30話 結希 葵
30話です。
よろしくお願いいたします。
葵は目から出血することがなくなった。
ここ数日、結希は暇を見つけては、
配送センターの中を見回り、食事用の長テーブルと椅子、
休憩室にあったソファーを運んで来てホールに設置していった。
一人の時は気付かなかったが、
今まで結希は本当に最低限の物だけで生活していたのだ。
「なんだかいろいろ準備してもらって、すみません」
食事中に葵が言った。
「いいえ。気にしないで」
結希は短く答えた。
「あのっ。
私ばかり迷惑をかけて、ごめんなさい」
「いや・・・」
結希はなぜか、葵の素直な言葉に苛立ちを覚えていた。
葵が気にしていることは、自分だけが考えていればいい。
葵には何も考えず休んで欲しい。
それが語ることのない本心だった。
「良いんです。みんな死んでしまって、
みんな使うあてのない物を集めただけだし」
つい、悪意のある言い方をしてしまった。
「え」
葵は顔を蒼白にして、唇を震わせ、最後に押し黙った。
「・・・ごめんなさい。ひどい言い方して」
「い、いえ。私はただ・・・」
これ以上話を続ければ、葵に負担をかけてしまう。
結希は立ち上がった。
「また熱が上がると大変です。食べたら、休んでください」
強引に話を終わらせるとホールを後にした。
◇
「ああ。だめだ私。
本当にうまくいかない」
葵はテーブルに突っ伏した。
<うまくいきませんでしたね>
三毛が葵の皿を片付けながら言う。
「出て行っちゃった。嫌われたっ」
うぅと唸ると、三毛がため息をついた。
<結希さまは、そんなことで葵さまを嫌いになりません>
「やっぱり間違ってたのかな」
<何を?>
虎が訊いてきた。
葵は何もせず、じっとしている過去を後悔し、
素直に生きることを決めた。
だが、それでかえってうまくいかないのかもしれない。
「思ったことを言うって、決めたの」
<それは良いことにゃ。前の葵よりも100倍いいにゃ>
「前の私がそんなにひどかったってのかっ?」
葵は虎の方へ手を伸ばし、ほっぺたを探り当てると
つまんで引っ張った。
<うみゃみゃ。わかりにくいよりは、そっちのがいいにゃ>
「人にはね。嘘も方便、本音と建前っていう言葉があるのよ」
<本音以外しゃべる意味ないにゃ。
嘘をついても、結局先延ばしにゃ>
「・・・そうだと、私も思うけどさぁ」
片づけを終えた三毛が帰ってきて、虎との間に割り込んでくる。
<結希さまは、そんなことで葵を嫌いにならないでしょう>
三毛の頭を撫でてやると、嫉妬した虎が割り込もうとするので、
仕方なく2匹同時に撫でてやる。
<そーだにゃ。葵はいちいち小難しいにゃ>
「あんたらさ。
どーしてそんなことがわかんのよ?」
三毛と虎がいい加減な返事をしているような気がして、
葵は声を荒げた。
<結希さまは良い御仁です。
大変な苦労をしながら葵さまを助けに来て、
さらに怪我をした私達も助けて下さいました>
「うるさいなぁ。分かってるわよ」
頬を空気で膨らませると、虎が盛大にため息をつく。
<だ、か、にゃ。
結希はそんなことで葵を嫌いにゃらにゃいってことにゃ>
「だから、なんでそんなことがわかるんだっての・・・」
腹の立った葵は、虎の声のした方に向かって手を振り回した。
「おらおら」
しかし、外敵の攻撃をも楽々と躱す虎には、
葵の手など当たるはずもない。
「くそぉ」
最近運動不足の葵はそれだけで息が上がってしまう。
「はぁ、はぁ・・・。てゆーか、佐藤さん、どこ行ったんだろ。
外、危なくないかな」
<結希は雷落とせるんだから、大丈夫だにゃ>
「てか、その話本当なの?
