28話 結希
28話です。
よろしくお願いいたします。
銀狼は他の外敵とは一線を画す強さで、
『雷獣』を使い全力でぶつけても、まったく歯が立たなかった。
太腿、脹脛、背中の筋肉が限界を迎え、すぐに動けなくなる。
立っているのがやっとの状態で、追い打ちされて結希は倒れた。
そして結希は、葵と銀狼の戦いを目撃する。
小さな体で巨大な銀狼の前に立ちはだかり、戦い抜いた姿を。
葵はぼろぼろになりながらも、
不思議な力を使って、銀狼の動きを止めてみせた。
女神からもらった『真実を見通す目』の力を使ったのかもしれない。
そうして最後には、八重歯に模様のついた帯を結びつけることで、
完全に沈黙させた。
「葵さん・・・」
葵を襲っていた銀狼は攻撃性を潜めて、
今は彼女を守るように鎮座している。
沈黙させたというより、従えたという方が正しいかもしれない。
結希の近くで倒れている奇妙な猫達も、
銀狼と同じように従えたのだろうか。
「・・・すごい」
だが、葵の体は銀狼を抑えるために、多くの犠牲を払っていた。
早く助けなくては、手遅れになるかもしれない。
結希は全力の『雷獣』で何とか立ち上がる。
「あ、葵さんっ」
葵は無残だった。
瞼は腫れあがり、隙間から夥しい出血がある。
目だけではなく、頭部のどこかにも怪我があるようで、
顏の半分以上が血塗られている。
他にも、右腕は前腕部が途中から折れ曲がり、外側を向いていた。
肩から腹にかけて、斜めに出血している跡がある。
よく見ると、鋭利な刃物でいくつも刺し傷が並んでいるようだった。
狼に噛まれた時に生じたものだろう。
他にも、足につい擦り傷、切り傷は無数にあり、数えきれない。
葵は玉のような汗をかき、息は浅く細かく、
今にも止まってしまいそうだった。
結希は絶句する。
心臓が張り裂けそうになる。
躊躇いながら近づくと、
銀狼が結希と葵の間に入り込み、
威嚇するような唸り声を上げた。
「・・・だ、れ?」
震える手で銀狼を制止した葵が、
消えかかった蝋燭ような声を出す。
「葵さん。僕です」
「さ、とうさん・・・・」
葵が顔を歪ませた。
結希は走り寄り、伸ばされた葵の細い手に触れた。
「ああ。ひどい怪我だ」
「大したこと、ないよ・・・」
葵が血の混じった咳を吐き出す。
口の周りを血だらけにして笑う葵が、結希には滲んで見える。
じっとりと血が滲み、骨の浮き出た背中をそっと支えた。
「この子は、友達になったの・・・」
「うん。見ていましたよ」
葵が身を震わせながら、わずかに顎を引く。
痛みに耐えているのだ。
自分が弱いせいで、こんな目に遭わせてしまった。
自分の不甲斐なさに唇を噛む。
「噴水に行きましょう。早く傷を治さないと」
結希は『雷獣』を解き、葵の傷に障りがないよう確認しながら、
慎重に体を抱える。
葵は崩れてしまいそうな華奢な身体だったが、
それでも、『雷獣』で酷使した体には重かった。
左右にふらふらと揺れながら、何とか立ち上がる。
息を切らせて歩く結希に、葵が「お、重い?」と聞いた。
「いやいや。重くないです」
「で、も・・・苦しそう」
「重くないです」
「でもでも、今うう~っ、て言ったし」
「言ってないですよ。もう傷に障りますから、静かに」
「は、はい。・・・でも、無理しないで」
結希は返事しない。
ただ歯噛みしながら、噴水へ歩く。
葵の口から苦しそうな吐息が漏れる度、
結希は底冷えのような不安に駆られた。
「着きました」
噴水の縁に葵を降ろす。
葵の体はまさに死に体で、支えていないと
座位すら維持できない。
「すみません。水に入ります。
ちょっと寒いかも」
結希は少し悩んだが、もう一度葵を抱えると、
そのまま噴水の中に足を踏み入れた。
聞いた葵は不安になったのか、結希の胸元を掴む。
「大丈夫です」
そう伝えたとき、葵の目が開いた。
目は隙間なく真っ赤に濁っており、
黒目すらどこにあるか見えなかった
結希の身が凍る。
この傷は、女神の水で回復できるのだろうか。
彼女に動揺を悟らせないよう、呼吸を静かに整える。
ゆっくりと水に浸かっていくと、
傷が沁みるのか、眉を歪ませて葵が結希にしがみついて来た。
「大丈夫」
葵の体中が、光を帯びていく。
女神の噴水が傷を治してくれている。
結希はほっと息を吐き出した。
「暖かい。気持ちいい」
葵の眉が緩んだ。
一緒に浸かっている結希の体も、次第に楽になってくる。
「手。ちょっと見て良いですか」
折れた腕は綺麗に治っていた。
「良さそう。動かせます?」
「う・・・うん」
葵は手に力を入れたようだが、満足に握ることもできない。
「うまく動きません」
傷自体は治っても、体力がなければ元通りには動かせないのだろう。
「とりあえずは良かった」
「はい・・・ずいぶん楽になってきました」
葵の頬に赤みが差してきた。
「葵さんは多分、内臓も痛めています。
ちょっとずつ飲んでください」
結希は慎重に身体を沈ませて、水位が葵の口に来るようにしてやる。
一口二口飲むと、葵が頷く。
「・・・ありがとうございます」
「もういいんですか?」
「はい。佐藤さん。あの猫達を、ここに連れてきてくれませんか?
