17話 葵 中編
17話中編です。よろしくお願いいたします。
葵は心底驚いた。
図書館には、結希の名残があったのだ。
葵がよく行く小説のコーナーにも、
ちらほらと彼のオーラが見える。
「佐藤さん・・・っ」
葵は速足で図書館中を探し回ったが、
残念ながら結希は居なかった。
すぐに外へ飛び出して、駐車場を巡る。
隣接する学童がよく使っている公園まで走り、
葵はようやく足を止めた。
「本当に。いったいどこにいるの・・・?」
胸が苦しかった。
「会いたい」
目を閉じて、彼の無事を祈った時だった。
「赤井さんっ」
後ろから肩を叩かれて、葵は高速で振り返った。
立っていたのは結希、ではなく本を数冊抱えた伊都子だった。
「久しぶり」
「井上さん。どうしてこんなところに」
「い、いや、あなたが見えて、話しかけようと思ったら、
そのまま走って行っちゃったから・・・」
伊都子の頬に揺らいでいる青白いオーラが見える。
きっと、葵を心配して本を抱えたまま出て来てくれたのだ。
伊都子が本をしっかり抱え治すと、
ポケットからハンカチを取り出した。
「よかったら、使って」
意味が分からずに茫洋としていると、
伊都子が葵の目にハンカチを当ててくれる。
いつのまに、自分は泣いていたのだ。
「すみません」
涙を拭き取っている間に、伊都子が周囲を見回している。
「赤井さんは飲み物何が好き?」
「え、えっと・・・カルピスソーダかな」
そう言うと、葵の目の前に結希の顔が浮んできて、
また泣きそうになる。
「私、今日はもう終わりなの。
本当は最後まで居るつもりだったんだけど。
ちょっとお話ししない?」
伊都子の言に葵は頷いた。
「よしっ。じゃあ、すぐに戻るから!」
伊都子は早足に戻っていった。
しばらくすると、伊都子が息を弾ませてやってきた。
公園のベンチに腰掛けると、カルピスソーダを手渡される。
「はい。どうぞ。カルピスソーダ。自販機に丁度あった」
「ありがとうございます。
ブースの前にあるやつですか」
「そうそう。でもあそこ、けっこう人気で、
すぐに売り切れちゃうのよね」
「ですよね。買わない時はあるのに、
買いたい時にはいっつも無いんです」
「わかる」
2人は顔を見合わせて笑った。
伊都子が缶コーヒーを何度か揺らしてプルタブを起こした。
伊都子に促されて、葵も開ける。
すると、炭酸が吹き出してきた。
「どぅわああああ!!」
「うぎゃぁぁぁあああっ」
何とか缶を取り落とさずに済んだが、
持っていた手がジュースまみれになってしまう。
「わあー・・・ごめん。炭酸だって忘れてたぁ・・・」
伊都子のまっすぐ切り揃えた前髪が、
何度も葵に向けて上下する。
葵は吹き出した。
失礼だと思っても、笑ってしまうのを止められない。
あまりに長い間笑い続けていると、
「ご、ごめんねぇ。おっちょこちょいで・・・デゅフフ」
申し訳なさそうにしていた伊都子も笑った。
「あ~笑った。お腹痛い」葵が言うと、
「私も、久しぶりにこんなに笑った」と伊都子。
葵はカルピスソーダを一気飲みする。
炭酸が喉の中で弾けて痛いくらいだったが、
全部飲み干すまでは止まらない。
「ぶはぁ~最高にうまい」
伊都子が驚いた表情でこちらを見ていた。
「赤井さん、って・・・すごく素敵な子だったんだね」
「いやっ。急にどうしたんですか」
「ううん。なんとなく。
私が思っていた赤井さんは、
赤井さんじゃなかったんだなって」
コーヒーを口に含んだ伊都子が、
遠くの空を見ているのに気付く。
彼女の見ている空と、自分が見ている空は、
少し違うのかもしれない。
「あれも、私です」
伊都子がこちらを見た。
彼女のオーラは、夕日色だった。
「私は、暗くて、いつもはっきりしなくて」
胸がずきりと痛む。
「人とお話しするのが怖くて。
いつも井上さんに素っ気なくしてました。
でも、本当はうれしかった」
伊都子が短く息を吸った音が聞える。
「もう解決したんですけど、学校がずっとつらかったんです。
でも、井上さんがいろいろ声をかけてくださって、
その度に気持ちが楽になったんです」
「私もうれしかった」
伊都子の声。
「え」
「私まだ司書じゃないのね。3年の実務経験がないから」
「そうなんですか?」
「そ。
だから、まだ半人前なの。
いろいろ悩んでいた頃、
赤井さんが最初に聞いてくれた。
翻訳本で、題名が女性の名前だったんだけど、
知りませんかーって。
実はね、本を探してほしいって頼んでくれる人って、
なかなかいないの。
最近はスマホとか、PCで検索できるし、
本を読みにくるんじゃなくて、勉強をしにくる人も多いし」
「ああー確かに」
テーブルについている人の大半は学生で、
勉強をしている人がほとんどだ。
毎日のように図書館を利用していた葵にも、心当たりがあった。
「だから、ちょっと嬉しかったの。
本のことを聞いてくれた人がいてくれて。
まだ半人前だけど、絶対役に立ちたいって思った」
伊都子は本当に嬉しそうに話していた。
「そしたらね」
一息入れてから、伊都子は吹き出す。
「赤井さん、私より早く本を見つけちゃって」
「ああー・・・」
葵は頭を抱えた。
以前の自分に、空気を読めと言ってやりたい。
「それから、いつ本のことを聞かれても大丈夫なように
棚を全部覚えた。
あなたのおかげで、私は、この仕事を頑張ろうって思えたの。
そのおかげでさ、褒められることも増えたの」
伊都子の目に涙が浮かんでいる。
「実は、赤井さんがここに来てくれるのが嬉しくて、
たくさん話しかけちゃってた。
ごめんなさい。うるさかったでしょ?」
「いいえ」
葵は首を振った。
胸中に生じたのは、感謝だった。
たくさんの人がひっきりなしにすれ違うこの街で、
葵とみんなが交わった奇跡と、
葵みたいに取るに足らない存在を欲してくれた人達に
こころから感謝する。
「・・・」
考え込んでいる葵の顔を、伊都子が覗き込んでくる。
「ごめんなさいっ。黙ったままで」
「いいの。よく考えてくれているんだなぁって思ったから」
伊都子がうーんと背伸びをしてから、
「声に出す前にいろいろ考えちゃうよね」と言った。
「それが・・・実はそうでもないみたいなんです」
「そうなの?」
伊都子は先を促すように頷いた。
「あんまり話すタイプじゃないって、
自分では思っていたんです。
でも、ある人の前だとそうならなくて」
伊都子が体の向きをこちらに向けた。
「好きな人?」
「とんでもない。でも、最近会えなくなってしまって」
「どうしたのかしら」
「わからないんです。連絡もとれないし・・・」
伊都子は公園で遊んでいる子ども達を見た。
お迎えの時間まではまだあるようで、
子ども達は楽しそうに遊んでいる。
「赤井さんと私、ちょっと似てるかも」
伊都子が真面目な顔になる。
「え」
「私も、自分が思っていた自分とは、ちょっと違ってた」
伊都子の頬が赤くなる。
とても可愛らしい。
「赤井さん。シンデレラコンプレックスって知ってる?」
唐突に聞かれ、葵は頭を振った。
「シンデレラのように、いつかは素敵な王子様が
迎えに来てくれると信じて、
ずっと待ち人を続けるような女性を指していう言葉だけど」
葵はいつも、シジュウカラのような友達が、
自分を救い出してくれると願っていた。
もしかしたら、自分もそうだったかもしれない、と思う。
「私は、シンデレラみたいに、ひたすら待つタイプ」
力強く言った伊都子が、鞄から本を取り出した。
「この本をね、探していた人がいたの」
見るからに古い本で、カバーの所々が剥がれている。
「ん?」
葵は本を二度見した。この本はおかしい。
よく見ていると、本の端から、
真っ白でつやつやした尻尾のようなものが出ているのだ。
