17話 葵 前編
17話は長編となりましたので、前編中編後編と分けました。
よろしくお願いいたします。
葵はフォルトゥーナの声が聞こえたことを、
興奮しながら報告した。
結希は最初戸惑っていたが、
すぐに嬉しそうに聞いてくれるようになる。
いつの間に握った手が滾っている。
頬が紅潮してきているのが、自分でもわかる。
それでも、葵は自分からどんどん話した。
きっと、葵は魔法にかかったのだ。
それは、自分は一人ではないと思うことのできる魔法だ。
今でも胸に手を当てると、2つの鼓動を感じる。
きっと、これがフォルトゥーナから
もらった力なのかもしれない。
「・・・と、いうわけなんです。すごいんです!」
「え、ええ。よく分かるような、分からないような」
結希が少し首を傾げて言う。
きちんと伝わったかわからないが、
2人の関係が以前よりも、うまくいっているのはわかる。
結希とは案外馬が合うのかもしれない、なんて考える。
両親が別れてから、自分の考えを口にするのが怖くなった。
それなのに、今は溜めた物を吐き出すように次々と言葉が出てくる。
葵はこれからも一緒に居て欲しいと伝えた。
自分なりの考えを伝えた。
結希は両方とも快く受け入れてくれた。
嬉しくて涙が出そうになる。
自分はこんな人間だったのかと戸惑いながらも、
だんだん気持ちが良くなってくる。
これは葵と繫がっている2つの鼓動のおかげなのか、
それとも目の前にいる結希のおかげなのかわからない。
結希と一緒にいるのはとても楽しかった。
結希には、葵よりもずっと深い傷がある。
なぜか、見ているとわかるのだ。
葵は努めて明るく振る舞った。
結希の辛さを葵が全部消し去ってあげたい。
結希の持つ悲しみを、掴んで千切って自分が飲み込んやりたい。
なぜ葵は、会ったばかりの結希に、
これほどの激しい感情を抱くのだろうか。
わからない。
結希を見つめていると、肩や背中に輝きが見えた。
彼の優しさを現すような、暖かい光だった。
自分には、見える。
これが、『真実を見通す目』の力なのだ。
もし、この先離れ離れになったとしても、
結希が一人で苦しんでいたとしても、この光を自分が見つけ出す。
探し出して、きっと救う。
その力が葵にはある。
葵はようやく、『真実を見通す目』が何なのかを理解した。
充実した時間というのは、すぐに過ぎ去っていく。
電車を待っている結希の横顔を見ながら、
葵はそんなことを考えていた。
ああ、もうお別れか。
人を運ぶこの金属のかたまりを、
これほど憎らしいと思ったことはない。
ベルが鳴る。そんなに急かさないで欲しい。
ドアが閉じる。
結希の姿が、スライドしていく。
そして、見えなくなった。
◇
葵はアパートに帰りついた。
幾度か結希に連絡をしたが、返信はない。
まぁ、まだ帰っていないだろうから、仕方がない。
アパートにはもちろん、母親は帰って来なかった。
きっと、あの男の家に行っているのだろう。
寂しい気持ちはあったがが、葵の中に薄暗い気持ちはなかった。
羽生と植山と出会えたこと。
今も胸にある、あの鼓動が聞こえること。
結希と話せたこと。仲良くなれたこと。
『真実を見通す目』の力を理解できたこと。
昨日あったたくさんのことが、葵に自信を与えてくれた。
怖かった。
怖かったけど、頑張って良かった。
葵は自然と泣いていた。
「・・・」
浮かんできた涙の意味を考える。
この涙は、痛くない。
暖かい涙だ。
嬉しい涙だ。
葵は考えて、決めた。
また、皆に会いたいと思った。
◇
昨夜は家に帰ってから何度か結希に連絡を入れたが、
折り返しはなかった。
朝早くに目覚めた葵は、身支度を整えて朝食を摂った。
