ清十郎はみんなに

平等に与えられているものに気付いた。

死だ。

死だけは、遅かれ早かれ、みんなに訪れる。

清十郎には、それがとても素晴らしいことに思えた。

社会的地位の高い人物になっても、低い人物になっても、

ひきこもりであっても、人類初の発明をしても、

精神病に罹ったとしても、

こどもがいても、いなくても、

結婚しても、していなくても、

金があっても、なくても、

死んだら、みんな灰になる。

灰になって忘れ去られる。

歴史に名を残したような人物でも、

国をまとめるリーダーとなったような人物でも。

人類自体も、第6の大絶滅が起こった折りには、

歴史は全て無に帰す。

その頃には、自分や母親が生きていた証なんてものは、

どこにもない。

生きる意味なんてものは、この世に存在しない。

あるのは、今ここにいる自分が、

どう生きるかを決められるということ。

清十郎は考え抜いて、ひとつの答えを出した。

どうせ死ぬなら、消え去るなら、

自分が正しいと思った生き方をしたい。

谷口が辞めたとき、母親が死んだとき、

清十郎は何もできなかった。

ただの傍観者だった。

清十郎が思うに、傍観者は加害者と同じくらい罪深い存在だ。

自分はおろかで、罪深い。

35にして、清十郎はそれに気付いた。

過去に人をいじめて、嫌がらせをしたことがあるのに、

いじめを題材にしたドラマや映画を見たときに

自分の過去を棚上げして「こういうやつムカつくー」とか

言っているようなやつにだけはなりたくない。

そういう時、過去に勇気を出さなかった自分を

後悔できる自分でいたい。

たった独りで人生を終えたとしても、

金は人並み以下しかなかったとしても、

一生童貞だったとしても、自分の罪を棚上げせずに、

自分で自分を後悔することさえできたら、

きっと清十郎は死ぬ間際になって、

生きていてよかったと思えるに違いない。

「よし。

このくそったれな職場を辞めよう」

清十郎はその日、退職する決意を固めた。



食べること以外趣味がない清十郎には、

貯金がたくさんあった。

これからのことは、これからゆっくり考えていこう。

思い切って引越しをするのも良い。

10年分のほこりが溜まった部屋を掃除していると、

紫から連絡があった。

清十郎はオカルトを信じないが、

人生には転換期の訪れる『タイミング』というものがあると信じている。

精神科の患者には2通りの人物がいる。

医者やカウンセラー看護師の助言を素直に聞き入れ、

どんどん改善していく患者と、そうでない患者だ。

まぁ、これは仕方のないことかもしれない。

助言自体は同じでも、ある患者にとっては聞き入れやすく、

他の患者にとっては聞き入れにくいことがあるものだ。

しかし、助言を聞き入れなかった患者が、

時間を経て聞き入れるようになることがある。

これは何が起こっているのだろうか。

もしかしたら、患者が様々な経験を経て、

以前は聞き入れられなかった助言を、

聞き入れられる状態にまで成長したのかもしれない。

清十郎はこの現象を、『準備が整った』と呼んでいる。

今まで何かと断ってきた誘いは、

今回の『準備が整った』清十郎は受けることにした。

清十郎が職場を辞めたと同時期、

紫も自衛隊の任務中に怪我をして退職したという。

まさに2人が久々に会う絶妙な『タイミング』だった。

紫は女性ウケではなく、どちらかというと男性ウケする男前だ。

「おまえかっこいいな」

素直に口に出すと、紫は照れたように頭を掻いた。

怪我をしたと聞いていたが、

見ている分には紫の様子に違和感はなかった。

2人はすぐ中学生の頃のように話ができた。

カルボナーラは冷めたら不味いので、

気を利かせてすぐに皿に分ける。

「すげぇな」と紫が言った。

「何が」

「怪我のことだよ。

何も聞かないのが」

紫が3口位でカルボナーラを平らげる。

「そんな興味ないし」

言うと、清十郎の背中を紫が肘で押した。

「あれから何人かあったけど、質問責めだった」

「へぇ」

心地良かった。

「俺は訊くぞ。

セイはどうして仕事辞めたんだ」

滅多に自分語りはしないが、紫には話したいと思う。

「人ってさ、結局動物なんだなって・・・」

「UVカットのシートをさ、何回も貼り直して・・・」

長ったらしくて特に面白みのない話を、

紫はよく聞いてくれた。

気付いたら2件目で、すでに午前1時を回っている。

「母親も死んでさ・・・」

店が閉まったので、2人で漫画喫茶に行き、

紫が勧めてきた漫画を早朝まで読み耽った。

早朝に店の前で伝えると、紫が口の端を後ろに引いた。

「なぁ、セイ」

平日の午前中を駅まで歩きながら、紫がつぶやいた。

とても清々しい気分だ。

「何」

「また明日な。

てか今日だけど」

「なんだ、今日も遊ぶのか」

「おう。ちょっと寝たらな。

いいだろ」

「いいよ」

