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17話 葵 後編

17話後編です。

よろしくお願いいたします。

葵と虎はスーパーマーケットから出た。

カートを押して駐車場の隅に移動すると、

車の陰に隠れていた三毛が合流してきた。

<葵さまっ。よくぞご無事で!>

三毛が顎についた傷に気付く。

<むぎゃん!

その傷は、どどど、どうなされたのですか!?>

「棚にぶつかったの。中が暗くて見えなくてさ。

でも、たいしたことないよ」

大事にしたくなくて、軽い調子で伝える。

三毛と虎が準備してくれた濡れた布で傷を拭う。

かなり派手に血が出ていたようで、

首の下までべっとりしている。

「わー制服染みちゃった」

笑って呑気な調子で言っていると、

<笑いごとではありません>

三毛が怒りつつも手際よく止血をしてくれる。

彼によれば、縫わなくて済むぎりぎりの

範囲の傷だったらしい。

<あ、葵・・・>

虎が遠慮がちに何かを言おうとするのを、

葵は目を閉じて制止する。

反省している虎を、これ以上責めたくはない。

そもそも葵が怪我をしたのは虎が悪いのではない。

自分が至らなかったのだ。

遠くでガラスの割れる音と、悲鳴が響いた。

「わ・・・何?!」

<確認します。虎っ>

三毛の合図で虎が車の屋根に登り、辺りの様子を窺う。

<あの中に鬼が1匹入って行ったにゃ>

<小鬼ではなく、鬼か?>

三毛が眉間を寄せたまま鋭く訊き返した。

<間違えるわけあらずにゃ>

虎が車から飛び降りながら言うと、三毛が唸った。

<葵さま。ここを離れましょう。

鬼は獰猛。小鬼10匹分の強さがあります>

「そ・・・そんな。じゃあ、店の中にいる人達は」

<運が良ければ>

葵の気持ちを察したのか、虎が表情を険しくする。

<小鬼ならボク達でも追い払えるけど、鬼は無理だにゃ>

遠くから悲鳴が上がる。きっと中の人が鬼に気付いたのだ。

声は、まるで葵のすぐ傍から聞こえたようだった。

腕を組んだ三毛が、スーパーを一瞥してから言った。

<何があったかは、私は知りません。

しかし。葵さまは、あそこから怪我をして戻られた>

視線には憎しみが、声には怒りが含まれている。

葵ははっとした。

葵と虎が心臓で繫がっているように、

三毛も何かを感じたのかもしれない。

「だ、だから、私が転んだだけだって」

三毛が、大きな瞳に涙を浮かべ、

頑なな様子で首を振る。

「三毛」

やはり、明確ではないものの、

三毛は葵の動揺を感じていたのだ。

それでも、約束を守って、此処で1人待っていたのだ。

<葵さまが言われるなら、そうなのでしょう。

しかし、あなたを誰も助けなかった。

葵さまが危険を冒して、助太刀をする必要があるのですか?>

葵はすぐには返事ができなかった。

確かに、三毛の言う通りかもしれない。

「わからないわ。でも、行かなきゃ」

それしか言えなかった。

虎が手を伸ばして、パーカーを肩にかけてくれる。

<虎>

虎を咎める三毛の声に構わず、ゆっくりと袖を通す。

立ち上がると、ため息をついた三毛が、

周囲から守るように盾を構えてついてきた。

少し歩いたところで、眩暈がしてふらついた。

<葵さま。いけません>

支えてくれた三毛と虎が、それぞれ葵に声をかけてくれる。

声には、涙が混じっていた。

葵は2匹に支えられながら歩いた。

<葵、やっぱり少し休もうよ>

葵は虎に笑ってみせる。

「あのね・・・私いじめられていたの」

<いじめ?>

「うん。でもね。私が悪かったの。

だから、お父さんにも、お母さんにも、

友達にも、見捨てられた」

強く胸を掻くような怒号と、建物内が激しく壊れる音。

巨大な力を持つ鬼が、人を襲っている音だ。

胸が引き裂かれそうになる。

「いじめてくるあいつらってば、

私の嫌がる最大限のことをしてきた。

嫌だったのは、教科書をマジックで真っ黒にされたこと。

あれは辛かった。誤魔化しようがないから」

葵が思わず頭を落として膝に手をついた。

アスファルトに汗が数滴落ちる。

<葵。もうやめようよ>

葵の尻に触れる虎へ、笑顔を向ける。

「お腹を叩かれたり、プールに落とされたり、

いろいろされました」

痛みを感じて顔を上げる。

振り返った三毛の目から、大粒の涙が零れていた。

ああ、この痛みは三毛のものでもあったのだ。

「でも。でもね。

中には、助けてくれた人もいた」

<わかりません>

三毛が言う。

<あの中にいるのは、葵さまを助けて

下さった御仁とは無関係ではありませんか?>

葵は頷く。確かにそうだ。

なぜ葵は向かおうとしているのだろうか。

静かに泣いている三毛の目元を、虎が拭っている

「私は変わり者だから」

十分休んだ。

だから葵はもう一度、立ち上がって歩き出した。


   ◇


スーパーの中から、数人の人が逃げていく。

幾人かとすれ違ったが、

三毛虎の姿を見ても、誰も構わなかった。

それほどの恐怖が、このスーパーの中にはあるのだ。

破壊音に合わせて悲鳴が上がった。

葵が走る両脇に、ぴったりと三毛虎がついてくる。

音のする方に向かって、考えなしに突っ込んでいくと、

お魚コーナーの真ん中に、人ならざる大きな背が見えた。

あれが鬼か。

足元にはうずくまった人がいる。

鬼は今にも大きな腕を振り下ろそうとしているところだ。

傍らの虎が、空中で一回転した。

空間が撓るような勢いで槍が虎の手から射出される。

投擲された槍はまっすぐ飛び、

鬼の背中に突き刺さった。

鬼が痛みに身を捩りながら、

商品棚を振動させるほどの咆哮を上げた。

「早く逃げて!!」

葵が声を上げると、鬼がこちらを向いた。

鬼を正面から見ると、その威圧感にくずおれそうになる。

<まったく。葵さまも虎も、考えなしに>

わずかに身を伏せた三毛が愚痴りながら、

虎へ自分の槍を渡す。

<葵は下がってるにゃ>