にわかには信じられない」
<ほんとだにゃ。この目で見たにゃ。
でも、力を使いすぎて倒れたけどにゃぁ>
「そんなこと聞いたら、なおさら心配だっての」
<大丈夫です。銀さまが辺りに結界を敷かれましたから>
「結界って、あちこちうろついただけだよね?」
<結界です。
森の主たるお方の縄張りには、相応の相手しか入れなくなります>
「相応の相手って、銀ちゃんみたいに森の主ってこと?」
<そうですが、強い大鬼も入れます>
「うーん。ますます不安だわ。
てか、銀ちゃんはどこ行ったの?
おーい。ぎんちゃーん」
<銀さまも外に行かれました>
葵はため息をついて、テーブルに突っ伏する。
「・・・うーんわからない」
<なにがわかんないにゃ?>
虎が葵の足にまとわりついてきた。
毛がくすぐったくて、足先を手前に引く。
「佐藤さんの気持ちがわかんないのよ」
<目が使えればいいのですが>
「『真実を見通す目』でも、人の気持ちが全部わかるわけじゃない」
<いまいち使えないにゃ。呪視に目をつけられるしにゃ>
「うーん。あの子がいなかったら、銀ちゃんに食べられてただろうから、
なんとも言えないわ」
<目を使わずとも、
結希さまは葵さまを大事に思っていらっしゃることはわかります。
でなければ、これほどの助力を下さいません>
「だ、大事に・・・?」
<ええ。そうですとも>
胸が熱くなる。
葵は結希を大事に思っている。
それと同じように、結希も葵を思ってくれているのだろうか。
自分の頬に手を触れると、思わぬほど熱が篭っていた。
「そ、そういうことじゃなくてっ・・・。
佐藤さんも辛い思いをしているんだろうなって」
<そうだにゃあ。結希はいつも難しい顏してるにゃ。
でも。
それ、結希が悪いんじゃなくて、
葵が結希に聞かないのが悪いんだよね>
「き、聞くって?私が、佐藤さんに、辛くないかって、
無理してないかって、聞けっての?」
そんなことを聞いても、結希は答えない。
きっと、困ったように笑うだけだ。
それに、迷惑をかけっぱなしの自分がそんなことを聞いたら、
可笑しいと思われるかもしれない。
<聞きもせず、答えを求めるのですか?>
葵は三毛の言に返すことばもなく、「うーん」と低く唸った。
<葵は回りくどいんだにゃ。
ボク達にも黙っていること多いし>
<そうそう。フォルトゥーナ様に頂いた力のこと、
長く私達に黙っていらっしゃった>
「う、うううん。
だから、もうやめたんだってば」
<ボクが葵の顔を引っ搔いた時も、
三毛に言わなかった。謝らせてもくれなかった>
「あ、あれはごめんって・・・」
<『目』のことも、
私達は葵さまが御目を開けなくなってから、
呪視と葵さまとの関係の詳しいお話をようやく頂けたのです。
私達は身が引き裂けそうな思いで、今お世話をしているのですよ>
「確かに、詳しくは言ってなかった。
ごめん。・・・もう許して」
葵が小さく謝ると、三毛虎が嬉しそうに言った。
<葵は面倒くさいにゃ>
<葵さまは面倒なお方です>
わかってる。自分でもめんどくさい性格なのは。
額をテーブルにつけたまま、自分に辟易とする。
<でも、まぁ。銀さまを従者としてからは、
少しはましになりました>
「え」
葵は思わず顔を上げた。
<確かに。よくしゃべるようになったにゃ>
「そ、そうかな」
<そうです><そうだにゃ>
腹に溜まったもやもやが少し楽になる。
「うん。私思ったことがあるの」
枷を外すように言った。
「話すのって、いいなって。
悲しかったり、苦しかったりしたとき、話すのって、いいなって。
三毛と虎って、たくさん聞いてくれるでしょ?」
<従者ですから>
葵は三毛の言にくすくす笑って、次を言った。
「そうだね。三毛はそうかもね。
私は、ずっと、話しても無駄だって思ってて」
従者達の、沈黙という名の返事に葵は頷く。
