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23話 結希

叫び声が上がっている。

両親は普段結希の存在など認めようともしないのに、

何か癇に障るような出来事があると、

野生動物のように激高して結希を叩いた。

母親の叫び声がすると、体がすくんで動かなくなる。

父親の気配がするだけで、心臓が波打って痛くなる。

家には居場所が無かった。

結希は毎日のように腹痛に悩まされていた。

原因不明の激痛は、家に帰るとひどくなり、保育園に行くと消失した。

結希は大きくなった後も、誰にも相談しなかった。

だが、相談したからといって誰か助けてくれただろうか。

結希は感情のコントロールができない子だった。

嫌なことがあるときは、泣き叫び、

悲しいことがあっても泣き叫び、嬉しいことがあっても泣いていた。

近所の子ども達は結希のことを気味悪がって近づかなかった。

大人達も。

それは小学3年生まで続いた。

中学生になったとき、自分は人とは違うのだと自覚した。

なんで自分は他人とうまくいかないのだろう。

それは結希にとって思春期最大の疑問で、

いくら考えても高校に入学するまで答えが出なかった。

高校1年の時、生まれて初めていじめを受け、

2年に進級した頃、ようやく答えが出た。


自分の頭がおかしいから、人とうまくいかないのだ。


自分がおかしいから、両親に愛されず、

同級生の連中からいじめられて、教師にも見て見ぬふりをされるのだ。

人生の最後には、上司に利用され裏切られた。

それもこれも、自分が異常者だから、

頭がどうかしているから悪いのだ。

これは仕方のないことだ。

両親とは逆の方向に生きると決めた日も、

本当に正しいのか分からなかった。

ただ、生きるためだけに、場当たり的にそうしていた。

たくさん働いて、勉強して、いろいろな経験をした。

その中で、自分は正しかったのだと何度も言い聞かせた。

しかしどこか、こころの底では、

『自分の頭がおかしいから』が蠢いている気がしていた。


   ◇


目を開ける。

酷い夢を見た。

昨夜は悪いことばかり考えていたので、

こうなったのかもしれない。

結希は誰に見られているわけでもないのに

ひどく恥ずかしく、後ろめたい気持ちでいっぱいだった。

「ごめんなさい」

謝るべきことも、謝る相手も、もう此処にはいない。

顔を洗うために洗面所に向かうが、水が出ない。

鏡には頬をすり減らした自分がいた。

これは、現実だろうか。

とても遠くまで、来てしまったような気がする。

のどが渇いた。

何かを飲まなくてはきっと動けなくなる。

その先には、死がある。

自分の死は怖くない。

ただ。

脳裏に葵の微笑みが浮かんでくる。

葵は結希が見つけた小さな光だ。

その光は希望なのか、それとも違うものなのか、結希にはわからない。

彼女だけは、死なせたくない。

飲み物や食べ物に困っていないだろうか。

そもそも、彼女は今生きているのだろうか。

こんなことなら、あの時、離れなければ良かった。

「くそ」

思考が罪悪感を膨れ上がらせていく。

耐えられなり頭を振る。

このままじっと考えていたら、頭がおかしくなりそうだった。

「おちつけ」

結希は深く息を吐き出した。眩暈がするほど腹が減っている。

今するべきことは、水と食べ物を得ることだ。

そして葵を探す。

幸いなことに『困難を与えられるほどに強くなる肉体』のおかげで、

疲労はかなり回復している。

少しなら出歩いても平気そうだ。

結希は玄関に積み上げた家具を除けて、廊下に出た。

天気はすこぶる良い。

「あ」

自分が無防備に姿を晒しているのに気付く。

もし、小鬼が廊下にいたら見つかっていたところだ。

掌に汗がにじんで、足が震える。

もっと集中しないと死ぬ。

廊下から少しだけ顔を出して階下を見下ろすと、

アパートに面した道路が一望できた。

道路の隅に数匹の小鬼が集まって何かをしているのが見えた。

「っつ」

口から飛び出しそうな悲鳴を抑えて、

結希はすぐに頭を引っ込めた。

見つからなかっただろうか。

結希は息を細めて、周囲の音に耳を澄ませた。

こちらに向かってきているものはいなそうだ。

小鬼一匹で死ぬほどの思いをしたのだから、

多数に囲まれれば、きっといたぶられた挙句に殺される。

結希は、自分の喉を小鬼に噛み切られるのを想像した。

なるべく敵に遭遇することは避けた方が良い。

極力足音が鳴らないよう、注意して歩いた。

結希はまず、同じ階の部屋を見て回った。

どの部屋も結希と同じようにドアがこじ開けられて、

中が荒らされていた。

ある部屋では争った形跡があり、部屋中に血痕が残されていた。

濃密な血の匂いに吐き気がこみ上げてくる。

自分は運が良かっただけなのだ。

