表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/135

27話 葵

27話です。よろしくお願いいたします。

挿絵(By みてみん)

葵は倒れている結希のもとへ飛びついた。

「佐藤さんっ。佐藤さん」

結希の肩を揺らす葵の傍らにやってきた虎が、

怪訝そうに眼を細めた。

<こいつ、怪我してるにゃ?>

虎の言う通り、結希のジャケットと手足は血まみれだった。

葵はわずかに抱いた希望が砕け散る恐怖に怯える。

「ああ。本当だ・・・大変!」

<葵さま。背に矢が刺さっています。触れてはなりません>

葵の肩に手をやって制止すると、三毛が神妙に言った。

結希の背に、細い棒が突き刺さっていたので、

葵は目の前が暗くなった。

「ひ」

三毛が葵の手を強く掴む。

<どうか落ち着いて下さいまし。

虎よ。こいつとは何か。葵さまの雄殿ぞ>

葵は三毛の手を握り返して深呼吸すると、結希の顔を見た。

痛々しく血のついた頬が、くっきりと筋張っていて青白い。

ああ、なんて痛々しい。

彼はたった一人で、どれだけの苦労をしてきたのだろう。

姿勢を投げ出して、結希の頬に顔を寄せた。

でも、まだ温かい。生きている。

その時、結希が小さく呻いた。

「うっ」

「佐藤さんっ。佐藤さん!?」

思わず葵が結希の体をゆすると、三毛が制止した。

<葵さま。駄目です。動かしてはいけません。

まずは手傷をしっかりと確認してからでありませんと>

葵は三毛と虎に手伝ってもらいながら、

結希の身体をゆっくりと動かして横向きにした。

虎によると、こうすることで呼吸がしやすくなるのだという。

「頭をそっと支えて」

三毛の指示で頭を少し持ち上げてやる。

結希の頭部はずっしりと重たかった。

<急所ではありませんが、

これでは体に力が入りませんな>

背中に刺さっている矢は、反対側まで突き抜けていた。

「だ、だだだ大丈夫なの?」

<細い矢で、骨を避けて刺さってるにゃ。

血はそんなに出てないけど、このままほっといたら死ぬにゃ>

「そんな・・・死ぬって・・・」

再度結希の名前を呼びながら、体をゆすった。

「あ、葵さま、動かしては駄目です・・・」

その時、結希が何かを呟いた。

「なにか言ってる!」

慌てて口元に耳を近づけると、金臭い匂いがした。

その時、顔の真横で空を切る音がした。

<ウギャアウウゥゥ!!>

虎の激しい鳴き声が上がったとほぼ同時に、

堅いもの同士が激しくぶつかる。

大きな音は音叉のように耳に残る。

「・・・え」

突然頭を叩かれた子どものように、

葵は唖然としたまま身を硬直させた。

<伏せて!>

背中を三毛に足蹴にされ、

葵は結希に覆いかぶさるように身を伏せた。

「な、なんなの?!」

危機的な状況においやられた野生の獣のように、

三毛が奇声を上げる。

小鬼の時も、セベクに囲まれた時も、

三毛はこんな声は出さなかった。

異常事態が起こっているのだ。

身体に数十キロの荷物を載せられたような、

強烈なストレスを感じ、唇をかみしめた。

「つつっ」

肩口の皮膚がピリピリと裂けたように痛み始める。

まさか、いけにえの印が、とそう思った時、

視界の端に、白銀の毛並みが見えた。

<森の主にゃっ!>

銀狼に向けて槍を突き出した虎が、

後ろ足に蹴り上げられて吹き飛ばされる。

三毛が銀狼と葵の間に割り込んで、地を這うように低く構えた。

<雄殿の血の匂いか・・・>

三毛が心底悔やんだようにつぶやく。

銀狼は葵ではなく、結希の血の匂いに誘われてきたのだ。

それが偶然、銀狼と葵と再会に繋がってしまった。

「ぐ」

葵は痛む肩を押さえながら、銀狼を睨みつけた。

銀狼の方も、ひたとこちらを見つめ返してくる。

絶望ではなく、闘志でこころを満たすために、

葵は腹に力を入れた。

あの時、プールから上がる時に決めたこと。

自分はどんなことが起こっても、諦めないし、止まらない。

背中が裂けても、噛みつかれても、

今度こそは最後まで泳ぎ切るのだとこころを鼓舞する。

虎が戻ってきたので、銀狼の意識がわずかに逸れる。

「噴水へ!」

三毛と虎に返事はなかったが、

葵は2匹を信じて、結希に手を伸ばした。

「ごめんねっ」

傷に障るのを承知の上で、脇を抱えて上半身を起こさせる。

重い。

男性一人を抱えることがこんなに大変なんて。

しかし、弱音を吐くことは許されない。

いまこそ全身全霊で戦うときなのだ。

腕を浮かせて肩に掛けて、全身の力で持ち上げようとする。

だが、駄目だ。持ち上がらない。

「ふぅ・・・! ふぅ・・・!!」

腕の力だけでは持ち上がらない。足腰を使うしかない。

葵は腰の位置を結希の体の真下へ入るよう調整した。

「ぃよおぉいしぃよぉ!!」

太ももに力を入れて、立ち上がると、

なんとか結希の体を持ち上げることができた。

踏んだ蹈鞴が短すぎて横倒れしそうになるのを、

無理矢理体重移動でやりすごす。

まだ抱えたばかりなのに、汗が噴き出してくる。

できた。すごいぞ私。

葵は顔を上げたが、姿勢が低いので視野が極端に狭い。

公園の方向へ見当をつけて歩きはじめると、

虎と三毛が爪を鳴らしながら追従してくる。

銀狼の唸りが間近で聞こえ、幾度か金属が激しくぶつかり合う音がした。

「ふぅーーーーっ! はぁーーーーーっ!