怪我を治してあげなきゃ」
「あ、あの。まだ目が」
「いいんです。後でいい。もうずいぶん良いですから」
「で、でも」
「私は大丈夫です」
葵は頑として治療を続けさせなかった。
仕方なく猫達の場所へ向かうと、
結希はまず手の切断された虎柄の猫のそばへ膝をついた。
虎柄は意識を取り戻していたが、傷のせいで動けないようだ。
結希を見ると、のんびりした鳴き声を出してくる。
「えっと・・・。佐藤です。よろしくお願いします。
助けに来ました」
結希が頭を下げると、虎柄は残った片手を振ってくれる。
「は、運びますね。
噴水まで・・・いいですか?」
おそるおそる触れてみたが、虎柄はとても大人しいままだ。
虎柄は抱えられると、もう一匹の方を指さした。
「はい。彼も助けます」
三毛柄のもう一匹へ向かう途中に、虎柄の千切れた腕を見つける。
噴水の水で治るのかわからないが、とりあえず拾っておく。
三毛柄は顔面に酷い引っかき傷があり、かなり重症だった。
それを見て虎柄が、うんみゃー、と心配そうに鳴く。
「大丈夫。葵さんも良くなりました。
きっと彼も良くなります」
言うと、抱えた虎柄が結希の頬を舐めた。
されるがまま舐められつつ、三毛柄の方を持ち上げる。
2匹を両脇に抱え、すぐに噴水公園に向かった。
虎柄はひっきりなしに結希に向かって鳴いていた。
何か言っているような感じもしたが、内容は全くわからない。
「うんうん。わかりました。葵さんもあちらにいます」
虎柄に相槌を打ちながら歩き、噴水に到着する。
「佐藤さんっ。2人は?」
「2人とも大丈夫です」
伸ばされた手を三毛柄の頭に触れさせる。
葵は血に濡れた毛に触れると、しくしくと泣き始める。
「さっそく中に入れてやりましょう」
結希は三毛柄を噴水に浸けた。
すると、腕の中にいた虎柄がもがいて、水に飛び込んだ。
「わわ」
光が猫達を包み、傷はいともたやすく治ってしまった。
「葵さん。2人とも治りました。腕もくっついてる!!」
「ああ・・・良かった。2人とも」
葵が触れようと手を伸ばすと、
虎柄が突然、目を閉じている三毛柄を水の中に沈めた。
「え・・・」
しばらくすると、三毛柄が水面から飛び出してきた。
うぎゃぎゃと大きな悲鳴を上げた後、三毛柄が虎柄に掴みかかる。
2匹のせいで池の水が方々に飛び散り、
結希も葵も銀狼も水飛沫を浴びた。
「三毛。虎・・・あんたたちってば・・・」
ため息をついた葵へ向かって、
猫達が池の中を器用に泳いで近付いていく。
ずぶ濡れの猫が葵の腕の中に入った。
猫達は口々に葵に向かって何かを訴えている。
「三毛と虎っていうんです」
葵は嬉しそうに言った。
血に濡れた頬の上を通り、赤く染まった涙が膝に点々と池に落ちる。
「ずっと頑張ってくれて。こんなになって」
手が三毛と虎の体を這うように動くと、顔を探り当てた。
やさしく触れる。
仕草に愛情が込められているのがわかる。
「三毛・・虎・・・」
結希は刺すような愛しさに襲われて、葵の細い背を撫でた。
「葵さんも」
「え」
「え。じゃなくて、葵さんも早く目を治しましょうよ」
結希は葵の手を取り、噴水の縁に座らせた。
葵は自分で水を掬って、おそるおそる目を洗った。
「うわ。ドロドロ」
何度も水をかけていくと、
血と涙が綺麗に洗い流され、腫れも引いていった。
結希がほっと息を吐いた時、葵と目が合う。
よかった。すっかり元通りだ。
「ああ。よかった」
結希がつぶやくと、葵の視線が逸れていき、宙を泳いだ。
「・・・?」
嫌な予感がして、結希は葵の肩に触れると、
びくりと身が跳ねた。
「あ、葵さん。大丈夫ですか?」
「う、うん。もう少し、水につけてみるね」
幾度か目を洗ってから、
「も、もう少し」
結希の手を借りて、葵は池の水面に顔を浸けた。
そのまましばらく動かない。