三毛と虎が葵の前に出た時、

鬼の発する真っ赤なオーラが、

葵の顔に突風のごとく吹きつけてきた。

鬼の殺気だ。

恐怖を感じた葵は、反射的に後ろへ下がってしまう。

それに対し、三毛は注意深く、虎はやや興奮した様子で、

一歩前へ出た。

猫達は強い勇気を持っていた。

<こっちに来るにゃ!>

虎が槍を振り回して空中に8の字を描くと、

鬼の注意が完全にこちらに向いた。

鬼が背に刺さった槍を一息で引き抜き、地面に捨てた。

傷は浅くなさそうだが、意に介した様子は微塵も見せない。

<来ます>

三毛の背中ごしに、鬼が巨大な棍棒を軽々と振り上げ、

肩に乗せるのが見えた。

棍棒はもちろん、あの太い腕に捕まったら抗う術はないだろう。

圧迫感で視界が歪む。呼吸が苦しい。

<人を助ける余裕は私達にはありません。

ただ、わずかな時間を稼ぐのみ>

三毛が鬼の後方で泣いている子どもを指さした。

「はい」

葵は頷いた。

鬼が大きく踏み込んで棍棒を叩きつけてきた。

三毛の盾が巧みな操作で斜めに構えられ、棍棒の衝撃を受け流す。

棍棒の勢いは収まらず、タイルを粉々にしてようやく停止する。

受け流したとはいえ衝撃を完全に逃がすことはできず、

三毛が押し潰されるような形で倒れた。

<んみゃっ!>

そこへ、すかさず虎が反撃する。

隙のない素早い動きが、鬼の太ももを深く切り裂いた。

鋭い爪をもった鬼の手が、虎を捕まえようと伸びてくる。

寸前のところで立ち上がった三毛が、

後ろから虎の鞄を引っ張って後退させた。

獲物を逃がした鬼が、悔しそうに唸り声を上げる。

<葵。もっと離れて>

三毛に引き摺られながら、虎が叫んだ。

「あの子を助けてくるっ」

三毛の返事よりも早く、葵は鬼とは逆方向に走り出した。

鬼の向こう側にいる子どもを助けるには、

すれ違うか大きく迂回するしかない。

葵は大きく迂回することを選んだ。

角を曲がり、3列ほど棚を過ぎてまた曲がる。

これで鬼の側面に出るはずだ。

「わ」

床に散乱した段ボールに足を取られて、葵は盛大に転んだ。

膝が擦れてめちゃくちゃ痛い。

葵は膝を押さえて立ち上がり、再び走り出す。

鬼の側面に回り込んだ時、三毛虎と鬼が対峙しているところが見えた。

よかった、2匹とも無事だ。

猫達はうまく時間を稼ぐために、

防御の姿勢を取りながらじりじりと下がっているようだ。

「もう大丈夫だよ」

葵は子どもを抱きかかえると、

来た時と同じルートへ向かって走り出した。

その時だった。

<葵さま!!>

三毛の声のすぐ後、轟音がしたかと思うと、棚が倒れ込んできた。

「ぎゃ」

葵は子どもを庇いながら身を低くする。

頭や背中、肩に硬いものがぶつかって息が詰まる。

<葵!><葵さま!>

棚の下敷きになったまま、葵は腕の中にいる子どもを見る。

「君。大丈夫?」

子どもが頷く。目の真ん丸な可愛い女の子だった。

女の子の尻を押して棚から出してやると、

葵も出ようとした。

だが、足が引っかかって動けない。

葵は心配そうにこちらを見ている女の子に言った。

「ねぇ。このまま、まっすぐ行って、

突きあたりを右に行けば、出口があるよ」

女の子が振り返って廊下の先を見てから、再度葵を見た。

無理矢理笑顔を作ってから、

「行きなさい。振り返らないで、とにかく外に出て。

大人の人を見つけて」

祈るような思いで伝えると、女の子が葵を置いて走り出す。

「よし。頑張って」

安堵の息を吐き出すと、

葵は身体の上に載っている棚を押した。

足に引っかかっている部分が取れさえすれば、

抜け出せるかもしれない。

「ふんっ。ふんぬぅぅううう!!」

<葵さま!!>

遠くで三毛の呼ぶ声がする。

「あんたらは、自分のことして!!」

<葵!!>

「私は大丈夫だからっ。こっちのことは良いからぁ!!」

硬い物同士がぶつかり合う音と、

三毛虎の呼ぶ声が何度も聞こえる。

<葵さま><葵!!>

「うるさい!!いま忙しいんじゃあ!!」

叫び散らすと、気合が棚に伝わったのが、

足のひっかかりが取れた。

「よしっ」

棚を持ち上げて隙間を作り、何とか抜け出すと、

すぐ隣の棚がこちらに向かって倒れてきた。

「わぁぁ!!」

葵は走り、間一髪で棚を躱す。

倒れた棚の向こうに、三毛と虎が見えた。

<葵いた!!>

虎がこちらに向かって手を振る。

その隙を狙って鬼が棍棒を横に振り回した。

「ば、馬鹿! 危ない!!」

三毛が虎と棍棒の間に割り込んで、盾で受け止める。

三毛は盾ごと数メートル吹き飛ばされ、

葵のすぐ傍で倒れている棚の上に突っ込んでいった。

「きゃあ!! 三毛!!」

駆けつけた葵が助け起こすと、

頭から血を流した三毛がうんざりした表情を見せた。

<ぶわ~死ぬところでした>

「頭っ。血が出てる。どうしよう」

<どうもしません。戦います>

三毛が健在なのを確認した鬼が、

威嚇するように吠える。

「に、逃げられない?」

<鬼は人よりも速く走ります>

「あんた達だけなら逃げられるってことね」

<その発言は、冗談でも許しません>

すれ違いざまに鬼に一撃を入れ、

虎がこちらに向かってきた。

<葵。囮になるから、今のうちに逃げるにゃ>

「あんた達逃げなさい」

自分を囮にするのは良いが、

猫達を囮になるのは許せなかった。

<絶対に嫌です>

<ボクも嫌だにゃ>

葵の言葉があまりに心外だったのか、

猫達が怒り任せに言い返してきた。

「わかった。わかったから・・・」

勢いに負けて葵は閉口する。

鬼は虎の槍で幾度か刺されていたが、

出血はすでに止まっていた。

明らかにこちらの方が不利な状況だ。

<葵さま。おさがり下さい>

肉球に顔を押されて葵はやむなく後退し、

2匹も少しずつ後ろに下がって行く。

鬼が周囲の残骸を踏みつけ、棍棒を横薙ぎに払った。

棚を蹴散らして向かって来る棍棒を、

三毛が盾で下から打ち上げる。

