32話 結希 葵 中編
32話 中編です。
よろしくお願いいたします。
散々食べて数時間寝たら、結希はすっかり元気になっていた。
直後に筋力トレーニングを始めようとする結希を、葵は慌てて止めた。
「あれだけ酷い怪我をしてたんだから、
しばらく大人しくしてなさい!」
言うと彼は、困ったように頭を掻きながら笑顔になった。
結希がトレーニングをしないよう注意しながら、昼食の準備を始める。
メニューはハンバーグとスパゲッティだ。
「あ、こらっ」
気が付いたら腕立て伏せをしている結希に釘を刺す。
「もう治ったよ。全快全快」
「だーめだって言ってるでしょうが」
葵が倉庫から見つけてきたカセットコンロとフライパンを使って調理していく。
「すごくいい匂い」
油が無いので少し焦げてしまったが、それを含めておいしそうだ。
「冷めないうちにどうぞ」
結希の分を渡して、葵は自分の分をフライパンに乗せる。
「待ってます。一緒に食べましょう」
「え。ちょっと時間かかるよ?」
「いいんです」
「いいから先に食べてよ。
ほ、ほら、三毛と虎はもう食べてるし」
葵は慌てて三毛と虎を顎で示す。
結希は仕方なさそうに食べ始めた、と、思ったら皿を持って葵の傍に来る。
「はい・・・あーん」
スプーンに乗せた一口大のハンバーグを差し出される。
「え・・・ちょ・・・」
結希の目を見る。
彼はただ笑顔を続けながら、ハンバーグを少し揺らした。
このままでは、ずっとこの状況が続いてしまう。
観念した葵は結希のハンバーグを食べた。
「・・・おいしーい!!
食べたら、お腹空いてきた」
葵がそう言うと、結希はとっても嬉しそうにした。
いつの間にか、結希が調理を始めてしまい、
葵が食べる側にまわっていた。
ベンチについた彼女の隣に、三毛と虎がやってくる。
2匹はハンバーグには興味がない様子で、
各々が好きなものを食べていた。
三毛は乾燥椎茸で、虎は何かの実だ。
「虎さんの食べているのは何ですか?」
結希が言うと、虎が立ち上がり、彼の口にひとつ放り込む。
「や。虎っ。だめよ。変なもの食べさせちゃ」
葵が狼狽えていると、結希が少し顔を顰めた。
「うわ。すっぱい。でも、おいしいですよ」
<当たり前にゃ。おいしいにゃ>
結希が言うと、虎が嬉しそうに鳴いた。
「葵さんもひとつ食べたら?」
<葵も食べるにゃ>
「いやよ。どこで拾ってきたのかわからないし」
調理を終えた結希が、三毛の横に座ると、
三毛は遠慮して結希に葵の隣を譲った。
2人と2匹には狭いベンチなので、結希と葵は体をくっつけざるをえない。
「・・・お、おいしいね」
顔面が熱くなり、それを結希に知られないか心配になる。
「おいしいですね」
結希が空を見る。暖かい日差しだ。
「いい天気ですね。暑すぎず、寒すぎず」
「うん・・・」
銀が屋上の隅から姿を現す。
近くに上り下りできる場所はないので、
壁面を駆け上がってきたのだろうか。
葵が手を振ると、銀は興味なさげにしながらも
ゆっくりとこちらに歩いてきた。
銀がひとつ吠えると、三毛が頷く。
<風上の方向に外敵がいるそうです。
でも、かなり離れているから問題はないかと>
「そう。銀ちゃん、ありがと」
腰を浮かしてこちらを見ていた結希に事情を説明する。
「銀さんが教えてくれたんですか?」
「いえ。銀ちゃんは私に話してくれませんから。
銀ちゃんの様子を見て、三毛が教えてくれるんです」
「そんなことができるんですね」
「はい。匂いとか仕草とかで、分かるそうです。
でも、私には難しくて。
ちゃんと分かり合えたらいいんですけど」
銀は葵の従者となったが、完全にこころを許したわけではない。