「私って、よくお腹が痛くなってた。
お腹が痛い時ってさ。寂しくなるよね。
私は、いつも、とても寂しい気持ちだった。
だから、お腹が痛いって、言っても変わんないけどさ、
言えるとさ、そうだねって言ってもらえるとさ、
少しだけ、変わんないけど、少しだけ、
痛くなくなるんだなって、最近気づいた」
<よくわかんないにゃ。でも、そんなもんなんだにゃね>
「そうかもね。でも、それを気付かせてくれたのは、
三毛と虎、それに、佐藤さんだから」
<結希さまは、いつも葵さまを案じておられます>
「わかってる。ありがとうって思ってる。
だから、話してみる」
葵は立ち上がり、三毛と虎に意を決した。
「でも、不安だぁ・・・」
<・・・葵は根本的には変わってないにゃ>
◇
独り屋上に上がった。
太陽はもうすぐ落ちて、夜の足音が聞こえてきそうな雰囲気だ。
体操をして、屋上を一周ジョギングする。
葵とのやりとりが頭に浮かんできて苦しくなり、
その苦しさを打ち消すためにスピードを上げた。
頭を空にしたかった。
いつの間にか10周した。
さらに10周。さらに。
いくら続けても全然足りなくて、『雷獣』で負荷をかける。
悔やむ気持ちは収まらないが、『雷獣』が徐々に体になじんでいく
蹴って、跳んで、着地して、蹴って飛んで着地して。
しばらくすると、胸と背に汗がにじんできた。
三毛と虎に助けてもらった日を思い出す。
2匹は自分よりも強かった。
無様な気持ちに追い打ちをかけられて、結希は歯噛みした。
「・・・っ」
結希が頑なせいで、葵とうまく会話が出来ない。
不甲斐ない自分を棚に上げて、葵と笑い合うなんてできるわけがなかった。
自分にもっと力があれば、もっと働ける人間なら良かったのに。
今までたくさん苦労をしてきた葵だから、
これからは少しでも健やかでいて欲しい。
そんなことすら、自分には果たせないのだ。
様々な思いが浮かんでは消える。
その度に、結希は『雷獣』の出力を上げていった。
やがて、すべての力を使い果たして、結希は地面に倒れた。
◇
夜になっても結希は帰ってこなかった。
葵は布団に包まったものの、心配で寝付けない。
結希は、日に日に笑顔が減って、
何かに追い立てられているようで余裕がない。
葵は何の支えにもなれない自分が悔しかった。
<結希のことが心配かにゃ?>
「うわっ。びっくりした。起きてたの?」
<起きてるにゃ。三毛も>
「三毛も起きてるの?」
<はい。起きております>
平素通り、といった調子で三毛が言った。
どうやら自分のことを気にして、起きていてくれたようだ。
<葵の心臓がうるさくて寝られにゃいにゃ>
葵が従者の鼓動を感じられるように、従者側も葵の鼓動を感じられる。
以前なら恥ずかしくてたまらなかっただろうが、
今は不思議と平気だった。
「どうするかをどうするか悩んでいるのよ」
<どうするかをどうするか悩むとは・・・。
葵さまは、複雑に考え過ぎです>
「複雑に考え過ぎ?」
<こうしたら、失敗するかもしれにゃいとか、
ああしたら、うまくいくかもしれにゃいとか、
考えても、結果はやってみないとわからないにゃ。
葵は面倒くさいにゃ>
結希の思っていることをもっと知りたい。
知った上で、自分が支えになりたい。
だが、それ以上に嫌われたくない。
この考えは、悪いことかもしれない。
葵はぐっと顎を引いた。
自分の意志を押し付けて、
結希を困らせてしまうことにならないだろうか。
無理をしていませんか。うまくいかないことはありませんか。
悩んでいることはありませんか。
私に話してください。
こんな風にはっきり言うことは、
相手を傷つけることだと葵はどうしても思ってしまう。
<迷惑かどうかは、結希が勝手に決めるにゃ>
虎の言葉に、ふと光明が見えた気がした。
「そっか・・・。そうだよね」
