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15話 葵

15話です。この話も長めです。

よろしくお願いいたします。

「わっ」

目覚めたら、葵は真っ白な部屋にいた。

おかしい。

来ている制服が濡れていない。

常にあった胃の痛みもない。

まるで五感を奪われたような物足りなさが胸中に落ちる。

なんとなく首を振ると、背の高い女性が視界に入ってきた。

葵は思わず息を呑んだ。

とても現実とは思えないようなくらい綺麗な人だ。

曇り一点もないつやつやとした卵肌と

雨のように真っすぐな銀の髪。

顔は世界一美に詳しい芸術家が、

生涯をかけて描き残した淑女そのものだった。

木の樹脂に似た匂いがした。

2、3回吸い込むと香ばしさが微かに鼻孔に残った。

葵は十数年待ってようやくお目にかかった名画を前にした時のように、

目の前の女性に魅入っていた。

<あなたは先程死にました>

地面に亀裂が入りそうな言葉を、

気軽に挨拶するような調子で言われる。

葵はそれを受け入れた。自分の願望でもあったからだ。

「は・・・い」

死んでしまったということは、もう、

吐くのを我慢しなくてもいいということになる。

もう、あの地獄に戻らなくても済む。

<よかったですね>

女性の言い方には、少しだけ含みがある。

それでも葵は、よかった、と言われたのがうれしくて、

何度も自分に言い聞かせるように、よかった、を反芻した。

よかった。

よかった。

よかった。

よかった、は次第に小さな渦を巻き始める。

渦は黒点となり、こころに染みをつけた。

「あなたは誰ですか?」

女性が頷くと、水中にいる時のように髪がゆっくりと靡いた。

<私はフォルトゥーナです>

「神様なんですか?」

おかしな質問をしているのは分かっているが、

訊きたい衝動を抑えられない。

<はい>

女神フォルトゥーナは、

軌跡に虹でも残しそうな眩しい動きで易々と頷く。

「あ、あの、フォルトゥーナ様」

敬称を様付けにしてしまい、葵はきまりが悪くなった。

実際に出会った誰かを様付けにして呼ぶなんて、

多分生まれて初めてだ。

<なんですか?>

葵がまごついている間、女神は静かに待ってくれた。

「あの、えっと・・・」

まごついていると、目に涙が溜まってきた。

まるで得心がいったようフォルトゥーナが微笑んだ。

その微笑みに音が生じる。

凛。

耳の中で反響を続ける音に押されて、

涙が目の端から零れ落ちていく。

<大丈夫?>

返事がしたいのに、腹の筋肉が痙攣してうまく言えない。

フォルトゥーナが重力を無視したようにな動きで

すいすいと近づいてきた。

無垢な手が、頬に優しく触れてくる。

<あなたは十分頑張った>

肩の力が抜ける。

<もう休んでいいの>

十分頑張ったという言葉に救われた。

自分はもうゆっくり休んだ方が良いのかもしれない。

葵は自らの胸に手をあてた。

渦巻く黒い点がある。

今までの経験により、葵は知っていた。

この黒い点の正体は分からないが、

放っておくと、時間の経過とともに大きくなる。

最後には自身を飲み込むほどの大きさになるだろう。

葵の顎が、首肯寸前で停止する。

父親と母親のすれ違いも、

最初はほんの小さなものだったに違いない。

だが、それは日に日に大きくなっていき、

最後には自分ではどうにもできない大きさになった。

フォルトゥーナの言う通り、

何もかも忘れて休んだとしても、

黒い点は自分を逃がしてはくれない。

見ないふりをしても、

いつかは自分に向かって来るものだからだ。

黒い点の正体は、いったい何なのだろう。

両親の離婚、いじめ、すずとの別れ、

母親の変化、自分の命を絶ってしまったこと、

自分にあったことを振り返って考えた。

どれも黒い点の正体であるようにも、無いようにも思える。

葵の様子を見ていたフォルトゥーナが言った。

<あなたは目が良いのね>

フォルトゥーナが歌うように言った。

「目ですか?