まだ早い時間だったが、もう一度結希に連絡をしてみる。
今度はコールすらしなかった。
音声ガイドの声が空しく耳に入ってくる。
結希の声が聞きたかった。
昨晩決めた、『もう一度学校に行く』という、
一大決心を聞いて欲しかったのだ。
アパートの場所なら分かっているから、行ってみようか。
リビングを行ったり来たりしながら、葵は考えた。
結局、今日の昼間に会う約束をしていたのだから、
それまで待てば良いことに気付いて、思い留まった。
ああ、気持ちの悪い女にならずに済んで本当に良かった。
葵は学校に電話を入れた。
昨夜の間に決めていたことを、学校関係者に話すつもりだった。
電話には羽生が出てくれた。
先日あれだけの騒ぎになったのだから、
違う人が出るかと思っていたので拍子抜けする。
「赤井さんね? おはよう」
「おはようございます」
「調子はどう?」
「良いです」
今日は晴れね、と明るく言う羽生。
「羽生先生」
「もう先生じゃないけど、まぁ、はい、なんですか」
2人で笑う。言いたいことを忘れそうになる。
「今日は用事があってお休みするんですけど、
明日は、そ、そっちに行ってみようかなって」
葵が叫ぶように言うと、
ラジオだったら、放送事故レベルの沈黙が訪れた。
「あ、あの・・・そ・・・の」
「え」
「え。じゃなくて・・・駄目ですか?」
心臓は痛いくらいに波打っていた。
「だ、駄目じゃないわよ。もちろん。
分かった。明日ね。保健室に来るのよね?」
「はい。そうします」
「無理しないで。
直前でも、悪くなったらいつでも休めるんだから」
羽生に救われる。
「はい。でも、行きたいから」
「わかった。待ってるわ」
電話を終えてから、手が大げさなくらい震えはじめた。
胸に手を当てる。
どっどど・・・どっどど・・・。
鼓動に耳を傾ける。
羽生に教えてもらったように、ゆっくりと息を吐く。
少しだけ震えが収まった。
あれからどれだけ考えても、鼓動がなぜ増えたのか、
遠くにある2つの鼓動が、なぜ葵の胸の中から聞こえてくるのか、
全く分からない。
ただ、悪い気持ちはしない。
むしろ、鼓動を聞いているだけで、自分は独りではないと
勇気をもらえるような気がする。
「よし。OKOK・・・」
葵は明日学校に行く。
自分のために。
◇
昼を過ぎてから、家を出た。
噴水公園に行く途中で、甘い果汁グミを買う。
結希に会ったら、折り返しの電話がなかったことについて、
文句の1つでも言ってやろう。
そして、コンビニで買ったこのグミを一緒に食べて仲直りするのだ。
パトカーが数台、車を追い越して走って行く。
不穏な気配を感じて、葵は立ち止まった。
あのパトカーが向かう先には、尋常のことではない、
何かが起こっている。
何の根拠もなく、葵はそう思った。
「?」
今日は特に風が強い。葵は先を急ぐことにする。
ずっと待っていたが、
結希は噴水公園にはやってこなかった。
一度だけ連絡を入れてみるが、やはりコールしない。
もう、葵と会うのが嫌になったのだろうか。
「なんで・・・」
葵から見た結希は、2人の出会いを
とても喜んでくれていたように見えた。。
きっと、何かトラブルがあったのだ。
葵は、そう思うことに決めた。
「ああ。もしかしてっ」
昨日結希は、玄関先で調子が悪くなると言っていた。
帰宅した時に、倒れたのかもしれない。
葵は気付いたら、走り出していた。
結希の部屋に辿りつく。
走り過ぎて足が怠い。
「はぁ―—―はぁ―—―」
必死で目を凝らすと、玄関のドアに、わずかな痕跡があった。
結希の色だ。
だが、線香花火の最後の方みたいに、
弱々しくて消え入りそうになっている。
最後にここに来てから、時間が経っているのかもしれない。