ただ、必要な時は助けてくれるので、敵というわけでもない。
銀はこちらに歩いて来て、少し離れたところで体を伏せた。
この距離が、葵と銀の距離だ。
葵が銀を見ていると、はたと目が合う。
手招きをするが、そっぽを向かれてしまう。
「つれないな・・・」
銀は他の外敵とは一線を画す力を持っている。
力関係は圧倒的に銀が上だった。それなのに、銀は葵の従者となった。
奇跡的としか思えない巡り合わせがあったからだと、葵は思っている。
自分の存在は、銀と比べてあまりに小さい気がする。
だから、いつまで経っても互いの立ち位置が定まらない。
自分がしっかりしなくてはならないのはわかっていたが、
どうしたらいいのかわからない。
苛立ちがふつふつと胸を満たし始めた時、
「銀さんは、一匹狼だったんですね」
軽く肩をたたくように声をかけられて、葵ははっとした。
「え・・・うん。
そうだったみたい」
「やっぱり。だから
急に仲間ができて戸惑っているんです。きっと」
「そうかな」
「そうです。きっと」
「そうなのかなぁ・・・」
不思議と肩から力が抜ける。
結希の言葉には、葵の怒りを緩ませる力がある。
◇
結希は、隣に座っている葵を見た。
彼女は嬉しそうに食事を続けている。
目が合う。
琥珀色の瞳がわずかに曇る。
『真実を見通す目』を持つ葵には、たくさんのことが見える。
見えるせいで、たくさんの悩みを抱えているのだろう。
葵の視線の先を追うと、銀がいた。
銀が顎を地面につけて、ゆっくりと腹を上下させている。
リラックスしている証拠だろう。
結希は視線を戻して、また葵を見た。
水筒に入れたお茶をすすめてくれる。
受け取ろうとした結希の目の前を、高速で何かが通り過ぎていった。
まず左を見て―――こちらには何もない―――だからすぐに右を見た。
眼前に、飛来する鋭利な石が見えた。
結希は仰け反りながら掌でそれを弾き飛ばす。
「葵さんっ」
追加の飛来物が何なのか確認する前に、葵へ覆いかぶさる。
軽快な打撃音の後、一拍遅れて、三毛の盾に守られたのだとわかる。
さらに向かって来た追撃に向かって、結希は手を出した。
鋭利に削られた石が、掌に刺さるのを感じながら立ち上がる。
腹に溜まった空気を抜きつつ、『雷獣』を身に纏う。
突如、視界の真ん中と左右から、武装した鬼が現れた。
銀のおかげで外敵は近付けないはずだ。
それに、こいつらはわざわざ獲物を探して、
壁面をよじ登って来たのだろうか。
「!!」
それぞれの鬼には、肩と首、胸に大きな腫瘍がついていた。
腫瘍があるということは、弟神ミーミルの手先だ。
それならば、鬼達がわざわざ壁面をよじ登ってやってきたのもうなずける。
もう一度息を吸い、全身に力を漲らせる。
先程こちらに向かって石を投げたらしい鬼が、大きく振りかぶって投擲した。
結希は、石の軌道を読んで掴み取る。
鞭で叩いたような音が辺りに響き渡る。
手の皮が剥けて、指の隙間から血がしたたり落ちた。
「結希っ。手が」
「大丈夫。
葵さんは隠れてください」
唖然としたまま座っている葵から一歩離れると、助走をつけて石を投げ返す。
肩と肘から雷光が煌めき、手から放たれた石は雷のごとく
前方へ向かった。
一度地面に当たり、跳ね返った石は、
鬼の胸部へ激突し、粉々に砕け散る。
火薬が爆発したような音がして、鬼が後方へよろめく。
こちらへ迫ってきていた鬼達が動きを止める。
結希は、平素であれば鬼達を一瞬で始末してしまっていただろう銀へ、
視線を向けた。
彼は痛みに耐えるようにうずくまったまま動かない。
腫瘍のある外敵が近付いてきたせいで、
銀の腫瘍が影響を受けて動けなくなったのだ。
もう一度息を吸って、吐く。