ぜぇーーーーーっ!」

2匹が必死で守ってくれている。

早く進まなくては。

三毛虎と銀狼がいくつかの攻防を終えた時、

<槍が折れたにゃ!>と虎が焦った声を上げた。

<使え>と三毛がすぐさま応じる。

三毛と虎は無事なのか、状態をこのまま維持できるのか。

姿勢を低くして歩いている葵には、2匹を目視することができない。

「だ・・・大丈夫?」

こちらの迷いを悟ったように、三毛が言う。

<葵さまは、気にせず進んでくださいっ!>

「わかった・・・」

今までに体験したことのない、大きな圧力が葵の全身を締め付けている。

めまいがひどくて、葵は途中で何度も休憩した。

その度に、三毛と虎に多大な迷惑をかけてしまうのがわかる。

「はぁ・・・はぁ・・・」

心の中で謝りながら歩を進める。

ごめんなさい。ごめんなさい。

2人とも、どうか無事で。

銀狼が攻めてくるようになったのか、

苛烈な攻防が葵のすぐ脇で起こるようになる。

<うみゃあ!!>

<虎っ。しっかりしろ!!>

結希の重さに加えて、背中全体に皮膚を剥がされるような、

灼熱の痛みに葵は苦しんだ。

「く・・・ぐぐ・・・」

突如襲われた寒気に葵の体が反応して、全身の毛を欹てた。

とても熱いのに、寒気を感じるのだ。

ああ、熱いと寒いは似ている。

<虎っ・・・あ・つれ・・行け!!>

重い打撃音と、自分の悲鳴。

三毛の声。

何かが落ちた音。

後ろから押される感触。

<葵。もうすぐだにゃ。まっすぐ行くにゃ>

「虎?」

葵は怪訝に思った。

虎の立ち位置は普段三毛よりも前だ。

それなのに、なぜ葵の近くにいる。

聞く間もなく、素早く気配が離れていく。

葵はずっと下を見ながら歩いていたが、

足先に触れるようにして、光の筋が見えた。

これは、フォルトゥーナの気配だ。

噴水公園の入り口が近いのかもしれない。

痺れて感覚のない手を引き絞り、一歩一歩進んでいく。

そして葵はついに、噴水公園の敷地に入った。

「・・・っ?!」

後方で打撃音がして三毛の悲鳴が聞こえた。

無意識に足を止めると、

<葵っ。振り向くにゃ!!

こちとら、足手まといがいなくなって、やっと本番なんだにゃ!>

という虎の叫び声が背にぶつかった。

必死に平静を保っているが、苦しそうな声だった。

涙があふれてくる。

背中越しに、2匹の戦いが激しくなったことが伝わってくる。

「死な、ないで」

胸が軋むように痛んだが、

彼らのためにも、今は振り返っては駄目だ。

「必ず、戻るからっ!」


   ◇


葵は急ぎ行き、噴水の縁に結希を寝かせた。

静かにしていた結希が、不意にせき込んで血を吐いたので、

葵は心臓が止まる思いがした。

「結希。大丈夫?!」

葵は結希の上着を急いで脱がせる。

シャツについた真っ赤な血が目の前に飛び込んできた。

ショックを受けて思考が一瞬止まる。

「駄目っ。しっかりして」

葵は痺れた手で水を掬って結希の傷にかけた。

血は洗う度、追加されて流れ出てくるようだった。

「結希。お願い。おねがい・・・」

結希の顔色は、真っ青を通り過ぎて土色をしていた。

人の顔がこんな色になるなんて、知らなかった。

「結希。治って。お願い」

結希が口を開けて、何かを言った。

「佐藤さん。どうしたの?」

葵は『真実を見通す目』で結希のオーラを見た。

胸から腹にかけて、オーラに淀みがある。

喉にも。

患部が内蔵にあるのだとようやく気付く。

噴水の水を飲ませれば良いかもしれない。

葵は手酌で結希に水を飲ませた。

だが、大半を咳き込んで吐き出されてしまう。

「・・・」

葵は自分の口に含んで、結希に口づけすると、

水を少しずつ飲ませていった。

結希は体力を失っているのか、

せっかく口のなかに入った水を咳き込んで、

だらだらと吐き出してしまう。

「お願い。飲んで。・・・お願い」

パニックになりたい気持ちを押さえて考えた。

どうすればいい。どうすれば飲んでくれる?