一応呼び鈴を押してみるが、まったく反応はない。
「やっぱりいない・・・」
葵は部屋を後にし、街を探し続けた。
結希はきっと静かなところを選ぶだろうから、
そういう場所は念入りに探していく。
しかし、結局は何も見つからなかった。
彼は、どうしているのだろうか。
元気にしているのか、怖がっているのか、迷っているのか。
「佐藤さん。どこにいるの?」
見上げた空には、うっすらと2つの月があった。
もうこんな時間になったのか。
「ん?」
月と月の間には、銀の筋が通っているように見える。
「あ、あれ・・・」
今まではあんなものは見えなかった。
『真実を見通す目』の力が強くなっているのだろうか。
それなら。
それなら結希のことも、きっと見つかるはずだ。
葵は思い直してまた歩き始めた。
◇
「はぁ・・・」
結局、夜中まで探しても、結希は見つからなかった。
いくら連絡をしても、つながらない。
「佐藤さん。どうしたんだろ・・・」
葵は今、通学路を歩いている。
考え事をしているせいだろうか。
狭く、重苦しく感じた道が、今日はいつもより広く感じる。
膝を前に出す。つま先はもっと前に出す。
右を見ると、道路を隔ててコンビニがあった。
自分と同じ学校の子達がお昼のお弁当を買ったり、
おやつを買ったりしている。
まだ朝早いから、テンション上げてとはいかないものの、
笑顔で顔を見合わせている様子だ。
足が止まる。
こういう光景を見る度、うらやましいと思っていた。
小さい頃には自分にもあった、友人と笑い合う瞬間。
今はもう失われてしまった、はかなくも貴重な瞬間。
うらやましいな、と心底思いながらも口元では笑ってみる。
葵には今日、会う約束した人がいる。
だから、大丈夫。
それに胸の内から響いて来る2つの鼓動も、葵の味方だ。
結希のことは気になるが、悩んでいても仕方ない。
学校まで真っ直ぐな一本道を、また歩き出す。
学校まであと数ブロックというところで、
黒い線が脇道から伸びているのが見えた。
「ん?」
線は帯のようにひらひらと揺れている。
先を行く人達は、誰もあの帯に気付かない。
これはおそらく、『真実を見通す目』にしか見えない類のものだ。
「・・・」
葵が慎重に脇道を覗くと、
すぐ近くの地面に小鳥が落ちて死んでいた。
「あ」
葵は膝をついて、体を小さくして死んでいる小鳥を見つめた。
外傷らしい外傷は見当たらないが、
黒い線が小鳥の体を中心に小さく渦を巻いているのが見える。
不幸な死に方をしたのかもれない、と葵は何となく思った。
後ろから学生達の声がしたので、急いでハンカチを取り出して、
包んであげる。
するとハンカチの隙間から、
黒い線の一端が葵の方に伸びてきた。
「わわ」
驚いたがそれでも、小鳥を取り落とすことだけは避ける。
じっとしていると、黒い線は小鳥の方に戻っていった。
黒い帯に触れられた手首が、ほんの少しだけ赤くなっている。
葵は患部を押さえながら通学路に戻った。
校門をくぐると、
道の両脇で運動部が大きな声を出しながら汗を流していた。
テニス部のボールを打つ音も聞こえる。
緊張のせいで、膝が稼働した冷蔵庫のように小刻みに揺れている。
息が苦しかったが、先日のように過呼吸になるようなことはない。
葵はほっとして、足早に通りを抜けていく。
上履きに履き替えると、葵はすぐに保健室に向かった。
「おはよう、ございます」
待っていましたと言わんばかりに、植山が立ち上がる。
「おはよう」
「羽生先生、今日は朝早く起きてお弁当作ってきたんだって」
植山が腰に手を充てながら、嬉しそうに言った。
「え」
「赤井さんの分もあるから、お昼は保健室に集合!」
「ええっ?」
「あ、あれ?