それから2人は、毎日遊び歩いた。

飲んだり、食ったり、ゲームしたり、遊んだり、

酔狂で都内のデートコースを一緒に回ってみたこともある。

そうしているうちに、月が2つになった。

何もかもが変わってしまい、世界に混乱が訪れる。

この時紫と一緒だったのは、清十郎にとって幸運だった。


   ◇


街は未曽有のパニック状態になっていた。

紫と清十郎は歩道の端に寄って、

人の波に飲み込まれないようにした。

すぐ隣に若い女性が、泣きそうな顔でスマホを触っている。

近くで交通事故があったらしく、混乱はさらに強まっていく。

すでに数度、女性やお年寄りが押されて、歩道に倒れるのを見た。

清十郎は自分のことで精一杯だった。

人は、人を助けない。

自分のことばかりで、周りを見る余裕がない。

そんなことは、過去に痛いほど分からされたはずなのに、

目の当たりにすると辛かった。

しかし周囲がどうあれ、自分がどう生きるかは決められる。

清十郎は強い気持ちでお年寄りを助け起こすと、

とりあえず歩道の端に引き寄せた。

何度もお礼を言われるが、清十郎にもあまり

優しく答える余裕はない。

「とりあえず、歩いて俺の家まで行こう」

紫は青い顔をして言った。

過酷なレンジャー過程を修了する程の猛者で、

以前、災害派遣も経験したことがある、

そんな紫でも、この事態に恐怖しているのだ。

「あんなにひどい事故があったのに、警察が来ない。

これは、かなりやばい」

紫の言に、清十郎はぼんやりしながら返事する。

家に着くとすぐにドリンクを渡されたが、

飲んでもまったく味がしなかった。

テレビでは日本でテロが起こっただの、

世界各地で同時多発テロがあっただの、

眉唾ものの報道ばかりがされていたが、

しばらくするとそれも映らなくなった。

次に電気が全て消えた。水道も止まってしまった。

さらに、スマホが使えなくなる。

清十郎はカーテンを開けてベランダに出た。

街は所々で火事が起きている。

轟音や、人の叫び声が聞こえる。

振り返ると、血色のない紫の額が目に入った。


   ◇


放心状態の清十郎の横で、紫がザックに荷物を詰めている。

てきぱきと奥のクローゼットから荷物を根こそぎ取り出して、

必要なものをより分けていく。

作業を手伝ったのか、それともぼうっとしたままだったのか

清十郎は覚えていない。

紫は1本のサバイバルナイフを、

清十郎の目の前に差し出した。

「・・・なに?」

「これは、セイにやる。

俺がずっと使ってたやつだけど」

清十郎はそのナイフを受け取ると、慎重にカバーから出した。

洋画の主人公が持っているような大きなナイフだった。

「これ、違法じゃないか?」

「うん。

でも、お前はこっちの方がいいか?」

紫が黒くて大きな塊をこちらに向けた。

「なにこれ?」

「スタンガン。でも、おかしいんだ。動かない」

電池を変えたがうまくいかない。

「新しいんだけど。・・・壊れたのかもな」

紫がソファの上に2つのスタンガンを放り投げる。

「やっぱいざとなったら、頼りになるのはナイフだな」

紫が神妙な表情を浮かべて言った。

少しだけ休んでから、食料を調達するために2人で外に出る。

その時のことを、清十郎はよく覚えている。

あるスーパーマーケットだった。

蛍光灯の点かない店内は薄暗かったが、

中には商品を少しでも多く略奪しようと、

多くの人が詰めかけていた。

その光景を見て、紫が「どうなってんだ」と

吐き捨てるように言った。

略奪されつつある店内は、ひどいありさまだった。

行政も、警察も、世間体もすべて吹き飛んでしまえば、

最後にはこうなる。

清十郎は緊張に顔を強張らせながらも、

少しだけ清々しい気分になる。

そうだよな。

人って、こういうもんだよ。

陳列棚から、必要な物を取ってザックに詰めていくと、

暗い店内に1つ、気になるものが浮かんできた。

「あ」

それは、黒いセーラー服を着ている女子高生だった。

清十郎は視線を外せなくなる。

女子高生は突き飛ばされたり、悪態を吐かれたりしながら、

なるべく周囲の邪魔にならないように歩いていた。

「あの子はだめだな・・・」

清十郎は乾いた口で呟く。

みんな自分を優先して動いている。

あの子はきっと、ここでは何1つ手に入れられないだろう。

女子高生は踏み潰されたパンを拾うと、

祈るように目を閉じて、人のいない薬局の隅に身を潜めた。

「・・・」

とても美しいものを見た感動と、

それを汚された孤独が清十郎の胸をかき乱す。

清十郎は、いつの間にか歯噛みをしていた。

「くそっ」

潰れたパンに感謝して、隅で小さくなっている

女子高生を見ていると母親の顔を思い出した。

母親はなんの見返りもないのに、清十郎に優しくしてくれた。

父親から迷惑をかけられているのに、ずっと幸せそうだった。

「あの・・・っ」

