32話 結希 葵 前編
32話は長くなりましたので、編分けしました。
よろしくお願いいたします。
結希は深夜に目が覚めた。
早くに寝るといつもこうなる。
結希の睡眠時間は、日に日に短くなっていた。
『困難を与えられるほどに強くなる肉体』のせいで、
寝なくても、少し休むだけで体力を回復してしまうのだ。
布擦れを極力させないよう、静かに起きる。
この動作も最近は慣れたものだ。
結希は水音のする方に向かって歩いた。
噴水の池に手が触れると、数回飲んだ。
ホールは噴水自体の輝きのおかげで、うっすらと明るい。
壁伝いに、搬入口を目指して歩く。
途中で大きなものが動く気配がして、結希は足を止める。
銀だ。
銀は結希だと気付くと、また動きを止めて静かになった。
敵ではないと分かっていても、
結希は銀を前にするといつも緊張した。
ゆっくりと、銀の傍を通り過ぎる。
「ふぅ・・・」
ようやく搬入口から外に出られた。
戸締りを確認しているとき、いつもの声が聞こえてきた。
小さな子どもの声が、ゆっくりと数をかぞえている。
「うるさいよ・・・」
心臓の高鳴りを、息を止めて抑える。
結希はこの不気味な声が、聞こえないふりをした。
途中にある警備員用の詰所に入り、
形が歪んで据わりの良くないパイプ椅子を手に取る。
配送センターに面している道路まで出ると、
視界に収まらない程の大きな星空の下に椅子を置いて腰かけた。
空がいつもより近い。
そのせいか、星がよく見えた。
すぐそばを流れる川から、せせらぎが聞こえる。
静まり返った街の影と月、そして自分だけがここにいて、
その他にはなにもないようだった。
自分達以外の生物は、何もいなくなってしまったのかもしれない。
こうしていると、気持ちが落ち着いた。
しかし、相反する感情が浮かんでくる。
静寂を引き裂きたくなるのだ。
そうだ、大きな雷を落としてみようか。
とびきり、大きいのがいい。
そうすれば、みんな元通りになるかもしれない。
だが、それはきっと叶わない。
何もかも、すべて壊れてしまったのだから。
いつだったか、結希は
全人類の存在価値がフラットになれば良いのに、と思ったことがある。
もしそうなったら、自分の抱える問題や感情や、
その他何もかもが、くだらない小さなことだと思える気がしたのだ。
だが、そんなことはない。
現に今、何もかも壊れてしまった世界で、
結希は未だに過去を引き摺っている。
そして、これからの未来を迷っている。
どんな世界に行ったとしても、自分は自分なのだ。
しかしそんなことで、乗り越えられるだろうか。
葵を守っていけるだろうか。
結希は星々に問うてみた。
これからどうすれば良いのだろうか。
自分達以外、誰も生き残っていないのだろうか。
神は、結希達をどうするつもりなのだろうか。
当然返事はない。
考えれば考えるだけ、背中が重くなってくる。
最近、結希はストレスから背中の痛みを感じるようになっていた。
「ああー。駄目だ・・・」
両手で頭を抱えた時「どうしたの?」
声に驚いて振り向くと、葵がいた。
「びっくりしたっ!」
「ご、ごめんね」
目尻を下げた葵が、両手を合わせて謝った。
彼女の隣には、面倒くさそうな顔をしている銀がいた。
「あ。
こちらこそ、起こしちゃって」
「いえいえ。
まだ、慣れてなくて、目が覚めちゃったんです」
離れてはいるものの、結希と葵は同じホール内で寝ている。
もしかしたら、葵は同じところで男性が寝ているのは
落ち着かないのかもしれない。
ああ。そんなことにも気付かなかったなんて。
結希は自分を責めた。
「ごめんなさい。葵さんの布団は別の所に
準備しましょうか?」
結希が言うと、葵が不思議そうな顔をした。
「え・・・なんで?」
「本当に気付かなくてすみません。
僕、男ですし。葵さんに気を遣わせたんじゃあ」
「そんなことないってば。
で、でも確かに、よく考えたら、そうかぁ・・・確かに」
葵が隣にやって来て、地面に座った。
「あ、葵さん。椅子、座りますか?」
「いい」
結希は落ち着かないので、
パイプ椅子から降りて地面に座った。
「そういうとこ」
「はい?」
葵はふっと、目元に笑みを浮かべた。
「私は、一緒に寝ても大丈夫っていうか。
その方が、安心できるっていうか。
だから、このままでお願いします」
「そ、そうですか・・・」
「そんなことより、星が綺麗ですねぇ」
葵が両足を投げ出して、大の字になった。
短パンから危ないくらい足が伸びている。
結希は慌てて目を逸らして上を向いた。
しばらく2人で星空を見ながら、川のせせらぎに耳を傾ける。
「生きている人、いるんでしょうか」
せせらぎに溶け込んでしまいそうな小さい声なのに、
すぐ返事をするにはあまりにも重い、葵の問いだった。
結希は慎重に口を開く。
「もしかしたら、いるかもしれません。僕達みたいに」
それ以外、適当な言葉が見当たらなかった。
「そうですよね。
こんな私ですら、生き残ったんだから」
葵は謙遜というより、自嘲するように言った。
結希は小さく首を振って否定したが、何も声には出さなかった。
自分自身、葵と同じ思いだったからだ。
「佐藤さんは、誰か心配な人がいるんですか?」
結希は両親のことを少し考えてから、首を振った。
結希が安否を気にするような人は、この世界にはいない。
目の前にいる、葵以外は。
「いえ・・・僕は」
葵はこんな返答をした自分を、軽薄な人だと思うだろうか。
急に心配になってきて、結希は慌てた。
「葵さんは、ご家族ですか?」
「いえ」
風船の糸を切るような言い方で、彼女は言った。
「図書館の司書さんと、学校の先生です」