葵は体を起こした。
◇
結希は疲労した体を横たえたまま、じっと空を見ていた。
辺りがうっすらと明るくなっている。
もうすぐ朝が来る。
大小の月が浮かんでいる景色は、最初は違和感があったが、
今は世界に馴染んでいるような気がする。
「温かいな」呟いた。
もうすぐ冬が来る時期なのに、まだ寒くならない。
むしろ、少しずつ暖かくなっているような気さえする。
「季節まで狂っちゃったのかな」
これからどうなるのだろう。
葵の目は、このまま見えないままなのだろうか。
「ああ。くそ」
油断するとすぐに自責の念が浮かんでくる。
でも、そうだ。自分の責任だ。何もかも。
思わずため息が出る。
葵はちゃんと眠っているだろうか。
もどったら、何も言わずに出て行ってしまったことを謝ろう、
と人知れず結希は誓う。
最近の結希は、気付けば葵のことばかり考えている。
もっと優しくしたいのに、うまくできない。
大切にしたい人を、どうすれば大切にできるのかわからない。
なぜだろうか。
少し眠ってすっきりした頭で考えると、すぐに答えが出た。
「ああ、そうだ」
言えば、葵の負担になるかもしれないから言えないのだ。
葵を大事に思う気持ちが、裏目に出ているのだ。
そんなことにも、今まで気づかなかったのか。
自分には余裕がなさすぎたのかもしれない。
「でも、どうすりゃいいんだ・・・」
結希は背伸びをしてまた、横になった。
わずかにまどろんだ時、近くで足音がした。
息遣いも聞こえる。
結希が目を開けると、
葵が三毛虎に手を引かれて歩いて来ているのが見えた。
何だ、まだ夢の中だったのかと思いつつも、
結希は身体を起こした。
よく見ると、やはり葵がそこに立っていた。
「え・・・葵さん」
葵が顔を上げた。
「ごめんなさい。邪魔をして」
「いえ。ちょっと寝ていただけで。
ごめんなさい。僕」
結希の言に構わず、葵はうーんと背伸びをした。
「ずっと中にいたので、外に出てみようかなって。
2人にお願いして」
葵は少し首を傾げて、うっすらと笑った。
「そうでしたか」
結希も笑ってみたが、
2人の間に横たわる緊張感に顔をひきつらせる。
三毛が近づいてくると、ひとつ鳴いてから結希の手を掴んできた。
それを引っぱって、葵の手と重ね合わせる。
手は少し冷たかった。
暖めてあげたくて、結希が手を少し握ると、
葵が恥ずかしそうに俯く。
三毛と虎はしばらくうみゃうみゃ言っていたが、
少しすると離れていき、やがて見えなくなる。
「ごめんなさい。迷惑でしたよね」
葵が言ったので、結希は盛大に頭を振った。
「いやいやっ。そんなことないです。むしろ・・・」
「むしろ?」
祈るような顔を向けられて、二の句が継げなくなる。
「む、むしろ・・・」
続きが言えない結希に対して、
それでも構わないといった様子で、
葵は風の吹く方に顔を向けてしまった。
その横顔が、とても辛そうに見えた。
「もう、冬のはずなのに、暖かいですね」
「は、はい。僕もさっき、そう思っていて」
葵の顔が花咲いたように、ぱっと明るくなる。
2人の思っていたことが一緒だったというだけで、
彼女が喜んでくれたことに驚く。
そして、思い至る。
そうだ、こんなことでいいのだ。
器用にやろうとし過ぎないことだ。
ひとつずつ、思い至れば良いのだ。
「そうですね」
そう伝え、結希は葵と同じ方向を見た。
以前は深夜になろうとも灯りの消えなかった街々が、
今は二度と醒めない眠りについている。
葵にはこの景色は見えないはずだ。
だが、今は同じ方向を向いているだけでいいと思った。
「静かですね」
「はい」
葵をじっと見つめた。
覗き見をしているみたいで後ろめたくなったが、
どうしても逸らすことができなかった。
なぜなら、
以前はあどけなさと可愛らしさを持っていた顔が、
厳しさと逞しさ湛えるようになっていたからだ。