視力は小さい頃から悪かったけど・・・」

過去から引き戻されて我に返った葵の目の前には、

すでにフォルトゥーナの指先がある。

<目というのは、ただ物体を見るためだけのもの

ではありません>

人差し指が右目に、薬指が左目に向かって真っすぐ突き出されてくる。

葵の体は微動だにできなかったが、不思議と恐怖は感じない。

<離れていても触れたり、感じたりできるもの>

目を開けたまま、先端に天の星々を抱えた指先を受け入れる。

指が自らの瞳に触れた途端、葵は広大な宇宙に放り出された。

「わ」

自分以外の周囲すべてが、闇と光に二分された世界だ。

葵のすぐ横を高速ですれ違っていくのは、いくつもの流れ星だった。

その中を、葵は進んでいく。

<あなたの目は眩んでいる。

周りがとても明るいか、暗いせいで>

フォルトゥーナが言い終えると、景色が変わった。

いや、景色が変わったのではない。葵の見え方が変わったのだ。

すれ違っていく流れ星は、ひとつひとつが命の輝きだった。

みんなどこへ向かうのだろうか、光の中に長い歴史を感じる。

なんて広い。世界はこんなに広くて綺麗なのだ。

葵の居た場所の、なんと狭かったことか。

<私がそれを調整するだけで、

あなたは『真実を見通す目』を得る>

『真実を見通す目』と聞いて、葵はこころを曇らせた。

父親の不貞を、母親はきっと知りたくなかったはずだ。

世の中には、知りたくない真実というものがたくさんある。

『真実を見通す目』があったところで、

現実には何の役にも立ちはしない。

<そうね>

憂い、緊張、失望。

フォルトゥーナが何らかの感情を込めて言った。

<あなたの言う通り、

目が良いだけでは困難には立ち向かえません。

あなた自身の力も必要になる>

葵はフォルトゥーナの言葉に頷く。

本当にその通りだ。

<『真実を見通す目』は、

自らの姿を認めた勇気ある者に、選択択を与えます>

「選択択?」

突如、宇宙の闇が切り裂かれ、

葵はフォルトゥーナのいる白い部屋に戻ってきた。

ふらつく体をいつの間にか女神に支えられている。

<まだ完全ではないですが、今できるのはここまでですね>

一歩隔てた距離まで女神が離れる。。

葵の目に突き刺した指は、とっくに引き抜かれていたようだ。

<今の考えを聞かせて>

フォルトゥーナが先を譲るように手を差し向けた。

「私は」

息がつまった。

言葉は、完全にこころを閉じたまま、吐き出すことはできない。

口に出して言うということは、自分もそれを認めるということだ。

勇気が必要だったから、

葵は大きく息を吸って時間を稼いだ。

「私はお父さんが浮気をして、

お母さんがおかしくなった時も、

名前が変わって、いじめられるようになった時も、

たった1人の友達だったすずから、見捨てられた時も、

死ぬしかないと思った時も、どんな時も、

私は、自分の問題に向き合おうとしませんでした」

目を上げた葵は、女神を見て怖気づく。

「こんな話、神様に言っても、申し訳ないです」

<聞かせてください>

慈愛に満ちた声が、こころを少し軽くしてくれる。

「私はいつも殻に閉じこもって、

自分で動こうとしなかった。

自分の中にある黒い点の正体すら、

自分の持っている感情すらよく分かりません」

手を握り締める。


「くやしいの」


「また逃げたら、もう自分を許せない。

ここで譲ったら、最後まで屑で終わってしまう。

私ってば、もう死んじゃってるけど」

声がみっともなく震えて、それ以上は言えなかった。

フォルトゥーナの手が涙を掬ってくれる。

しばしの静寂の後、口元を引き結び、

やや表情を厳しくしてから女神が口を開いた。

<葵。もう一度やり直しなさい。現世に戻るの>

「・・・は?」

葵は口を開けたまま静止した。

長いことそのままだったので、

フォルトゥーナが咳ばらいを一つした。

<葵。あのね・・・>

「えーと。えーっと・・・ああっ、わかった!」

言葉をようやく飲み込んだ葵が聞く。

「やり直すって、現世に戻るって、

また生き返るってことですか?!」

それを聞いた女神は安堵したように頷いた。

<そうそう。

でも、生き返ったとしても、地上は今と同じ、

いいえ、それ以上に過酷になっていくのです。

あなたが想像するよりもずっと、

厳しい日々になるかもしれませんよ>

ふいにフォルトゥーナの白銀の髪が、

まるで一本一本が生きている蛇のように動いた。

顔を上げると、女神の表情は厳しいのを通り越して、

悲痛に歪んでいた。

それを見て奥歯を噛む。

戻った先で、しっかりやれるだろうか。

また同じことを繰り返してしまわないだろうか。

また同じ苦しみが襲ってきたときに、今度は耐えられるだろうか。

あまり自信がない。