もしかして、お弁当持ってきた?」
植山が残念そうな視線を向けてきたので、
葵は慌てて否定した。
「いいえっ。購買のパンで済ませるつもりでした。
パンなら、どこでも食べられるから・・・」
「じゃあ決まり」
「はい。じゃあ、また昼休みに来ますね」
植山は眉間を寄せて、葵の肩に手を置いた。
「教室に行くの?」
葵は少しだけ目を閉じて、息を吐いた。
心配させないように、声が震えないように努めて言う。
「はい・・・行きます」
「大丈夫?」
「大丈夫です」
「そういえばさ、これ、何?」
植山が葵の手を指さした。
手の中にはハンカチに包まれた鳥の亡骸がある。
緊張の連続で、すっかり忘れていた。
「あ・・・いえ。
何でもありません。じゃあ、また昼休みに」
葵は笑顔でおじぎをして、保健室を後にした。
葵は人気の少ない裏門まで走り、
鳥の亡骸を埋めるのにちょうど良い場所を探した。
夏の間に花が植えてあった辺りが良いかもしれない。
隅の方を手で掘ってみると、
土は思ったよりも硬くて、指先が痛くなった。
汗が首を伝って襟に染み込み始めた頃、
鳥を埋められる大きさの穴が完成した。
「よしっ」
ハンカチに包まれた亡骸を、そっと穴の底に置く。
すると、またあの黒い線が葵に向かって伸びてきた。
この線は、きっと怖いものではない。
葵は構わず両手を合わせた。
「きっと今度は、元気で」
言うと、亡骸から出ていた線が小さくなり、
やがて消えてなくなった。
土をかけていると、予鈴が鳴った。
「やば」
あと5分で朝礼だ。急いで教室に向かう。
教室の前には数人の男女が楽しそうに話していた。
その間を通って、葵は中に入る。
「・・・っ」
視線が一瞬だけ葵に集中して、教室が静かになった。
そしてすぐに、葵から教室の奥の方へ、視線が移る。
平野といじめグループの子達の方だ。
粘り気を含んだ紫色のオーラが、平野の周りに充満している。
気持ち悪い。
匂いまで漂ってきそうで、葵は口を押さえた。
胃の中で小さな戦争が始まる。
一度瞼を閉じて、まっすぐに姿勢を正した。
ここで弱みを見せたら、終わってしまう。
「ふぅ―――ふぅ―――」
長く息を吐く。
一度死んだんだ。このくらいへっちゃらだ。
こころを決める。
平野はきっと、葵が視線を逸らして俯いたまま
いそいそと席に着くと思っているだろう。
だから、葵は逆を行くことにした。
平野に向かってまっすぐ視線を返してやる。
葵の視線を宣戦布告と受け取ったのか、平野の顔が歪む。
「・・・こわい」
そこへ担任がやってきて、教室は騒然となり、
平野と葵の対面が終わった。
朝礼が始まる。
前の席に座っている平野が、担任が前で話しているにも関わらず、
ちらちらとこちらを見てくる。
担任はそんな平野を注意すらしない。
葵は平野を見ないように、一生懸命担任へと視線を向け続ける。
朝礼が終わり、担任が教室を出て行くと
10分間の休憩が始まった。
幾度も、この10分が5分に短縮されて欲しいと願ってきた。
気力を振り絞り、やっとの思いで登校してきたあと、
平野から10分も絞られるのは本当に辛かった。
それが今から始まるのだ。
平野が他の子を呼んで集まってから、葵の席までやってくる。
目は口ほどに物を言うとあるが、
葵は口こそが人を表す指標だと思っている。
弱いものを痛めつけて愉悦する人間の口は、醜い形をしている。
尖りながら、弧を描き、頬を歪める。
目の前にいる全員が、そんな口の形をしていた。
取り巻きの女子が「よくガッコに来れたね」と言った。
その隣が「汚物が来たら、みんな迷惑なのにね」と
ふざけて言う。
その間、葵はこめかみが張り裂けるくらい痛むのを
じっと我慢していた。
平野を含めて4人が葵の席を完全に取り囲む。
いつもならすぐに頭を叩かれたり、暴言を吐かれたりしていた。
座ったままでは、またやられ放題になってしまう―――
けたたましいサイレンとともに、快速の電車が構内に入ってくる
―――だから、葵は立ち上がった。
同じ叩かれるなら、立って、上を見て叩かれてやる。
平野は面食らったようだった。
紫色のオーラが風にあおられたように、ぐにゃりと歪む。
平野のオーラよりも、結希のオーラの方がずっと綺麗だった。
あの人は、1人で戦い続けた。
孤独にも負けなかった。
勝てないかもしれない。
でも、負けてはやらない。
葵は一度死んで、フォルトゥーナに力をもらった。