「こ、この本って」
「うん。古いけど、いい感じでしょ?」
尻尾はゆらゆらと揺れていて、まるで生きているようだ。
本を持っている伊都子の手に、尻尾が触れてきた。
「あ」
尻尾は伊都子の手を心地よさそうに擦っている。
まるで飼い主にじゃれつくペットのようだ。
なんだこれは。
「赤井さん。この、白いのは」
「ん・・・。ああ、カビがちょっとあるの。古いから」
「ち、ちが」
伊都子は本の端についた小さな汚れを払った。
そのせいで尻尾がばさばさと叩かれて、大きく揺れた。
葵は思わず、伊都子の手を掴んで止める。
「うわあダメだってば・・・その白いやつっ」
「え。何?」
本を持ち上げてまじまじと細部を見ている伊都子の頬に、
尾がまた触れた。
伊都子はまったく反応しない。
尾は葵にしか見えないし、感じないのだ。
オーラと同じで、この尻尾は葵にしか見えないものらしい。
葵は閉口した。
なんなんだこの本。
「ちょっと見せて下さい」
伊都子の承諾を得て、カバーにそっと触れた。
指先から腕、腕から肩に、神経を痺れさせるような
衝撃が伸びていく。
「わ」
最後に頭まで達した時、目の前で火花が散った。
火花はいくつもの熱を場に残して消滅していく。
中心に残ったものは、眩しい光の塊だった。
光は駒のように回転したと思ったら、
いきなり飛びあがって、葵のこめかみにぶつかった。。
「ぎゃ!!」
光は地面や伊都子の肩に当たって跳ね返りながら、
辺りを縦横無尽に飛び回った。
「どうしたの? 赤井さん」
これだけ跳ねまわっているのに、
光は伊都子には見えない。
光は壁に当たる度、少しずつ身を削られ形を成していく。
最後に伊都子のおでこにぶち当たって、砕け散った。
「うぎゃ。だいじょ・・・」
ものすごい勢いで当たったのだが、
当の伊都子は、前髪が一瞬浮かんだだけで、
痛みは全くないようだった。
葵は伊都子の顔面に張り付いている、
小さな生き物をじっと見つめていた。
全長が伊都子の顎からおでこ位の大きさで、
見た目はモルモットのようだ。
体表はかすかに輝く太陽色をしており、
目は虫のように真っ黒。背中にはトンボのような羽が生えている。
このおかしなトンボモルモットは、
伊都子の額にべたべたと触ったり、舐めたりを繰り返し、
最後には前髪にぶら下がり始めた。
「ね、ねぇ。赤井さん、大丈夫?」
生き物が目の前でターザンをしているのに、
全く反応しない伊都子が訝し気に言った。
「え・・・ああ、はい。大丈夫です。何でもないです」
「それでさ、私ね。
図書館をひっくり返す勢いで探した」
伊都子が話し始めると、トンボモルモットが耳に齧りついた。
「ちょ」
「赤井さんとのことがあったから、
今度は絶対に探し出してやるーって」
伊都子の話がまったく頭に入って来ない。
とりあえず、葵は伊都子頭の上で飛び跳ねる
トンボモルモットを無視して、話に集中することにする。
「それで見つけて渡したら、その人すぐに読んでしまったの。
英語の本だったのに。すごいと思った」
「あ、ああ。ええ・・・確かにすごいですね」
肯定すると、蛍のような桜色の光が伊都子の指先で光った。
なんて綺麗な光だろう。
トンボモルモットが驚いたようにその光を見ている。
ちょっとだけ可愛らしい仕草をしているトンボモルモットを見て、
こいつは悪いやつではないのかも、と葵は思った。
「私、待つタイプって言ったよね」
「はい」
「それがね。私勢いに任せて、食事に誘っちゃったのよ」
「ええー。すごい」
「自分でもびっくり。次いでに家族まで紹介しちゃって」
「すごーいっ。やったですね」
「うん。だからね。
赤井さん、でも、ある人の前だとそうならなくて、
って言ってたけど、
それって、きっと良いことだと思う。
その人の前では、思った以上のことが出来ちゃうんだよ」
言い終わってから、「うーん、司書にあるまじきまとまりのなさで
しゃべったけど」と伊都子が腕を組んで考え込む。
伊都子の周りをクルクルと飛び回っていたトンボモルモットが、
器用に彼女と同じポーズをする。
こいつは、見た目に反して知能が高いのかもしれない。
「ちゃんと伝わりました。
伊都子さんがその人を好きだってことが」
葵が恭しくお辞儀をすると、
「このー」と言いながら伊都子が肩を掌で押してきた。
手が温かい。触れられるのが心地よい。
触覚を集中させて、伊都子の指先を追い続ける。
いつの間に、トンボモルモットが伊都子の肩に座っていた。
「ね。伊都子でいいよ」
トンボモルモットに頬を吸われながら伊都子が言った。
だんだんトンボモルモットが伊都子にしていることが
気にならなくなってきた自分がいる。
「じゃあ、あの私は葵って」
「うん。葵ちゃん。よろしくね」
「はい。伊都子さん」
その後、葵は伊都子の誘いで、彼女の父親がやっている軽食屋で
夕食をごちそうになった。
伊都子へ本のことをたくさん訊いて、
会話が途切れることはなかった。
帰る時、また会う約束をする。約束の日がもう待ち遠しい。
明日やその先に楽しみに出来るなんてこと、
自分にはもうないと思っていた。
涙が出そうになる。
「じゃあ、またね」
手を振る伊都子の肩に乗ったトンボモルモットが、
退屈そうに欠伸をしている。
葵はトンボモルモットを睨みつけた。
あんたは、伊都子さんと一緒にいるってわけ?
真っ黒な目が葵を見返してくる。
もし、伊都子さんをいじめたら、許さないから。
トンボモルモットは葵から視線を逸らし、
伊都子の頬を吸ったり、舐めたりする。
懐いているようだ。
今のところ、トンボモルモットが伊都子に害するようには見えない。
何にも悪さしないならいいけど。
もう少し様子を見てもいいのかもしれない。
手を振り伊都子と別れると、葵は帰路についた。
◇
入浴を終えて着替えたとき、
スマホが点灯しているのに気付く。
連絡は母親からだった。
添付されている画像には、旅館の一部屋が映っていた。
母親は今も秋山と一緒にいるようだ。
学校から連絡があったこと、
旅行先でも物騒なニュースがあったので、
戸締りをしっかりするようにと、
メッセージが入っている。
物騒なニュースときいて、母親が心配になった。
だが、きっと母親は自分よりも、秋山と一緒の方が安全だろう。
ニュースのことが気になり、葵はテレビを点ける。
速報。
昨夜未明、とある民家に勝手口から強盗が侵入し。
通学途中だった児童複数人を、
ナイフのような刃物で切り付けるという。
公園で運動をしていた男性が、後ろから刃物で刺され。
どれも物騒なニュースばかりだったが、
葵はその一つに釘つけになった。
「・・・う」
テレビ画面から、黒い靄のようなものが出ている。
靄に構わず、葵はテレビ画面を両手で鷲掴みにした。
事件が起きたのは、結希と別れた日の夕方。
被疑者は不明。
数人の被害者と、救急車が行方不明。
現場に向かった警察も被害に遭い、対処が難しい状況。
「こ、こんなの。何もわからないじゃない」
首と頬が粟立ち、胃に炙られているような痛みが走る。
この事件は、結希と関係がある。
絶対にそうだ。
葵は立ち上がり、すぐに何度も結希に電話をした。
やはりつながらない。
「もうっ・・・もうっ。なんでよ!!」
彼に何かあったら、どうしたら良いのだろうか。
結希は身体を鍛えていて、
フォルトゥーナにもらった力もある。
だが、ニュースでは後ろから刺されたとあった。
不意打ちでは、対応のしようがなかったのかもしれない。
もしそうだったら、どうしよう。
パニック寸前になった時、電話が鳴った。
羽生からだ。
「赤井さん。よかった。出てくれて」
「羽生先生」
誰かの声でこんなに安心できると思わなかった。
「今お母さんと一緒?