「学校・・・」
無意識に眉を顰めた自分に気付く。
結希自身、学校にはあまり良い思い出がない。
「本当に良くしてもらって。
だから、無事だと良いなぁって」
葵が話している間、良い出会いというのが、
自分にもあっただろうかと考えてみた。
「ああ、思い出した」
口が勝手に動いていた。
「僕にも、ひとつだけ」
月夜に照らされているだけなのに、
明るい色で光っている葵の目を見た。
「こころ残りがあります」
結希が無意識に作ってきたこころの壁は、
葵の前では不思議ととけて消えてしまう。
結希は、もう一度人を信じても良いと思うようになっていたのだろうか。
それとも、裏切られても、葵ならば構わないと思ったのかもしれない。
「祖母が、田舎で一人暮らしをしていたんです。
少し前に亡くなったのですが、
祖母が暮らしていた家も庭も
ほったらかしなので、ちょっとだけ気になっています」
言うと結希は月を見上げた。
大した話じゃない。
それなのに、痛いほど鼓動が高まる。
「いつか、行きましょう」
「え」
「いつか、おばあちゃんの家。見に行きましょ」
胸が暖かくなっていく、今の感覚を味わうために、
結希はしばらく返事をしなかった。
そして「ありがとう」と結希が言うと、
月明かりの下で葵が笑顔で頷いた。
「でも、その前に、学校かな」
「え」
「葵さんの学校の方が、ここからは近いですから」
葵が手を顔の前で振った。
「でも、ここから行くとなると、けっこうですよ」
「今は銀さんも、三毛さんも虎さんも、
みんないますから、平気だと思います」
言い終えると、葵がじっとこちらを見た。
「ふふふっ」
「な、なんですか?」
いたずらっぽく首を傾げて、葵が笑った。
「なんでもないです。
でも、ここでの生活がちゃんと落ち着いてからでいいです。
いろいろ考えることもあるし、無理しない方が良いと思うんです」
葵が立ち上がり、背伸びをしてからこちらを振り返った。
月を背景にした彼女が、胸が痛くなるくらい美しい。
結希は返事の代わりに、出来るだけ自然に笑って見せた。
◇
今や葵は、正面から結希を見つめている。
今ならあのことを言えるかもしれない、と葵は思った。
「あの」
不思議そうな顔をして、切れ長の目がこちらを見る。
「伝えたいことがあるんです」
奥歯を噛んだ葵を見て、結希が神妙な面持ちになる。
「なんですか?」
「佐藤さんは、フォルトゥーナ様から
力の使い方を聞いたんですよね?」
「は、はい、それがなにか」
重要な話だと思ったのだろう、彼はわずかに身を乗り出した。
葵は毅然として頷いた。
「でも、うまくいかない・・・ですよね?」
結希が頬を白くさせて俯く。
「はい・・・よくわからなくて」
「ごめんなさい。
佐藤さんを責めたいんじゃあないんです。
佐藤さんの背中に何か黒いものが見えてて。
どうやら、それが佐藤さんの力を出せなくしているみたいなんです」
「ええ?!
黒いもの? それって、目の力で見えるんですか?」
「はい。たまに、
そういうわけの変わらないものも見えるんです」
葵は結希の身体から湯気のように上がっているオーラを眺めた。
「『トールの雷』は、とても強い力だと思います。
でも、それはまだ出し切れていない」
「わかるんですか?!」
結希が思わずといった様子で、葵の肩に触れた。
「いえ・・・う、うーん。でも、なんとなくは。
私の目ってば、見えなくなる前よりも、
もっとよく見えるようになってる気がするんです。
それは、私自身の問題を解決したから、だって私は思ってます。
佐藤さんも同じかも。それで・・・」
葵はもう一度確認のために、結希の黒いオーラに注目した。
今でも確かに、これが結希の足かせになっているように見える。
「佐藤さん。何か、悩んでいることはないですか?」
「え、ええ・・・。
悩みならたくさんありますけど」
「そういうんじゃなくて。
うーん。
もともと佐藤さんにある、深くて、苦しい、悩みです」
葵が言った瞬間、結希の表情が消える。
彼の背中にある黒い靄が手を開いたように大きくなる。
葵はぞっとした。
無理させたくはない。
だが、結希の黒いオーラをどうにかしたい。
「前も少し話したと思うんですけど。
でも、玄関の前に立ったり、鍵を開けようとしたりすると、
手が震えて、息が苦しくなって、
いてもたってもいられなくなるんです」
結希が頬を悲痛のに歪ませて言う。
結希は、「もう昔からなので」と言って手をひらひらさせるが、
対照的に黒いオーラがより濃さを増していく。
「あ」
結希の言葉に、黒いオーラが反応している。
これだ。
これが結希を蝕んでいるものだと、葵は確信する。
「ここには玄関がないから、大丈夫だと思ったんです。
でも、変わらなかった。
玄関がなくても、僕にとって玄関っぽいところが、
結局そういう場所になってしまうみたいで」
結希がうつむいてしまう。
「何回も試したんです。でも意識すればするほど、
うまくいきません。
それで、最近では、声が聞こえるようになってきて。
本当に病気だなって」
「声?」
「はい。数を数える声です。
玄関先と何も関係ないですよね。意味わかんなくて。
頭がおかしくなったんじゃないかって」
結希の背から立ち昇る黒いオーラが、結希の顔にはりついた。
「あ」
彼の頬と眉が真っ黒に染まっていく。
周りの空気が重くなり、葵は呼吸がし辛くなった。
葵が結希に手を伸ばすと、黒いオーラが触手のように手に巻きついた。
オーラには実体はないはずだ。
それなのに、結希の黒いオーラは確かに葵の手に巻きついて、
ぎりぎりと締め付けてくる。
「痛・・・」
予想外の事態に葵は怖気づいた。