結希はその部屋を見て以後、家探しするのをやめた。

ゆっくりと階下を目指す。

足音を立てないように、緊張しながら移動していると、

現実感を失った。

自分は何をしているのだろうか。

こんな非現実的なことがあるだろうか。

街は荒れ果て、所々でまだ火の手が上がっている。

本当はもう、自分は死んでいるのではないか。

アパートの外にいる小鬼達の叫び声がして、結希は我に返る。

死を予感させる悪臭、小鬼の叫び声、

背を伝う汗、自らの荒い吐息はまぎれもない現実だった。

結希はこころの中で、

今までの人生で一番悪い表現を使って毒づいてみた。

気持ちが少しだけ楽になる。

小鬼の気配が大きくなるにつれ、

こころの中の毒づきは口から漏れるようになっていったが、

結希は気付かなかった。

「くそ・・・くそ・・・くそったれ」

一階に降りるとすぐに、気配とは逆の方向に向かった。

塀を乗り越えて、出入り口とは逆の道路に出た。

塀から降りた時の足音が思ったよりも大きくて、

結希は大いに顔を顰める。

広い道路に出た後は、なるべく背を低くして、

物陰から物陰へと移動していく。

外敵が周囲にいないかを確認しながら移動するのは、

かなりの時間と労力がかかった。

道の端に身を寄せて、一息つく。

気付けば全身にじっとりと汗をかいている。

ため息をつきながら気紛れに首を巡らせると、

古いラーメン屋が目に入った。

結希は周囲を警戒しながら、道路を渡って店まで行く。

ラーメン屋はあまりに小さくて小汚い店構えをしていた。

もしかしたら美味しい店だったのかもしれないが、

清潔感を重視する結希は一度も入ったことはなかった。

入口に手をかけるとすんなりと開いたので、

結希は極力音を立てないように気をつけながら中に入る。

両隣をビルに挟まれているせいで、

店内は昼間だというのに薄暗い。

結希は呼吸すら忘れて、中の気配を探った。

何もいない。

姿勢を低くしたままカウンター席を横切って、店の奥に進んだ。

意を決し、カウンターの上にある割りばしを一本取り、

狭い調理場の方に投げ込んだ。

「・・・っつ」

生き物がいれば何らかの反応をするはずだ。

長い一拍のあと、木材特有の乾いた音が響く。

何も動かない。

誰もいないのだ。

結希がわずかに弛緩した瞬間、

キッチンの奥で何かが動いた。

影が調理器具のかけられた壁を蹴って飛来してきた。

「ひっ」

反射的に頭部を庇った結希の胸部から肩にかけて、

鋭利な刃物で引き裂かれる。

すれ違いざまに斬られたのだ。

すぐさま振り向いたが、影を視界にとらえることはできない。

何かが太ももに刺さった。

「うっ」

やみくもに手を伸ばすと、影が太ももから刃物が引き抜いて

素早く飛び退いた。

飛び退いた影が再度、こちらへ飛来する。

「うわぁ!!」

半狂乱になりながら、結希はテーブルの下へ身を隠した。

こめかみのすぐ近くを、風切音が通り過ぎていく。

数度の攻撃を受けたテーブルが、半分に切り裂かれる。

恐ろしい切れ味だ。

叫びながら隣のテーブルの下に移ると、

降り注いでいた攻撃が停止する。

ようやく思い出したように、

結希は『トールの雷』を両手に発生させた。

「くそっ・・・くそっ」

結希の怒りに呼応するようにして、

切切と鳴く雷が、手先から全身へと迸る。

店内の隅で小さくなっていた外敵が、雷の光に照らされて姿を現した。

真っ黒な毛皮をした小さな獣だ。

獣はネズミのように小さな顎と、

出目金のように突出した目を持ち、

細くて長い手足を持つという奇妙な姿をしていた。

こんな生き物は見たことがない。

結希がゆっくりとテーブルの影から出ると、

ネズミは背を丸めて全身を撓めた。

いつこちらに飛び込んできてもおかしくはない。

脇を締めて力を入れると、全身に広がった雷が強烈に鳴いた。

ネズミが素早く左に跳び、そこから更に壁を蹴って前に跳ぶ。

何とか手のひらを相手へ向けると、

ネズミは壁を蹴って、さらに横に回り込んでいた。

「わ」

動きについていけなくなった隙を突いて、

回り込んできたネズミが、結希の背中に噛みついた。

深く刺さった鋭い歯が、肉を削ぎ取る直前、

『トールの雷』がネズミの口内に飛び込んだ。

焦げ臭い匂いが鼻腔に入り込んでくる。

「ぎゃぎゃぎゃ」

ネズミの体を一通り蹂躙してから、

『トールの雷』が結希の体に舞い戻ってくる。

ネズミが感電している。

「え・・・」

そうか、結希の全身に広がっている雷で、

ネズミが勝手に感電したのだ。

ネズミは結希の背中に噛みついたまま幾度も痙攣していたが、

その内手ごたえが全くなくなり、そのまま絶命する。

「し、しんだ・・・」

様子を見ていると、ネズミの体から蛍のような小さな光が生じ、

やがて光に包まれるようにして消失した。

「え・・・き消えた」

死体のあった場所に戻り、地面に触れてみる。