電話がつながらなくて」
「は、はい。一緒です」
葵は心配をかけたくなくて、つい嘘を言った。
「・・・そう。代わってもらえる?」
ああ、くそ。
「ごめんなさい。嘘です。一緒にはいません」
しばしの沈黙がある。
「やっぱり赤井さん、独りなのね。大丈夫なの?」
「すみません・・・。
ちょっと不安ですけど、家の中だから平気。
何かあったんですか?」
逡巡が受話器から伝わってくる。
「明日は休校になった」
「そうなんですか?」
「ニュース見た? 通り魔が学校の近くで出たの。
部活で校舎の周りでランニングをしていた生徒が刺された。
赤井さんはしばらく、外に出ないようにね」
「はい・・・」
「そっちは平気?」
「はい。大丈夫です」
また沈黙があった。
不安で苦しくて、熱いものが喉の奥からこみ上げてくる。
歯を噛んで、声が震えないようにこらえた。
「じ、実はちょっと、怖くて」
「まず戸締りをしなさい。電話は切らないから」
羽生が静かに言った。
葵はバタバタと部屋中を走り回って、鍵を確認した。
「終わりました」
「じゃあ、次はお水をお風呂いっぱいに溜めておきなさい」
「え」
「水をためておいた方がいいわ。
今から出来るだけお茶を沸かしておくのもいいかも。」
「お米はある? 炊いて、おむすびを作って冷蔵庫に」
「数日分の着替えをリュックに入れて、お金も一緒に」
羽生が出してくれる指示を、葵は淡々とこなしていく。
こんな時はやることがあった方が、
人は落ち着けるのかもしれない。
一通り終えると
「ああ、そうだった。スマホを早く充電しておきなさい」
羽生の声が徐々に鋭くなっていく。
受話器の奥で大人達の声が聞こえた。
「先生。何かあったの?」
「うん。学校に残った生徒がいるんだけど、
みんな帰りたいって騒いでるのよ。
何人か勝手に帰った子もいるの。
あと、これから学校が簡易的な避難所になるの。私も手伝わなきゃ」
「先生も行くの?」
「うん」
羽生は電話の向こうで、
誰かと2、3言葉を交わすと言った。
「もう遅いわね。そろそろ寝なさい」
「はい。で、でも、羽生先生」
「大丈夫。明日の朝また連絡をするから。
その時にお母さんが帰って来てなかったら、迎えに行わね」
「はい」
結希と同じく、羽生ともこれで
最後になるのではないかと葵は不安に思った。
電話を切るのが辛い。
「赤井さん。大丈夫よ。また明日」
「羽生先生」
「うん」
そこで電話が切れる。葵の体中から力が抜ける。
あまりにも辛い断絶だった。
またかけ直そうかと思って、やめる。
羽生にこれ以上迷惑はかけられない。
葵は大人しく布団の中にもぐりこんだ。
足先がいつまで経っても温まらない。
眠っているのに、頭が揺れるような感覚が何度もあり、
葵は布団の中で、何度も目を覚ました。
近くと遠くででサイレンがひっきりなしに
移動を繰り返している。
「・・・う」
ふと、焦げ臭い匂いがして葵は跳び起きる。
「か、火事?」
遠くで人の悲鳴が聞こえる。
車のクラクションの音が、深夜の放送休止音のように、
ピーっと継続的に鳴っている。
ただごとではない。
葵はベッドから落ちて、膝立ちのままバタバタと部屋を出た。
腰に力が入らず、なかなかうまく歩けない。
ドアノブを支えにして立ち上がると、外の騒ぎはもっと大きくなった。
外の様子を見ようと窓を開けると、
焦げた匂いと、目を刺すような光が目に入って来た。
「わ」
眩しい光はライトのような人工的で小規模なものではなく、
明け方の空を一瞬で昼間に代えるような強大なものだった。
こんな光、どこから出ているのだろうか。
遠くで、大きな音を立ててヘリコプターが飛んでいる音がする。
空が光ると、ヘリコプターの規則的なプロペラ音が急に早くなった。
ヘリコプターがきりもみになって落ち始める。
「わ・・・わ・・・え?」
音が臨界点に達した後、轟音がした。墜落したのだ。
「そ、そんな・・・」
膝が小刻みに震えているのが止まらない。
「おちつけ。おちつけ」
葵は震える手でテレビのリモコンに触れる。
何度か取り落とし、ようやく電源を入れることができた。
「各地でテロ攻撃を受けている可能性があります!
国民の皆さんは、外出をひかえてください!
近くで火事があった場合は、急いで荷物をまとめて、
最寄りの避難所に向かって下さい」
アナウンサーが冷静さを失い、捲し立てるようにしゃべっている。
「外出したらダメなの?! 避難した方がいいの?!
どっちよ!!」
葵は荒い息を吐きながら、チャンネルを変えた。
いくつかの番組は停止していて見られなかったが、
都内の一角が火事になっているのを映しているものがあった。
数秒後に、チャンネルはカラーバー表示に切り替わる。
葵は口を開けたまましばし思考停止した。
我に返った葵は、溺れる生き物が浮かんでいるものに
縋るようにして、残っているチャンネルを探した。
「映った!」
ようやく映った最後のチャンネルでは、
誰かが刃物で通行人に襲い掛かっている映像が流れていた。
「い、いやぁぁぁあああ!!」
通行人が刺され、倒れて動かなくなったところで、
そのチャンネルもカラーバー表示になってしまう。
「そ、そんな・・・!!」
葵は強迫的に映っているところを探した。
どこも番組はやっていない。
その内、テレビ画面が消えてしまった。
「なんでなんで?!」
電源ボタンを何度も押すが反応がない。
壊れたのかもしれない。
「どうしてっ!?」
リモコンを取り落とす。外から悲鳴が聞こえた。
小さなベランダに出て外を見ると、
近くのマンションの3階と4階の窓から、
信じられない程たくさんの黒い煙が上げていた。
「そんなそんな・・・!!」
もしかしたら、こちらまで燃え移ってくるかもしれない。
酸素がいつもの半分になったような息苦しさを感じる。
「ふぅ・・・ふぅ・・・」
茫然としていると、大気を震わせるような
生き物が瞬きをするような不規則なタイミングで、
光が何度も薄暗い街を照らした。
空が光る度に多くの何かが失われているような気がする。
あの光は怖い。
葵はようやく母親に連絡を取ることを思いついた。
電話は数度目のコールで繫がった。
「良かった。お母さんっ!」
「なに? こんな朝から」
母親が酒を飲んでいるのが、声の感じから分かった。
受話器から酒の匂いが漂って来るような気さえする。
「た、大変なの。火事があって、たくさん事件があって」
「それより、ガッコはちゃんと行ったの?」
「学校どころじゃないってば」
「ちゃんと行きなさい。卒業したら、働いてもらわないと」
母親と自分の気持ちが離れすぎていて、
涙が出て来そうになる。
「そうしたいよ。私だって。でも、今は大変で」
母親が大きなため息をついた。
「あんたはいつもそうよね。言い訳ばっかり。
自分だけは悪くないって顔で」
絶句した。
繰り返し酒を飲む母親を介抱しながら、
きっともう駄目だと分かっていた。
もう戻れないと気付いていた。
でも、どこかで頼りにしていたのだ。
「ねぇ、聞いているの。この前だってね」
自分が辛くてどうしようもない時、
母親が助けてくれるのではないか。
母親がいつか元の母親に戻ってくれるのではないか。
母親は葵の言葉には触れず、
まるで思春期の娘が親に反抗する時のような、
感情的な言葉を放ち続けた。
だが、いろんなことには、必ず終わりが訪れる。
読んだ本の物語も、隆盛を極めた平家も、
江戸幕府も、終わりの見えない世界大戦も。
そして、今生の別れとなる母親との電話も例外ではない。
外から強い光が部屋の中に入って来たと思ったら、
突然通話が途絶えた。
「お、お母さん・・・」
葵はリダイヤルをしようとしたが、スマホ自体が反応しない。
「熱っ」
背面が触れていられない程熱を発しており、
葵は反射的に手を放した。
何度か地面にバウンドしてから制止した
スマホが煙を立て始めた。
完全に壊れたのだ。
「あ・・・あああ・・・」
葵は膝をフローリングに落として、
神に助けを乞う信者のように首を垂れた。
額を床に押し付けると、肩が大きく震え出し、
やがて目が熱くなって止まらなくなった。
いつまでそうしていただろう。
葵は墓の中からよみがえった幽鬼のように立ち上がった。
ここには、もういられない。
リュックを背負い、貯金箱を手に取る。
そこで気付いた。
押し入れの中に隠していた貯金箱の数万円が、
抜き取られていることを。
「ぐ・・・うう・・・」
胃が不快な痛みを催し始めた。