こんな大変なものを、結希はずっと。
「玄関先に行くのが、本当にいやで。
その度に、自分が子どもになってしまったみたいで。
僕はやっと大人になったのに。何にも変わらないんだ。
僕は、親から独立して、自分の力で生きていけるように
なった気でいたけどそれは間違っていたいつまでも
僕は変われないし支配されたままなんだこんな自分が
恥ずかしくてたまらないんです葵さんにもこんな
話をしてしまって情けないし・・・・」
結希は色を失った顔で、たんたんと話し続けた。
彼の様子がおかしい。
「さ、佐藤さんっ」
しまった。
結希が今まで必死に押し留めていたものを、
葵が安易に開け放したせいで。
だめだ。
結希の目からはみ出てきた渦は、
今や結希と葵を取り囲み、充満している。
葵は結希に恐怖した。
葵にとって、結希は頼れる存在だ。
だが、今まで気づかなかったのだだけで、
その半分以上は渦と黒い闇に包まれていたのだ。
ただ表面だけ見て、葵は結希を評価していたに過ぎない。
自分には何も見えていなかった。
何のために、神から目をもらったのだ。
黒い渦が葵の首すじに巻きついた。
「うわわ・・・」
葵は思わず振り払って、後ろに下がる。
怖かった。
軽はずみに踏み込んで良い領域ではなかった。
「あ」
葵は気付く。
この黒いオーラは禍々しいが、結希自身から生じているものだ。
これは、彼のこころでもあるのだ。
それを葵は振り払った。
「ああ」
自分は、なんてことをしたのだ。
結希と目が合う。
どす黒くなったその目は、とても寂しそうだった。
「待っ―――」
瞬間、雷光とともに結希は姿を消した。
◇
結希は走り出した。
最初は悲しかった。
孤独に胸を食い破られる、懐かしい感覚。
だが、それはいつしか高揚感に変わる。
自分は、ひとりだったのだ。
そうだ、人はいつまで経ってもひとりだ。
足が軽くなっていく。
いつまでも走っていられそうだと感じる。
すこぶる気分が良い。
「・・・」
どこかに何かを置いてきたような気がするが、
もう思い出せなかった。
景色が通り過ぎていくのが速すぎるからかもしれない。
少し眠くなってきた。
『雷獣』とは似て非なるものを、結希は身に纏っている。
『トールの雷』とよく似ているが、色が違う。
稲光は黒と赤が混じった、禍々しい色をしていた。
結希は飛び上がり、
待ちをさまよっていた小鬼に向かって、黒と赤の雷を放出した。
鋭利な雷が、やすやすと首を切断した。
くるくると中を舞う生首が落ちると、
自分の喉からまるで獣のような唸り声が放たれる。
蒸発寸前の熱い返り血で、顔が濡れた。
ああ、気持ちが良い。
「?」
足の動きが少し鈍かったので、『雷獣』を使った。
走り、殺し、走り、殺す。
今まで自分は、何を迷っていたのだろうか。
結希の放った複数の細かな雷が、
建物の反対側にいる外敵を察知した。
すかさず跳び上がり、壁を蹴って、一呼吸のもとに
建物の反対側に躍り出る。
身体を捩じって着地すると、背骨がぽきぽきと鳴った。
殺戮は一瞬で終わる。
顏が熱くなる。血の味がする。
結希はこの感覚に覚えがあった。
許嫁に会うために、戦いの日々に身を投じていたのを思い出す。
自分は、彼女への愛情だけで戦い続けたわけではない。
自分は殺すのを楽しんでいた。
再度走り出すと、身から焦げ死んだ獲物と匂いがした。
◇
自分の浅はかさに吐き気がしながらも、葵は走っていた。
「ああもう」
自分は結希を傷つけた。それも無残なまでに。
葵は血が出るまで自分の下を噛んだ。
結希のオーラは配送センターの屋上に向かっている。
息切れを起こしながら辿りついたが、
屋上には、すでに結希はいなかった。
「うああああ!!」
葵は自分の膝をやみくもに叩いた。
涙が出そうになるのを必死でこらえながら、
オーラを追ってまた走り出す。
<葵さまっ。どうしたのですか?!>
<あおいー。おーいー!>
三毛と虎の声が聞こえる。
振り返ると、銀の背に乗せられた三毛虎が目に飛び込んできた。
足の力が抜けて、葵はその場にへたり込んでしまう。
「みんな」
<葵さま。銀さまに呼ばれてきたのです。
どうしてこんなところに?>
<結希は一緒じゃないのにゃ?>
「そ、それが・・・」
説明しようとした時、銀が吠えた。
そして、道路へ向かって走って行ってしまう。
「ちょっと。銀ちゃん」
<なるほど。では、銀さまの後を追いましょう>
<よくわからにゃいけど、頑張って走るにゃ>
葵は虎と三毛に手を引かれて立ち上がった。
◇
倒れ込むようにして、相手に斬りかかった。
赤い雷光が鬼の胴を切り離す。
『雷獣』を使って獲物を殺す度、結希の体は充足感に満たされた。
力に身をゆだねる度、結希の雷はどんどん大きくなっていく。
ほら、次が来た。
紙切れを裂くように殺していく。
みんな抗いもせず死んでいく。
痛みも恐怖もない。
何も残らなくていい。
ひとりで死んでいけばいい。
これで本望だ。
赤い景色の切れ間に、ふと女の顔が浮かんだ。
大きくて、宝石のように光る瞳の女。
次の獲物を仕留めても、それは稲妻のように視界に残った。
なんだ、こいつは。
ああ、自分の体から屍のような匂いがするのは、こいつのせいか。
『雷獣』の効きが弱いのは、こいつのせいか。
よし、探して殺そう。
◇
葵は銀の背にしがみついたまま、三毛と虎に経緯を説明した。
<なるほど>
説明を終えると、葵の背中にしがみついた三毛が感慨深く言う。
<でも、なんでそれで結希がどっかに行ったんだにゃ?>
葵の腹の前で小さくなっている虎が叫んだ。
「私が、悪いの」
銀は素早く方向転換をすると、広い道路に出た。
「・・・!!