横から見ると、水中で何度も瞬きをしているようだった。
「ぷあぁっ!」
水面から顔を上げた葵は、自分の手の辺りに視線を向けたまま硬直した。
黙ったままの葵に、結希は声をかけられなかった。
すると、突然葵が笑い声を上げた。
「やっぱりかぁ・・・っあーやっぱり」
困ったような表情で俯く葵を、結希と三毛と虎が静かに見守る。
「佐藤さん」
顔を上げた葵が毅然と言った。
「はい」
「目。見えません」
「は・・・。な、なんで・・・」
結希の頭は真っ白になった。
葵の胸の上で握り締められている手が白くなっていく。
「『呪視』っていう、生き物がいるんです」
沈黙を破って、葵が口を開いた。
「・・・はい」
「私の目でしか見えない生き物で。
ホントは生き物かわかんないけど。
で、その子が、力を貸してくれたんです」
葵が銀狼の頭を優しく撫ぜる。
「この子を止めるには、それしかなかった。
『呪視』は、力を貸す代わりに、私の目が欲しいって」
「そ、そんな・・・」
そうか。
葵は銀狼からみんなを守るために、
自分の目を差し出したのだ。
だから、噴水の水を使っても視力が元に戻らないのだ。
「全部あげるって言ったんです。私・・・」
葵が口を一文字に引き結ぶと、
三毛と虎が交互に鳴き始めた。
葵は幾度か返事をすると、「仕方ないじゃん」と力なく呟いた。
「ごめんなさい。佐藤さん。せっかく助けてもらったのに」
葵が頭を深々と下げた。
「私・・・こんなんじゃ、一緒にいられない」
奈落に落ちるような声だった。
「私、佐藤さんとは一緒にいられない」
下げられた頭が小刻みに震えている。
「ちょ、ちょっと待って」
結希は葵の前に跪き、肩にそっと触れた。
「待って・・・ください」
鼻の頭と頬を真っ赤に染めて、葵は泣いていた。
葵が結希の腕を振り払う。
「こんなんじゃあ、一緒にいられないってば」
突き離すように放たれた手と声が胸に刺さる。
「目が、見えなくなった」
真横に倒れそうになった葵の体を支えると、
彼女が身を捩った。
「私、こんなんじゃ」
三毛と虎が鳴き始めると、「うるさい!」葵が一喝した。
葵は彷徨う亡者のようにふらふらと立ち上がり、どこかに行こうとする。
「待って下さい」
後ろから掴んだ肘がじっとりと濡れている。
「まって」
言った瞬間、葵の体が前のめりに倒れた。
結希は慌てて受け止めたが、
彼女は目を閉じたまま動かなくなった。
流れる汗と、真っ赤な頬と、悲しそうな眉と、
引きつけを起こしたような荒い呼吸。
両脇にやってきた猫達の声が遠くで聞こえる。
葵は身体をのけ反らせると吐いた。
水分が結希の胸にかかる。中には血が混じっているようだった。
「ああ・・・だめだ」
気の抜けた声を出しながら、結希は葵の背中を擦った。
彼女の胃と喉がゴロゴロと鳴っているのが聞こえる。
額に手を当てると、じんわりと熱が伝わってきた。
かなり熱い。
「ああ。だめだ」
結希は葵に水を飲ませようとしたが、
すぐさま吐いてしまう。
痙攣とまではいかないが、葵の背が小刻みに震え始めた。
水にぬれたせいで、体が冷えてしまっている。
「体を拭いて、暖めてやらないと」
おろおろしている結希に、三毛と虎が体当たりをしてきた。
「うわっ」
2匹は結希を指さすと、口々に何かを言った。
おそらく、落ち着けと言っているのだろう。
三毛が鞄からタオルを出してくれたので、
結希はそれを受け取って、葵の髪を拭いてやった。
虎が迅速な動きで火を焚き始める。
結希の精神は葵を失うかもしれないという恐怖心で、
極限状態に置かれていた。
そんな結希を、三毛と虎は結希をよく手伝ってくれた。
服を乾かすと、結希はみんなで配送センターへ向かうことに決めた。
そこなら寝床を作り、葵を休ませることができるだろう。
◇
頭を触られている感触がある。