それは急激なうねりをともなってくる。
背中の筋肉とお腹の筋肉が交互に不随意運動を繰り返す。
「ふぅ・・・ふぅ」
歯を食いしばって抑え込む気力はもうない。
葵は胃の中の者を唐突に吐き出した。
「ぐっ、うっ・・・うっ・・・!!」
こんなになってまで、生きなければならないのか。
葵はフォルトゥーナに向けて問うたが、
答えは帰ってこない。
躓いて本棚にぶつかると、飾ってあった小物が床に落ちた。
みんな、父親と母親が買ってくれたものだ。
こんなものに何の意味があるのだろうか。
何の意味が。
耳に血でも溜まっているのだろうか、
頭の中にあるじくじくとした痛みが、
鼓動と共に押したり引いたりする。
「・・・」
葵は胸に手を当てた。
胸の中にある2つの小さな鼓動が、
弱々しい葵の鼓動を補うように高鳴っていた。
2つの鼓動が、少しずつ自分に近づいて来ているのを感じる。
「今度は、なんなの・・・ごほっ。
もう・・・私を・・・期待させないで」
痛みのある胃を押さえながら、葵は立ち上がった。
遅々と制服に着替え、パーカーを羽織る。
身体中が筋肉痛になったみたいに重かった。
学習机の上に結希と一緒に食べようと思っていた、
あの果汁グミが置いてある。
結希。
葵はそれを縋るように掴み、
昨日作ったおむすびとお茶と一緒にリュックへ入れた。
外に出ると、マンションの火はさらに広がっていた。
きっと、消防車が来てくれたとしても手遅れだろう。
下には野次馬が数人いて何やら叫んでいる。
他にも、道路を走り回っている人や、
その場にへたり込んでいる人、家族で手を繋いでどこかに
避難しようとしている人がいた。
近くを歩いていた男女2人組についていくことにする。
緊張した面持ちだった2人は、
葵を見ると少し目元を下げた。
「あなたも役場に避難するの?」
葵は黙ったまま頷いた。
「じゃあ、一緒に行こう」
男性の方が得意げに言った。
女性の方は戦々恐々といった様子だったが、
男性の方は少し浮かれているように見える。
今の状況は、台風が来て学校が休みになったというような、
小さなことではない。
男性の不謹慎さに苛立つ。
「一緒の方が安心よね。いきましょう」
女性が息を弾ませながら言った。
歩きながら、事故をした車をたくさん見かける。
車は車同士でぶつかったり、お店に頭から突っ込んだり、
ガードレールにぶつかったりしていた。
きっと空を覆うような強い光が、
飛んでいたヘリコプターを墜落させてしまったのと同様に、
走っている車も駄目にしてしまったのだ。
「警察は、何をやってるの?」
白い顔をして、女性が言った。
警察も、消防も、救急車もなにも機能していないように見える。
全てが崩壊してしまったのだ。
3人は大きな道に出て、たくさんの人が歩いている列に合流した。
道路を走っていた車が、高速で前方の列に突っ込んでいった。
突然生じた惨劇に、葵は意識を失いかけた。
人々の声が大きくなり、何もかも聞こえなくなる。
事故のあった場所から、こちら側へ人々が雪崩れ込んできた。
パニックが起こったのだ。
すぐ前にいた男性に突き飛ばされて、葵は盛大に転んだ。
転んだ後も、人が次々向かって来る。
なんとか起き上がろうとするが、人とぶつかったり引っかかったりで、
なかなか立ち上がれない。
覆いかぶさるような人の波を前にして、
葵は命の危険を感じた。
だめだ。このままじゃあ、死ぬ。
そう思った瞬間、葵の周りの人が動きを止めた。
「え」
葵が戸惑いながらも立ち上がると、
すぐにまた周囲の人達が走り始めた。
なぜ人々の動きが止まったのかわからないが、
おかげで踏み潰されずに済んだようだ。
葵は押しやられるように、前方に向かって走り出す。
どうしてみんなの動きが止まったのだろう。
視界を巡らせると、
隣の人の肩に、眼球のある黒い虫が張り付いているのが見えた。
「あっ」
平野に叩かれそうになった寸前に
現れたものと全く一緒のやつだ。
黒い虫は真ん丸な眼球を動かしてこちらを見ていたが、
隣の人が人ごみに紛れるのと一緒に消えていった。
葵は道の端に向かって突き飛ばされたり、
ぶつかられて転んだりしながら、
ようやく目的地の役場に到着できた。
役場にはたくさんの人が集めっているようで、
建物の中はもう満杯らしかった。
疲れ切った葵は駐車場の端っこに腰を下ろした。
周りには他にもたくさん同じような人達がいる。
現場は混乱しているようだ。
ずいぶん時間が経った後も、
職員の人が状況説明をすることも、
何らかの指示が与えられることもない。
不安に駆られた大人達が悪態をついているのが、
所々で聞こえてくる。
小さな男の子達が、葵の前を笑いながら走り抜けていく。
こういう時、子ども達は順応が早い。
葵が子どもたちの楽しそうな様子を眺めていると、
近くに腰かけた男性が、
なぜかこちらに向けて舌打ちをしてきた。
葵は身体を震わせながら背を向け、
なるべく音が立たないように息を潜めて過ごした。
しばらくして、小さな男の子がこちらにおずおずとやってくる。
葵が笑いかけると、男の子も恥ずかしそうに笑った。
男の子はちらちらと葵の脇辺りを見ている。
「ん・・・?」
葵がこっそり食べようとしていた
果汁グミを見ているのだ。
葵は男の子を手招きした。
こういうとき、言葉は必要ない。
「おなか空いているの?」
聞くと、男の子は小さく頷いた。
葵はリュックから角が潰れているおむすびを1つ
取り出すと、男の子に渡した。
男の子は食べるのに夢中で、喉を詰まらせてしまった。
お茶をあげると、苦しそうに一気飲みする。
「お父さんとお母さんはいるの?」
葵が聞くと、男の子はまた小さく頷いた。
ほっと息を抜くと、目の前に女の子が立っていた。
つぶらな瞳が男の子そっくりだ。
「食べていいよ」
葵がおむすびを差し出すと、女の子が葵の隣に座って食べ始めた。
近くで大きな舌打ちが聞こえる。あの男性だろう。
葵は必死で動揺を顔に出さないようにしながら、
2人の頭を撫でてやった。細くて柔らかい髪の毛だ。
おむすびが最後の1つになったとき、兄妹は揃って葵の顔を見た。
「2人で食べていいよ」
喧嘩になるかと思ったが、おむすびを仲良く分けて食べてくれた。
2人の子は食べ終わると、何も言わずにどこかに走り去ってしまった。
「かわいかった・・・」
お家の人とちゃんと会えるだろうか、
安全なところに行けるだろうか。
葵は静かに手を合わせ、2人の無事を祈った。
しばらくの間、葵は周囲の人達を観察した。
みんなとても苛立っている。
ここに向かっている途中も、みんな他人にぶつかろうと、
相手が倒れようと、どうでも良い様子だった。
女神の弟神でるミーミルが、
人類を滅亡させてしまおうと画策するのも
無理はないのかもしれない、葵はそう思った。
その時、空全体が光った。アパートで見た光と同じものだ。
「核攻撃だ」
「北朝○が攻めてきたんだ」
「国は何をやってるんだ」
怒りを含めた不安げな声が連鎖的に、人々の間に広がっていく。
葵は思った。
きっと、今までのことは前哨戦だ。
これから本格的に世界が変わり始めるに違いない。
ぐっと手のひらを握り締める。
空が光で点滅するのが止まると、
周囲の声が少しずつ収まっていく。
大人達が徐々に落ち着きを取り戻していく中、
不穏を感じ始めたのは子ども達だった。
子ども達は皆立ち上がり、ある方向を凝視している。
葵もそちらを見ていた。
まるで部屋の蛍光灯を一段階暗くしたみたいに、
役場の駐車場全体が浅黒く染まる。
恐ろしいほど濃くて深い赤色の渦が、
無数の束になって、役場の出入り口辺りに蠢いている。
まるでイソギンチャクだ。
「う」
吐きそうになって口を押さえる。
あれは、まずい。
あの場所に、何かが集まっている。
「に・・・にげて・・・」
全身ががたがたと痙攣し始める。
声がうまく出ない。
ややあってから、入口方角から悲鳴が上がった。
悲鳴の中に、断末魔が飛び込んで来て、
葵は耳を塞いだ。
たくさんの人達が散り散りになって逃げていく。
逃げなきゃいけない、そう思っていても足が動かない。
赤いイソギンチャクから目を離せない。
葵の体は幾度も人ぶつかり、半ば強制的に脇に押しやられて行く。
駐車場の外側に備え付けられたフェンスで、葵は膝をついた。
フェンスに指をかけて、葵は顔の位置をなるべく高くした。
酸素不足のせいなのか、凝らした目が霞む。
目尻に溜まった涙を、強引に拭き取って再度目を凝らす。
信じられない光景が目に入った。