葵はそっと結希の胸に触れた。

「そ・・・そっか」

飲ませるタイミングが大事なのだ。

「佐藤さん。水を飲んでほしいの。お願いね」

『真実を見通す目』で結希のオーラを凝視すると、

呼吸のタイミングを合わせて飲ませてみる。

今度はすんなりと水が入った。

「ああ。よかった」

焦って多くを飲ませようとしないで、少しずつ着実に飲ませよう。

コツを掴んだ葵は、幾度か口づけを繰り返して、

水を飲ませていく。

血の匂いが葵の口の中に入って来て、どきりとする。

「元気になって・・・」

徐々に、結希の顔色は良くなっていった。

「ああ。よかった」

胸が熱くなる。

葵は何度も水を口移しして、水を飲ませていく。

結希は飲み込んだものが気管に入ったのか、大きく咳き込んだ。

「ごほごほ・・・・ああしんじゃう・・・」

結希の虚ろな目が、ひたと葵に定まる。

「・・・葵さん」


ずっと、そう呼ばれたかった。


女神のおかげで、結希が治った。

葵は結希の頭を抱き寄せた。

「よかったぁ~。佐藤さんっ」

「やっと会えました。ずっと探してて・・・」

「ほんとだよ。まったく~」

葵は嗚咽した。

葵と同じで、彼も会うためにここへ来てくれた。

こんなにぼろぼろになってまで、自分に会いに来てくれていた。

葵は嬉しさで一杯だったが、

遠くで三毛と虎の戦いの音を聞き、体を離した。

「佐藤さん。今、私たち・・・」

葵が簡単に状況について説明すると、

結希が神妙な面持ちで頷く。

「僕も手伝います。でも、その前に」

ちょっと手伝って下さい」

再会の余韻をそのままに、

葵は結希の背中に刺さった矢を引き抜く役を与えられた。

矢は簡易的なもので、鏃に返しがついていないため、

そのまま引き抜けば、矢を取り除くことが出来るそうだ。

「ただ、思いっきり引っ張るだけでいいんで。

あとは噴水の水で治りますから」

「そんなこと言っても・・・」

聞いただけでも痛そうな作業に、葵は背筋を震わせた。

「こ、こんなこと、頼んですみません」

頭を下げた結希の頬が青白く光っている。

「だ、大丈夫っ。私だって・・・」

結希から説明を受けると、葵は息を止めて、

矢と結希の体がなるべく垂直になるように工夫をしながら、

体重をかけて矢を引っ張った。

「うっ」

「ご、ごめんなさい!!・・・いたい?」

「だ・・・大丈夫。そのままやって下さい」

葵は再度、矢を引き抜きにかかる。

結希の唸り声が、頭の中に反響する。

「あと、半分」

残りが3分の1程度になった瞬間、

突然矢がすっぽりと引き抜けて、葵は後ろに倒れた。

「うがぁ・・・いたたぁ」

葵は矢を後ろに放り投げると、

すぐさま水を酌んで傷にふりかけた。

「佐藤さん。どう?」

顔を覗き込むと、

汗まみれになった結希の顔にほんのり赤みが差す。

先程よりも顔色がよくなっている。

「ありがとう。もう、大丈夫。

行こう!」

結希が葵の頭に手をのせると、先を促した。

「はい」

2人は走り始める。

「そういえば、友達って?」

「うん。友達っていうか、従者っていうか・・・味方?