柔らかい掌が、結希の頭を優しく往復する。
結希は身を捩った。
幼いころから、頭に触れられるのが嫌だった。
「ううん」
少しずつ頭がはっきりしてきて、撫でているのが葵だと気づく。
目が覚めたことで、頭部の不快感が増大した。
「・・・わ」
結希は一気に体を起こして、自分の頭を撫でていた相手を見る。
正座していると、小さな体がもっと小さく見える。
周囲が明るいので首を巡らせると、
結希のすぐ脇で三毛と虎が小さなランプを抱えていた。
いつのまに眠ってしまっていたのだ。
「あ・・・ああ。おはようございます」
かすれた声で言うと、葵がうっすらと目を開いた。
だが視力は失われたままのようで、結希を捉えることはできていない様子だ。
「おはようございます」
葵が遠慮がちに返事をした。
「佐藤さん。すみません。
あれからたくさん助けて頂いたみたいで」
虎が2、3度大きなあくびをした。
その間、結希と葵の間には沈黙が横たわったままだった。
ふと、葵が手を宙へふらふらと彷徨わせた。
結希は躊躇ったが、その手を下から掬い上げるようにして握った。
葵はほっとしたようなため息をつく。
「すみません。今、み、見えないから。場所がわからなくて」
「いいえ」
葵が手を握り返してくる。
それが思ったよりも熱かった。
「熱は」
「おかげさまで、だいぶ良いです」
涙と熱の篭った声だった。
「三毛と虎から聞きました。ここはすごい隠れ家だって」
「いいえ。見つけたのは偶然です。
ここは、繁華街から少し離れた場所にある、配送センターです。
アパートは駄目になっちゃって」
「え?」
「すみません。たくさん伝ってもらったのに」
「いいえ。こんなことになったんだから。仕方ないです」
2人が同時に俯く。
「ここは安全です。噴水もありますし」
「そうですね。噴水って建物の中にもあるんですね」
「僕も驚きました」
「あの。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
葵の謝罪は何に対してだろうか。
離れるべき相手に迷惑をかけたから、謝っているのだろうか。
そう思い、結希の胸に影が落ちる。
「・・・いいえ。僕の方こそ頼りにならなくて」
自分の不甲斐なさに苛立ち、結希はつい歯噛みした。
「あの。やっぱり目は」
「見えません。ごめんなさい」
葵はクスクスと笑った。
だが、結希は見た。
ランプの出すオレンジ色の光に照らされた、
笑っているのに、何かを責めているような
左右対称な表情をしている葵を。
結希の首すじに怖気が走る。
「な、なにか食べますか」
声を出すと、葵が頭を振った。
「気分が悪くて。すみません」
「じ、じゃあ、少し休んでおきましょう」
「は、はい。佐藤さんは、私に構わず食べてください」
沈黙が訪れる。
結希は掴んだまま手を離さない葵の顔を見た。
顎に傷がある。以前は無かったものだ。
知らない間に、葵にもいろいろあったのだ。
見えない溝のようなものが、2人の間にあるのを感じる。
結希は何も食べなかった。食べる気分になれなかったのだ。
結希は逃げるように外へ出た。
本当は一緒にいてやるべきだ。
結希の手に触れた葵のほっとしたような表情を思い出すと、
心臓が痛くなる。
だが、結希は葵と一緒に居ることが堪えがたかった。
傷ついた葵を見ていると、自分が生きていることを許せなくなる。
『雷獣』をその身に纏う。
身体の力が2、3倍に膨れ上がるのを自覚する。
倍速にしたような景色を抜け、
通常の人では到達できない速さで、
結希は立体駐車場の屋上まで駆け上がった。
だから何だというのだろう。
自分が許せないことは、誰かに責められるよりも数倍苦しい。
逃げ道のない感情を吐き出すため、結希は走った。
ここ数日でボロボロになった靴の裏が、
アスファルトと擦れて高い音を立てる。