吸って、吐く度に、身体がより強く生まれ変わるような気がする。
なぜだろうか、今の結希は万能感に満たされていた。
「今日は、調子いいな」
何が自分を変えたのだろう。
結希は飛来する石を受け止めた手を見る。
あんなに高速で飛んでくるものを、どうやって受け止めることができたのだろう。
ただの偶然だったのかもしれない。
だがこの偶然が、結希のこころと体に化学反応を起こした。
葵というこころの支えを得たこと、
今まで抑圧してきた記憶や情動を明らかにしたこと、
生き残りをかけた戦いの日々、
『トールの雷』と『困難を与えられる度に強くなる体』、
それらが混ざり合い、こころに大きな力動を生み出す。
その結果、結希は、「もしかしたら、できるかも」と思った。
たったそれだけのことが、結希を大きく変える。
今まで存在しなかった脳内の、「自分にはできる」という回路は、
今の間にも高速で行き交い、強度を高めていく。
様々な可能性を、結希のこころと体に刻んでいく。
「もう少し下がって、
三毛さんと虎さんに守ってもらって下さい」
「ゆ、結希は?!」
「まずは、銀さんを助けます」
三毛と虎が回避行動へ動き出すと、それを見た鬼達が咆哮した。
結希は『雷獣』で強化した肉体をフルに使い、高速で駆け出す。
銀に向かって斧を振り下ろそうとする鬼に、思いっきり前蹴りを放つ。
体重の乗った蹴りが鬼の鳩尾にめり込んだ。
左右から咢のように迫って来る強靭な爪を確認して、
結希は蹴りを入れた鬼をもう一度蹴りつけて、空中へ逃れた。
致命の一撃を躱された2匹の鬼は、
互いに体をぶつけ合って蹈鞴を踏んだ。
「遅いっ」
今の結希にとって、鬼達の動きは遅すぎた。
身を翻して着地後、間合いを詰めて雷を流し込む。
氷に亀裂が入るような乾いた音がして、2匹の鬼が硬直した。
「銀さん。
葵さん達のところへ」
銀が葵の方へよろよろと歩いて行くのを見届けると、
結希はさらに雷を鬼へ送り込んだ。
鬼の瘤はすぐに破裂して、まるで毒液のような血をまき散らした。
雷は瘤を突き抜けて脊髄を蹂躙し、次いで脳を燃やし尽くす。
その間に、結希は鬼の数を確認していた。
残り4匹だと思った結希の視界に、5、6匹が入り込んでくる。
波状攻撃をすることで、不意打ちを狙うつもりだったのかもしれない。
「やっかいだ」
小鬼なら問題はなかったが、相手は鬼で、しかも瘤つきだ。
結希は戦況が少し厳しくなったと思った、が、焦りはない。
<あなたは『麒麟』の一端を先程見せました。
意志に関わらず、雷の力のみで肉体を動かしたのです
生物は見てから反応するため、動き出すまでに時間が必要となります。
ただし、『麒麟』を使えばその時間は必要なくなります。
使いこなせば、まさに疾風迅雷のごとき素早さを得ることになるでしょう>
フォルトゥーナが何を言っていたのか、
あの時はわからなかった。
だが、今は少しだけわかる。
結希はこころに生じた、「もしかして、できるかも」を拡大させた。
数匹の鬼を前にした結希は、身体から『雷獣』を消した。
本来なら致命的な行動だが、
それこそが結希を飛躍させるためのカンフル剤だった。
『雷獣』の消失を好機とみた鬼達が、幾重もの剣戟を放つ
結希は後ろに跳ぶことで、余裕をもって躱した。
一見すると、ただの回避行動だ。
それに、『雷獣』を使った時のように素早く動いたわけではない。
鬼達が躍起になって、次々と獲物を振りかぶって来る。
結希はまるで、あらかじめ鬼達の動きを予測しているかのように、
すべてを躱していった。
数十のやり取りを無傷で終えた結希を見て、
瘤つきの外敵達が困惑した様子を見せる。
無理もない。