見たこともないような巨大な怪物達が暴れ回り、
人を襲っている。
葵は声にならない悲鳴を上げた。
ゴリラのような体格だが毛が非常に長い怪物が、
片手で易々と人を叩き潰す。
潰れて人が肉片を散らして、ゴリラの胸や肩にはりつく。
「う」
体表はつやつやとしていて、まるで蛇のような悍ましい怪物が、
女性に撒きついて絞め殺した。
「げぇ」
女性の口から、何かが飛び出すのが見えて、
葵は目を背けた。
近くを小さなサイズの怪物が走り抜けていく。
逃げていく人々の頭に飛び掛かり、喉元に噛みついていく。
駐車場のいたるところで、
小さな怪物がどんどん人を殺している。
「あ・・・あ」
大きく咆哮したのは、狼のような姿をした四足獣だ。
ここからも見える位に大きな牙をむき出しにして、
高速で駆けていく。
逃げ惑う1人の胴に噛みつき、易々と噛み千切る。
地獄だ。
地獄が顕現したのだ。
人の怒号や、悲鳴が聞こえる。
足の遅い女性や子どもから優先的に怪物に襲われている。
「いや!」
みんな自分が逃げるばかりで誰も助けようとしない。
葵は襲われている人達に向かって走り出した。
「やめろー!!」
葵が叫ぶと、怪物達が人殺しをやめ、
奇声を上げながらこちらに走って来た。
「ぎゃっ」
葵はすぐさま踵を返して走り出す。
しかしこともあろうに、足をとられて転んでしまう。
手をついて顔だけ振り返ると、
大きな影がこちらに覆いかぶさるところだった。
「わああ!」
両手で頭部を守ろうとしたその時、
横から小さな毛むくじゃらの塊が、
大きな影の頭部に張り付いた。
発情期の猫のような叫び声が、辺りに響く。
大きな影は顔面に張り付いた毛むくじゃらを
振りほどこうともがきながら、怒号を上げた。
「っ!!」
何が起こっているのかはわからなかったが、
逃げるなら今しかない。
葵は力の入らない腰を押さえながらなんとか立ち上がり、
ようやく走り出した。
すこし進むと大きな木が立っていて、
フェンスが途切れているところを見つけた。
木とフェンスの間には、人が通れるくらいの隙間がある。
体を通すと、リュックが引っかかった。
前に進めない。殺される。
「わあああああ!!」
葵は半ば半狂乱となって、リュックをやみくもに引っ張る。
引っかかりが取れた反動で、
葵はそのまま下の道路まで転がり落ちた。
頭や背中をしたたかに打ったが、構わず走り出す。
たくさんの悲鳴や怪物の暴れる音が聞こえてくるが、
怖くて後ろを振り向くことはできない。
「ごめんなさい・・・」
役場だけではない。
周囲では聞いたこともないような叫び声や、
大きな音がしていた。
「ごめんなさ・・・」
安全な場所などどこにもない。
今まであったこの世界のなにもかもが壊れていく。
葵は極度の疲労感に襲われて、
路地に面した小さなコインパーキングの隅に身を潜ませた。
駐車場には車が数台置きっぱなしになっており、
影にうまく隠れられた。
「はぁ・・・はぁ・・・」
一度座ると、力が抜けて立てなくなる。
その時、かなり近くでガラスの割れる音がした。
思わず耳を塞いでうずくまる。
怖い。死にたくない。ごめんなさい。
全身の毛が逆立ち、耳を塞いだ手が小刻みに震える。
どうしても震えがとまらなかったので、
葵は息を止めた。
たすけて、たすけて。誰か。
苦しくなってきたので、
呼吸を再開しようとしたが、なぜかうまくできない。
過呼吸だ。
頭がおかしくなりそうだった。
怖くて仕方がない。
何もかも手放してしまいたい。
このまま死んでしまいたい。
そっと瞼を閉じた葵の傍で、猫の泣き声が聞こえてきた。
にゃうん。
葵がかすかに目を開くと、猫がいた。
猫は身体半分をワゴン車の陰から出して、
こちらの様子を窺っている。
「・・・」
しかし、この猫は普通の猫ではない。
長靴を履いた猫のように、2本の足で立っている。
葵は悲鳴を上げたが、肺の中にはほとんど空気がないので、
大した声は出ない。
黒白茶色の三毛柄猫の後ろに隠れていた、もう1匹が姿を現す。
こちらは黒と灰色の虎柄をしている。
不思議な猫が、2匹。
葵は自分が夢を見ているのだと思った。
三毛柄と虎柄が近づいて来て、手を差し出してきた。
手には見覚えのある赤と青のリボンが巻かれている。
葵は目を見開いて、2匹の不思議な猫を見る。
「こ・・・こ、こ」
猫はそれぞれ鳴くと、葵の顔に自分の顔をすり寄せてきた。
猫の鼓動が伝わってくる。
「え・・・」
その鼓動は、葵の鼓動とシンクロして完全に交わった。
触れた瞬間、聞こえてきていた2つの心臓が、
誰のものだったのか葵には分かった。
葵は浮き輪から空気を抜くように、息を吐き出す。
「もし・・・あのとき、助けてくれた・・・?」
<そうです>
三毛柄が当然のように返事をした。
「ぎゃ!しゃべった!!」
<外敵がおりますので、お静かに>
三毛柄が膝をついたまま、
人差し指を器用に立てて葵を制する。
まるで時代劇に出てくる侍のような所作だ。
「し、しししゃべる?」
<はい。しゃべります>
虎柄が嬉しそうに寄ってきて、葵の手をとって舐めた。
<お前が泣きそうな顔をしていたから、助けてやったんだ>
虎柄が偉そうに胸をのけぞらして、エッヘンポーズをする。
「あ・・・うん」
虎柄の毛並はとても柔らかくて、触れると太陽の匂いがした。
三毛柄は憮然とした表情をして虎柄に言った。
<おい。お前。御屋形様に向かって、なんて口のきき方を>
三毛柄が眉間の毛を逆立てる。
<うるさいなぁ。まだ正式なご主人じゃないでしょ>
虎柄が面倒そうに言い返す。
「御屋形様・・・ってなに?」
<御屋形様。これを>
三毛柄が肩に下げた赤い鞄から取り出したのは、
葵がキラリ―ランドで落とした皮の小袋だった。
「こ、これって・・・」
三毛柄が恭しく渡してきたのを受け取り、留め紐をほどく。
中から2本のリボンが出てくる。
残り2本は三毛柄と虎柄の手首に結んである。
「え、えっと、どういうこと?
2人はなんで?
なんで、私の所に来たの?」
訊くと、三毛柄が顎に手を置いて、上を見て言った。
<それは、御屋形様だからです>
「おやかたさまって、どういう意味?」
<御屋形様は御屋形様です。
私達はあなた様の従者として頂きたく、こちらに参りました>
「従者・・・従者・・・あ・・・」
葵はフォルトゥーナが言っていた
『四人の従者』という言葉を思い出す。
「ああ!『四人の従者』のことか!!」
<お静かに。その通りでございます>
葵は三毛柄から、従者について説明を受けた。
フォルトゥーナからもらった『四人の従者』という力は、
対象にリボンを与えることで従者になってもらう、
という能力だったのだ。
「それで、2人ともこのリボンをつけたから、
私の従者になったってこと?」
2匹は目を見合わせてから頷いた。
<左様でございます。ほら、おまえも>
三毛柄が虎柄に指示を与えると、
まるで君主に仕える従者のように
2匹は揃って葵の前に座った。
<御屋形様、どうか私達を従者とお認め下さい>
「あ、ええ。はい。認めます」
<え>
虎柄がフレーメン反応のような顔をした。
<い、いや。こっちは勝手に従者帯をつけたんだよ?>
フォルトゥーナからもらったリボンの正式名称は、
従者帯というらしい。
<この者が申す通りでございます。
本当はご任命頂くことで従者となれるのですが、
勝手ながら御屋形様が森で落とされた従者帯を、
私達が頂戴したのです>
「やっぱり、あそこで落としたんだ」
<はい>
三毛柄が厳しい表情で下を向いた。
勝手に従者帯を身に付けたことを詫びているのだ。
「うーん。でも」
遠くにある2つの鼓動と繫がった時、葵は救われた。
その後も、胸の内にある2つの鼓動に幾度となく勇気づけられた。
今でも、不安でいっぱいなのを救われている。
だから、葵は2匹を咎める気はさらさらない。
<ですから>
謝罪を続けようとしている三毛柄を、掌を向けて制止する。
「いいの。私も助けられたし」
<ですが>
顔を上げた三毛柄が、すぐに首を垂れる。
ひどく反省しているのだろう、
三毛柄と虎柄の耳の辺りから、薄い青色のオーラが漂っている。
「私はいいって言ってるの。
じゃあどうしろっていうのさ」
<へ>
こちらに問われるとは思っていなかったのだろう。
2匹が目を見開く。
三毛柄も虎柄も、真っ黒で綺麗な目をしていた。
「だから、いいって。認めるって言いましたよね。
それでも駄目だっていうなら、私はどうすればいいの?