真っ直ぐ走って端まで来ると、すぐさま切り返して走り出す。
もう失明しているかもしれない。
いくら走っても、頭に生じた考えは離れていかない。
その時、あたりにお香のような良いにおいが漂ってきた。
「?」
周りを確認すると、駐車場出入口のベンチの上に虎がいた。
虎の持つ槍の先に、格子のついた丸い物が括りつけられている。
匂いは、煙と共にそこから出ているようだった。
伏籠のようなものだろうか。
虎の出す匂いは、早朝の白い景色と、
生き物の気配が希薄な空気感とマッチした。
虎は槍をかざしたまま、走る結希の方には構わず、
ぼうっと宙を見ていた。
その目が、とても遠くを見ていたので、切なくなる。
あなたも、何かを考えているのか。
車止めを蹴ってさらに加速した時、顎から汗が落ちて散った。
◇
音を立てないようにドアを開けてホールに入ると、
ドアと結希の隙間をすり抜けるようにして虎が走って行った。
ホールの中心部、噴水のある場所に葵が座っていた。
丁度、噴水の水で目を洗っているところだったようだ。
虎が葵の膝に顔をうずめると、「何もなかった?」と言った。
虎が鳴くと、険しくなった葵の面がこちらを向く。
「佐藤さん?」
「はい」
結希はぎこちない動きで葵の横に腰かけた。
「虎と話ができるんですか?」
「はい。従者になった子とは、話ができるようになるんです。
2人とも楽しいんです」
「どうやって仲良くなったんですか?」
葵がポケットから帯のようなものを出す。
手に取ると、柔らかくて軽い手触りだった。
「これ、従者帯っていうんです。
身に付けると、私の従者になってくれるんです」
「ああ。それであの狼も」
「はい。
目が見えなくて、歯に巻き付けちゃったけど。
今度結び直してあげなきゃ」
三毛と虎が鳴くと、葵の頬が赤く、柔らかくなる。
「外に出てたから、心配だったの」
「え」
「佐藤さんが心配だったんだってば」
「は、はい。すみません」
向けられた顔が、以前会った時よりも痩せていた。
顎以外にも、いくつか小さな傷が見える。
首すじに、タトゥーのような模様もあった。
三毛と虎、そして銀を従者にして、『呪視』というわけのわからない
相手と取引をすることもできる。
それに、以前よりも気持ちを言葉にするようになった。
「葵さん。変わりましたね」
「え」
「いい意味で、変わったと思います」
三毛と虎がやいのやいのと鳴き始めた。
葵は人差し指を2匹の鼻にあてて黙らせる。
ちょっとあっちに行ってて、と葵が言うと、渋々2匹は離れて行った。
「自分ではわかんないです。
でも、私から見たら、佐藤さんだって、変わったと思う」
葵が言ったので、結希は目を逸らした。
「僕は、何も変わってないですよ。あの時のままです」
自身に対する侮蔑を込めて言うと、葵が笑った。
「佐藤さんに変わったって言われた時、
私もそう思いました」
「え」
葵が大きくため息をついた。
「やっぱり、迷惑ですよね」
気落ちした声で、彼女は顔を両手で覆った。
結希は訳がわからず、おろおろするばかりだった。
「私も、どうしたらいいか分からないんです。
あの時、言った言葉も、本当に、今でも思ってることです」
葵が何を言っているのかわからず、結希は戸惑った。
ただ、会話が良くない方向にいっていることだけはわかる。
「あ、あの」
頭が追いつかず訊こうとした時、三毛と虎がやって来た。
2匹はそれぞれ、どこから持ってきたのかわからないお盆と、
その上にスープの入った皿を乗せていた。
「え」
三毛と虎が葵と結希にお盆を渡すと、木のスプーンを取り出した。
食べろと言っているのだ。
結希はスプーンを受け取りながら葵を見た。
下を向いていた葵も、虎がしつこくして食べさせた。
葵が食べ始めると、結希もスープを頂くことにした。