虎と三毛っていうんだけど、私達を守るために、

戦ってくれてるの」

目の前が真っ白になり、足がふらつく。

結希が脇を支えてくれた。

道路に出ると、車線を挟んだ向こう側の歩道に三毛が立っていた。

「三毛!!」

三毛から少し離れた信号の下に、三毛もいた。

怪我をしているのか、苦しそうに蹲っている。

よく見ると、虎の腕の肘から先が失われている。

止血するために、虎は自分で紐を腕に巻こうとしていた。

「と・・・虎!!」

葵に気付くと、虎がニヒルな笑みを浮かべた、

その視線の先、銀狼が虎から数メートル離れたところで、

ちぎった虎の腕を咥えている。

背を盛り上がらせた銀色の体には、目立つ傷はひとつもなく、

その牙からは変わらぬ殺意がにじみ出ている。

「どうしよう!・・・・2人が死んじゃう」

葵の肩に結希の手が優しく置かれた。

「あの怪我をしている猫、みたいなのが友達で、

あの白い狼が敵?」

「うん」

「わかりました」

先程まで途切れ途切れだった結希のオーラが、

針のように鋭いナイフのように尖って、銀狼に向けられる。

厳しくも逞しい、精悍な結希の横顔を見て、

葵は息を詰まらせた。

「やってみます」

言うと、結希が銀狼に向かって走り出した。

結希を認めた銀狼が、虎の腕を吐き捨てた。

石ころのように地面に落ちる虎の腕と、飛び上がる銀狼。

高速で狼が向かった先は、重傷を負っている虎だ。

「ああっ」

葵が悲鳴を上げた瞬間、結希の足元で火花が咲いた。

稲妻のような轟音と、全てを白く染める光。

世界が音と光に包まれた世界へと一変する中、

葵の『真実を見通す目』だけが、銀狼まで迫った結希を捉えた。

結希は一瞬の内に、どうやってあそこまで行ったのか。

彼の右手に、太陽のごとく燃え盛るオーラが集中する。

そこから突如、雷電が生じた。

周囲を照らす光よりも、さらに凄まじい光が生じる。

雷電は、結希の伸ばした手先から

銀狼の体内へ送り込まれて爆発する。

瞬間、凄まじい速さで何かが交錯した。

銀狼は地面に叩きつけられ、結希は遅れて静かに着地した。

銀狼のオーラはわずかだが揺らいで小さくなり、

結希の方は燃えるように大きくなっていく。

「すごい」

銀狼は苦しそうに身を捩りながら立ち上がったが、

すぐには動き出さない。

結希という思わぬ伏兵が現れたことで、警戒しているようだった。

円を描くようにゆっくりと、銀狼は結希の周囲を巡り始める。

「・・・佐藤さん」

固唾を飲んで見守る葵の前で、両者に動きが生まれた。

先に仕掛けたのは結希だ。

結希はまっすぐ走ると、銀狼の一歩前で進路を変えた。

迎え撃つ銀狼の顎が空を切り裂く。

葵は結希のオーラが右足に集中しているのを察知する。

稲妻が発生し、結希が閉じた銀狼の顎を蹴り上げる。

銀狼の体が大きく持ち上げられ、縦に一回転して地面に落ちた。

すかさず追撃をしようとした、結希の動きが止まる。

銀狼がすぐに態勢を整えたからではない。

結希のふくらはぎが爪で引き裂かれていたからだ。

「佐藤さん!!」

オーラを見たところ、銀狼に痛手はない。

おそらく自ら大きく飛びあがることで、

結希の蹴りの衝撃を逃がしたのだろう。

葵は奥歯を噛んだ。

もしかしたら、先程の雷電も寸でのところで躱されていたのかもしれない。

銀狼のオーラが禍々しく燃え上がり始める。

対して、結希のは勢いはあるものの、質量は減っていく。

「まさか・・・」

結希は無理をして戦っているのだと、葵は気付く。

彼のオーラは一瞬だけ燃え上がるマッチと同じで、

長くは続かないのだ。

「どうしよう」

銀狼が結希に突っかかっていくと、結希は素早く躱した。

だが、最初の時と比べると動きが悪い。

結希が苦しそうに呼吸をしながら、腹を押さえた。

あそこは、丁度矢が刺さっていた場所だ。

表面的には塞がったように見えても、

完全には傷が癒えていないのだ。

前かがみになった結希の眼前に、銀色の軌跡が走る。

銀の爪を躱せず、結希は胸部を引き裂かれ後ろに転倒した。

「ああっどうしよう」

虎も、三毛も、せっかく会えた結希も、

このままではみんな死んでしまう。

「誰か」

思わず辺りを見渡すが、周囲には自分達以外誰もいない。

倒れたところに追撃された結希が、

全身に光を纏い、信じられないスピードで飛び退いた。

着地と同時に跳ね上がり、結希が掌を銀狼に向けると、雷光が煌めいた。

まるで雷のような轟音がして、銀狼の鼻先が真っ白に光る。

「わ」

辺り一面が光に紛れたが、葵の目は銀狼が

全身をバネのように撓らせて、

雷光の範囲外に逃れたのをしっかり捉えた。

「ああ・・・」

あれでも、ダメなのか。

結希が明らかに残念そうな表情を浮かべる。

おそらく渾身の一撃だったのだ。

それを見て、すぐに銀狼が攻勢に出る。

恐ろしい速さで結希に襲いかかり、幾度も爪で引っ搔いていく。