なにか罰でも与えたら納得するわけ?」
葵は2匹を問い詰めていた。
「え・・・あの」
「私が一番嫌なことを教えましょうか」
葵が眉間にしわを寄せながら言うと、
三毛柄と虎柄が、緊張の面持ちをこちらに向けてきた。
「それは、許して欲しいって頭を下げている相手を、
追いかけていっていじめることよ」
葵はいつかの平野を思い出していた。
強い立場を利用して、他者をいじめることだけは、
自分は絶対にしない。
「それをあなた達は、私にしろって言うんですか?」
<いいえ。いいえ。申し訳ありません>
三毛柄は謝り倒し、虎柄は静かに俯いている。
葵は2匹と同じように座って、目線の高さを同じにした。
「ごめんなさい。怒っちゃって
私、2人のおかげで頑張れたの。
だから、来てくれてうれしかった」
葵は2匹の手を取って持ち上げた。
肉球がしっとりとしている。
「2人の名前を教えて下さい」
<名前はないにゃ>
虎柄が言った。
「そうなの?本当に?」
2匹は一度目を見合わせると、
今度はこちらを見て同時に頷いた。
「まじか」
葵が天を仰ぐと、三毛柄が請うように言った。
<ぜひ、名前をお与えください>
「え。私が?」
2匹はからくり人形のように、何度も頷いた。
「いいわ。いいけど・・・センスないよ私」
2匹はまた何度も頷く。
「その前にっ。
私おやかたさまじゃないから。葵って呼んでよ。
あと、あなた」
三毛柄を指さして言った。
「かしこまりすぎだから、この子と同じ感じでよろしく」
<う・・・。こやつと同じようにですか。
御屋形様にですか?>
「そうそう。てかお屋形様じゃないし、葵だし。
私は何にも偉くないんだから、
接し方はこの子と同じ感じようにして」
<はぁ・・・>
「ね、ねぇ。それよりさ、
あんたたちってば、本当に名前ないの?」
<本当にありません>
ペットにもみんな名前がつけられているというのに、
しゃべれる猫に名前がないなんてことがあるのだろうか。
いや、しゃべれる猫と話したことはないからわからないけれど。
葵は三毛柄を『三毛』、虎柄と『虎』と名付けた。
安直な名付け方だが、呼びやすく覚えやすい。
「これでいいでしょ。あんた達は、今日から三毛と虎」
半ばやけくそになって言うと、
2匹は目を見開いたままぬいぐるみのように動きを止めた。
「ど・・・どどど、どうしたの?」
やっぱり気に入らなかっただろうか。
「ごめん。やっぱり安直だったかしら」
<いいえ、お名前を頂いたことが、うれしいのです>
<ボク達兄弟なんだけど、親がいないから名前が無かったんだ>
猫達は、大好物を味わっているような、
恍惚とした表情をして言った。
「そっか。2人は兄弟だったんだ。
どうやって呼び合っていたの?」
<おまえとか、おいとか呼んでいたにゃ>
「そ、そうなんだ」
掌を向けると、2匹は顔を摺り寄せてきた。
撫でてやると干した布団の匂いがした。
「どっちがお兄さんなの?」
<親はすぐに死にましたので、わかりません>
壮絶な過去を、気持ちよさそうな顔で三毛が語る。
要らないことを訊いてしまったお詫びに、
しばらく撫でてやる。
「ねぇ。2人って、あそこで人を襲っていた怪獣達と
何か関係があるの?」
<外敵のことでございますか?
動物という大きな括りでは同じです。
しかし、種族が違います。私達は猫族の末裔です>
「猫族?」
<はい。人間と同等に前頭葉が発達した猫を猫族と呼びます>
「ぜ、前頭葉って・・・」
話している内容から、三毛達猫族は、
人間と同等か、それ以上の知能を有しているようである。
<私達はその猫族の末裔にあたります>
「ありがと。教えてくれて」
教えてくれた三毛へご褒美に、耳の裏を掻いてやる。
真面目な顔がうっとりとした表情になっていく。
頭が良くても、猫は猫のようだ。
<猫族は頭がいいにゃ。あいつらと一緒にしてほしくないにゃ>
間に虎が割り込んでくる。
「そうだね。鞄も、お洋服も着てるし」
葵が2匹の羽織っている赤色のジャケットに触れる。
確かに、外敵達のどれもが、
三毛や虎のように知性をにじませてはいなかったように思う。
ジャケットをよく見ると、
背部に塗料で大きな丸がひとつ書いてある。
どういう意味なのだろうか。
「かっこいいね」
伝えると虎が跳び跳ねて喜んだ。
<そうだ。こんなことをしている場合ではありませぬ。
御屋形様、いえ、葵さま。これからどういたしましょうか>
「え。いや・・・どうって」
葵は、突然開始された生存競争の只中に、
自分が放り出されたばかりだということを思い出した。
「あ・・・ああ」
逡巡していると、虎が言った。
<おい三毛。葵は体調が悪いぞ>
<おおそうだったか。では>
三毛は虎に促されて、
竹の幹で作られた水筒を手渡される。
<お水です。あの森から汲んできたものです。
煮沸はしておりませんが、新鮮ですから問題ありません。
ささ、どうぞ>
「え、ええ」
少しぬるかったが、飲んだだけで身体がずいぶん楽になる。
興奮状態だったので気付かなかったが、
葵は喉が渇いていたのかもしれない。
<御屋形様、これもどうぞ>
鞄から出された細くて茶色いものを手渡される。
木の根のようにも見える。
これは一体何なのだろうか。
「なにこれ?」
<薬草です。食して下さい>
意を決し口の中に入れると、土臭さと青臭さが口内に広がった。
「うげ」
食べられたものではない。
葵がもらった食べ物をすぐに口から引き抜く。
三毛と虎がそれを見て、心底驚いたように眉を上げた。
「ごめんなさい」
謝ると三毛が残念そうに、
「お口に合いませんでしたか」と言った。
きっと2匹にとっては貴重な食べ物だったのだ。
葵は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
<三毛。葵は人なんだから、
猫と好みが違うのは仕方ないにゃ。
葵の好きなものを探しにいくにゃ>
虎の言に、葵は救われたような気がした。
<では、葵さま。そうしましょう。
ここは食べ物がありませんし>
「ここから出て行くってこと?」
膝歩きで車の影から外を見渡すと、
外敵が1体歩いていた。
「わぁ・・・無理だよ。外敵がいるじゃん」
頭の上に乗ってきた虎が小さく言う。
<あれは小鬼だ。まぁまぁ強いから、
避けた方がいいにゃ>
「小鬼って、三毛と虎にも何かしてくるの?」
<してくるよ。あいつらキョウボウだから>
鼻息荒く虎が言うと、三毛も身を寄せてきた。
顎のすぐ下にある三毛の額を撫でつつ、
「じゃあ気をつけようね」と葵は呟く。
<葵さま。
私達は猫族の中でも特別体が小さい個体で、ひ弱なのです。
盾と槍で長い間訓練をしてきましたので、
小鬼位ならどうにかなりますが、それ以上は無理です>
「わかった」
<申し訳ありません>
「いやいや、なんで三毛が謝るのよ」
<盾と槍がうまく扱えないからです>
話がかみ合わない気がして、葵は首を捻った。
「それの何が悪いっての?」
訊くと三毛は体を引きつらせて押し黙る。
<ボク達には大きいんだ>ややあって虎が言った。
<盾と剣を持ち、勇者のように戦うのが猫族の誇りです。
それができない私達は、落ちこぼれなのです>
「おちこぼれ・・・」
2匹は小さな子がハッカ味のドロップスを
食べた時のような顔をしていた。
「ちょっとさ、その槍と盾見せてよ」
葵が盾と槍を持たせてもらうと、
確かに2匹の体には大き過ぎるように感じた。
猫族の誇りが邪魔をしているのだろう、
2匹に武器をこれ以上小さくするという発想は無いようだ。
試しに槍を虎に持たせたが、ふらふらとして安定しない。
「いい案を思いついたんだけど、いいかな」
葵は、三毛には盾を1つだけ、虎には槍を1本だけ、
残りの武器は各々背負うようにと説明をした。