結希自身、己の成し遂げたことに、驚愕していたのだから。
◇
結希は今まで『トールの雷』を使ってきた経験から、
雷を外敵の体内に流し込むと、その肉体が不随意的に動くことを知っていた。
不随意的に動くのは、外敵だけではない。
結希自身の体も、『雷獣』を使う時に、不随意的に動くことがあった。
だから、それを利用したのだ。
結希はまず、後ろに跳ぶという命令を刻み込んだ雷を、
身体のいたるところに潜ませた。
雷は結希が危険を察知したと感じた瞬間に、
炸裂するようにあらかじめ作られている。
鬼達が動き出し、結希が危険を察知すると、
結希の意志とは関係なく、雷が体内で炸裂し、
結希の体は不随意的に回避行動をとることになる。
結果、結希は視覚や聴覚、嗅覚が危険を察知した瞬間に、
あらゆる判断や感情を抜きにして、
回避行動をとることができたのだ。
「できた」
フォルトゥーナの言った通りになったのかわからないが、
これが結希なりの『麒麟』だ。
結希は『麒麟』へ、さらに手を加えていく。
相手の攻撃がまっすぐに突くような攻撃だった時、
後ろに逃れる方法は相性が悪い。
だから、そういう時は左右に躱すようにする。
逆に、相手が横薙ぎに打ち払うような動きだった場合は、
左右に逃れるのは相性が悪い。
そういう時は後ろへ逃れるようにする。
相手の攻撃方法に合わせて、
数通りの動きをプログラムした雷を体内に溜めこんでいく。
それが『麒麟』にはそれが可能なのかわからなかったので、
結希はとりあえず可能なことにした。
思えば至るのだと自分に、思い込ませる。
鬼が獲物を突き出してきた時、結希は左に回り込み、
鬼が回し蹴りを放ってきた時、結希は『麒麟』で後ろに跳んで躱す。
できた。
「よし」
結希は相手の攻撃が何なのか見た瞬間に、
判断を挟まずに動き出して、全てを躱していく。
『麒麟』によって、「人知を超える動き出しの速さ」を得た結希は、
敵中にあって安全地帯を手に入れたようなものだった。
結希はさらに、回避行動の後に相手の体に触れる、
という動きをプラスさせた。
結希の『麒麟』が鬼の必死の乱舞を躱しながら、体にタッチしていく。
これを満足するまで繰り返すと、
結希は『雷獣』を使い、鬼の囲いから外に飛び出た。
「・・・ふぅ」
『麒麟』で動き回っていた結希は、切れた呼吸を整える。
だが、『雷獣』を連続使用している時よりは、かなり疲労が少ない。
「結希っ! 大丈夫?!」葵の声に結希は手を挙げて見せる。
『麒麟』で回避行動をしたあとに、敵の体に触れるのは問題なくできた。
次は、その時に反撃をしてみよう。
相手に囲まれながら戦うことを想定して、
雷を流し込む時間は短くした。
ダメージを蓄積していけば、瘤はいつか破裂して使い物にならなくなる。
このまま『麒麟』を繰り返すだけで鬼達を倒せるはずだ。
「よし」
再び戦いが始まった。
結果として、結希の思う通りに事は進んだ。
『麒麟』は正確無比に鬼の仕掛けを躱し、反撃の雷撃を見舞っていく。
相手に与えるダメージは少しだが、繰り返すことで蓄積していく。
鬼の半数が倒れた時、銀が咆哮した。
結希は鬼の攻撃を『麒麟』で躱しながら、周囲を確認する。
「結希っ。トロルが来る!!」
離れた場所にいる葵から警告が飛んでくる。
トロルとは前にスーパーマーケットで会った、あの巨大な外敵だ。
あいつは『麒麟』で対処可能だろうか。
そうだったとしても、鬼とは膂力も大きさも違うので、
『麒麟』を組み立て直す必要がある。
まだ鬼が数匹残っている状態で相手にするには、厄介な相手だ。
配送センターの階下から、何かを削る重機のような音が響く。