三毛としては棍棒の軌道を逸らすつもりだったのだろうが、

鬼の強力な膂力によって無理やり押し戻され、

そのまま横薙ぎに虎へ襲いかかっていく。

三毛が盾で防いでくれると信じていた虎は、

鬼に致命傷を与えるべく回り込んでいた。

そのせいで棍棒の動きに反応することが出来なかった虎は、

直撃を受けて吹き飛ばされ、食品棚に突っ込んでいく。

「と、虎!」

<葵さま。だめです>

虎の元へ駆け寄ろうとした葵を、三毛が鋭く制止する。

葵と三毛の動揺を突くように、

鬼が棍棒の連打を浴びせてきた。

頭蓋骨ごと粉砕してしまいそうな衝撃が、

幾度も盾とぶつかる。

「み・・・みけ」

動きの遅い葵を守るために、

三毛は棍棒を受け流さず、

すべて身一つで受け止めていた。

何度も何度も。

三毛の血しぶきが葵の頬にふりかかる。

「みけ」

棍棒に叩かれるうちに、血潮の量が増えていく。

「・・・もうやめて」

ついに三毛が盾を取り落とし、膝をついた。

勝勢を悟った鬼が残酷な笑みを浮かべる。

「もういい。三毛、ありがとう」

もう、後ろにいるだけなのは耐えられない。

葵は三毛の前に出て、鬼の前に体を差し出した。

真上に鬼の棍棒が振り上げられる。

葵は決めていた。

死する者の多くは最後、瞼を閉じる。

だから意地でも閉じてやらないと。


   ◇


好きな本のジャンルは物語だ。

ファンタジーにハマる時期が長かったように思う。

ファンタジーには魔法や、超自然的な力がつきものだ。

いじめられるようになってからは、

魔法や超自然的な力というものに対する憧れが増した。

日本に古くからある物語の数々には、漁村で生まれ、

波と風を読んで船を動かすのに長けた英雄が度々出現する。

きっと、英雄たちは他の追随を許さない程の

才能を持っていたのだろう。

だが稀に、凡庸な者が英雄に勝る力を発揮することがある。

目撃した人々は、超自然的な力や魔法、

神の力が介在したのだと信じた。

葵はそういう類の話が大好きだった。

注目されない人物が、いくつかの献身的な行動を経て、

神の力を得る夢物語。

葵はたくさんの本を読んでいくうち、

頭のどこかで、神の力を信じるようになった。

頭の上を舞う風。植物を育てる土。

青い空に、星々に、太陽。

自分の息吹の中にも、きっと神の力が宿っている。

我ながら、子どもじみていると思っていたが、

葵の空想は自分でもなかなか止められなかった。

そして。

葵はついにフォルトゥーナという本物の神に出会い、

力を与えられ、2度も神の力に救われた。

葵の中にあった空想が、現実が交わり、芽吹き始めた。

無意識の内に。


   ◇


眼前で鬼の棍棒が静止する。

遅れて、巻き込むような風圧が葵の髪を振り乱す。

「ううぅ」

葵は鬼の苦しそうにもがく顏と、

崩れた棚の隙間から這い出してきた虎を交互に見る。

「・・・え」

生きている。

呆然としていると、葵の前に細長い棒のような、

黒い影が立ち上がった。

「わ」

黒い影の表面には、無数の細長い毛が生えていた。

この感じはどこかで見たことがある。

そう思った瞬間、黒い影の表面にたくさんの瞳が出現した。

「わぁっ・・・」

瞳は輝きながら、鬼の方をじっと見た。

すると突然、鬼が苦しみ血を吐いた。

「ど、どういうこと?」

戸惑う葵の目に、激痛が走る。

目を奥から掻きだそうとするかのような、恐ろしい痛みだ。

「ああああああ・・・!! いたいいたい!!」

痛みをこらえきれず、葵はその場に跪き絶叫した。

<葵っ。大丈夫かにゃ!!>

駆け寄って来た虎が、葵の背に手をかけた。

<どうしたらいいにゃ>

「ああああ。いたいいたい!!」

葵は耐えがたい痛みに、叫ぶことしか出来ない。

<とりあえず、殺すにゃ!!>

虎は言うと、鬼の喉へ槍を突き刺した。

悲鳴をあげる間もなく、鬼は痙攣しながら絶命する。

鬼の巨体が倒れると、

葵の目に生じていた痛みが和らいだ。

「ううう・・・・」

何とか顔を上げると、葵は倒れた鬼の遺体と、

細長い棒のような影を見た。

隣にいる虎が笑う。

<いやー。ボクがいなかったら、あぶなかったね>

「・・・いや、あの。虎。あれ」

葵が細長い影を指さすと、

槍を杖のようにして体を支えている虎がそちらを見た。

<なんだにゃ。あっちに何かあるのかにゃ?>

「見えないの?」

<なんにもないニャ>

細長い影は無数の目を虎に向けている。

葵は寒気がした。

「だめ。この子は友達なの」

すかさずを虎を抱き寄せると、

細長い影は半数以上の瞼を閉じた。

葵は虎を背に置きながら、少しずつ細長い影に近づいた。

回り込みながら見ると、

影は円柱のような形をしているのが分かった。

表面にある毛が蠢いており、

何か小さな生き物が集合しているように見える。

「虎。この黒いやつ、本当に見えないの?」

<何にも見えないにゃ。何がいるんだにゃ?>

「うん・・・でも、何がなんだかわかんないの」

いくつかの瞳が葵の視線と交差する。

「わわ」

葵は驚いて後退ったが、悪い感じはしなかった。

地面に溶けるようにして円柱が沈み始める。

「あ」

円柱が残り数センチの高さになった時、

小さな黒いものが、突然葵の胸に飛び込んできた。

「う、うぎゃあああああ!!」

後ろに倒れた葵は地面を転がりながら、

黒いものを追い払おうともがいた。

<みやあ。葵。どうしたんだにゃっ?!>

<葵さま。どうなされた>

<ああ。三毛。葵が情緒不安定だにゃ>

<鬼との戦いを経たのだ。無理もない。

それで、なぜ床を転がっておられるのか>

<それがわかんにゃいにゃ>

転がっている葵は立ち上がり、

胸にくっついている黒いものを指さした。

「こ・・・ここここれ!!取って。取って!!」

<何にもないにゃ>

<はて。何にもありませんな>

三毛と虎が困り切った様子で呟く。

「ここにっ。胸の所よ。いるじゃん!おっきな!!」