1つの武器を両手で掴めるようになった三毛と虎は、
以前よりも持ち手に力が入りやすそうに見えた。
「どうかな?」
虎は浮かない表情だ。
<これで、どうやって攻撃を防ぐんだ?>
「三毛が盾で守るの
聞いた三毛の顔が曇った。
<私は盾で守ってばかりなのですか?>
あまりに三毛が残念そうに言ったので、葵は口ごもる。
「そう、ね。確かにそうだわ」
頭を撫でる。
「三毛は、虎と私と自分を守るの。
あなたが3人の命を守るのよ」
<え>
「大役ですが、担ってくれますか?」
葵が手にマイクを持つ仕草で訊くと、
三毛の尻尾が嬉しそうに立ち上がる。
<はい。承りました!!>
<三毛だけずるいにゃ!!>
虎も何か声をかけて欲しそうに見えたので、
葵は必死で言葉を選んだ。
「虎は私達3人が持つ、唯一の武器よ」
本に出てくるお姫様が、部下を褒めたたえるイメージで言う。
少し芝居がかかりすぎているかもしれないが、
虎が飛びあがって喜んだところをみると、
効果てきめんだったようだ。
<うにゃ~ん>
少しすると、虎と三毛の瞳から大粒の涙を零した。
「ぎゃっ・・・ごめんなさい」
2匹の体に手を回す。
「ごめんね。へんなこと言ってごめんね。
いや、思いついただけだから、無理しなくていいから。
私って前からこうなの。それで友達もなくしちゃって。
嫌われることも多くって。
ごめんね」
捲し立てている葵の脇に手を入れて、虎が言った。
<ボク達、葵に言われたとおりにしてみるにゃ>
猫達は葵に言われた通り1人1つずつの得物を構えた。
本当に葵の言った通りのやり方で行動するようだ。
大丈夫だろうか。
<では、まずは葵さまの食べ物と飲み物を調達しましょう>
葵があれこれ考えている間に、
三毛が仕切り直す。
「ちょっと待って・・・とりあえず、
3人で歩き回るのよね?」
<はい。もちろんです>
葵は腕を組んで考えた。
「うーん」
葵と三毛虎というこの組み合わせで行動すると、
外敵に会った時はもちろん、人間に会った時でも
トラブルが発生してしまうような気がする。
外敵の立場からすると葵と三毛虎は獲物であり、
人間の立場からすると、三毛虎は外敵そのものだからだ。
「このままじゃあ、まずい気がする」
トラブルを避けるには、
何者にも見つからないよう行動する必要がある。
「三毛。虎。
誰にも見つからないように移動できる?」
2匹が顔を見合わせる。
<できます。虎は目が良いですし、私は鼻がききます>
「じゃあ、その作戦で行きましょう」
一行は慎重に物陰に隠れながら、街を進み始めた。
街は今や混乱の坩堝と化している。
目鼻を覆いたくなるような匂い。
どこからともなくやってくる煙。
逃げ惑う人々。
街を闊歩する外敵。
破壊された自動車。
血に濡れて放置された衣服や小さな血だまり。
普段は決して目にすることのない、
非常時を表す数々のものが、
葵の全身から血の気を奪っていく。
門扉が破壊されている民家の前に、
夥しい血を擦りつけたような跡があった。
「ひどいわ。なにもかも・・・」
葵が思わず足を止めていると、
遠くまで先行していた虎が四足歩行で、
風のように走り戻って来た。
<この先は誰もいないにゃ>
「そう」
葵は息を抜いた。
緊張の連続で、肩と背中が強張っている。
「虎は大丈夫?」
<平気にゃ。猫族は安全確認が得意だにゃ>
心配そうにこちらを見上げている三毛と視線が合う。
<葵さまは・・・?>
「私は地獄みたいに疲れた」
三毛と虎に励まされながら歩き続け、
ようやく葵は大きなスーパーを発見する。
「おお。ここならなにかあるかも」
<何ですかこの建物は>
「お店屋さん。食べ物がたくさんあるの」
<こんな大きな店があるんだにゃ~>
「珍しいの?」
<当然です。店がこんなに大きいことはありません。
本当は集落ではないのですか?>
「お店お店」
看板の端に黒いカビ汚れが付いている。
かなり年季の入ったスーパーだが、
今の一行にとっては希望そのものだ。
虎のすすめで、すぐに店には入らず、
一旦駐車場から様子を窺うことになった。
<あ。人が出て来たにゃ>
カーゴにたくさんの物を入れた人が
店から出てきたと思ったら、逃げるようにしてどこかに消えていく。
人の出入りがあるということは、
まだお店をやっているのかもしれない。
疲労困憊だった身の内に火が灯る。
「ねぇ。まだお店やってるのかも。入ろうよ」
<そうでしょうか。このご時世ですから、油断は禁物です。
店がやっているどころか、
中に外敵がいてもおかしくありませんよ>
三毛の言に葵は閉口した。
確かに三毛の言う通り、何か様子がおかしい気もする。
<また来たにゃ>
商品を袋にも入れないで、両手いっぱいに抱えた人が走って行く。
平素であれば、カーゴに乗せたまま立ち去ったり、
商品を袋に入れずに走って行ったりするようなことはない。
<これは、略奪かもしれませんな>
二の腕が冷たくなって、鳥肌が立った。
結希と一緒だった時のように、
楽しいお買い物は出来ないのかもしれない。
「私、ちょっとだけ見てくる」
<ダメです。私達も一緒でなくては>
三毛は頑として譲らなかった。
仕方なく葵は駐車場の端に置き去りにされた
カーゴを引っ張ってくると、
虎を乗せて自分のパーカーを上から被せた。
「三毛。とりあえず、2人で入ってくる」
<私は一緒に行けないのですか?>
三毛が遠慮がちに言った。
「パーカーの下に2人も入らないから」
<しかし>
葵は三毛の耳に口を寄せた。
「何かあったら、すぐに戻るわ」
葵が言うと、三毛が小さく唸った。
三毛の見た目は完全に猫なのに、
理知的な雰囲気が多分にある目を向けられる。
「あなたに残ってもらうのは、
ちゃんと待っていてくれそうだから。
虎だと、ほら、勝手についてきちゃいそうだし」
葵は自分の腕時計を外して、三毛の手首にはめた。
<これは?>
「お父さんに買ってもらったの」
<お父上様に>
時計は高校受験の際、父親に買ってもらったものだ。
当時は画面が大きくてゴツゴツしたデザインが嫌だった。
しかも2000円位の安物だったはず。
こんなものを今でも大切にしていることが、少し悔しい。
「ちょっと大切にしてるものだから。無くさないでよ」
<確かに>
三毛が恭しく何度も頷く。
店内に入ると、中は大騒ぎだった。
店内に黒い煙のようなオーラが見えて、葵は一瞬火事かと思う。
「三毛の言った通りだ」
物を略奪する人と強奪する人。
奥の方で殴り合っている人が見える。
顔面に刃物を突き立てられたような衝撃を受けて、
葵はよろめいた。
人々はみな薄暗闇に蠢く怪物のようだ。
「ああ・・・なんでこんな」
<葵。中に入らないと>
パーカーの中から顔を出した虎が言った。
「う、うん。分かってるけど」
毒と毒が食い合う蠱毒のような店内にあてられて、
葵の気持ちまですさんでいく。
ピンキングハサミで切られる紙は、
いつもこんな気分なのかもしれない。
日本人は非常時でも略奪をしない、
精神性の優れた民族だということを
テレビでやっていたのを思い出す。
しかし、そんな世界は目の前にはなかった。
もしかしたら、フォルトゥーナの弟神が言う通り、
人間とは生きるに値しない種族なのかもしれない。
「どけよっ」
すぐ横で怒号が聞えたかと思ったら、
男性が女性を蹴りつけていた。
本当の危機に直面したことで、
日本人の精神性は粉々に砕けてしまったのか。
「やめてっ!」
葵が叫ぶと、男性は荷物を抱えたまま逃げ出していく。
葵はすぐに女性に駆け寄った。
「大丈夫ですか」
女性は身体を起こすと、葵のリュックに飛びついた。
「寄越しなさいよ!!」
肘や肩を爪で幾度も引っ搔かれる。
「や、やめてください」
葵は後ろに飛び退いて、逃げ出した。