ちょっと待って!」
銀を止めて、葵は道路へ飛び降りた。
バケツでぶちまけたような大量のだまりの傍に、葵は膝をつく。
前方には、転々と血痕が続いている。
<これを、結希さまが・・・?>
「やめてっ」
葵は口では否定したが、真実は『目』が映している。
累々と横たわる外敵達の死の先に、結希がいる。
銀が前足で地を掻いて、早く乗れと知らせてくる。
銀からは今までのような余裕を感じない。
何かが結希に起こっているのかもしれない。
銀は葵と猫を背に乗せると、今までよりも速く走った。
「私は、佐藤さんのこと、わかってなかった。
私はっ・・・わかってなかった。
人のこころに土足で踏み込むことが、どれだけ悪いことか」
<葵>
虎がこちらを振り返った。
「なに?」
虎から強い言葉が出る予想がついて、葵は身構えた。
どんな言葉だろうが、葵は受け止めなくてはならない。
中途半端に入り込まれて、
手に負えなくなったら逃げ出されてしまった、
そんな結希に比べれば、葵の痛みなどどれほどのものか。
<葵は結希が好きなんだにゃ?>
思わぬ言葉だったので、葵は瞬いて息を呑んだ。
「う、うん」
<好きなら近づきたいのは当たり前だにゃ>
「うん」
涙が出てきて返事が鼻声になる。
<結希は葵が思う程、優しくなかったんだにゃん>
「え・・・。
どういうこと?」
<優しくない相手と番いになるには、覚悟がいるにゃ>
虎の言っていることの多くは、葵にはよくわからない。
しかし。
「覚悟・・・」
そうだ。
葵には覚悟がなかった。
土足で踏み込んだのは、確かに悪かった。
だが、それ以上に悪かったことがある。
あえて踏み込んだのなら、
最後まで責任を持つという覚悟がなかったことだ。
「私には、覚悟がなかった」
<そうだにゃん>
<おまえはまた偉そうに・・・>
調子に乗った虎を三毛が諫めているとき、
前方の闇夜が、花火が上がったと思ったくらい明るく光った。
「あれは!」
その光は赤黒く禍々しかった。
◇
前の方に、動くものがあった。
ああ、わかった。
あいつが探していた女だ。
◇
結希は全身を血で濡らしていた。
だからだろうか。
身に纏った雷は血で染まったように、赤黒く光っている。
「結希!!」
葵の声に呼応するように、雷が手のようにこちらに伸びてきた。
銀が素早く方向転換して躱すと、
落ちた雷がさらに地を這うように追いかけてくる。
「結希っ。
なんで?!」
銀はみんなを乗せているとは思えない程高く飛びあがって、
雷の手から逃れた。
<攻撃してきたにゃっ>
今度は弾丸のように、黒い稲妻が傍を掠めていった。
稲妻が背後の電柱にぶつかって粉々になり、
コンクリートがぱらぱらと葵の頭に振りかかった。
<結希は、葵を狙ってるにゃ>
「わ・・・私を?」
<どうやら、結希さまは正気ではありませんなっ>
三毛が叫ぶ。その時だった。
闇と土埃を隠れ蓑にして、結希が間合いを詰めていた。
銀も葵も完全に不意を突かれて、まったく反応できなかった。
赤黒い光に覆われた手が伸びた先には、自分がいる。
結希の手指はナイフのように鋭く、
そのまま掌を握りさえすれば、葵の顔面は
綺麗にスライスされていただろう。
「え」
だが、そうはならなかった。
結希は伸ばした手を止めたからだ。
背後に迫った結希に気付いた銀が走り、結希との間合いを作る。
「いま・・・結希は」
葵は戸惑いながら、結希を見た。
彼のオーラは未だ禍々しい黒だから、きっと正気を失ったままのはずだ。
しかし、完全に失ったわけではないのかもしれない。
「佐藤さん。
私だって、わかったのかな」
<わかりません。しかし、手を止めて下さいました>
三毛の言葉に葵は頷いた。
きっとそうだ。
「佐藤さん!! 聞いて!!」
葵が叫んだ瞬間、静止していた結希が動いた。
銀が反応して急激に踵を返したので、
危うく振り落とさせそうになる。
「うあ」
銀の白い毛が伸び、葵の腰に巻きついた。
毛は苦しいほどにきつく締まり、葵を銀の体に密着させる。
「銀ちゃん。ありがと」
銀と結希の攻防が始まった。
先程結希に不意をつかれたこともあり、
銀が隙を見せないよう、やや距離を取りながら立ち回る。
「佐藤さんっ。止まって!」
結希に届くよう、葵は大声で叫んだ。
景色が間をあけず回転する中、葵は結希の名を呼んだ。
<結希っ!! しっかりするにゃあ!>
<結希さまっ!! しっかりなさいませ!>
素早く銀の後ろに回り込んだ結希が、両手を大きく振りかぶった。
銀は対処するために、後ろ足で結希を蹴る。
銀の爪に引き裂かれた結希の両腕が鮮血をまき散らす。
「ああっ!