腹が減っていたのか、スープはとてもうまかった。
身体が温まり、人心地がつく。
「お2人が、作られたんですか?」
結希が訊くと、三毛と虎が頷いた。
どうやらそうらしい。
「そう。佐藤さんと虎が外に出ている間に、
三毛が作ったんです」
葵が大きなため息をついてから、結希に言う。
葵から不穏な空気を感じて、結希は首を竦めた。
食べている間葵は些かと、今までのことを話し始めた。
小鬼などの外敵が地上に出現して、世界中がパニックになったこと。
当時、母親とは学校のことで喧嘩をしていて、
家には自分しかいなかったこと。
隣の家が火事になっていて、外に避難したこと。
逃げていく人についていき、近所の中学校に避難したが、
たくさんの外敵が襲ってきて、自分も危ない目に遭ったこと。
途方に暮れているとき、三毛と虎が従者になってくれたこと。
三毛と虎、銀狼も含めて、地上に出現した外敵は、
他の世界からフォルトゥーナが連れて来てくれたらしいこと。
2匹は重要な知識を持っており、噴水公園の水の効果や、
辺りには外敵は近づけないことを教えてくれたこと。
この狼は森に変貌したキラリ―ランドに行った際に、
出会ったこと。
銀狼の餌として、狙われるようになったこと。
噴水公園で結希と会う約束をしていたので、銀狼に見つからないように
気を付けながら周辺を捜していたこと。
そこまで話して葵が急に黙り込む。
静まり返ったホールで、
結希がとうとう緊張し始めた頃、葵がつぶやいた。
「電車で別れた後」
「え」
「あの顔が気になってた」
「顔って、僕の?」
「うん。
あの後。なんで連絡してくれなかったんですか?」
結希は逡巡した。必死に葵の話についていこうとする。
「ご飯食べた後?」
「そう。心配した」
「すみません」
謝るが、葵は眉間にしわを寄せたままだ。
結希は全てが終わり始めた夜のことを思い出す。
「あの後、身体を動かしていたんです」
葵が表情を硬くするのを見て、結希は「落ち着かなくて」と告げた。
葵は溜飲を下げたように、眉を上げる。
「そう、だったんですね」
「はい」
「私も、落ち着かなかった。
佐藤さんと離れたこと、ずっと気になってた」
思いつめたような葵の言に、結希は息をするのを忘れた。
「僕のことですよね」
「そうです。そういう話。これは。
だから、会った時は絶対に役に立ちたいと思ってた。
ずっと」
葵の言葉が、以前よりも真っすぐで、結希は戸惑うばかりだ。
「それで・・・?」
「え。ああ。それで。そしたら。
小鬼が人を襲っているのを見つけたんです。
助けようとして、喧嘩になりました」
息を呑む音が聞こえる。
「あの後?」
「はい。
うまくできなくて、怪我しちゃって。その人も助けられなかった」
「そ、それで?」
「それで、気が付いたら、僕は、
事故に遭った救急車の中に居ました。
周りは誰もいなくて」
葵の顔がオレンジのランプに照らされているのに
分かるくらい真っ青になっている。
結希は息を吸った。吸って、言った。
「全部、めちゃくちゃになったあとでした」
結希が目覚めた時、何もかも変わってしまっていた。
あの時の絶望を思い出す。
葵が膝に顔をつける勢いで頭を下げた。
「ごめんなさい。佐藤さんも大変だったのに」
「いや、僕が間抜けだったんです。
フォルトゥーナさんが、あれだけ警告してくれていたのに。
葵さんのこと、その、連絡しようと思ったんです。
でも、スマホがなくて」
結希の言葉を聞いて、葵の見開いた目が涙を浮かべた。
「ごめんなさい。私、自分のことばっかりで」
「いいんです。葵さんも大変だったんですから。
僕なんかよりもずっと・・・」
長い沈黙が訪れる。
その間、2人のスープを飲む音だけがホールに落ちた。
「そ、そういえば、狼さんは」
「え」
「狼さん」
「うん」
「名前はもう付けたんですか?