音のする方向を見ると、巨大な手がフェンスに手をかけているのが見えた。
フェンスがぐにゃりと拉げると、代わりにトロルが顔を出す。
「鬼は三毛と虎に任せてください!」
まるで結希の迷いを汲み取ったように、葵が叫んだ。
結希の元に、三毛と虎がやってくる。
待機中、2匹はストレスを溜めていたようで、
いつもよりはしゃいでいるように見えた。
結希へ打撃を見舞おうかとしていた鬼が、
虎の槍に貫かれて絶命する。
「助かった。
2人に任せます」
三毛と虎が、うんみゃーと鳴いた後、
さらに苛烈に鬼達へ仕掛けていく。
鬼達から解放された結希は、すぐさまトロルへ向かった。
死んだ鬼の落とした手斧を拾い、巨体の正面まで躍り出る。
『雷獣』を使用し、全力で手斧を投げつける。
距離が近かったことと、トロルが巨大であったことから、
まさに必中の手投げ斧だった。
しかし、トロルは巨体からは信じられない素早い動きで
身を屈めて、斧を躱す。
トロルがモップのような眉をひそめて、結希を凝視する。
初撃は躱されたが、こちらに注意を向けさせることには成功したようだ。
「こっちだ!」
結希が大声で叫ぶと、間髪入れず巨大な掌が振り下ろされた。
『雷獣』から『麒麟』へ切り替えていたのでどうにか躱せたが、
まさに紙一重の回避だった。
全身から冷や汗が吹き出し、肺が強張る。
間髪入れず振り回した腕頭が結希を襲ってくる。
まともに当たれば致死の一撃は、身体には触れなかったものの
来ていたパーカーに引っかかった。
「うあ」
結希の体が一瞬浮いたと思ったら、そのまま一回転した。
上手く受け身も取れないまま、肩と足をついて地面へ落ちる。
落下の衝撃は、脳の芯にまで届いた。
「うう」
景色が3度周回したところで、結希は正気に返る。
まずい。追撃が来る。何としても躱さなくては。
すぐに『麒麟』から『雷獣』へ切り替える。
両手を組み合わせてハンマーを振り下ろすようにして
放たれた一撃を、結希は闇雲に飛び上がって躱した。
トロルに砕かれたコンクリートが、
まるで爆薬を使用したかのように砕け散る。
着地した結希は、右足に生じた強烈な痛みと違和感に舌打ちをする。
折れているか、腱が切れたか。
倒れた状態から飛び上がるほどの力を使ったのだから、
当然といえば当然だろう。
左足だけに体重を乗せて立つと、今度は眩暈がした。
まだ頭部に受けたダメージが抜けていない。
敗色濃い状況だったが、
結希の脳は生き残るために思考を止めなかった。
体力差と、結希のダメージから考えるに、
ここからは『雷獣』を使わず『麒麟』一本で戦い抜くしかない。
その為には、今すぐトロル専用の『麒麟』を作り上げる必要がある。
結希は初撃と二撃目の動きから、トロルの行動パターンを予想する。
それをもとにして、自分がするべき行動を『麒麟』へ込めていく。
負傷した右足を含めた行動にするのを忘れていた。
結希の頭はパニック状態になる。
「くそ」
思考の途中でトロルが飛びかかって来た。
鉄球のごとき拳が直下し、
結希と辺りの空間を押しつぶさんと叩きこまれる。
しかし、運のいいことにトロルが放った縦方向の攻撃は、
回避するために移動する距離が短くて済むため、
右足を負傷した結希でも回避しやすかった。
結希は『麒麟』でもって拳を躱し、そのまま距離を取った。
目の前で起こった奇跡に感動する暇もなく、
結希は思考を始める。
トロルの動きは、結希が思ったよりも直線的で直感的だ。
真っ直ぐで直感的な追撃を結希は避ける。
その動きをもとにして、『麒麟』がさらに更新される。
躱した時のトロル動きを見て、『麒麟』をより良く作り変え、
それで躱せれば、さらに『麒麟』を作り変えていくのだ。