キラリ―ランドに1人で行って、森を歩いた。
狼に噛みつかれて、すごく痛かったけど生き残った。
結希やクロエ、羽生や植山に出会って、
いろんなことを感じた。
だから、今。
身に刻まれた目に見えない力強さというものを見せてやる。
そう思った瞬間、急に頬を叩かれた。
葵の眼鏡が、よくできた紙飛行機みたいに飛んでいく。
「・・・いた」
顏は腫れやすい上、傷がよく目立つので、
平野はあまり顔を狙わない。
葵がまだ平野を見つめていると、もう一度叩かれた。
痛む自らの頬に触れること。
目を伏せてしまうこと。
あやまること。
この場に必要とされる何もかもを、葵は絶対にしない。
ただ、晴天の日にぴったりな清涼な声で言った。
「平野さん。もう、私に構わないで」
その声は、平野のオーラを半分以上吹き飛ばす。
平野の顔がみるみる内に赤く染まっていく。
今度は、思いっきり肩を突き飛ばされた。
「う」
椅子に踵がひっかかって、後ろに転ぶ。
横に座っていた子の机に体ごとぶつかって、息が詰まった。
だが、葵はすぐに立ち上がって、平野を見た。
こんなの平気。
狼に噛みつかれたときは、こんな苦しさではなかった。
平野は鼻息を荒くして拳を握りしめた。
今にも殴りかかってきそうな勢いだ。
そんな彼女にもう一度言う。
「もう、私に構わないで」
声が静かな教室に響く。
紫のオーラが漂白剤につけた汚れみたいに、
宙に浮いて霧散していく。
「生きてる価値もないゴミが、
あたしに偉そうにするな!!」
平野が今にも泣き出しそうな顔で、拳を振り上げる
避けるつもりはなかった。
衝撃に耐えようと歯を食い縛り、葵は目を閉じた。
「・・・」
いつまでも衝撃が来ないので、再び目を開けると、
平野の手は稼働限界を超えた機械のように、硬直していた。
「・・・え」
葵は戸惑いながら手を止めたままの、平野を見る。
彼女はさらに、身体と腕に力を入れた。
だが、動かない。葵に平野の拳は届かない。
おそらく、拳は何らかの力で止まってしまったのだ。
ふと、視線を落とすと、平野の肩に張り付いている、
黒いものが目に留まった。
最初は落ち葉か何かに見えたが、違う。
定かには見えないが、その黒いものは虫のように蠢いている。
なに。これ。
葵が視線を動かす度、黒い虫がかさかさと身動ぎする。
どうやら黒い虫は、葵の視線に反応しているようだった。
じっと見ていると、少しずつその姿が鮮明に見えてきた。
黒い虫は表面に細かい毛を生やしていて、
中心には、大きな眼球がついていた。
眼球がじっと葵を見つめ返してくる。
「キモい・・・」
気持ちが悪くなり、葵は黒い目から視線を逸らした。
「おい。お前。いま、キモいって言った?」
未だに動けないでいる、平野が言った。
しかし、声に力はなく、おびえきって震えている。
彼女の顔は顔面蒼白で、今にも倒れそうだ。
もしかしたら、黒い虫が、何かしているのかもしれない。
葵は慎重に、平野の手に触れた。
平野とは、もう関わりたくないだけだ。
こいつと同じ真似だけはしたくない。
「平野さん。もう、しないって約束して」
平野の顔が恐怖に染まる。
「おい。何してんだこの」
いじめグループのリーダーが危機とあって、
両脇にいる子達が葵を制そうと手を伸ばしてくる。
葵の体に触れた手が、平野と同様に硬直した。
他の子達の肩にも、あの黒い虫が張り付いていた。
訳がわからない。
一体なんなんだ、あれは。
その時、目の奥に鋭痛が走った。。
「いた・・・」
腹に力を入れて痛みに耐えるが、徐々に大きくなってくる。
あまり長い時間は我慢できそうにない、
そう思った時だった。
「わ、わかった。もうしない」
あまりにもあっけなく、平野が謝罪した。
「ほ、ほんとうに?」
「本当だって。もう放してっ!」
葵は全身の力を抜いて、何もかも手放すように目を閉じた。
拍子に一縷の涙が頬を伝う。
しばらくして目を開くと、
あの黒い虫も姿を消していた。
おかしな現象は終了したのだ。
「よかった」
葵が安堵のため息をつくと、平野が仰け反るように離れた。
「なんなんだよ。こいつっ」
自由になった平野達は、すぐに教室から出て行く。
葵は茫然と、突っ立ったままでいた。
◇
飛んで行った眼鏡は、教室の端に落ちていたが、
なんとか無事だった。
父親が太いフレームのものを選んでくれたことに、
今は感謝したい。