<いえ。だから、虫などいませぬ>

「だだだだ、だって」

葵は泣きべそをかきながら、自分の胸元を見た。

無数の毛と、大きな眼球を持った大きなものが確かにいる。

ああ、あの虫のようなやつだ。

「うぎゃあああっ。やっぱりいるって。馬鹿ぁああ」

<おおおぅ。落ち着いて下され>

<そんなに鬼が怖かったのかにゃ。仕方ないにゃ>

葵はひとしきり暴れたあと、

黒い虫が何もしないのを確認していくうち、

ようやく落ち着くことができた。

<葵さま。どうして、あんなに粗ぶっておられたのか>

三毛が腕を組んで、悩まし気に言った。

「だ、だって。黒い虫が飛びついてきたんだもん」

<黒い虫にゃ?>

「うん。長くてたくさんの毛があって、大きな目がついてるの」

それを聞いて、ふむ、と三毛が唸った。

<それは・・・何かの間違いでは?>

葵は恐る恐る自分の胸を見下ろした。

やっぱりいる。

「いや、今も胸にひっついてる・・・」

<大きな目と、長くてたくさんの毛。

それはたくさん集まって形を作っていましたか?>

「う、うん」

<虎よ。もしかすると>

三毛が虎に目配せをすると、虎が頷いた。

<そうだにゃ。それは、呪視だにゃ>

「呪視?」

<葵は虫って言ってたけど、呪視は生き物じゃないにゃ。

呪視はどこにでもいる存在だにゃ>

「どこにでもいる?」

三毛が喉を鳴らす。

<そうです。人の中にもいますでしょう。

眼力鋭く、人の動きを射止めてしまうような者が>

「怖い人ってこと?」

<そんな感じにゃ。権力者とか、強いやつとか、

そういう相手に睨まれると、人は動けなくなるにゃ>

葵は母親に睨まれた時のことを思い出した。

確かに、見られているだけで息もつけないことはある。

「でも、それがその・・・呪視ってやつのせいなの?」

<全部ではないですが、そういうこともあるのです>

<だから、呪視はどこにでもいて、誰にも見えないやつにゃ>

「それで、誰かが誰かを睨んだときに、呪視が働くってこと?」

<そのような理解でよろしいかと>

「よくわからない。

そいつが、私に力を貸してくれて、

あの鬼の動きを止めるなんてことが起こるのかしら?」

三毛と虎が顔を見合わせた。

<普通は逆です。力関係的に。

鬼が葵さまを睨みつけて、葵さまが動けなくなる、

というのが本来の呪視の働き方なので>

「じゃあ、どうして・・・」

<うーみゃ。わかりません>

「やっぱり、力を貸してくれたのかな」

<葵が呪視を見ることができるのも、

関係しているかもしれないにゃ>

この虫は、悪いものじゃない。

葵は恐る恐る、胸にくっついた黒い虫に指先を触れてみた。

ごわごわした毛の感触がある。

「あ、あなた、助けてくれたの?」

訊くと、黒い虫は灰のように千々と消えていった。

「あ。消えた」

<呪視とは、本来そういうものです。

目につくということ自体がありえないのです>

しばしの沈黙のあと、

葵は三毛が大けがをしているのを思い出した。

「てか、三毛!! 大丈夫なの?!」

<いまさらにゃ>

葵は三毛を抱きしめた。

「ごめんね。わたしのせいで。ごめんなさい」

抱きしめたせいで身体が痛むのだろう、

三毛がくぐもった声を出す。

<ボクも頑張ったにゃ>

傍らに来ていた虎も、一緒に抱きしめる。

「ごめんね。2人とも」

<先程は出過ぎた真似を致しました。申し訳ありません>

何のことだろう、と葵は思ったが、

三毛の言っているのはきっとスーパーに入る前に

言われたことだ。

「いいの。三毛が言ってることは、当然のことだから」

<三毛は、盾の使い方をもっとしっかりしないとね>

<うるさいな。お前は油断し過ぎだ>

葵は耳元で喧嘩している2匹に頬を寄せ、目を閉じた。

スーパー内はしんとしていて、葵達以外何の気配もない。

<葵さま。目がりんごのように赤いです>

虎と三毛が顔を寄せてくる。

<痛みは>

「少しヒリヒリする」

三毛と虎が押し黙る。

「ごめんなさい。もう無茶はやめるわ」

葵は独りではない。

これからは考えなしに動くというのは駄目だ。

2匹に不平と悟られぬよう、音を立てずに息を吐く。

少し前まで、葵はいじめられているただの女子高生だった。

それが女神に出会い、力を得て生き返り、従者を得て、

最後に強大な鬼を打倒したのだ。

今の葵は、まるで物語の主人公のようだ。

「でも、すごかった。2人とも。鬼を倒してしまうんだから」

<呪視を操った葵さまのおかげです>

「操ったのかなぁ・・・」

葵の疑問に、虎が頷く。

<味方をした、という感じもなさそうだにゃ。

だから、操ったにゃ感じにゃただにゃしいにゃ>

「う、うん」

<しかし、葵さま。呪視が代償を求めている限り、

味方をしたという風にはとらえないことです>

言うと、三毛が押し黙った。

「代償って・・・私の目のこと?」

<はい。葵さまの目が代償となっているようですね>

呪視は葵に力を貸すことがある、

だがそれには代償が求められる。

葵はフォルトゥーナからもらった

『真実を見通す目』のことを2匹に話した。

<うみゃあ・・・やはりか。

呪視は葵さまの目に惹かれたのかもしれません>

「惹かれた?」

<また何かあった時は、あいつきっと来るにゃ>

「そんなものなの?」

<ええ。でも、今回のようには決してなさらないで下さい。

葵さまの命にかかわります>

「目が痛いだけよ」

<いえいえ。呪視にこちらの道理は通じません。

甘く見ないで下さい>

<呪視が勝手に生じることは良いにゃ。

でも、利用するのは駄目だにゃ>

<そういうことです。

強大な力を思うままに使うということは、

反動も生じるということですからね>

2匹にきつく言われて、葵は頷いた。

確かに、あの黒い虫は未知の存在だ。

警戒するに越したことはないだろう。

しばらくすると、三毛虎はスーパー内を物色し始めた。

今後必要になりそうな物を探しているのだろう。