「はぁ・・・はぁ・・・こ、こんなこと」
葵は涙を流しながらも、足を止めなかった。
止めたら、何もかも終わるまで動けなくなりそうだったからだ。
<葵。大丈夫にゃ?>
「だ、大丈夫だから」
その時、ものすごい勢いで進んできたカーゴが、
真横からぶつかってきた。
「うっ」
何の覚悟もしていなかった葵は、
腰をしたたかに打ちつけられ呻き声を上げた。
倒れないよう懸命に踏み留まる。
ぶつかって来た男性がすかさず「邪魔だ!」と
吐き捨てるように言った。
<うみゃがー>
パーカーの下にいる虎が、跳び上がろうとしたので、
葵は咄嗟に上から覆いかぶさって押さえつける。
「だめだってば・・・」
虎を押さえつけながら、
葵は祈るように謝罪を続け、男性に許しを乞うた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
下から突き上がってきた虎の頭が、
顎にぶつかってきた。
眩暈がしながら、それでも葵は謝り続けた。
「ごめんなさい。許して・・・許して」
男性はひとしきり喚いた後、足早に去っていった。
葵は慎重に隅の方に移動し、
周りに人がいないのを確認してから、
体をどけてパーカーを外す。
すると、縦に割れた獰猛な獣の目が見えた。
「あ」
思った時、何かが煌めき、直後に顎の辺りが熱くなった。
虎はカート上で身を翻し、獣のように上体を低く構えた。
虎の殺気が葵の額にぶち当たってくる。
「とら」
理性があるとはいえ、猫族も獣なのだ。
獣は身の危険を感じた時、すべからく激しくなる。
葵は本能的に危険を察知し、目を伏せた。
ゆっくりとカートから手を離して後退る。
心臓が痛い。
この痛みはきっと、虎の痛みだ。
身体の表面を擦るようにして、
ゆっくりと手を胸元まで上げていく。
従者となったことで三毛と虎の心臓を、
葵はいつでも感じることができる。
三毛の鼓動、虎の鼓動、葵の鼓動。
3つある鼓動のうち、その1つが機関車のように連打している。
これが、虎の鼓動だ。
目を閉じて、虎の脈動に並走する。
並走しつつも、手を引くように下がっていくのだ。
「落ち着いて・・・お願い」
虎の鼓動が少しずつ落ち着いてきた。
「どうどう・・・・虎。どうどう」
やっと鼓動が落ち着いたので、葵はほっと息を吐いた。
目の前にいつもの虎がいた。
葵は何も言わずに虎を撫でて、
パーカーを上からかけてやる。
<葵。血が出てるっ>
虎が体に電流が走ったかのように、全身を震わせた。
「た、た、・・・大したことない。大丈夫」
葵は、動揺を隠せない自分の未熟さに舌打ちをした。
<戻ろう。治療しないと>
「だ、大丈夫。ちょっと黙ってなさい。
バレちゃうわよ」
虎の後悔を散らすために、葵は構わず進み始めた。
<ごめん。葵>
「いいって」
<ごめん葵>
「いいのよ」
移動中、虎が謝る度、気にしていない風を装って返事した。
虎は何も悪くない。
ただ彼は、葵が傷ついたことに激昂したのだ。
全ては、
葵が油断してあの男性にぶつかってしまったのが悪かったのだ。
「繰り返さないようにしないと」
周到に人を避けながらジュースコーナーに辿りつく。
薄暗い通りに、数多くの段ボールが散らばっている。
段ボールの残骸は、まるでいくつもの底なし穴に見えた。
後ろから来た人の気配に驚いて、商品を取り損なう。
「あ」
なるべく人とはすれ違いたくない。
だから、もう取りには戻れない。
仕方なく移動してパンコーナーに入ったが、
何も残っていなかった。
足元にデニッシュパンが転がっていたので、
汚れをはたいて、ありがたく頂戴する。
「ああ・・・良かった」
パンコーナーの隣には、小さな薬局があった。
人通りが少なかったので、そこで一休みする。
まだ悔いている様子の虎に笑顔を見せてやる。
「ほら、パンがあったよ。甘くておいしいやつ。
飲み物が欲しいから、もう一回戻るね」
虎が小さく頷く。
「ごめんなさい。そこ良いですか?」
そこへ穏やかな男性の声がする。
「え、あ、はい。すみません」
カートを押して横に避けるまで、男性は待っていた。
「どうも~」
男性はあまりに穏やかだったので、
葵の中の平和な日常が思い起こされる。
手を挙げて前を通ると、男性は商品を物色しはじめた。
年齢はかなり上だが、怖そうな人ではない。
男性は葵の視線に気付いて顔を上げた。
何か言われるかもしれないと
身構えた葵に向かって、彼は言った。
「ビタミン剤は全然取られてないけど、
補助食品としては有効だよ。いざというときに役立つ」
「え・・・あ」
こちらに言っているのか、
独り言なのか分からない程小さな呟きだったので、
葵は戸惑った。話は続く。
「ポカリやアクエリアスの粉は水さえあればたくさん作れるから、
いくつか持っていくといい。
水は全然残ってなかったけど、あそこの氷コーナーに
あるのを溶かせばたくさん手に入るよ。
氷と一緒に、食べ物を入れておくと持ちが良くなる」
男性と少し目が合い、葵は咄嗟に傷を隠した。
何事もなかったかのように、男性は話を再開した。
「あと、プロテインバーは栄養価が高い。
半分残しとくから、できるだけ持って行ってね。
タオルは必需品だよ。寒い時には防寒にもなる」
「そ、そうなんですね」
結希と以前買い物をした時には、
思いもしなかった助言がたくさん出てきたので、
感心した葵は何度も頷いた。
「みんなその場のことしか考えてないけど、
将来的に歯は大切だ。そこから病気になることもある。
頭と体は汚れていても大丈夫だけど、
歯だけはきちんとみがくんだよ」
「わかりました」
「さっき全部取ってきたから、一つあげる」
男性はリュックから取り出した、
黒い塊を2つ葵にくれた。
「これって・・・」
「オイルライターと、折りたたみナイフ。
電子機器や電化製品は使えないから、
こういう方が役に立つ」
男性は丁寧にオイルライターと折りたたみナイフの
使い方を教えてくれる。
「やってみて」
「はい。
こういうライター初めて使うかも」
戸惑いながら言われた通り、
ライターで火をつけると、彼はニヤリと笑った。
「おい」
男性の知り合いらしき人が声をかけてくる。
背が高くて体格のよい男性だ。
「もう行かなきゃ。どうか無事で」
男性は葵が礼を言うのも聞かずに、
素早い動きで離れて行ってしまった。
それから葵は必死で、
男性に言われた物をカーゴに回収していった。
カーゴの中に氷袋を1つ入れると、虎が嫌がった。
<冷たいにゃー>
「ごめんね」
葵は最後にレジに寄ったが、店員らしき人はいなかった。
お金を盗もうとした人がいたのだろうか、
レジ上部がたたき割られ、部品が飛散している。
そこには、血液らしきものも飛び散っていた。
「う」
荒い息を吐き出して、震える左手を右手で押さえた。
だが、右手もがたがたと震えているのであまり意味はない。
また涙が出てくる。
葵は、ずっと自分のこころが
槍玉にあげられているような気分だった。
財布からあるだけのお金をカウンターに置く。
「すみません。商品いただきます」
言うと、嗚咽が喉から漏れた。
葵は祈るように頭を下げた。
だが、全てが変わってしまったこの世界で、
一体誰に、何を祈ればいいのだろう。
「すみません。すみません」
誰に謝っているのかもわからず、
葵はレジに向かって謝り続けた。
「司書になるには (なるにはBOOKS)」
「コンプレックス (岩波新書 青版 808)」
「安心と安全のハンドブック「危機への備え()」
「PTSDとトラウマのすべてがわかる本 (健康ライブラリーイラスト版)」
「新大陸スケッチ紀行 ~モンスターハンター:ワールド 編纂者日誌~」
以上の本を参考に致しました。
次話は来週に更新いたします。