銀ちゃん。やめて!」
葵が叫ぶと、銀が急激に動きを鈍らせる。
<みぎゃあっ! 葵。
そんなことを言ったら、こっちが危ないにゃあっ>
銀の隙をついて、その横腹に結希が雷電を打ち込もうとしてくる。
「だめ! 結希!!」
葵が叫ぶと、結希が動きを鈍らせた。
その隙に銀は後ろに飛び退く。
<うみやあ~。危なかったにゃあ>
<葵さま、銀さまが動けなくなりますから、
制止するのはおやめください>
「でも、結希が怪我しちゃう」
<だったら、両方に声をかけて、止めるにゃあ>
<おまえは、またそういうわけのわからんことをっ!>
<そうするしかにゃあいにゃあっ>
三毛と虎がわちゃわちゃし始めている間に、また結希が動き出す。
「ど、どど、どうしろっての」
結希が襲ってくる。
「結希っ。やめてっ!」
結希が動きを止めると、今度は銀がその隙を狙う。
「銀ちゃんっ。やめてってば!」
今度は結希が攻撃を仕掛けてくる。
「結希。だからやめろってば!」
その後、葵は銀が危ないときは結希へ、
結希が危ないときは銀へ声をかけて止めていく。
「銀ちゃん、やめて!」
「結希、やめて!!」
<葵さま、おやめください。銀さまが大変です>
「うるさいっってば。こうするしかないだろ!」
<葵。その調子だにゃあ!>
「どっちなんだよ。あんたは黙ってなさいっ!」
葵は結希と銀を両方守りたかったが、
結希の攻撃が苛烈な分、次第に銀が傷を負うようになる。
「銀ちゃん。大丈夫?!」
銀は声に反応しなかったが、
結希の攻撃を逃れるため、銀がビルの壁面を走って、
3階の屋上まで飛びあがった。
<とりあえず、ここなら安心にゃ>
<いや、だめだっ>
信じられないことに、結希もこちらを追ってビルを駆け上がってきた。
結希が屋上にやってくると、銀はすぐさま下に降りた。
しなやかな動きで、銀が音もなく着地すると、
そこをめがけて結希が蹴りを放ちながら落ちて来た。
その動きは雷のごとく素早く、銀は完全にはよけきれなかった。
「ぎゃっ」
蹴りつけられた銀は倒れなかったものの、血を吐いた。
内臓のどこかをやられたようだ。
「結希っ。もうやめて」
結希がさらに攻勢をかけてくる。
「もう、やめて」
結希も、動く度に体中から血を流し始めていた。
これ以上続けたら、死んでしまう。
「もう無理っ・・・・もうやだ」
間一髪で雷の間をすり抜けた銀の背を叩く。
「銀ちゃん。下ろして。もう、無理」
<だめです。危険です>
<危ないにゃ>
「全部私のせいだっ。もう無理!!」
最初、銀はいうことを聞かなかったが、
葵が喚き続けると、結希と距離を置いてから動きを止めた。
「下ろして」
下からこちらを見る銀に睨みを利かせると、
彼はわずかに首を振った後、葵を降ろした。
葵を追って三毛と虎が飛び降りてくる。
<葵さま。いけません>
「来ないで」
<葵。でも>
「私のせいであの人が苦しむのはもう、耐えられない。
全部、私が悪いんだから、私を狙ってるなら、そうしてもらう。
あんたたちは、好きにしなさい」
<手伝います。
葵さまに万一があっては、私達は死んだも同然です>
葵は返事をしなかった。
ただ、結希に向かって真っすぐに歩く。
当然のことながら、正気を失った結希は葵を
狙って襲いかかってきた。
三毛が真横から結希の体にぶち当たる。
そのおかげで、結希の蹴りが葵の顔面を掠って通り過ぎる。
恐ろしい風圧と、空間に小さな火花を散らす雷を頬に受ける。
喰らえば即死の一撃を前に、葵は瞬きを禁じられなかった。
「ううっ」
本能が危険から距離を取ろうと後退る。
しかし、葵は意地でも、足を前に向かせた。
先程の葵は、結希のこころの闇を知って後退った。
結希の告白と、傷ついたこころを目の当たりにして、
怖気づいたのだ。
自分が手を伸ばしておいて、あちらが手を伸ばてきたら、
怖くなって引っ込めてしまった。
そんなことは、もう許されない。
「私は、いつもそうだ」
虎が槍を振り回し、結希を狙う。
だがそれは、柄のついた側であり、軽々と受け止められた。
受け止めた結希の手から、電流が槍を伝って流れてきて、
虎は感電した。
<みみみみっ>
身体を仰け反らせる虎だったが、何とか体勢を崩さず必死で耐える。
葵はその隙に結希に駆け寄り、肩を掴んだ。
「うっ・・・」
帯電している結希の体から伝わってくる電流のせいで、
葵は全身の力を失った。
一瞬で、卒倒する寸前まで追い詰められる。
<葵さま。手を放してください。あぶないですっ!!>
三毛の声が、遠巻きに聞こえる。葵には答える術はない。
「・・・ゆ、き」
ごめんなさい。結希。
あの時、手を払ってしまった私を許して。
迷わないって決めたのに、
逃げてしまった私を許して。
もう一度、チャンスを下さい。
景色が電源を落としたように真っ暗になったのは、
その直後だった。
◇
声が聞えてきた。
何度も何度も聞こえてくるその声が、
次第に結希の顔を濁流から上げさせた。
不満だった。
せっかく気持ちよかったのに、なぜ邪魔をする。
濁流の隣には、闇があった。