ほら、三毛さんと虎さんにはあるから」
「ええ・・・。
付けました。銀ちゃんっていいます。
銀色だから」
「銀、さん?」
分かりやすくて呼びやすいが、少し安直な気もする。
「はい。
銀ちゃんは、大きな森に一頭しかいない、
すごい狼なんです。
だから、ちょっと気安すぎたかなって」
「ああ、確かに近寄りがたい雰囲気あります」
葵が数度頷く。
「銀ちゃんは、三毛と虎と違って、
私と話してくれないんです。
2人によると、銀ちゃんはすごく賢いから、絶対話せるはずだって」
葵は話し終えると、また俯いてしまう。
「きっと、話してくれます」
「そうでしょうか」
「そうですよ」
結希が飲み終えたスープの皿を、三毛が片付けてくれる。
葵は介助されている分、まだ終わっていないようだ。
「葵さんは、フォルトゥーナさんに
弟さんがいるのは知っていますよね」
「え、ええ。知っています」
「弟さんは、フォルトゥーナさんのために、
人間を絶滅させようとしている」
「はい」
「弟さんはフォルトゥーナさんにバレないように、
隠れていろいろしているみたいなんです」
「弟さんが、何をするんですか?」
「具体的には、わからないんですが」
葵は少し考えている様子を見せてから、銀を呼んだ。
今まで一体どこにいたのだろう。葵の背後から銀が現れた。
「ちょっと後ろを向いてくれる?」
銀はひとつ欠伸をすると、そろそろと背を向けた。
足の付け根に、美しい銀の毛並みには見合わない、
赤黒い瘤があるのが見えた。
この瘤は、見覚えがある。
このホールに入る前に戦った、大鬼と同じものだ。
「こ、これって」
「はい。ご存知なんですか?」
「はい」
「これ、きっと弟さんの力です。
フォルトゥーナ様と会った時に弟さんの雰囲気を、
銀ちゃんの『これ』から感じるんです」
「これが、弟さんが隠れてやっていること?」
葵が頷く。
「フォルトゥーナ様にもらった目で見た時、分かったんです。
『これ』は、痛みを与え続けて、理性を失わせて、
ひどく感情的にする病気みたいなものです」
「理性・・・?」
「従者になった子達と私は、心臓が繫がるんです。
ちょっと意味がわからないかもしれないけど、
一心同体になるっていうか。
離れていても、痛みとか不安とか、そういうものを
互いに感じ取れるんです。
銀ちゃんは、今も『これ』のせいでずっと苦しんでいます」
結希はここで戦った大鬼のことを話した。
あの大鬼の首にも、瘤のようなものがあったからだ。
瘤が『トールの雷』を吸いこんで、
結希の攻撃を阻害してきたのは記憶に新しい。
「瘤は、佐藤さんの電気を封じた」
「はい」
葵が心底残念そうな顔をする。
結希も同じ気持ちだった。
「ここにある食べ物は大鬼に全く荒らされてなかった」
葵が首を捻る。
「鬼は基本的に食べ物を探してます。
ここに入った大鬼も、普通なら食べ物を探しに入って来たはず。
それなのに、食べ物を荒らさずに、噴水を守るようにしてただけ」
葵が震える唇に手を当てた。
「弟さんは、佐藤さんが噴水を見つけないようにしたかった」
葵の言に、結希は頷いた。
銀の瘤からも、大鬼からも、明らかに意図を感じる。
結希と葵は、弟神ミーミルの標的になっているのかもしれない。
長い沈黙が訪れる。
破ったのは、葵だった。
「ごめんなさい。こんな時に、役立たずで」
「そ、そんなこと」
「銀ちゃんはまだ『これ』のせいで苦しいんです。
私がしっかりしてないと駄目なのに・・・」
言った葵の体が傾き、お盆と皿が膝から落ちる。
結希は葵の体を持ち上げて、寝床の上に横たえた。
「あ、あれ・・・」
倒れたことに気が付いていないのか、葵が目を瞬いた。
これ以上話すのはやめよう。
「少し休みましょう」
「え、いや。私は大丈夫です」
「僕が疲れたんです。お願いします」
そういうと、不承不承ながら葵は頷いた。
「近くにいますから、何かあったら言ってください」
伝えると、結希は立ち上がった。
ミーミルが関わっている可能性がある以上、生き残るだけでは駄目だ。
もっと訓練をして、『雷獣』や『麒麟』をうまく使えるようにならなくては。
強くならなくては。
ありがとうございました。
次話は来週に更新いたします。