攻撃を与えられながらも、結希は何とか体勢を立て直そうと動いたが、

そこを狙い撃つように銀狼が後ろ蹴りを放った。

もんどりうって倒れる結希。

見ている葵の視界が涙で揺らぐ。

「佐藤さん・・・」

葵は我に返ったように、頭を振った。

「誰に助けてもらうつもりだったんだ。

私って、ばかだ」

自分以外に、自分を助けてくれる人はいない。

それは自分が一番よく分かっていたはずなのに。

葵は唸りながら、自らの頬を叩いた。

動け。今すぐに。

「三毛!虎!」

葵がほぼ死に体の従者に指示を出す。

間に合うかどうかは、微妙な線だった。

結希に向かって放たれた体重の乗った一撃を、

まさに間一髪、三毛と虎が割り込んで何とか受け止める。

「もう少しだけ、頑張って!!」

弾き飛ばされた2匹に向かって葵は叫ぶと、周囲を見回した。

呪視から力を借りるしかない。

<ぎゃんっ>

銀狼の鋭い前足が、三毛の横面にまともに当たった。

顔面が体毛ごと引き裂かれ、鮮血がパッと宙に花を咲かせる。

「あ」

目の前の惨劇に、葵は我を失いかけた。

すぐに三毛に駆け寄りたくなる。

でもそんなことをしたら、2匹の頑張りを台無しにしてしまう。

痛いほど胸を鷲掴みして、歯を食いしばって堪える。

「・・・呪視・・・どこなの?!」

叫び出しそうな焦りを必死で押さえて、

葵はこころを研ぎ澄ます。

「きて・・・私の前に」

きっかけはいつも目の前にある。

だが、それに手を伸ばすのが怖かった。

葵は傍観者だった。いつも、そうだった。

お父さんとお母さんが離婚したときも、

葵は自分が何をしても結果は変わらない、

と思い込んで何もしなかった。

いじめられているときも、先生が助けてくれる、

お母さんが気付いて助けてくれる。

だから、いつも自分からは何もしなかった。

自らを助ける方法が、探せばたくさんあったのかもしれないのに、

結局探すことすらしなかった。

だから、死んだんだ。

「どこ?どこにいるの?」

呪視という探し物は、果たして見つかった。

「あんたってば・・・そんなところに」

轟音が周囲を満たし、葵は伸ばした手を止めた。

結希が空中で電流を放ち、狼はそれよりも

早く跳び上がって距離を取る。

結希は頑張っているが、完全に動きを見切られていた。

恐怖を感じるほどの素早い動きで、銀狼が結希の懐に入り込む。

庇った三毛の盾が、銀狼に蹴り飛ばされる。

円盤のように回転しながら飛んでいく盾の下で、

竜巻のように回転した銀の軌跡が、

無防備な三毛をずたずたに引き裂いた。

「!」

きりもみになって飛ばされた三毛が、

アスファルトに頭部を打ちつけて沈黙する。

自分の心臓が五月蠅くて、三毛の生死はわからない。

銀狼の背後から虎が現れ、片腕ながら鋭い槍の一撃を放つ。

舞い散る枯葉のように、銀狼が切っ先を逃れる。

この狼には後ろに目がついているのか。

そんな馬鹿な、といった表情で虎が口を開けた。

反撃は間断なく訪れ、虎はその幾度目かに倒れた。

三毛と虎が倒れ、銀狼の目が葵に向けられる。

そこに結希が割って入った。

「まだ、まだ」

結希の動きが気に障ったのか、銀狼がわずかに歯茎を見せた。

ろろろ、と聞いている者を震え上がらせるような唸り声が聞こえる。

結希が身の内にある全ての力を終結させて、

電流を繰り出すが、それはあまりに儚い一瞬の光に過ぎない。

攻撃にすらならないただの光を見て、銀狼が悠然と歩を進めた。

結希が拳を繰り出すが、銀狼の体当たりによってもろとも打ち砕かれる。

「うう」

倒れた結希の顔面を、銀狼の顎が覆いかぶさろうとした。

その時。

「待て!!」

腹から叫んだ葵の声は、思ったよりも響く。

銀狼が牙を止め、不快そうにこちらを向く。

「あんたの狙いは私だろっ。この馬鹿!!」

葵の言葉が理解できるのかわからないが、

銀狼が苛立ちを目に宿す。

「こっちに来いよ。私が相手だ!!」

銀狼がこちらに一歩踏み出してくる。

恐怖に手足が震えて、役立ちそうになかったので、

まず葵は生を諦めることにした。

私は今から死ぬ。

「私は、死ぬ。で、ででも」

でも、それはやることを全部やってからだ。

そう決意することで、全身に受ける死への恐怖を中和する。

首から頬、頭部に向かって一列に走る怖気を、気力で振り払う。

「・・・一回死んだんだ、私は。

こんなの慣れっこだ・・・」

葵はあろうことか、笑った。

極限状態で笑ったことが、葵の集中力を不思議と高めていく。

「・・・ふぅ・・・ふぅ」

あの森で、最初に銀狼に出会ったときのことを思い出す。

あの日に噛まれてから、葵は狼の獲物になった。

すぐにでも食べられたはずなのに、葵はなぜか逃がされた。

そもそも、三毛の言う通り、狼が力を示すために

いけにえの印を獲物につけるのなら、弱い葵は不適合だ。

銀狼は気高い生き物だ。

弱い葵をいたぶって殺すのは本懐ではないだろう。