濁流から引き揚げられた結希は、
闇の中で独りきりになってしまう。
闇は無慈悲な恐怖と孤独を与えてくる。
ああ。ここは来たことがあるな。
ぼんやりと浮かんできたのは、あの玄関だった。
格子の間が擦りガラスになっている、おしゃれなデザインの戸。
2、3歳の幼い姿で、結希はそこに立っていた。
暗くて寒い闇夜に独り残された結希は、数え始める。
「いーち・・・にーい・・・さーん・・・・」
数える毎に、不安が募っていく。
なぜ、数えるだけで、こんなに不安になるのだろう。
結希は思い出そうとするが、頭が働かない。
不意に玄関が開いた。
中には母親と父親が立っていた。
「全然だめじゃないっ。ちゃんと100まで数えなさい!!」
中に入ろうとする結希の肩を押して、母親が金切り声で叫ぶ。
滑らかにスライドする玄関は、
後ろに倒れた結希が立ち上がろうとする間に閉じられる。
「・・・ううっ・・・ぐす」
結希は一通り泣いた後、また数え始めた。
「いーち・・・にーい・・・さーん・・・しぃーい
・・・ごーお・・・ろ・・く」
数える毎に、体中の力が失われていく。
数える毎に、焦りが募っていく。
幼い結希は、まだ10までしか数えられなかった。
◇
「うう」
葵は身を起こすと、そこは真っ暗な世界だった。
周りには誰もいない。
三毛も虎も、銀も、結希も。
「おーい」
声を出してみたが、返事はない。
ここにいるのは、葵だけのようだ。
葵は立ち上がり、辺りを見回す。
『真実を見通す目』で見ても、暗闇の先は何も見えない。
一寸先は闇、というのはこのことだろう。
ここは、先ほどまでいた街中ではない。
まるで、どこか知らない世界に放り込まれたようだった。
途方に暮れたまま、葵は歩き始めた。
「結希~。虎ぁ~。三毛ぇ~。銀ちゃぁーん」
まるで、闇が音すら吸収してしまうかのように、
葵の出す声は周囲に響かない。
「う~ん」
無闇に歩いていても仕方がない。
葵は立ち止まり、ゆっくりと辺りを見回した。
何も見えない。
だが、それでもあきらめず、闇の先を見ようとする。
「?」
見えたわけではない。
だが、何かを感じた葵は、その方向へ歩く。
軌跡ですらなかったものが、尾を見せた。
「あ」
深海を泳ぐ魚のように、尾はまた闇に紛れた。
葵は後を追った。
◇
いくら焦っても、いくら頑張っても、
10から先が数えられない。
このままでは、一生家には入れない。
寒い。寒くて怖い。
「うう」
結希は泣いた。
なんで自分は10から先が数えられないのだろう。
なんで自分は父親や母親の期待に応えられないのだろう。
このままでは駄目だ。
駄目だと分かっているのに、自分にはどうすることもできない。
仕方なく、また数え始める。
「いーち・・・にぃーい・・・さぁーん・・・」
寒くて悴んだ手を擦る。
「しぃーいい・・・ごぉーお・・・ろぉーく・・・」
行き止まりまでもうすぐだ。
「しぃーち・・・はぁーち・・・きゅーぅー・・・」
やっぱり、言えない。
わからない。
そこから先が、どうしても言えない。
自分は孤独だ。誰も助けてはくれない。
自分は世界でたった1人だ。
◇
「・・・っ」
葵は息を止めた。
闇の中に、ぽっかりと光が見えたのだ。
太陽色の光には見覚えがある。
光は古いデザインの玄関を映していた。
その前に、小さな男の子が立っている。
「だ、だれ?」
彼は肩を震わせて泣いていた。
「うう・・・いーち・・・・にーい」
「数を、かぞえてる?」
葵は自分の顎に触れて思案した。
玄関。
泣いている男の子。
数を、かぞえている。
その時、青の頭の天辺から、つま先まで雷に打たれたような衝撃が走る。
「ああっ!」
ああそうか。
男の子は、結希だ。
この暗い世界は、結希のこころなのだ。
「結希っ・・・」
葵は駆け寄りたいのを必死でこらえて、深呼吸をした。
踏み出す前に、覚悟を決める。
「よしっ」
男の子の細くて、今にも消え入りそうな声へ向かって走り出す。
その時だった。
ジェット機を無数に並べたような轟音が、葵の耳を擘いた。
「・・・ひ」
思わず尻餅をついた葵の前に、巨大な瞳が生じる。
直径が葵の身長位はありそうな、深紅の瞳がこちらを見た。
蛇に睨まれた蛙のように、葵は身動ぎ一つできなくなる。
しばらくこちらを見ていた瞳が、目を細めて幼い結希の方へ向く。
圧力から解放された葵は、ようやく息ができるようになる。
「・・・ふぅ・・・ふぅ・・・」
闇の中に、巨大な生き物がいて、
どうやらそいつは幼い結希を見張っているようだった。
近付けば、襲われるかもしれない。
だが、その恐怖を上回る気持ちが葵にはあった。
一歩を踏み出す。
瞬間、瞳は俊敏な動きで葵の目の前に来た。
轟音が葵の体を貫いた。
「うわぁ」
数メートル吹き飛ばされた葵は、頭部をしたたかに打ちつけた。
「うう・・・いてて」
やはり、近付くとあの瞳に邪魔をされる。
葵はまた立ち上がり、今度は姿勢を低くして進み始めた。
進む度、轟音に次ぐ轟音が上下左右から葵を襲う。
だめだ。近付けない。