その美しさから目が離せない。
視力を失い、虎や三毛の介助なしには
歩くことすらできない少女の精神的な力強さに、
結希は圧倒されている。
同時に、結希は胸にある感情を抱いている。
失う恐れを。
「葵さん」
「はい」
口の端にはわずかに笑みがある。
頭の天辺にある束になった捻転毛が、
風を受けて風見鶏のようにくるくると揺れている。
「目はどうですか?」
瞬時に笑みが直線に引き結ばれて俯く。
「ごめんなさい。
もう痛みはないんですけど。まだ」
結希の腹が、罪悪感を大量生産していく。
そんな顔をさせたかったのではない。
「自分がもっとしっかりしていれば」
「そんなこと。私だって・・・」
「今度は僕が絶対にやります」
噛み締めるように言うと、葵が小さく息を吐いた。
見損なわれたのか、呆れられたのか。
それとも、そんな力はないと結希に言いたいのか。
苛立ちが湧いてきた。
ダメだ。
この苛立ちは、自分に原因がある。
それなのに、口から出る言葉を止められなかった。
「なんで、あんなに無茶したんですか」
言わなくても、答えは分かっている。
結希が戦えなかったから、葵が代わりなって
みんなを助けるために、犠牲になったのだ。
大きな声を出したい衝動に駆られる。
それを必死で抑えた。
「自分を待ってくれたら、どうにかなったかもしれないのに」
あの時、葵は1人でやるしかなかった。
わかっている。
わかっているのに、
自身に対する不甲斐なさに苛立ちが止められない。
こんなの、ただの八つ当たりだ。
結希が黙っていると、葵は小さい声で言った。
「佐藤さんの言う通りです」
「え」
「佐藤さんを待っていれば、こんなことにはならなかったかも」
葵はピントの合った写真のように、鮮明に言った。
「私、意地を張ったんです」
聞いてくれますか、
と訊いてきた穏やかな声に結希は驚いた。
結希が頷くまでもなく、葵は話し始める。
「小さい頃、夏休みの間にスイミングスクールに通っていたんです。
先生のおかげで、私泳ぐのが好きになって」
葵は楽しそうに平泳ぎのしぐさを結希に見せる。
「で、
親の前でどれだけ泳げるようになったか、お披露目会があったんです。
私はずーっと、泳ぎ続けました」
葵は懐かしい景色を遠望しているようだった。
「でも、止められたんです。もう時間が無いからって。
私、悔しくて。もっと泳ぎたいのにーって泣いたんです。
優勝したのに、全然納得しなくて」
悔しそうに地面を跳ねる彼女がこけないように、
結希は背に腕を回した。
「振りほどいてでも、泳げばよかったっ。
いじめられても、両親が離婚しても、
自分が自分らしいことをすれば良かったっ。
あーどうしてしなかったんだろう」
内面を彩る酸いも甘いも含めて、
全てをテーブルにぶちまけるように、葵は話し続けた。
「周りに任せて、頼って、結局なーんにもしなかった自分が嫌で。
だから、あの時は、絶対に最後までやりたかった。
誰にも邪魔されたくなかった。
佐藤さんにも」
葵はまるで、あの惨事を自らが望んでいたかのように言った。
「このまま失明をしたとしても、後悔しません。
これは、本当です。
だって、今度こそ、最後まで泳げたんだもん。
でも、そのせいで
佐藤さんや三毛虎や、銀には迷惑をかけています。
ごめんなさい」
言い終えた葵が頭を下げた。
彼女の浮かべた笑顔は、いたずらをして怒られている娘のようだった。
対して結希は、頭の先から股まで大きな亀裂が入ったかのような、
強い衝撃を受けていた。
葵が結希の手を頼りにしてくれている状況でなければ、
跪いていただろう。
自分がどれほど見当違いだったのか、結希は思い知った。
あの時、葵は自分の過去と向き合うために戦ったと言った。
結希は葵を幼い少女だと思っていたことを恥じた。