あれ以来、平野達は近付いてこなかった。
休み時間になり、恐る恐るトイレに入ったものの、
何も起こらない。
自分をからかっていた男子達も、
遠くから送られてくるたくさんの視線を送って来るものの、
近付いてはこない。
みんな、一様に葵を忌避するオーラを抱えている。
葵は何事もなく、移動教室を終えた。
本当に、何もかも終わったのかもしれない。
その時、こちらを見ている者と視線が交わった。
山﨑だった。
山﨑が何かを言いたそうにこちらを見ているのがわかる。
少しだけ胸が痛い。
葵はまっすぐ、教室に向かって歩き始める。
そして、すれ違っていった。
◇
昼休み。
葵は保健室で、羽生と植山の3人で弁当を食べている。
羽生の作った弁当には、厚焼き玉子、小さなハンバーグ、
から揚げ、しょうがたれのついた豚の肉巻きや等、
たくさんのおかずが入っていた。
鮭おむすびを頬張ってから、すぐにからあげを追加する。
以前は昼休みにこんなに食べるのは、
胃が受け付けなかっただろうが、今はどんどんいける。
「そういえばさ、呼吸大丈夫だった?」
おかずを食べるのに必死の葵に、羽生が聞いてきた。
「ふぁい。だいじょぶ」
「クラスでは・・・その、何もなかった?」
「なにも」
羽生が、わずかな機微を顏に浮かべた。
羽生は多分、葵が気を遣っていると思ったようだ。
だから箸を置いて羽生を見る。
「本当は、あると思ったんです。
でも、みんな飽きたみたい。
きれいさっぱりなくなっちゃってて、拍子抜け」
保健室前を、ふざけている様子の男子達が走り抜けていく。
葵はあの声に、恐怖していた過去を思った。
「そ、そう。大丈夫ならいいけど」
羽生はまだ葵を心配してくれている。
自分のことを気にしてくれているのが嬉しい。
これからは、毎日学校に通おう。
羽生と植山と、こうしてまた食事をしたい。
「放課後、こっちに寄っていく?」
食事を終えた後、羽生が聞いてきた。
「ううん。帰りに寄るところがあるから」
「わかった。でも、あんまり遅くならないようにね。
なんか、最近物騒みたいよ。どの部活も今日はちょっと早引け」
植山が心配そうに言う。
「そうなんですか?」
「うん。通り魔とか、交通事故とか多いみたい」
「わかりました。早く帰るから、大丈夫です」
「じゃあ、また明日」
口の中で羽生の言葉を繰り返す。
また明日。
葵は居住まいを正すと、2人に頭を下げた。
「ありがとうございます。
私、お二人のおかげで何とかなったみたい」
午後からは数学で、
両方とも葵が見たことのない単元に入っていた。
内容が何にもわからない。
机に突っ伏する寸前で、
葵にわかりやすく先生がおさらいをしてくれた。
そのおかげで、授業を何とか乗り切ることができる。
授業の最後に、先生の視線に気付く。
もしかしたら、気遣ってくれていたのかもしれない。
葵はこころの中で、お礼を言った。
放課後は、そうじ当番を押し付けられることもなく、
誰かに声をかけられることもなく教室を出ることができた。
下駄箱を開ける。
「あ、靴。
・・・本当に、奇跡みたい」
下駄箱に靴が入っている。
当たり前のことなのに、葵は深く感動した。
いつもは俯きながら横切っていた運動場を、
空を見上げながらゆっくりと歩く。
視線の先に、すずがいた。
彼女は歩くのが早く、すぐに校門から出て行って見えなくなる。
いつか、すずとも和解したい。
いや、きっとするのだ、とこころに決める。
「そうだ」
明日は小さなお花を買ってきて、鳥を埋めた場所に置いてやろう。
良いことを思いついたときは得意になる。
スキップしたい気持ちを脇に控えさせ、図書館に向かう。
結希やクロエ、羽生や植山だけではなく、
伊都子も、大きなこころの支えになってくれた。
うまく言えるかはわからないが、きちんとお礼が言いたかった。
伊都子はどんな表情をするだろうか。
想像すると恥ずかしくなり、嬉しくもなった。
歩きながら長い吐息をついた。
息はいつも以上に柔らかくて温かい。
食べたものや血ではなく、
この先もずっと、こんな息を吐いていたい。
「♪鳥くんの比べて識別!野鳥図鑑670 第4版」
「平野レミの作って幸せ・食べて幸せ」
「学校安全と子どもの心の危機管理:教師・保護者・スクールカウンセラー・養護教諭・指導主事のために」
を参考に致しました。
よろしくお願いいたします。