『真実を見通す目』。

呪視。

従者帯。

そして、いけにえの印。

葵の頭の中で、今までの出来事が、

パズルのピースを組み合わされていく。

銀狼が眼前に迫った時、葵はひとつの答えを導き出した。

違っていたら、ごめん。でも。

みんなが助かるためには、この方法しかない。

じっとり汗をかいた指先で、従者帯を握りしめる。

銀の刺繍がされたリボンには、野を走る狼が表現されている。

「よく似合いそう」

銀狼が来るまでの間、葵は少しずつ後ろに下がっていた。

葵と狼の戦いに、他の仲間を巻き込まなくて済むだろう場所―――

己の死に場所になるかもしれない場所―――で葵は足を止めた。

汗なのか血なのか、背中全体に湿ったような不快感がある。

おそらく、銀狼を前にした葵のいけにえの印が、

甚だしく裂けているのだろう。

銀狼が準備運動をするように、前足で地面を掻き、口を開閉させた。

銀狼の動きどれ一つをとっても、葵は反応すら出来ないだろう。

だが、それでいいのだ。

なぜなら、どれだけ怖くても痛くても、『なにもしない』ということが

葵の戦いだったからだ。

銀狼が翻るように走り、少ししてから口が大きく開いた。

無数の牙と、底なしにも見える喉奥が見える。

何もかもがスローモーションだった。

葵は身を硬直させたまま、

肩口から胸にかけてを大きな口で噛みつかれるのを見届けた。

食い込んだ牙が食い込み、強い圧力が全身にかかる。

葵は今まで銀狼に喰われた獲物達と同様に、

悲鳴も息も出せなかった。

銀狼が細かく口を左右に揺らすと、

葵の膝から力が完全に抜け、その牙に葵の全体重が乗った。

ブツっと何かが潰れるような物騒な音がして、

耳に何かが詰まったみたいに聞こえなくなる。

「・・・は・・・は・・・かは」

意識を繋ぎ止めていられたのは、狼の牙と葵の体の間に、

運よく入り込んだ右腕のおかげだった。

右腕のおかげでわずかながら顎の圧力から逃れられたが、

それでも銀狼の顎は強靭で、あと少しでも噛み締められたら、

葵はあっという間に絶命するだろう。

だが、それも含めて、葵の狙い通りだった。

その一点を頼りに、葵は全身全霊で動き出す。

「・・・ぐ」

呪視。

葵が念じると、呪視はどこからともなく現れた、

最初はひとつだけだったが呪視は、

蟻の大群のように、列を成して集まってくる。

悍ましい動きで呪視は質量を増やし、

銀狼の脇に筒状になってせり上がった。

葵は銀に対するもの以上の畏怖を、

呪視に対して抱かざるを得ない。

黒い筒は表面からわずかな枝葉と、

表面に細かい針のような毛を生じさせる。

見たことの無い変化だった。

「・・・」

葵は、この悍ましく恐ろしい呪視という存在が、

一体何なのか考えてきた。

三毛と虎が言うには、

呪視に生はなく、ただ現象を司るだけの存在だという。

それがなぜ、呼ぶだけで現れるのか。

葵に執着するのか。

おそらくそれは、女神にもらった目だ。

呪視が力を発揮した時、決まって葵の目は痛くなった。

呪視は葵の目を欲しがっている。

厳密には目の光を。

それを差し出すことで、呪視の力を借りることができるかもしれない。

私の目をやる。

だから、この子の動きを止めなさい。

葵が念じると、呪視が身の脇から鹿のような太い

角を生やして大きく広がった。

角のひとつひとつにも細かい瞼があるのが、

葵にとって強烈に気持ち悪かった。

突然、銀狼の咬合力が弱まる。

呪視の力が、銀狼に影響を与え始めたのだ。

何らかの危機を察知した銀狼が、葵から離れようとしたが、

それを呪視の力が押し留める。

もう遅い。

離れることすら、許さない。

銀狼のオーラが膨れ上がるのと比例して、

呪視が角をさらに伸ばして力を増していく。

そして、それと同時に葵の目の奥に切られたような痛みが生まれる。

呪視が力を発揮する代わりに、葵の目が喰われているのだ。

「ふー・・・ふー・・・」

あまり時間はない。

奇跡的に右手に引っかかったままの従者帯を口で咥え、

無傷の左手を使って、狼の顎段の上に垂らす。

下から手を入れて、従者帯の先端を掴んで引っ張ろうとした時、

銀狼は激昂し乱暴に口を開いた。

葵の身体は放り出されるようにして、

アスファルトの上に落とされる。

「あ・・・ぐ・・・」

大変な圧力をかけられていたのが一気に解放されたせいで、

目の前が真っ白になり、身動ぎすらできない。

「う・・・げ」

葵はしばらく倒れたまま、徐々に浅く刻んで息を吸い、

肺に酸素を送り込んでいく。

途中で血を吐きながら、

ようやく視力が戻って少し動けるようになった時、

葵は自分の右腕の途中が派手に折れ、

ねじ曲がって掌がこちらを向いているのを見た。

「う~・・・っ!」

現実から目を背けて、何もかも投げ出しそうになる。

葵は腕がねじ曲がって血を吐いた。

だから、諦めても仕方がないのではないか。