葵は自分よりもずっと先を進んでいる。
そんな彼女を、自分が守る、なんてとんでもないことだったのだ。
目の前の可憐な少女は、結希ごときに守られるような弱い女ではない。
彼女が口を開いた。
「私、佐藤さんに言いたいことがあるんです」
沈黙を返事と受け取ったのか、葵が言う。
「私達は、それぞれ違う人生を歩んできて、
そんで、考え方も違って、
でも、フォルトゥーナ様に出会ったのは同じで、
それからは、同じチームになったんだと思うんです」
「え、ええ・・・」
「だから、本音を話しませんか。お互いに」
まともに受けたら後ろに転んでしまいそうなほど、
熱の篭った声だった。
「あの。僕は、本音で・・・」
何とか声を絞り出すと、すかさず葵が「嘘だぁ」と笑う。
馬鹿にするような、茶化すような笑いではなく、
奥底に混乱を含んだ笑いだった。
結希はこのとき、葵の内面にある迷いを感じた。
圧倒的だと思っていた少女の迷いを。
彼女にとって、話すことは傷に塩を塗るような作業だったのだ。
そのことが結希に決意を生む。
「僕の話も、聞いてくれますか?」
結希は言った。
「はい」
葵が頽れるように膝を折った。
結希は支えながら、葵をゆっくりと座らせてやる。
「ごめんなさい。ちょっとはしゃぎ過ぎたみたい」
少しの沈黙のあと、葵の顎がゆっくりと引かれた。
「話して下さい」
話すのはいつも彼女からだった。
だからせめて、ちゃんと話そう。
◇
「繰り返しになるかもですが、僕は小さな頃から、
両親とうまくいきませんでした。
一緒に暮らしてる間、両親からの愛情を感じることは、
ほとんどなかったです。
いや、実はあったのかもしれないけど、
僕が感じなかっただけかもしれないけど。
僕は、自分のどこかに欠陥があるのだと思いました。
だから、両親は僕のことを嫌いになったんだって。
学生時代は、ほとんど1人で過ごしました。
人にどう思われているだろうか。
嫌われていないだろうか。
人にどう思われるか、とても怖くて、
みんなを避けていたんだと思います」
目は見えずとも、手から伝わってくる熱が葵には感じられた。
相手を信用したいのに、信用できない悲しみ。
結希の手から伝わって来たのは、そんな思いだったかもしれない。
葵は胃の辺りをぐっと手のひらで抑えた。
自分なんて、頼りにはならないかもしれない。
結希の悲しい経験を癒すなんて、無理な話かもしれない。
でも、言って欲しい。
返事だけはできるから。
せめて、あなたを孤独にだけはしないから。
「今思えば、僕は全部の罪を両親に求めたんだと思います。
確かに両親は僕に冷たかった。
でも、うまくいかないことの全てが、
両親のせいなんてことありませんよね」
結希の言葉が、葵の胸を突き刺した。
この言葉に至るまでに、どれだけの苦しみと理性を必要としたのだろう。
葵の想像は全身に痛みを伴わせた。
「僕はいつの間にか、両親とは
逆の方向に進むことに躍起になっていました。
学校を出て、就職をして、上司の責任を押し付けられて、
会社をクビになりました」
結希が口を閉じる。
「佐藤さんは悪くない」
ただそれだけを言うために、葵は頬の内側を噛まなくてはならなかった。
彼が悪いなんてことは絶対にない。
ただ、結希は分かっているのかもしれない。
誰かのせいで不幸になったとしても、
それを誰かのせいにしたまま生きていれば、
他力本願な人生になってしまうのだと。
だから、環境はどうあれ、あくまで自分の内部に目を向けて、
自分がどうありたいかを考えるべきだと決断したのだ。
切実な決断だったが、同時に逃げ場のない血のにじむような決断だったと思う。
結希は強い人だ。
葵は自分と向き合うために、『真実を見通す目』に頼った。
だが、結希は違う。
与えられた力ではなく、自らの力で、
苦しみながら自分の生に向き合っている。
