41話 新章 月子
41話です。
よろしくお願いいたします。
いつも聞こえてくる鈴の音。
綺麗だけど、とても儚げな音。
剣の才を持つ者のみが聞こえてしまう、寂しい音だった。
◇
産土 月子 (うぶすな つきこ)は、
早起きして道着に着替えると、道場の雑巾がけを始めた。
これは毎週土曜日の日課としていることだ。
雑巾をしっかり絞り、木目に沿って丁寧に拭いていく。
1往復すると、雑巾をバケツに入れて濯ぎ、また堅く絞る。
髪の毛や小さな埃が見つかると、
広げたティッシュの上に丁寧に置く。
それを淡々と繰り返していくのだ。
生まれつきとても代謝の悪い月子は、
全ての床を拭き終えても汗ひとつかかない。
わずかに乱れた呼吸を整えながら、バケツと雑巾を片付ける。
次は乾拭きだ。
水拭きの時と同じように端から進めていく。
幼い頃は疲れてくると、体が左右に傾くことがあった。
今はずいぶん下半身が鍛えられ、
そんなことはほとんどなくない。
乾拭きを終えた月子は、道場には不似合いな大きい壺の前に立った。
この壺は、祖父が若い頃に怪しい商売人から買ったという。
当時80万円もの値だったそうだ。
結局騙されたのだが、家長である祖父に
そのことを指摘する者はいなかったそうだ。
今やただの木刀入れになった大きな壺から一本を取り出すと、
月子は正眼に構えた。
最も基本的で、最も守りが強いこの構えを、月子は好む。
切っ先を見つめると、周囲を把握するために開いた感覚が、
こよりのように細く狭くなっていくのがわかる。
構えたままの状態で月子は、しばしの時を過ごした。
やがて月子は静かに木刀を脇に横たえ、
自身も隣に腰を下ろした。
折り目正しく正座をして、うっすらと目を閉じる。
15数える内に息を吸い、また15数える内に吐き出す。
それを4回程繰り返すと、手足に十分な熱が篭ってくる。
月子は無心になる。
4回深い呼吸をすれば、どんなこころ乱されることがあっても、
月子は無心になることができた。
そう訓練してきたのだ。
ふと、鈴の音が聞こえた。
どこかに風鈴を下げているわけではない。
これは月子の脳内だけに流れる音だ。
聞いているとなぜか泣きたくなる、寂しい音。
頬にかすかな温かさを感じた時、遠くで笑い声が聞こえた。
ぼんやりと、外が白んでいるのを感じる。
また先生が、いっちゃってるよ。
こら。先生は集中しているのよ。すごいことなんだよ。
感心するような、馬鹿にするような笑い声が響いている。
その間、月子は立った気もするし、座ったままだった気もする。
木刀を振った気もするし、まだ構えたままの気もした。
「月子」
呼ばれて我に返ると、月子は道場の端に座っていた。
なぜ、この場所に自分は座っているのだろうか。
「月子、またか」
呆れ半分、怒り半分ずつを含んだ祖父の声だ。
「早く立ちなさい」
「はい」
返事をしながら目を上げると、
心配そうにこちらを見ている女の子が、視界に入ってきた。
どうやら待たせてしまったらしい。
「あっ。ごめんね」
謝罪して、月子は素早く立ち上がった。
「ぼんやりするな」
「はい」
練習を始めた後も、離れた場所から月子の横面に、
祖父の厳しい視線が向けられているのを感じる。
ああ、また失敗してしまった。
本当に不甲斐ないと月子は自分を責めた。
練習の合間に、汗を拭くふりをしながら、
今年72歳になる壮健な祖父を見た。
日々鍛えている祖父はとても若々しい。
自分もしっかりしなくてはならない。
ここは曽祖父が作った、築50年にもなる剣術道場だ。
剣術道場といっても、剣術の指導を受けている人は
月子を含めて数人だけで、小学生から中学生の児童に
剣道を教えるのが、道場の主な活動だった。
この道場は、剣道の全国大会に出る実力者を多く輩出しており、
通ってくる子どもは多い。
さらに、地元の有志の寄付によって、最新の冷水機が設置されている。
夏場は暑いので、最新式の空調を設置するという話も出ている。
たくさんの人に認められている、由緒正しい剣術道場なのだ。
それはさておき道場流派の源流は、柳生新陰流といわれている。
月子の先祖は、新陰流で指南役を務めるほどの人物だったそうだ。
家に残っている最も古い書物には、
産土次郎という名前が残っている。
次郎には剣の才覚があったが、
22の年で不運にも稽古中に手首に重症を負い、
道場を追われてしまう。
その後、次郎は農民として生涯を閉じるのだが、
口伝以外の新陰流の技は、脈々と子孫に伝えられてきた。
※新陰流の秘技については、口伝でのみ継承されることになっている。
曽祖父は次郎が伝えた技を絶やさないよう、