しかし。葵は踏みとどまる。

それは強靭な精神力のおかげでも、神から与えられた力でもなかった。

全身が痛みと絶望に包まれながら、反射的に倒れた仲間達を見る。

結希、三毛、虎。

みんな、あんなにぼろぼろになってまで、自分を守ってくれた。

葵は今までに血を吐いたことがある。

虎の手は、捻じ曲がるどころか、千切れて地面に落ちた。

自分は、まだ戦える。立ち上がれるはずだ。

「・・・ぜ、んぶ」

全部出し切るんだ。溜まった思いを吐き出せ。

葵は身体を起こそうとした。

「・・・?」

あらゆる部位の痛みで詳細が分からないが、

背骨の具合が何かおかしい。

動く左腕で地面を押すようにして、何とか上半身を起こす。

右側の鎖骨の辺りから、脇腹辺りまで強烈な違和感があった。

「・・・こんな、もん」

葵はまだ生きている。

起き上がる。起き上がって、戦う。

銀狼は葵のすぐ傍で、呪視に動きを封じられていた。

赤く染まった『真実を見通す目』は、

何が起こったのか分からずに、狼狽えている銀の心情を見通した。

「ふ・・・ふふ」

葵は唇で弧を描いた。

いいぞ、そのまま狼狽えていろ。

落ちた従者帯を拾い、膝に体重をかけて何とか立ち上がる。

背骨が軋む。

葵は自分の体がまるで細い茎のようだと感じた。

葵は遅々と銀狼に近づき、従者帯を巻きつけようとした。

銀狼が轟と唸り、鼻先で葵を弾き飛ばす。

冷え切った飴細工に、いとも簡単に亀裂が入るように、

葵の胸が鈍い音を立てる。

呪視といえども、銀狼の動きを完全に封じることはできないのだ。

<それだけか>

試すような理知的な声が聞こえた。

銀狼がこちらへ向かって歩を進めた瞬間、

葵の目の奥に痛みが走る。

神経に直接メスを入れられたような痛みだ。

「うううあああああ・・・」

全身が震えるような痛みがあっても、葵は顔を下げなかった。

それを銀狼が小さな虫でも見るように見下してくる。

「こ・・・こない、で」

葵の声に反応するように、呪視が角を伸ばして銀狼を

押さえつけようとする。

呪視の圧力が増したことで、銀狼の動きが鈍くなる。

わずらわしいと言わんばかりに、銀狼が牙をむき出しにしながら、

怒号をあげた。

突風に曝されたかのような圧力が、葵の顔面にぶつかってくる。

呪視の銀狼を縛る力が一瞬で吹き飛ばされた。

「ぎゃあ・・・!!」

目の奥に激痛が走る。

「ううあああああ・・・!!」

葵は目を押さえてのたうち回った。

手を見ると、真っ赤に染まっている。

だめだ。私には止められない。

「はぁ・・・はぁ・・・・はぁ」

視界が赤くなる。痛くて目を開けていられない。

「ううううう・・・・・」

目の間で8の字を描くようにして、銀狼が体の動きを確かめている。

呪視の力から、完全に解放されている。

どうして?

葵が慌てて呪視の方を確認すると、

たくさん開いていた目の半数が閉じてしまっていた。

呪視の力が弱くなっているのかもしれない。

動揺しつつも、どうにか呪視の力を取り戻そうと念じたが、

それも、銀狼のわずかな身震いに弾き返されてしまう。

「うが・・・・!!」

脳まで刻むような痛みが葵を襲う。

もう二度と、力を使いたくないと思わされる。

銀狼が首を振って、鼻先で葵を突き飛ばしてくる。

交通事故に遭ったような衝撃に全身を叩かれた葵は、

後方に吹き飛ばされた。

地面に落ちても勢いは止まらず、

アスファルトに擦られながら体は数メートルを滑っていく。

縁石にぶつかってようやく止まった葵の体は、

死体のように重い。

「ぐ・・・ぐぐ」

運よく意識を失わずに済んだが、

それを後悔するほど全身が痛かった。

「ぅぅああ・・・・ぁぁう」

聞いている自分が怯えてしまうくらい、

うつろな呻きが口から洩れ続ける。

横に倒れたままの視界が、半分以上赤く染まっている。

ああ。もう目を閉じてしまおうか。

閉じてしまえば、きっともう開くことはないだろう。

楽になりたい。

そう思った時だった。

突然、ある言葉が壁を突き破るようにして、葵の頭に入り込んできた。


   ◇


あれは、一体何だったのだろう。


そういえば。

自分が死んで、フォルトゥーナに出会ったあの時。

女神から、もう葵は死んだのだと言われたあの時。

安心感とともに胸に去来したあの黒い点は、

一体何だったのだろうか。

死を認めて、現世でもう苦しむことはないと安心した葵は、

あの黒い点があったせいで、

このまま終わるのは納得できない、と葵は感じてしまった。

あれの正体は何だったのか。

葵の中にあるいくつもの深い後悔すら、黒い点ではない。

生の苦しみを覚悟して、現世に蘇る理由にはならないのだ。

だったら、なんなのだろう。

今も胸にある、この黒い点は。

葵は自分自身に目を向けた。

葵とは、なんですか?

葵は自分自身のことを、どう見ていた?

どんな風に思っていたのか?