そう思った時、幼い結希の声が聞こえてきた。
結希は、たった一人であそこにいる。
だから、あきらめたらだめだ。
大きな瞳がさらに見開き、暗闇を赤く染めた。
2本の巨大な牙と、数えきれない程の爪が姿を現す。
葵は恐怖で体を震え上がらせた。
目も耳も、頭の中も、よくわからなくなる。
結希は、こんなところで、ずっと。
「ごめんね・・・結希」
葵は知らなかった。結希がこんな苦しみを抱えていたなんて。
『真実を見通す目』を持っている葵でも、それには気付けなかった。
人は、ひとのこころがわからない。
きっと、死ぬまでずっと。
でも、だからこそ。
尚進む葵を見て、深紅の瞳と、牙が消え失せる。
葵はついに、幼い結希の前にやってきた。
彼は今も数え続けている。
「ごぉーお・・・ろぉーくぅ・・・うぅ・・・し・・・・ち」
人は、どんな悲しいことがあったら、
こころの中で、こんなことを続けなくてはならなくなるのだろうか。
葵は考えた。
すると目から、自然と涙が零れてきた。
「ゆ、結希・・・」
幼い結希の手を掴もうとした、葵の手が硬直する。
恐怖が手を止めさせたのだ。
この恐怖は、他人のこころに入り込むために必要な恐怖だ。
人は恐怖なしには、他人のこころに入り込むことは許されない。
知るために踏み込むことは恐ろしいことなのだ。
そして、踏み込むには、覚悟も必要になる。
葵には今、恐怖と覚悟の2つがある。
だから、できると思う。
葵は結希の持つ悲しみから、絶対に逃げない。
誓うと同時に、葵は小さな身体を抱きしめた。
◇
結希のそばに、誰かがやってきた。
「だ、誰か来たよ?!
お父さん!! お母さん!! 怖いよぉ!!!」
結希は怖くなってドアを叩いた。
だが、両親は奥の部屋に入ってしまっているのか反応がなかった。
結希は絶望した。
慄きながら振り返り、身を固めているとその人が屈んだ。
大きな輪っか眼鏡をつけた女の人だ。
「だ、だれ?」
半ば叫んで言うと、女の人は「何をしているの?」と聞いてきた。
優しくて、震えていて、まるで泣いているような声だった。
恐怖が少し薄れるのを感じる。
「・・・数を、数えているの」
女の人は、大人なのに困った様子で言った。
「どうして?」
「お父さんと、お母さんに、怒られて・・・」
「それで、どうして数えているの?」
女の人の語気が強まったのを感じて、結希は動揺する。
「え、えっと・・・」
「ご、ごめんね。怖かったね。
ゆっくりでいいの」
優しい声に結希は頷く。
この人は怒っているのに、怒っていない。
変な人だ。
「100まで数えたら、中に入れてもらえるんだ」
「そうなの」
「うんでも」
「でも?」
言うのが恥ずかしい。
恥ずかしくて黙っていると、女の人が言った。
「私はね。大人になってから、おねしょしたことある」
「お、おねしょ?」
「うん。あんたは?」
「しないよ。赤ちゃんじゃないんだから」
「そう。じゃあ、私よりもお兄ちゃんね」
急に女の人が、ただのお姉ちゃんになる。
言っても怒られないような気がした。
「じつは、ぼ、僕は、10までしか、数えられなくて」
「え。それなのに、
100まで数えなきゃいけないの?」
そんなこともできないなんて、情けないと思われただろうか。
結希は意気消沈しながら頷いた。
「それは無理よ」
「え」
「無理よ。まだ習ってないでしょ?」
「う、うん」
「それじゃあ仕方ないのよ」
「え・・・で、でも・・・」
でも、それじゃあずっと結希は家に入れないではないか。
結希は悲しくなった。悲しくて泣きたくなる。
「私が一緒に数えてあげる」
「え」
いいのだろうか。
それではズルになってしまうのではないか。
父親と母親にさらに叱られることにならないだろうか。
「大丈夫。
もしもの時は、私も一緒に謝ってあげるから」
結希が逡巡している間に、お姉ちゃんは数え始めた。
◇
どうしたらいいのだろう。
こんな困難を抱えた子どもを、葵はどう救えばいいのだろう。
それに親だからといって、始めから出来ないことを結希に言いつけて
放置するなんてひどすぎると思った。
許せない。
怒りがふつふつと沸いてくる。
いやいやだめだ。
幼い結希を助けなくてはならないのだから、
今は自分の怒りに構っている時ではない。
もし、自分が結希だったら、どんな風にして欲しいだろう。
自分が孤独だった時、誰かにどうして欲しかっただろう。
葵は自らの人生を十分思い返した。
こうすればいいという答えが欲しい。
でも、違う。
数学の課題ではないのだから、明確な答えなど存在はしないのだ。
「・・・・」
誰かに代わりになってほしかった。
違う。
お父さんとお母さんに、変わって欲しかった。
違う。
奇跡が起こって欲しかった。
違う。
結希はきっと、ずっと1人で辛かった。
だから、葵は決めた。
結希と一緒に、100まで数えるのだ。
真面目な結希は、
手伝ってもらうことを拒むかもしれない。
それに、罰を受けている子どもを他人が手伝うなんて、
おかしなことだ。