自分の代で道場を作ることを決断したのだという。
道場の名前は、曾祖父の意向で『産土剣術道場』と名付けられた。
曽祖父はやがて亡くなり、祖父が跡を継ぐことになる。
祖父は祖母と結婚して子どもができたが、
その後は幾度も死産が続き、
最初にできた月子の母だけが唯一の血筋となった。
跡取りに恵まれなかった祖父は、ずいぶん嘆いたらしい。
だが、母が父と結婚して月子と妹の陽子が生まれると、
祖父は嘆くことをやめたそうだ。
月子と2つ年下の妹である陽子は、
幼いころより祖父から剣術を学んだ。
小学生に上がると陽子は、他の子に交じって剣道を始めた。
人中に入るのが苦手だった月子は、
剣道はやらずに、祖父の教える剣術を続けていた。
根暗な月子と対称的に、妹の陽子は明るい性格で、
太陽のようにいつも周囲を照らしていた。
やがて陽子は家族の期待、祖父の期待に応えて、
中学生の時全国大会で優勝した。
実力は他を圧倒していた。
才能と仁徳のある陽子に対して、嫉妬を抱くことは一切無かった。
彼女には、嫉妬の念すら抱かせない輝きがある。
格が違うのだ、人としても剣士としても。
陽子の輝きの裏側にある、日陰の存在として静かに月子はいる。
それで良しとした。
そんな月子に、陽子は長年良き妹、良き友でいてくれた。
小さな頃、近所の子どもに朗らかな陽子と比べられて
からかわれていた時には、
「本気を出したら、あたしより姉ちゃんの方が強いんだぞ」
と言って庇ってくれた。
黒いシャツとジーパンばかり着ていると、
買い物に連れ出して、女の子らしい服を選んでくれた。
高校生になると、陽子は都会にある剣道の強い高校に、
スポーツ特待生で入学した。
月子は寂しかったが、陽子の夢を叶えるためだと応援することにした。
陽子は部活内で右に出るものはおらず、
1年生の時から大会で優勝するという大活躍だった。
月子はというと、剣道のある高校に通っていたものの、
部活はずっと帰宅部で、帰ってから剣道教室を手伝う
という毎日を送っていた。
一緒にお弁当を食べる程度の友人は居たが、
暗い性格の月子はうまくなじめなかった。
そんな月子の楽しみは、
妹の活躍を『剣道通信』で見ることだった。
陽子は日本中の剣道ファンから注目されている選手で、
2月に一度刊行される本誌には必ず記事になっていた。
高校入学した時には、雑誌の表紙になったこともあった。
ちなみに記念すべきその号を、
月子は5冊買って大事に保存している。
陽子は強さ、優しさ、そして美しさを兼ね備えていることから、
男性ファンより女性ファンが多い。
短く切りそろえた前髪の下にある、明るくまぶしい笑顔。
自分には陽子みたいな髪型にする勇気はない。
月子の前髪は、他人の視線から隠れるためにいつも長かった。
陽子は年末に帰省すると、月子の髪を見て、
「長い!!
月姉は美人なんだから、顔を出さないと」と言った。
年末年始、陽子は道場の看板として、
祖父と一緒にいろいろなところに挨拶回りに行った。
長女なのに、挨拶回りに誘われすらしなかった月子を、
陽子は貴重な休みを使って外に連れ出してくれた。
陽子は底抜けに明るいが、繊細さも持ち合わせている人だった。
その折は、月子高校3年、陽子高校1年。
月子は高校を卒業したら、近所の専門学校に進学が決まっていた。
道場の手伝いに専念しても良かったのだが、
母がそれを止めて、進学を勧めてくれたのだ。
慣れ親しんだ道を歩きながら陽子が言った。
「月姉は、私と違って頭が良くて、綺麗で、
強いんだから。もっと自信を持ってね」
否定すると、陽子は急に真面目な顔になった。
「私、嘘嫌いなの知ってる?
思わないことは言わないから」
圧倒されて黙していると、「お願い」
そう言って妹は頭を下げた。
「え・・・。
なんで陽子ちゃんが」
慌てて肩に触れて顔を上げさせると、陽子は頬を赤くさせていた。
「お願いだから」
切実な表情の陽子を見て、月子は戸惑う。
そして不謹慎にも月子は、彼女の目映さの裏に影があるように感じた。
頭に鈴の音が響いてくる。
陽子はなぜあんな表情をしたのだろうか。
月子が度々回顧しても、決して答えはわからなかった。
もし、月子が陽子の気持ちを察することができたなら、
太陽のような笑顔が消えることはなかったかもしれない。
姉妹がその後、決別することもなかったのかもしれない。
しかし、その時はどうすることもできなかった。
ありがとうございました。
次回は来週末に更新する予定です。
参考文献
『 剣豪と戦国時代 柳生宗矩と新陰流の極意』
『兵法家伝書 新陰流兵法目録事』
『柳生十兵衛七番勝負 』
『剣道時代』 2冊ほど