葵の方も目の痛みが引いて行ったので、2匹について回る。

「あの・・・いろいろごめんね」

葵が倒れた棚を見ながら言うと、

<勝ったんだからいいじゃん>

<そうですね。葵さまが無事だったのですから、

よしとしましょう>

2匹はまったく気にしていない様子で、物色を続けた。

喉元過ぎれば良いのか、過去は振り返らない主義なのか、

猫達の前向きな性格を見習いたい。

葵はいくつかの物資を得、スーパーから外に出た。

すぐにカーゴを隠しておいた場所に向かう。

「あ」

カーゴが置いてある場所には何もない。

もしかしたら、誰かが持って行ってしまったのかもしれない。

「ああ~」と葵が力なく項垂れると、

虎がそれを見て笑い始めた。

<葵。間抜けにゃ>

<葵さまのための、食べ物が全部なくなってしまった>

三毛も葵と一緒に項垂れる。

全部なくなった。

そういう瞬間を葵は幾度となく、味わったことがある。

だが、葵はスカートのポケットに入ったライターと、

折りたたみ式ナイフの重さを感じていた。

三毛はああ言っているが、何もかも失ったわけではない。

失っていたとしても、このくらいならば些細なことだ。

葵はやがて虎と一緒に笑い始めた。

一度始まると止まらない。

<なぜ笑っているんですか>

三毛と虎を抱きしめる。

いつまでも笑っている葵が変だからだろう、

しまいには、三毛も虎も一緒になって笑い始めた。


   ◇


<そもそも、従者帯というのは・・・>

葵は虎の頭を撫でつつ、三毛の話に耳を傾けた。

三毛によると、猫達は葵の従者となったことで、

従来の能力以上の力が出せるようになったのだという。

三毛と虎が付けている従者帯というのは本来、

家来が主に逆らえないようにするために

作られた契約の証なのだが、フォルトゥーナからもらった従者帯には、

互いのこころを通わせる魔力だけが込められているのだという。

三毛と虎が口々に言うことをまとめると、

こころというのは力の源であり、生命力の釜である。

だから、こころを密に通わせる相手が多ければ多いほど、

持っている力は大きく広がっていくのだという。

「確かに」葵は首肯した。

三毛と虎の鼓動を感じられるようになったとき、

今までにはない勇気を持つことが出来た。

今の葵になら、何となくわかる気がする。

一行はスーパーの敷地外から出た。

三毛が言うには、たくさんの外敵が騒ぎを聞きつけて

こちらに向かっているのだという。

「暑いわね」

外は始めて結希と出会ったあの日のように晴れていた。

気持ちの良い風が吹く。

動かした視線の先に、結希が立っているように見えた。

「あ」

<どした?>

葵が茫洋としていると、虎の肉球に鼻柱をつんと押される。

「ふが」

虎がふざけて背中に乗ってきた。

それを怒った三毛が寄ってきて騒ぎが始まった。

<どうしたんだよ?>と虎が訊いてくる。

虎だけではなく、三毛もなんとなくこちらの様子を

うかがっているようだった。

2匹が空白を作って、葵が話し始めるのを待っている。

従者帯のおかげだろうか。

オーラを見なくても、なんとなく気持ちがわかる。

葵は観念した。

「会いたい人を思い出したの」

せっかく言ったのに、猫達はその場に腰かけて、

スーパーから持ってきた干し椎茸をむしゃむしゃと食べはじめた。

「え。こんな所で?」

葵が狼狽えていると、三毛が頷いた。

<近くに外敵の気配はありません>

干し椎茸はそのままむしゃむしゃと食べるものではない。

葵が狼狽えていると、三毛が手を挙げた。

<人と猫族では文化が違いますので、念のため説明しますが、

猫族は話に耳を傾ける時に食事をします。

なぜなら、食べている間は話せないからです>

なるほど。

猫族にとって、相手の話を聞く時に食べるというのは、

話に割り込まず黙って聞きますよ、という意志表示なのだ。

<葵さま、さぁお座りください>

葵は周囲を確認しながら、三毛に勧められるままに座った。

誰もいないので問題はないだろうが、

道路の真ん中に座るというのは落ち着かないものだ。

食べながら4つの耳がこちらを向き、ピクピクと動く。

「辛かった時にやさしくしてくれたの」

<ご家族ですか?>

三毛が質問を投げかけてくる。

食べている間は話せないのではなかったか。

「違うわ。お母さんには、もう会えないもん」

母親を思う。

母親は自分を捨てた。

今頃何をしているのだろうか。

秋山と仲良くしているのだろうか。それとも。

葵が逡巡していると、

三毛がミックスジュースを手渡してくれた。

<当然ですな>

「え」

<葵さまが母上に会えないことです>

三毛は葵の母親はすでに死んでいる、とでも言いたいのだろうか。

葵は眉間にしわを寄せた。

「どういう意味?」

<葵さまはもうおひとりで歩けるからです>

「歩けるって。確かにそうだけど」

<歩けるなら、大概のことは、自分でどうにかできるにゃ>

葵は息をついた。

もしかしたら、2匹にとって、

親と離れるということは自然なことなのかもしれない。

思えば、人というのは、大人になっても親と一緒にいることがある。

それは、自然界では歪んだ形なのかもしれない。

干し椎茸や干し葡萄を夢中で食べている

三毛虎を見ながら、葵は思った。

「そのひとに、また会いたい」

<雄か>

「え・・・はぁ?!」

何という直線的な言い方なのだろうか。

葵は、頬と首に熱がこもってきたのを隠すために下を向いた。

<葵さま。その方は殿方なのですか?>

心配そうに三毛が言われて、ますます恥ずかしくなる。

「・・・ったく。そうだよ」

<食い物も満足に集まってないのに、

雄のこと考えるなんてよっぽどだな>

虎に言われて頭に血が上った。

「ち、違います!」

首から上全部が燃え上がるように熱くなる。

これではもう隠せない。

<じゃあ、どうして会いに行くんだよ>

虎が不思議な顔をしている。