葵は『真実を見通す目』で、自らのオーラを見る。

それは初めての試みだった。

思えば、短い期間で葵はいろんなオーラを見てきた。

いじめてきた同級生の放つ色。

外敵の殺意の色。

結希の痛々しくも強い太陽のような色。

三毛虎の一途で温かい色。

自分は、一体どんな色をしているのだろうか。

目を閉じて、体の中心へと目を向けると、琥珀色が見えた。

その一部が、銀色に光る。

銀色は女神の色だ。それはもう、葵の一部になっている。

深く落ちるにしたがって、色は濃く、暗くなっていく。

底には、あの黒い点があった。

身の内に潜む自らのこころの正体。

葵は自らの意識を、手を伸ばすように黒い点へ向かって走らせる。

それは、痺れるような緊張感を伴う作業だった。

勇気のある者にしか入れない、こころの領域へ侵入していく。

侵入していく間、いくつもの薄いベールを潜った。

最後にもう一層、ベールがあるのを確認して、葵は止まる。

これ以上潜ることは危険だ。

潜ったあとにどうなるのか、予想も出来ない。

戦々恐々としながら、指先でそっと触れる。

触れた瞬間、葵の体は酸に溶かされるように消えていく。

「う」

だが、ここで怯んでは、来た意味がない。

知りたかった。

自分は何者なのか。

どうしてこんな生き方をしているのか。

なぜあの時、現世に戻ることを選んだのか。

これからどうしたいのか。

私は。私は。

知らなければ、生きていけない。

生きるために知ろうとする。

どっちもどっち。

理性が生んだ本能ともいえる欲動に身を任せる。

消え去った手足の代わりに自らの思念でもって、

ベールの奥にある黒い点に、とうとう触れる。

その行為は、快感を生んだ。

それもそのはず。

いつしかこころの奥底に抑圧した、

とある感情に触れる行為だったのだから。

ああ、そうだったんだ。

葵は納得する。

黒い点の正体、それは。


――――それは、怒りだった―――――


いじめられているのを周りのせいにして

何もしなかった自分への怒り。

父親と母親に責任を全部押し付けて、

自分からは何一つ背負わなかったことへの怒り。

世の中のせいにして、自ら命を絶った自分への怒り。

助けてもらって、助けてもらって、助けてもらった。

頼って、頼って、頼り続けた。

それで最後に自分の順番になったら、

簡単にあきらめようとした自分自身への怒り。

このまま死ぬまで抑え込んでいれば、

見て見ぬふりができると思ってしまった、自分自身に対する怒り。


私は怒っていたんだ。

隠してきたんだ。ずっと。


蓄えつづけたものの堰が切れそうになる。

解放してしまえば、認めてしまえば、

葵の人生は一変するだろう。

これからの人生において、

怒りが葵自身を燃やし尽くそうとするからだ。

数々の愚かな行いが生んだ、

自分への怒り、それが一斉に自らを襲いはじめる。

怖い。

怖いけど。

葵は泳ぎ切ると決めていた。

フォルトゥーナとも約束した。

感情を、生きるために解放する時がきた。

葵の中には、結希や三毛と虎がいる。

羽生や植山、伊都子がいる。

だから、今なら乗り越えられるかもしれない。

葵は信じる。信じて堰を切る。

自分の怒りと向き合う準備は、もう出来ている。


   ◇


葵は目を覚ました。

直後、全身から発せられる激痛に顔を歪める。

「うう・・・」

こころも体も、葵の存在全てが悲鳴を上げている。

葵の全てが痛み一色に染められていく。

だが。

葵は気の遠くなるような痛みを押し退けて、身体を起こした。

痛みよりも、甚大な感情が葵にはあったからだ。

「私は・・・ごほっ・・・馬鹿だった・・・」

立ち上がろうとするが、足がほとんど動かない。

『真実を見通す目』で確認すると、

足からはかすかなオーラすら見えなかった。

下半身はすでに死んでいる。

だが、それも自らの罪が生んだことだ。

自分が愚かだったから、ダメだったから、こうなったのだ。

許せない。

自分で自分が許せない。

燃えるような怒りを胸に抱いているせいで、

吐く息にも火がつきそうだ。

「私は・・・馬鹿な女だ」

視線を上げると、銀狼はすぐの位置まで迫ってきていた。

「う」

のどへせり上がって来たものを吐き出すと、

血が一塊、膝に落ちて散った。

その血が痛々しさを演出する、誰かの情けを乞う、

自分自身の弱さの象徴のように感じて、

葵はひどく汚らしく感じる。

銀狼は葵の目の前まで来ると、

ぼろ雑巾のようになった葵の肩に優しく前足をかけた。

前足に体重をかけていき、押し倒してそのまま踏みつけにする。

葵はされるがまま、ひれ伏すように仰向けに横たわった。

体重の乗った足の爪が、肩に食い込む。

時が止まったような、静寂の中に自分達の鼓動と、

銀狼の鼻息だけが響く。

銀狼が口を開き、生暖かい息を葵に吹きかけた。

綺麗に並んだ鋭利な牙は、葵の首などたやすく刈り取るだろう。

咢が真下にある顔面を狙って振り下ろされる。

一瞬だけ、目が合った。

気高く慈悲に満ちた瞳。

その瞳を見て、

こんな汚い私で良ければ、あなたに食べられても良いと、

葵は思った。

でも、最後にちょっとだけ、やりたいことをさせてもらう。

呪視に呼びかける。

これから先、目が見えなくなってもいい。

だから、力を使わせてほしい。

「・・・全部、あげる」

次の瞬間、葵の目は一面濃い赤に塗りたくられて、

まったく見えなくなった。

激痛に次ぐ激痛。

古い縄が限界を超えて引き絞られるような音が、空間に響いた。

銀狼の力と、呪視の力が完全に拮抗した。

全てを擲った葵の力が、

ようやく銀狼の牙を止めるに至ったのだ。

手探りで、動きの停止した銀狼へ手を伸ばす。

柔らかく細い、手触りの良い毛並み、濡れた歯茎、

そして鋭い牙に触れる。

もう少し中に手を入れると、柔らかい舌があった。

銀狼が恐ろしい唸り声を上げる。

「ごめんね・・・」

葵は謝り、手を引いた。

チャンスは今しかない。従者帯を銀狼に巻きつけるのだ。

「・・・くっ」

身体は限界を迎えて久しい。

途端に手が痙攣したように激しく震え始めた。

「さ、最後、だから・・・」

一際大きな牙に見当をつけて、従者帯を引っかける。

「も・・・・少し」

痛みに耐えながら、従者帯を結びつけようとする。

だが、最後に引っ張る力が足りない。

精一杯を指先に込める。

「私の、従者に・・・・なりなさい」

ありがとうございました。


次話は、来週に更新いたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