2話 結希
2話目です。よろしくお願いします。
瞼の外には、目を覚ますにはちょうど良いくらいの穏やかな光がある。
結希はふと、頬を撫でる空気の流れを感じた。
もしかしたら、草原にでも横たわっているのかもしれない。
心地よい微睡みから糸で引かれるようにして目を醒ます。
まだ目が慣れなくて、視界がぼんやりとしている。
今何時頃だろうか。
気にはなるが、もう少しこの穏やかな感覚を味わっておきたい。
再度目を閉じると、結希は自分が死のうとしていたことを思い出す。
地面に触れている肩が沈んで、どこまでも落ちていくような感覚になる。
思わず首すじに手を当てる。
巻いたネクタイも、痛みも何も残っていない。
「ああ・・・だめだったのか」
きっと、結希は死ねなかったのだ。
まだ、人生が続いているのだと思うと、
同僚、上司、両親の顔が順番に脳裏に浮かんできて鬱々とした。
体を起こして周囲を見回すと、ただ真っ白なだけで
何もない空間が広がっていた。
「ここ・・・病院じゃない・・・」
物や人に囲まれた生活をしてきた結希にとって、
本当に何もない空間というのは、とても不慣れなものだった。
空間は絵の具のように真っ白なため、奥行きがはっきりしない。
白い地平が広がっているようにも、
狭くて四角い部屋に閉じ込められているようにも感じるのだ。
立ち上がろうとすると、膝があまりにも軽かった。
体はふわふわと浮遊感があり、まるで重さがない。
それに呼吸がとても楽だ。
月の重力は地球の6分の1らしいが、
行ってみればもしかしたらこのような感じなのかもしれない。
<おはようございます>
突然声が響いてきたが、結希は少しも驚かない。
なぜだかわからないが、もうすぐ声をかけられると分かっていたのだ。
「おはようございます」
声のした方を向くと、結希は顔を硬直させた。
目の前に簡素なデザインの置き時計が、
ヘリウムを入れた風船のように浮遊していたからだ。
なぜ。
空中で柔らかく揺れている時計は、よく見ると秒針が止まっている。
時刻は19時10分と、38秒をさしている。
「19時10分・・・」
なんの根拠もないが、これは自分が死んだ時刻だ、と結希は思った。
自分はおかしくなってしまっているのかもしれない。
止まった時計を見て、自分が死んだ時刻だと思ったことも。
無事死ねたと確信したことも、それで安心している自分も。
自分のことなのに、他人事みたいに冷静に考えていられることも。
何もかも、自分が狂ってしまったことが原因なのかも。
白い部屋にいることが、何か影響している気もする。
確かにここは不思議な場所だ。
まるでこの世ではないみたいに。
自分の感覚と考えに矛盾があるのに気付く。
こんなことは初めてだった。
声がかけられる。先程と同じ女性の声だった。
<結希さん。大事はありませんか。少々お待ちください>
声は目の前の置き時計から聞こえてきた。
置き時計は、白い床からゆっくりと伸び上がってきた、
帯状の光に包み込まれた。
帯の中で時計が膨れ上がり、質量を極端に増やしていく。
帯状の光が霧散すると、中から現れたのは一人の女性だった。
すぐに目に入ったのは、無垢な白い頬だった。
背景に溶け込むほどの白さなのに、艶やかで柔らかそうだ。
次に目を引いたのは、女性の銀髪だった。
銀髪は床に到達するほど長く、
一本一本が生きているように揺れて、かすかに発光している。
まるで絵画に描かれている、女神を体現したような姿だった。
あまりの美しさに、結希は思わず息を止めていた。
双眸は穏やかに閉じられているが、
ややあって額にあるもうひとつの瞼が開く。
瞳は吸い込まれそうな青で、見ていると勝手に顎が上がってくる。
青には深海を思わせる黒い深さがあり、
魅了されるとともに恐怖も感じる。
<少しは、お話がしやすいでしょう>
見るのも触れるのもおこがましいと感じさせるような唇が、
浅い弧を描く。
結希の中にある慄きが消える。質問ができたのはそれが理由だ。
「あの・・・僕は、死んだんですか?」
<そうです。悲しい人生でしたね>
語尾には憂いがあった。
腹の奥底に押し込めたものが浮上してくる。
浮上してきたものは、何度も頭の中を巡る。
悲しい、人生。
今この瞬間でなくては、受け入れなかった言葉かもしれない。
親に愛されなかったこと。友達ができなかったこと。
自信がなくて、結希自らが他人を遠ざけてしまったこと。
良い人だと思った上司に裏切られたこと。
今まであったことが、新幹線から見る景色のように
次々と心中に巡ってくる。
両親から離れて自立すれば、自分の人生が始まると思い込んでいた。
辞めずに続けていれば、いつか人生は良くなると思い込んでいた。
結希は人並みに幸せな家庭を築けたら良いなと思ったことが、
2回くらいある。
だが、結局は自死という決断を下してしまった。
何か細いもので、胸を刺されるような痛みが走った。
なぜ今更こんな気持ちが出てくるのだろうか。
もっと早くに、気付いていてもよかったはずなのに。
<苦しいことも、悲しいことも、独りだった寂しさも>
気付いた時には、かすかに揺れる銀髪が、結希の頬を撫でていた。
息を吐く間もなく、暖かくて柔らかい感触に包まれる。
結希は女性の両手で、包み込むようにして抱かれていた。
<抑え込んできたのです>
他人に触れられたのは、いつぶりだろうか。
結希は呆然としたまま抱擁を受け入れていた。
「あ、あの」
目を上げると、睫毛の当たりそうな位置に青い瞳があった。
瞳の中には、宇宙のごとき恒星と広大な世界が広がっている。
全身の力が抜けそうになる。
結希は内なる声に促された。
だめだ。自分にはそんな価値はない。
結希の内部に生じた何かを感じて、
女性は糸をほどくように手を放した。
ありがとうございました。
次回は来週投稿いたします。
この回は、山本幸久先生の「ふたりみち」を参考にしています。