それでも、そんなおかしな他人が1人くらいいてもいいかもしれない。
葵の答えでは、結希の問題を解決することはできないかもしれない。
結希の痛みを減らすことも、解消することもできないかもしれない。
でも、だからこそ、ただ一緒にいて、結希を手伝うのが、
葵にできることなのだ。
「いーち。にーい。さーん」
葵が数え始めると、結希は
目を丸くしたままこちらを凝視していた。
葵は目を合わせたまま、わざとらしくウィンクをして笑ってみせた。
やがて「「はーち。きゅーう・・・」」
結希が葵の声に合わせて数え始めた。
「じゅーう!!」葵は大声で言ってみせた。
「言ってみっ!」
極限の笑顔を闇に向けて叫ぶ。
「うんっ。じゅーう!」
「良いぞ少年!! 次はこうだ!」
両手を振り上げて、一緒に「「じゅーいち」」
「次は、じゅーうの後に、にーだよ」
葵が説明すると、結希はうっすら笑顔で応えた。
「「じゅーう・・・にぃー」」
察しの良い結希は、続けて「じゅーうさぁーん」と叫ぶ。
「すごい!! 天才じゃん!!!」
葵が褒めると、結希は照れたように俯いた。
俯かないで、誇って欲しい。
「「じゅーうしー」」
結希は悪くない。
「「じゅーうぅごぉー」」
私は逃げない。
「「じゅーうぅろぉーおく」」
ずっとそばにいるから。
◇
結希は、今や数えられる。
「「はちじゅういーち」」
お姉ちゃんに数字の仕組みを教えてもらったから。
「「はちじゅうにー」」
きっと、きゅうじゅうきゅうの次が100なのだ。
「「きゅうじゅうごぉー」」
永遠にも思えた100までの道のりが、もうすぐ終わる。
「「きゅうじゅうしちぃー」」
得体の知れない恐怖、焦り、不安、恥ずかしさが、
結希の中でひとつにまとまっていく。
「「きゅうじゅうはちぃー」」
いつの間にか2人は手を握っている。
「「きゅうじゅうきゅう!!」」
お姉ちゃんの手が、結希の手を強く握ったので、
その先が言えなくなる。
「おねぇちゃん。どうしたの?」
お姉ちゃんはなぜか、泣き始めた。
「どうしたの?? お腹痛いの?」
結希が心配をすると、「ううん。痛くない」と首を振る。
「じゃあ、どうして?」
「私、あんたに聞いて欲しいことがあるんだけど、いい?」
早く100まで数えたかったが、我慢して結希は頷いた。
「あんたは、1人じゃない」
お腹に響くような声だった。
「きっと、この先辛いことがあっても、
結希が数えることができなくても、私が数えるから」
お姉ちゃんは、なぜ自分の名前を知っているのだろう。
それに言っていることがよくわからない。
でも、思いやりはじんじんと伝わってくる。
「私が、結希の所に行って、何回でも数えてあげる」
お姉ちゃんは、そう言って結希を抱きしめた。
抱きしめたまま、大きく息を吸った。
それが合図だと思って、結希は叫んだ。
「「ひゃぁーーく!!」」
◇
結希は目を覚ました。
何もかも、理解した。
幼い頃の体験が、長い間自分を苦しめてきたことも、
自分がずっと、何を欲してきたのかも、
これから、何を求めて生きて行けば良いかも。
目の前には、葵の小さな顔がある。
それがぐらりと傾いた。
ほとんど感覚のない腕を必死で動かして、
彼女の体を支えた。
うっすらと目を開けて、葵がこちらを見た。
「ゆ、結希・・・」
「は、はい」
返事をすると泣きそうな顔が、不安から安心に移り変わる。
移り変わったと思ったら、肩を何度も叩かれた。
「心配したんだから・・・」
叩く力が少しずつ弱まっていき、最後にしがみついてきて、
彼女は寂しい風車のように泣いた。
「葵さん。ありがとうございます」
「何がよ」
「一緒に、数えてくれて」
「・・・どういたしまして」
涙ぐんだ葵の声が体の奥へ伝わってくる。
安心すると、足腰に痛みを感じるようになってきた。
倦怠感もすさまじい。
「いてて」
結希が呻くと、葵が体を離して謝った。
「ご、ごめんなさい。怪我しているのに」
「いえ。良いんです。僕の方こそ、ごめんなさい」
血で汚れた腕を、葵が掴む。2人の距離がまた近くなる。
「ごめんなさい。
結希がどんなに辛かったか、知りもしないで。
・・・手伝いたかったんです。
でも、いざとなったら怖くなってしまって。
ごめんなさい」
結希は頭を振った。
「僕も、本当は葵さんを頼りたくて。
でも、頼るのが怖くて」
「ほんと? 私に頼りたかったの?」
「はい。だから、数えてくれて、うれしかった」
葵に強い目を向けられる。
「ふ、ふんっ。
数えるくらい、なによ。
私は、もっと助けてもらったわよ」
葵が恥ずかしそうに言う。
結希の足裏から、臀部、そして背骨へ、
最後に頭部に温かい何かがこみ上げてくる。
小さな頃から、ずっと報われなかった思いがあった。
こころのどこかに押し込めてきたそれらが、濡れて解けて崩れていく。
「いくらでも、数えたげるわよ」
結希の頬を伝って、一筋の光が落ちる。
「おかえり。結希」
握られた手を、精いっぱい握り返した。
「うん。ただいま」
ありがとうございました。
次話は来週に更新いたします。