しかし、結希はそんな自分を恥じているようだった。
私は、結希を恥ずかしい人だなんて絶対に思わない。
「ずっとコーヒーを飲んでいたんです」
「え」
眉を上げた葵に結希は笑った。
「コーヒーです。コーヒー。
本当は苦手で」
「コーヒー?」
「うん」
葵は結希の「うん」という返事の仕方をとても気に入った。
「苦手なことにすら、気付かずにいて。
葵さんのおかげです。
葵さんがくれたカルピスソーダがおいしくて、
それでようやく、僕は甘い方が好きなんだってわかったんです」
結希が鼻を鳴らして笑った。
「普通、逆ですよね。
大人になって、苦みの良さがわかったみたいな」
意地悪に言うと、結希は声を出して笑った。
「ああ。そうかもね。
まぁ、結局甘いのが最高、みたいな感じになっちゃって」
結希はとても満足そうに言った。
ここ最近2人の喉がつかえるような会話が、
嘘のように今は弾んでいる。
「僕は葵さんに助けられたんです。
だから、僕はずっと恩返しがしたかった。
でも、不甲斐ないことに役立たずで。
結局葵さんを助けられなくて。
こんなことになってしまって、申し訳なくて」
周りに頼ってばかりの自分が情けないと思っていた葵には、
結希の気持ちが少しは分かる気がした。
「前に玄関先で倒れちゃって、
ご迷惑をおかけした時がありましたよね」
結希の話を極力邪魔しないよう、葵は短く返事した。
「最近はなんか声も聞こえて来て、おかしいですよね」
葵は心配になって、思わず彼の手を掴んだ。
「声?」
「ええ。聞こえるんです。小さな子が、数を数えている声」
辛い記憶が鮮明になって、思い出されることが葵にはあるが、
それと似たようなものかもしれない。
「大丈夫なの?」
「たまに聞こえるだけだから、大丈夫です。
でも、葵さんがこんな時なのに、
いつまでも変わらない自分が情けなくて」
自らを責めるような結希の言に、葵のこころが動いた。
「だから?」
口から思わず厳しい声が出た。
いや、ちょっと待って。
こんなはずじゃないのに。
さっきまで、自分は結希にいろいろ話してもらおうと思っていた。
話してくれるのが嬉しかった。
それなのに、止められない。
葵は怒っていた。
◇
「だから?」
鋭い声がしたと思うと、握っていた手が離れた。
「え」
「情けないって何?
申し訳ないってなに?」
葵の顔がみるみる朱に染まっていく。
「今までいろいろあったんだから、仕方ないじゃんっ!」
情けないことばかり言って、怒らせてしまったのかもしれない。
「す、すみません」
「はい、謝った!
また言った!!」
葵が結希に向かって指を差した。
「いつもそうだよっあんたは」
突然の怒りに最初は呆然としていた結希だったが、
次第にこの怒りは結希自身に向けられたものではないと気付く。
「葵さん」
「謝るなよっ」
息苦しそうに葵は胸を押さえた。
「あ、あやまら、ないでよ」
彼女の目の端から大粒の涙が零れた。
「ぐふぅ・・・うぐぅ」
呻くような声を上げながら葵は泣いた。
「ううう・・・・うええええええん」
結希は離れ離れになった手を、再度握った。
「泣かないで下さい」
「だって、佐藤さんが、自分ばっかり」
しゃくりあげながら、葵が言う。
悪いことをした。こんなことなら、話さなければ良かった。
「ごめんなさい。僕が変なこと話したから」
葵が結希の手を払う。
「違うってばぁ!
ばかぁー!!おらぁー!!」
葵がやみくもに手を振り回して、殴りかかってきた。
結希は葵の手が痛まないよう、優しくその手を掴んだ。
葵も本気でやるつもりはないらしく、すぐに大人しくなる。
「私だって・・・私だって。
佐藤さんに助けてもらいました。
銀に襲われたときも、目が見えないときのお世話も」
「それは、僕が葵さんに助けられたから」
「だからぁっ!
お互いさまじゃん!!