清十郎は女子高生に近づいて、声をかけた。

紫に呼ばれるまでの短時間で、できうる限りの助言をした。

こんなの自己満足だ。

でも、やめられなかった。

一通り物資を集め終えると、2人は店を出ることにした。

レジの近くで、またあの女子高生を見つけた。

「あ」

清十郎は時が止まったように感じた。

女子高生は財布からお金を取り出すと、

レジの上に置き、何かに祈るように両手を合わせた。

「なにを・・・してるんだよ」

清十郎は、日焼けで真っ赤になっている谷口を思い出す。

感情が爆発して、叫び出しそうだった。


金を払う必要なんてない。

周りを見ろ。

誰もそんなことをしていないじゃないか。

何をしているんだ。

人はそんなもんじゃない。

あなたが思っているような美しいものじゃない。

あなたは損をしている。

自分のことだけを考えて生きろ。

世界はおしまいだ。

今さらだ。

今さらそんなものを俺に見せるのはやめてくれ。


「さっき話してたあの子。

何かあったのか」

帰り道、放心していると、紫が訊いてきた。

清十郎は「ああ」とだけ言い返した。



数日は紫の部屋で何事もなく過ごしていたが、

近くで火事が起こった。

火の位置を確認して、こちらにも被害が出そうだたため、

2人は外に出ることを決めた。

数日の内に、街からは人が消えていた。

「人がいない」清十郎がつぶやくと、紫は笑って

「まるでゴーストタウンだな」と言った。

役所の前を通りがかると、『避難所』と書いてある看板を見つけた。

駐車場に入ると、いくつかテントが張ってあった。

さらに中へ行こうとすると、

「油断するなよ」と紫が鋭く言う。

「どういうこと?」

「買い物の時に、気付いただろ。

もう、いままでとは違う」

紫は、人々が暴徒と化している可能性を言っているのだ。

清十郎はぼんやりとしたまま頷くが、

彼から言われた言葉が頭に入って来なかった。

確かに、紫の言う通りだ。

だけど。

清十郎の脳裏に、あの女子高生の姿が思い浮かぶ。

わからない。

わからなくなった。

「おいっ」

通りがかった役所の前で、紫が声を上げた。

彼はベルトからナイフを素早く引き抜く。

「ど、どうした?」

清十郎は紫の視線の先、

車の陰からこちらを見ている人がいるのを認める。

「わ。

びっくりした」

汚れた黄色いベンチコートを着た男は、

こちらに近づくなり言った。

「食い物をくれ」

眉間にしわを寄せた紫を押し留めて、

清十郎はポケットの中からガム一枚取り出した。

「ああ。

くれよっ」

男は清十郎からガムを取り上げると、

むしゃぶりつくようにして、咀嚼を始めた。

清十郎が紫に肩を竦めてみせると、

ため息をついて彼はナイフを片付けた。

「ここに人はいるんですか」

「たくさんいるぅ。

もっといたけど・・・ああ。

みんな死んじゃった。しんじゃった・・・」

「死んじゃった?」

「うん・・・死んじゃった・・・」

紫が男の肩を掴み「襲われたって、何に?」と訊く。

「や、やめてよう」

清十郎は男が泣きそうな声を出したので、

紫を後ろに下がらせ、

もう一枚ガムを与えてから背中を擦ってやる。

「大丈夫。

怒らないから教えてくれよ」

「ああ。

襲われたのは、あれだよ。バケモンだ」

興奮したように男が言った。

「ばけもん?」

「見たことないバケモンだよ。

狼みたいな、猪みたいな。

飛ぶやつも、でっかいのもいた」

男が清十郎に頬が触れるほど顔を近づけて言った。

男の髪から汗のすえた匂いが漂ってくる。

「それで、他の人は大丈夫?」

「怪我してる。昨日たくさん死んだ」

「他にも、人が集まっているところがある?」

「あるよ!!

そこの通りをずっとまっすぐ行って、

右に入った奥の高校」

ガムが喉に詰まったのか、男が咳き込んだ。

清十郎は男が落ち着くまで、背中を擦ってやる。

「何人かそっちに行ったけど。

でも怖いから」

男はガムを食べ終えると、役所の中へ案内してくれた。

まとめ役になっていた役所の職員は、

災害用の水とパン以外、備蓄はほとんどないと説明してくれた。

一旦外に出ると、紫が「ここは無理だな」と低く言った。

「でも。

何とかならないかな」

紫はため息をついた。

「セイ。無理だ。

動ける人が少ない。じり貧だ」

「・・・うん」

清十郎は頷き、立ち上がった。

また外をふらふら歩いている男へ声をかけると、

清十郎は残りのガムを全部渡し、背を擦ってやる。

彼には多分知的障がいがある。

「そろそろ冬だから。

暖かくして寝るんだよ」

清十郎はじっと男を見てから、笑いかけた。

「う、うん」

男が頷くのを尻目に、紫が長いため息を吐くのが聞えた。

ありがとうございました。

次話はすぐに更新いたします。

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