ほんの少し暖かい。

あの時も、仕留めたと思った小鬼は忽然と姿を消してしまった。

外敵は死ぬと姿を消してしまうのかもしれない。

思えば、街中のいたるところに人が襲われた形跡があったが、

遺体はひとつもなかった。

「まさか」

犠牲となった人達の遺体も、消えてしまうのかもしれない。

結希は荒い呼吸を吐き出して、その場に尻をつけた。

精神的にも、肉体的にもあまりに疲れていた。


   ◇


ラーメン屋の食材はほぼ食い荒らされていたが、

結希はひとつだけ手つかずの冷蔵庫を見つけた。

たくさんの刻んだネギと、

お茶の入ったペットボトルを2本入っている。

「うおお」

結希はお茶を一気に飲み干してから、ネギのタッパーを開けた。

表層はやや乾燥していたが、下の方は瑞々しい。

匂いを嗅いだがまだ痛んでないようだ。

手で鷲掴みにしてむしゃぶりつく。

最高にうまい。

ネギがこんなにおいしいとは思わなかった。

5つあったタッパーのネギはあっという間になくなった。

少し休むと傷が塞がり、体温が上がってくるのを感じる。

やはり、『困難を与えられるほどに強くなる肉体』の

効力を発揮するには、休むことと同じくらい食べることが大切なのだ。

腹が満たされた結希はラーメン屋を後にした。

途中でゴミ漁りをしている小鬼に遭遇した。

結希は迂回をしようと試みたが、他のルートにも小鬼がいる。

このままでは先に進めない。

そこに、他の小鬼がこちらに向かって歩いて来た。

「やばい」

ここには隠れる場所はないので、

避けることもやり過ごすもできない。

このままぐずぐずしていると挟み撃ちにされてしまう。

ゴミ漁りをしている小鬼を仕留めて、先に進むしかない。

やるしかないと覚悟を決めた結希は、

ゆっくりと小鬼の視界の外から近づいた。

小鬼が気短そうに唸りながら、漁った何かを放り投げた。

それが地面に落ちる音に乗じて、結希は一気に近づいた。

息を止めて右手を伸ばし、触れる直前で雷を発生させる。

音に気付いた小鬼が振り返るよりも先に、

結希の手がむき出しの背中に触れ、その体内に衝撃が入った。

『トールの雷』が小鬼の背から最短距離で心臓に向かい、

喰らいつく。

心臓が強制停止し、痙攣を繰り返す。

雷はまだ足りないとばかりに脊柱へ絡みついた。

全身に電気信号を流す道路の役割をしている脊柱が、

途端に竜巻に巻き込まれた。

小鬼の手足が壊れたおもちゃのように動き回る。

左手で相手の体を支えながら一歩近づいた時、

小鬼の腕が大きな反動をつけて、結希の顔面を叩きつけた。

「う」

視界がくるくると数回転する。

耳鳴りと頭痛、体に力が入らない。

結希は小鬼の死体とともに、道路脇に倒れ込んだ。

もがくようにして立ち上がろうとしたが、上手く体が動かない。

傍らの電柱に縋るようにして、なんとか起き上がる。

視界の歪みが緩やかになってきた時、

小鬼の声が複数重なって聞こえた。

物音を聞きつけてこちらに向かっているようだ。

「まずい」

囲まれたら死ぬ。

結希はすぐさま立ち上がり、走り出す。

多少のふらつきと痛みはあったが、構わずに走り抜ける。

追いかけてきた小鬼の気配はずいぶん遠くになったところで、

結希は立ち止まり、息を吐いた。

「運が、いいのか、わるいのか・・・」

丁度、そこは噴水公園の前だった。


   ◇


辺りは静かで、生き物の気配はまったくない。

結希はそれでも姿勢を低くしながら、用心して移動する。

噴水公園と周囲を歩いて回ったが、

葵はおろか外敵すらいなかった。

「ああ。くそ」

体の疲労はそこまでではなかったが、精神的につらい。

暗い感情が上からのしかかって来て、足が重くなる。

結希は噴水の縁に腰かけて、水を飲んだ。

水は乾いた体に染みわたっていく。

結希は水を掬って痛む頭にかけた。

気持ちが良い。

結希は上を脱いで、水を浴びた。

身体から痛みが消えていく。

結希は靴を脱ぎ、右足の包帯を外して噴水に浸した。

傷はみるみる塞がり、痛みが取れていく。

結希は本の中で見た、噴水のことを思い出す。

「やっぱり、この水は、女神様の力で」

体中に力がみなぎってくるのを感じる。

「葵さんは、きっと見つかる」と声に出してみる。

彼女が、そう簡単に死ぬはずはない、と思ってみる。

すると、不思議とそうだと思えるようになってくる。

結希は噴水公園を拠点として、

食料集めと葵探しをすることに決めた。

此処はオフィス街が続いているので、食べ物のある場所は少ないが、

そのせいもあって外敵が少ない。

また、道路を少し出たところに国道があり、

見晴らしが良いため、外敵の存在にも気付きやすい立地だ。

「よし」結希は立ち上がった。

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