だが、万全を期すなら見ているものだけでは駄目だ。
動きを先読みして、こちらから罠を仕掛けるくらいの気持ちで、
回避し続けるのだ。
やがて、巨大な質量が頭部の横を通過しても、
死の恐怖は湧き上がらなくなる。
何度も何度も変えて、その度、何度も何度も生き延びた。
結希はまるで生死を繰り返しているようだった。
結希は生と死に、没頭しはじめた。
今は没頭こそが、結希に生を与えてくれる。
結局のところ、生き延びるためには、
今この瞬間を必死になる以外にない。
生と死の狭間において、ふと思いつく。
生きるために必死なのは、みんな同じだ。
すべての生き物が、みんなそうなのだ。
もしかしたら、父親も、母親も、自分を裏切ったあの人も、
そうだったのかもしれない。
『麒麟』が身の内で繰り返し起こす小爆発は、
結希の脳内にまで及んだ。
その爆発が、結希の世界を壊していく。
結希はそれを喜んだ。
壊した後には、作る喜びがあるからだ。
積み木を作るように、1つずつ丁寧に。
結希が今組み替えているのは、
『麒麟』なのかそれとも自分自身なのか。
猛然と向かってきたトロルの拳を側面から押して、
軌道をずらす。
高速の物体は少しの衝撃で、軌道を左右される。
乱れた呼吸を整えて、さらなる追撃に備えていると、
トロルの動きが止まった。
体力が尽きたのだ。
今の内にトロルの攻撃によって、
砕けたコンクリートの位置を把握していく。
足元の状況まで含めると、『麒麟』に組み込んだ回避パターンは
数百を超えていた。
いつの間にか、こんなにも『麒麟』が蓄積している。
トロルも、自分も疲れるはずだ。
結希は迅速に数百ある回避パターンへ、雷での反撃を追加する。
鬼の時にやった手法と同じものだ。
勝負を焦っているつもりはないが、
動きを最小限にしてあるとはいえ、
そろそろ終わらせなければ、こちらの体力も尽きてしまうのだ。
トロルが動いたのに合わせて、結希も前へ出る。
躱して反撃まで、あまりに滑らか過ぎて、
結希ですら目で追えなかった。
肩と肘と手首に燃えるような雷を溜めこむ。
溜めこんだ雷は、心臓から血潮のように生み出されていく。
命を削って作り上げて『トールの雷竜』一発分の力を、小さく凝縮していく。
それが爆発的な力を生むと、結希はわかっていた。
伸ばした上腕と前腕は、
さながら龍を加速させるための滑走路といえる。
トールはやや緩慢な動きで結希の身体を
挟み込もうと両手を伸ばした。
だが、その腕はさらに一歩踏み込んだ結希の後方で虚しく交差する。
結希が『トールの雷竜』に結び付けていた首輪を外す。
身体の内部で太いゴムが弾けるような感覚があった。
水鉄砲のように吹き出た竜が、意志をもつが如くに咆えた。
竜は結希の手の中で跳ねまわり、
少しでも油断すれば、四方八方へ飛び出しかねなかった。
「い・・・いけっ」
怯まず『トールの雷竜』を押し出す。
結希は願う。
いけ。
こころの叫びに呼応するように、
竜はトロルの内部に侵入し、
一縷の望みを残さず、殺戮の限りを尽くした。
雷を吸収する役割を担っていたあの瘤ですら、
『トールの雷竜』はついでのように噛み千切る。
心臓を食い荒らし、脳を蹂躙した竜が一瞬だけこちらを見た。
竜の確かな意志を感じて、結希は動揺した。
竜はひとつ鳴くと、天に向かって登っていった。
天に昇ってなお、力を持て余した竜は
元気そうに空中で轟音を立てて霧散した。
トロルは死に、生き残った結希はゆっくりと膝をついた。
ありがとうございました。
この辺りは2年前くらいに書いていたものですが、
とても拙い文章だなぁと思います。
少しずつ良くなりたいです。