申し訳ないなんて言うなっ。
小さな頃から悩んできたことが、
すぐに解決するわけないじゃん。
今でもこんなに苦しんでいることが、
頑張っただけで、良くなるはずないじゃんっ
私だって、助けられたの。
佐藤さんに。
あんたが自分を悪く思っていたって、
わたしは、あんたに助けられたんだって。
三毛も、虎も。
あんたの存在は、私にとって・・・」
葵の言葉が、まるで火を当てられたように途切れる。
何も映さない瞳が結希を、はたと捉えた。
結希はどきりとする。
「心配、なんだから・・・」
「そ、そうですか」
「そうよっ」
「でも、迷惑かけるかもしれない」
「どーんと来なさいよっ」
その言い方が面白くて、結希は吹き出した。
「な、なによ」
「さ、さっきから、葵さんの、キャラが、崩壊してるから」
「うるさいなぁ。
もう、言いたいことは言わせてもらいますから!」
ようやく笑いが収まってきた。
結希は息を思い切りすって、止めた。
葵に言うべきことがあった。
「僕は。
葵さんに迷惑かけても、良いですか?」
結希は本音を口にしようとしていた。
それは、もしかしたら、
幼い頃からずっとしたかった事だったのかもしれない。
「僕は葵さんのことを、
守ろうって思ったんですけど、全然うまくいかなくて。
いざというときに、逆に守ってもらって」
葵が眉間にしわをよせる。
もう少し待って。ちゃんと言うから。
「でも、うまくいかないかもしれませんけど、
僕は頑張りたいです。だから、手伝って欲しいです」
手の震えを、今度は隠そうとしないで、彼女に触れる。
その時だった。
結希の背後で徐々に上がってきていた朝日が、
一陣の風と共に葵に触れる。
琥珀色の瞳が、朝日を吸収して艶々と結希を見た。
髪を押さえながら、唇が弧を描く。
彼女が瞬きをすると、太陽色の涙が一筋顎を伝って落ちた。
「うん」
人知を超える美しい瞳が、結希を見た。
それだけじゃない。
頷いた葵の顔を、結希は一生忘れないだろう。
結希は葵と一緒に生きていく。
助けられたり、助けたりしながら。
「あ、葵さん。目が」
「・・・うん。見える。見える。佐藤さんの、顔」
葵の語尾が消え入りそうになる。
「ああ。よかった」
朝日を浴びて琥珀色に輝く目が、結希の目と交わる。
彼女を引き寄せて抱きしめた。
今度は零れ落ちないように、しっかりと。
◇
結希は葵を背負って、立体駐車場を下り始めた。
病み上がりに朝日は刺激が強かったのか、
葵がひどい眩暈に襲われたのだ。
「ごめんなさい」
「いいえ。僕の方こそ。気付かなくて、すみません」
「あのぉ・・・」
「はい」
「私達。お互いに謝るのやめませんか」
「う、うん?」
葵は結希の首を絞める真似をする。
「こらぁ。さっき言ったじゃんかっ」
「いいました言いました。すみませんっ」
「そうそう。
これからお互いに補い合っていくんだから、
迷惑なんて考えていたら、疲れます」
「た、確かに。・・・うーんでも」
「うるさいなぁ・・・口ごたえは無し」
「わかりました。もう、謝りません。
でも、葵さんも、僕には何でも言ってください」
葵が腕と足を交差させて、結希にしがみついてきた。
「うわ・・・ちょ」
「佐藤さんが心配で早起きしたから、
お腹空きました」
「え、ええ。はい。じゃあ、戻ったらご飯にしましょうね」
葵が、おーい、と声を出すと、
どこからともなく現れた三毛虎がこちらに走ってきた。
しきりに何か鳴いている猫達に、葵が相槌を打つ。
きっと葵の目が回復したことを喜んでいるのだろう。
治ってよかった。
結希はゆっくりと歩きながら、
肩越しで話す葵の元気な声を聞いていた。
ありがとうございました。
早いもので、もう30話です。
次回は、来週に更新いたします。