「それは・・・。ただ単に。助けてもらったから。

お礼をしたいと思ってるんだってば」

虎が息を吸いこんだのを見て、肩に力が入る。

そこへ、まぁまぁと三毛が穏やかに間に入った。

<助けて頂いた恩から、お慕い申し上げるのは、

なにもおかしいことではありません>

三毛はなぜかにこやかで、満足そうに干し葡萄を頬張った。

「ねぇ・・・三毛まで。違うってば」

葵の話を聞いているのかいないのか、

<めでたいですなぁ>と

三毛は嬉しそうに言いながら乾燥キクラゲの袋を開けた。

結希を思う。

男性なのに花のような儚さを持つ人。

思うだけで胸が締めつけられる。

また、会いたい。

「参りました」

猫達に頭を下げ、自分が結希を慕っているということを認めた。

<最初から認めたらいいにゃ>

<珍しく意見があったな。虎よ>

三毛と虎が肉球を合わせてハイタッチをした。

死ぬほど恥ずかしい。

「でも、慕ってはいるけど、好きとかそういうんじゃあ・・・」

三毛は葵の言を完全に無視する。

<では、今後の目標は、その方に会うということですね>

「え・・・ええうん」

<そいつどこにいるんだよ>

結希のアパートの位置を思い出そうとしたが、

2回も行ったはずなのに霞がかかったように思い出せない。

この非常時に記憶がおかしくなったのかもしれない。

「お、思い出せない」

思わず太ももを叩く。

暗雲たる気持ちに支配されそうになる。

<会ったことのある場所はどうですか?>

三毛の助け舟に乗ろうと、葵は目を閉じて頭を回転させた。

再会を約束した噴水公園の場所はよく覚えている。

「そこならわかるわ。国道の近くだし」

<よろしい。では、そこに行ってみましょう>

一行は噴水公園を目指す。

徒歩で行くとなると、かなりの距離になる。

電車があればすぐだが、今は使えない。

虎によれば、外敵を警戒しながらの移動となれば、

さらに時間がかかるという。

ずいぶん遠い道のりになりそうだった。

三毛は銀行の駐車場にある奥まった場所を探し当てて言った。

<ご主人。今日はここで一晩過ごしましょう>

三毛の言葉を合図に、猫達は準備を始めた。

三毛が鞄から出した薄い絨毯を敷いている間に、

虎はどこで水に含ませて、適度に絞った手拭いを葵に渡してくれる。

手拭いはよく見ると、太くまとめられた縦糸と、

細くまとめられた横糸を交互に編んであるものだった。

よく水分を含んでおり、やわらかい手触りで拭きやすい。

葵は車の影に身を隠しながら、

背中やお腹、足をくまなく拭いた。

べたついた体がすっきりとする。

「ありがとう」

<ささ、どうぞ横になられて下さい>

促されるままじゅうたんに横になる。

三毛がスカートの上に暖かい毛布を掛けてくれた。

しばらくすると、辺りは暗くなった。

周囲に香の匂いが漂い始める。

ワゴン車の上に座っている虎の槍に、

つり下げ式の香炉がひっかかっているのが見える。

槍は一定のリズムで動くので、まるで釣りをしているみたいだ。

「いい匂い。あれは何?」

<すべての悪夢から守ってくれる、魔除けのお香です>

「魔除けの・・・お香」

香りを味わうために、葵は呼吸を深くした。

呼吸が深くなると、自然と意識が眠りに向かっていく。

「・・・眠い」

葵は一呼吸ほどで眠りについた。



両脇の圧迫感によって葵は目覚めた。

辺りはまだ暗かった。

左右に三毛と虎の体が横たわっている。

嬉しくて涙が出そうになる。

もう少しだけ、この感覚を味わっていたい。

とても遠くで規則的に風を切る音が聞えた。

なんだろう、そう思って葵が目を開けると、

月を背にして鳥が飛んでいるのが見えた。

目を凝らすと、とても遠くにいる鳥がより鮮明に見えるようになる。

これも『真実を見通す目』の力なのだろうか。

距離があるので小さく見えるが、

鳥はおそらくは羽の大きさだけで

旅客機の数倍はありそうに見える。

「あ」

鳥が月の輪郭に達しそうになった瞬間、身を翻らせた。

巨躯に似合わず、非常に機敏な動きだった。

鳥の羽が銀色の光を放ち、月の下部を撫でながら落ちていく。

「きれい」

葵はうっとりと目を細め、また眠りについた。


   ◇


<朝食は如何しますか?>

三毛の声で葵は目を覚ました。

「もう起きてたの?」

<遅いよ。もう朝だよ>

虎が不機嫌そうに言った。

葵が朝食を断ると、一行はすぐに出発した。

三毛は、噴水公園付近で待つことになりそうなので、

早めに到着して住む場所を確保したいという。

朝日が昇り始めた頃、

普段からよく寄っていた小さな書店に通りすがった。

書店のガラスは割られており、中には誰の気配もない。

「ああ。こんなになって・・・」

<知っている家なのですか?>

「うん。よく通っていたの」

店の前で意気消沈していると、

虎が中に入り安全確認をしてくれた。

合図をもらって三毛と葵が中に入る。

中は思ったほど荒らされている様子は

なかったのでほっとする。

目的は都内の地図だ。

入口付近にあったのを手に取り、カウンターに向かう。

財布から小銭を出して置いた。

<なんだそれ?>

虎が首をかしげながら言った。

「お金だよ」

<ほう。これが代金ですか>

<紙と紙を交換するなんておかしいにゃ>

「ただの紙じゃいのよ。

これはね、この辺りの地図」

屈んで地図を見せると、虎と三毛は興味津々に覗き込んできた。

<これは詳細な>

三毛が唸っている。虎はまだ首をかしげたままだ。

<それよりも葵。誰もいにゃいのに、

なんでお金を置いたにゃ?>

「え・・・それはその」

葵は答えない。答えようがなかった。

何もかもが失われ、誰も彼もが死に、

よく通っていた小さな書店で地図を手に取る。

そして、その代金をなぜ払うのかと聞かれて、

どう答えたら良いというのだろうか。

葵は憮然としたまま、

三毛がまだ見ている地図を畳んで店を出る。

<葵さま>

幾度となく猫達から名を呼ばれたが、

最寄り駅に到着するまで、葵は返事をしなかった。

いじめられている時、

葵は世界が壊れてしまえば良いのに、と思ったことがある。

そして、葵の望んだ通り何もかもが壊れてしまった。

地面を踏みしめるたび、葵は自分を責めた。

<食い物の匂いがする>

虎が脇道に逸れて向かっていく。

「ああ。こら待ちなさい」

虎の向かった先には、

お金持ちが住んでいそうな大きな一軒家があった。

「わぁ。大きい」

虎を追いかけて門をくぐると広い庭がある。

虎が庭のシンボルツリーの下に入り込んでいく。

「こら。よしなさい」

三毛が嬉しそうに声を上げ、虎を追って行ってしまう。

「あ。あんたら一緒になって。だめよ、もうっ」

木にはたくさんの実が成っていた。

実は赤くラズベリのような形をしている。

2匹は興奮しながら、実をもいで食べ始めた。

「ぎゃ。勝手に食べたらダメよ!!」

制止しようとするが、2匹は止まらない。

何度か声をかけたが完全に無視されたので、

葵は仕方なく近くのベンチに腰かけた。

「あとでうんと叱ってやるから」

ふぅ、と息を吐く。

葵はシンボルツリーを見上げた。

以前の家人はこのベンチに座って、

この木を見上げたのだろうか

それとも毎日忙しくて、

周りをゆっくり見る暇なんてまったくなかったのだろうか。

「きれいね・・・」

改めて、木と空と太陽の美しさを感じる。

自分はずっと、そんな風に景色を見ることはできなかった。

もしかしたら、わざとそうしなかったのかもしれない。

目の前のくだらないことばかりに夢中で、

本当に大切な物を見ようともしなかったのだ。

葵は幼いころから、平和を望んでいた。

平和は秩序だ。

秩序を守るためには、みんなが役割を守ることが大切だ。

思えば葵は、父親と母親のことを、

本人そのものではなく、役割を通して見ていたように思う。

父親の癖に。

母親だから。

そういうものに当てはめて、

知らず知らずのうちにいろんなものを縛っていたのかもしない。

そして、自身も娘として、子どもとして、あり続けた。

もしかしたら、みんなそうなのかもしれない。

人はみんな、自分の役割に縛られている。

大嫌いだったいじめっ子達も、そうだったのかも。

叫び出したくなる。

認めたくなくて、葵は頬の内側を噛み締めた。

<いや、大漁大漁>

たくさんの実を、雅な風呂敷に包んだ2匹が戻って来た。

胸の奥に黒いものが溜まっているのを、

葵は誤魔化すように目を閉じた。

三毛と虎を自分の両脇に座らせ、腕を回す。

戸惑う2匹に構わずに、葵はそのままでいた。


   ◇


最初の外敵に出会ったのは、正午に入ってからだった。

先行していた虎が興奮した様子で戻って来た。

<小鬼がいるっ。やっつけていい?>

今まではなるべく外敵との接触を

避けて移動をしていたのだが、

三毛に相談すると、勝てそうなので

やってしまった方が良いという。

「な、なんで?」

<あいつら木の実を取り尽したら、

いつも最後には切り倒しちゃうんだ>

虎が憤慨している。

<木はまた実を作ってくれますから、

木を倒してしまう小鬼達は森の迷惑者なのです>

三毛が珍しく興奮気味に言った。

外敵は人を襲う。

1匹でも多くの外敵を排除した方が、

生き残った人達のためになるかもしれない。

葵は迷った末に、ようやく頷いた。

一行は物陰からゴミを漁っている小鬼の背中を見た。

小鬼の体格は丁度三毛虎と同じくらいだ。

巨大な鬼を倒した虎と三毛なら、楽に倒せる相手かもしれない。

虎が小鬼に近づいていく。

回り込んだところで三毛が小鬼の足元に石を投げた。

石に反応した小鬼が顔を上げた逆方向から、

虎が槍を突き出す。

奇襲は見事成功し、小鬼は一撃のもとに葬られた。

虎の元に駆け寄ると、血を流している小鬼が薄い光に

包まれて消えてしまった。

「きえちゃった・・・」

葵が叫ぶと、三毛が首を捻った。

<死んでしまったものは、全てこうなります。

先程戦った鬼も同じようになりましたよ>

「ええ。そうなんだ・・・」

遺体が消えるなんて信じられないが、

猫達は平然としていた。

彼らからすれば常識のようだ。

<ただし、食おうと思った時には残ります>

「く、食うって・・・」

まったく意に介さない様子で、

三毛が小鬼の下に散らばっているゴミを確認している。

「ああもう、こんなのデタラメだっ」

だがそれなら、葵も。

葵も死んだら、あの小鬼みたいにきれいさっぱり

消えてなくなってしまうのだろうか。

胸にぞっとするような寒さを覚える。

その寒さは、こころの底の方に溜まって影を作る。

だが、その影はある意味心地よい。

死んだら消える。跡形もなく。

それが嬉しいのかもしれない。

この嬉しいという感覚は、消えた小鬼を見たから生まれた

ものなのか、それとも自分が以前から持っていたものなのか。

そんなことを考えていることは、結局無駄なのに、

ついつい考えてしまう。

葵は混乱していて、自分が何を感じていて、

何を考えているのかだんだんわからなくなる。

苛立ちが強くなる。

そんな時、一行は噴水公園に到着した。

そうだ。結希を探さなくては。

葵は走り、公園をくまなく探した。

結希。結希。

結局見つからない。

葵は街路樹の繁みに入り込みながら、

結希の名を呼んだ。

それを見かねた三毛に止められる。

<葵さま、おやめください。

そんなところに人は入れません>

「そんなの、わからないじゃない」

<わかります。繁みよりも、人の体の方が大きいですから>

「うるさい。放して」

<葵さまはお疲れのようです。

休憩に致しましょう>

「疲れてないわよ」

<ここにはフォルトゥーナ様の加護があるから、

ボクら以外のやつらは入れないね>

「そう。ここは安全なのね。

だから何?」

<だ、だから、こちらで少しお休みになられてはと>

「休んでどうするっての?

みんな死んで。私だけ生き残って。

こんな価値のない私がっ」

大きなため息をつくと、

三毛と虎がおずおずとこちらを見る。

葵の頭は混乱していて、猫達に優しくすることができない。

<葵はボクらのこと、嫌いになったの?>

虎の雰囲気がいつもと違っていた。

「別に。嫌いじゃないわよ」

<嘘だ。

頬っぺたのこと。謝らせてもくれないじゃないか>

虎の目から零れ落ちる涙を見て、葵は息を止めた。

三毛が鞄から出したボロ布で虎の顔を拭う。

虎の背中を擦っていた三毛が、葵を見た。

葵は頬が引きつるのを我慢して見つめ返す。

<葵さま。おかけください>

三毛が丁寧な仕草で、ロールされていた敷物を置いた。

「いやよ」

<お願い致します。ご無礼をお許し下さい>

「あんたたちは、無礼なんてしていない。

私が、ただ。おかしいだけ」

<あの大きな店では、虎が粗相をして申し訳ありません>

「知ってたの?」

<詳細はわかりませんが、憶測で>

「そう」

葵が後ろめたさに頭を振って、

敷物の上に腰かけると、三毛はゆっくりと頷いた。

<ありがとうございます>

「別にいい。私もおかしくなって、ごめん」

<葵さま。少しお話をしてもよろしいでしょうか>

三毛が近くに腰かけると、虎もその隣に座った。

<虎と私は、小さな集落で生活していました>

三毛は大きな庭で採ったラズベリのような実を鞄から出し、

葵と虎に分けた。

<集落の猫はみな短命でした。

集落の周りは、水と木々が豊かな森でしたが、

取り囲むように外敵が住まうようになったせいです>

猫達が表情を歪ませる。

<逃げることもできず、集落に住む猫族は窮地に追いやられました。

物心ついた頃には両親は死に、

たくさん生まれたはずの兄弟も、すぐ私だけになりました>

「そ、そうだったんだ」

三毛が達観したような笑みを浮かべる。

<仕方のないことなのです。自然の流れですから。

だから、我々の集落では、兄弟の契りを交わす風習ができました>

「兄弟の契り?」

三毛と虎が視線を交わす。

<はい。家族が次々と亡くなっていく中で、

天涯孤独とならないよう、新たな兄弟を作るのです>

<私と虎は生れつき身体が小さく、

手の力も弱かった。だから、兄弟の契りを

交わしてくれる者がいませんでした。

どうせすぐに死ぬと思われたのでしょう>

「それでどうしたの?」

<はい。同じように早くから家族を亡くしていた虎と私で

契りを交わしたのです。

普通弱いものは、強いものと結ばれます。

その方が効率がよいからですが、

私達は弱いもの同士で結ばれました。

だから、よく周りから馬鹿にされまして>

三毛の震える手に、葵は掌を重ねた。

<ある大きな争いがあり、強い者がたくさん死にました。

それにも関わらず、私達は生き残ってしまった>

三毛が大きなため息をつく。

<規範を乱し、士気を下げてしまったのは言うまでもありません。

ほどなくして、私達は追放されました>

「い、意味わかんない」

葵が乗り出すと、弱々しく三毛が笑った。

「少し話が変わるようですが、

フォルトゥーナ様は私たちの世界では、

すべてを司る最高の神格のお方です。

猫族の多くがフォルトゥーナ様を奉っております。

追放の折、フォルトゥーナ様を奉る総本山に

奉公に行くことを命じられました。

しかし、私も虎も十分な備えがなく、

道半ばで力尽きてしまったのです>

三毛は首を振り、虎は少し悔しそうにする。

<最後の最後まで、私達は役立たずでした。

しかし神の采配か、私達はもう一度生をやり直す

機会をいただけました。

気がついたら、記憶もそのままにこの世界に召喚されていたのです>

フォルトゥーナは葵に力を与えた上で生き返らせることのできる、

強大な力を持つ神だ。

そんなことが出来ても不思議ではない。

<葵さまは、危険を顧みず、弱いものを守ろうとしておられた。

弱い私達に、知恵を与えて下さった>

「考えなしに行動してただけよ。

そんな立派なものじゃないわ」

葵が両手を前に出して振ると、

いてもたってもいられない様子で、虎が言った。

<ボクが悪いことをしたなら、謝ります。なんでもします。

必ずお役に立ちます。ですから、私達を見捨てないでください>

「と、虎・・・」

三毛と虎が頭を伏せた。

「ちょっと、待って。私そんなつもりじゃ」

そんなつもりはなくとも、自分の素振りが猫達をいたずらに

追い込んでしまったのは言うまでもない。

一瞬目の前が暗くなった。

「私も、態度悪かったけど、

あんた達に、そんなことは思ってない」

葵ははっとした。

葵は、自分の頬を傷つけた虎に謝罪させなかった。

虎のせいではなく、自分のせいだと思ったからだ。

ただ黙っているだけで、自分の気持ちを伝えなかった。

虎としては、謝罪すら許されなかったのと同義なのだ。

これでは、今までと同じだ。

葵は、両親にも友人にも、周りの大人達にも何も言わず、

自分では何一つ行動をしなかった。

だから、だから死んだのだ。

葵は正座をして、首を垂れた。


虎。ごめんなさい。

本当は怖かったし、痛かった。

だけど、あれは私のせいだと思った。

虎は一生懸命私を守ろうとしてくれたんだよね。

だから、あなたを責めたくなかった。

三毛。ごめんなさい。

私は身の回りがどんどん変わっていくのが怖かった。

私はあなた達より程じゃないけど、いじめられていた。

世界が終わってしまえば良いって思ったこともある。

それが実際に起こって、ほっとした気持ちもあった。

そんな自分がとても醜くて、怖かった。

さっきの小鬼みたいに、死んだら光のように消えて

しまえるんだって思った時、もっとほっとしたの。

2人が一緒にいてくれているのに、

そんな風に考えちゃう自分が嫌だった。

歩きながら、ずっとそんなことを考えている自分が、

気持ち悪いヤツだって思ったの。


頭を敷物に押し付けたままの葵の頬に、

三毛と虎が手を触れてきた。

<葵さま。お顔を上げて下さい>

<謝るのはボク達の方にゃ>

葵は涙でぐしょぐしょになった顔を上げて言った。

「2人のことが好き。

短命なんて言わないで・・・。ずっと、一緒にいろ」

涙で頬を濡らすこの2匹は、

こんなくだらない葵を、信じてくれている

そう思うと、細い針が胸に刺さったように痛い。

ごめんなさい。三毛、虎。

私はもう、同じ失敗はしない。

<あ、葵、今なんて言ったの?>

虎が涙声で聞いてきた。

「え・・・一緒にいなさいって」

2匹が葵の手から出て、飛び跳ね始めた。

中国雑技団みたいだ。

<やったー。ずっと一緒に居ていいって。

もう捨てられるかと思った>

<確かに。私も不安でした>

涙をぬぐいながら三毛が言う。

「・・・ん?」

<でも、一緒に居ろって言ったもんね~>

<もう大丈夫ですね>

「んんん・・・?」

三毛と虎が盾と槍を使ってハイタッチをしている。

三毛と虎は一端の戦士のように、片膝をついて胸に手をやった。

<今後ともよろしくお願いいたします>

「・・・・んんん?」

2匹の従者帯から、太陽色のオーラが立ち上っているのが見えた。

三毛の腕に巻かれている従者帯に触れると、ほんのり温かかった。

「あたたかい」

<この熱は、私達が葵さまの正式な従者になった証です。

正式な従者となるには、お屋形様から従者になれ、

と命令して頂く必要があったのです>

「・・・・はぁああ?

じゃあ、今まではなんだったのよ?」

<仮契約ですね>

<だから、ボク達ずっと不安だったんだ。でも、これで安心。

従者契約はもう死ぬまで切れないんだ~。

でもさ、泣きまねしたら、葵は絶対に命令してくれるって

三毛の言う通りだったね>

三毛がおびえたような表情をした。

<ば、馬鹿っ!それは葵さまには秘密だ!>

「・・・泣きまね?」

葵は立ち上がり、両手を腰に当てて三毛虎を見下ろす。

「三毛。虎。あんたたち・・・」

三毛は驚愕に目を見開き、

虎は頭を両手で庇いながら震えている。

<・・・うおお。なんたること>

「あんたたち、あれってばお芝居だったの?!」

<ちちち違います。めっそうもありません>

2匹が並んで首を垂れる。

葵はふっと息を吐いて笑った。

「まぁ、いいわ。私も迷惑かけたから。

それより、佐藤さんを見つけるまで、

こきつかってやるから覚悟しなさいよ」

<は、はいぃぃ・・・>

2匹が深々と頭を下げる。

葵は、三毛虎と一緒にいて学んだことがある。

問題を先送りにしたり、なかったことにしたりするのは、

よくないこと。

大切な人には、思っていることはできるだけ

正直に伝えた方がよいこと。

正直に自分の気持ちを伝えるのは怖い。

裏切られたり、拒否されたりするのは辛い。

だが、言わなければ何も始まらない。

何も分かってはもらえない。

それは、最初から無いのと同じことだ。

今まではできなかったが、これからちゃんとしていきたい。

もし、結希に再会出来たら、と考える。

きっとまた、たくさん迷惑をかけてしまう。

うまくいかないこともたくさんあるだろう。

その度に、話し合い、思いを伝え合うのだ。

もう失敗しない。

誓いが胸の奥に刻まれる。

葵は、ほんの少しだけ前に進めた気がした。

ありがとうございました。

次話は来週に投稿いたします。

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