フォルトゥーナが音もなく手のひらを差し出と、

そこに黒い炎が灯った。

<地球は葵が経験したのと同じような、

悲しい死がたくさんあります>

黒い炎は、数々の怨嗟や悲痛な意志が

混ざり合い、ぶつかり合って火花を散らしているように見える。

こわい、と葵は率直に思った。

<そう。怖いの。

この炎は地球にある悲しい死のほんの一部>

フォルトゥーナは影を落とすようにため息をついた。

<私にはミーミルという弟がいます。

優しい子で、地球で起こる死を、

私が悲しむのをとても嫌いました。

ミーミルは死をまき散らす人という存在を、

全て消してしまおうと言いました。

私は止めました。でも、どうしても止まらなかったの。

私はせめて時間を稼ぐために、

悲しい死が1000兆人に達したときに、

地球の在り方を変えると約束をしました。

地球はこれから、人にとっては過酷で、

生き残るのが難しい世界になります。

葵は。

実は葵は1000兆人から3人目に亡くなった人です。

もう地球は変わり始めているの。

さらにミーミルは地球をよりよく作りかえるために、

私に隠れて何かをしています。

きっと私が悲しまないよう、弟なりに考えてのことだと思います。

でもそれは、私にとっては嬉しいことでもあり、

悲しいことでもあります。

ですからこうして、弟に隠れてあなたに会っているのです>

夢中で話を聞いていた葵は、止めていた息を抜いた。

壮大な神の思惑を聞いている間に、小旅行でもした気分だった。

それにしても、ミーミルとは一体どういう人物なのだろうか。

怖いことをしようとしているのには間違いないが、

姉を想うが故の行動でもある。

葵の胸中は複雑で、ミーミルのことを量りかねていた。

一瞬だけ、すずの顔が思い浮かぶ。

すずはトイレで葵と話していた時、何を思っていたのだろうか。

裂けるような痛みに脅かされ、思わず目を閉じる。

すると、瞼の裏に幼い男の子の姿が浮かんできた。

「え」

葵は何度も瞬いた。

男の子はまだ幼いが、

よく見るとフォルトゥーナに面影が似ている。

短く刈った白銀の髪の間から汗を滴らせながら、

手元では何かを作っているようだった。

葵がゆっくりと近づいて、

隣に腰かけると男の子が顔を寄せてきて、

そっとキスをされた。

はちみつのような甘美な匂い、愛情の香りだ。

葵の母親がまだ優しかった頃、毎日のように与えられ、

当たり前だと思っていた愛情の香り。

きっと男の子はミーミルで、見ている自分はフォルトゥーナなのだ。

仲の良い姉弟だ。

葵は喜びに満たされ、表現しようのない浮遊感を味わった。

だが、どうしてこんなものが自分に見えるのだろうか。

<葵>

フォルトゥーナの声が景色を寸断させる。

葵は先程まで居た白い空間に戻された。

放心して天井を仰いでいた葵を、

フォルトゥーナは澄んだ表情のまま待っていた。

「今のって・・・」

葵が起こったことを説明しようとすると、

それには及ばない、という意思のもと女神が頷いた。

何か見てはいけないものを見てしまったような気がしていたので、

葵はほっとして肩の力を抜いた。

「あんなに仲が良さそうだったのに。

今は弟さんと、ケンカみたいな感じですか?」

<いいえ。ただミーミルは私の為に、

地球から人を消す決心をしたのです>

神とはいえ、あれだけ仲が良かったのだから、

対立してしまうのは、辛いだろう。

葵は伏せがちになったフォルトゥーナに近づいて、

無垢な両手を掴んで持ち上げる。

「喧嘩ぐらいするでしょ。姉弟なんだから」

葵はいたずらっぽく言ってみた。

<いえ。喧嘩ではありません>

恐れ多いという気持ちもあったが、

フォルトゥーナを元気づけてあげたかった。

握った手は冷たかったが、思ったよりもやわらかく、

すべすべして気持ちが良い。

<でも、もしかしたら、葵の言う通りかもしれません>

フォルトゥーナが自嘲するように笑う。

喧嘩をしているのかも、と漏らした女神は、

泣いているように見えた。

「私にできることはありますか」

神にできなくて、自分にできることなどあろうはずもないのに、

思いがけず出た言葉だった。

そんな愚かな言葉だったが、

フォルトゥーナは笑顔を向けてくれた。

<あなた自身も、辛い過去を持っているのに。

優しいのね。

人がみな、葵さんのようであったなら良いのに>

笑顔はすぐ悲しみに歪んでいく。

<あなたのような人が、

死ななくてはいけない世界でなければ良いのに。

全部、作った私のせいなの>

葵は慌てた。「いやいやっ!」

「フォルトゥーナ様は悪くないですっ。

良くなるか、悪くなるかは、その人の自由なんです。

変わろうと思えば、いつでも変われるんです」

「ただ、私ってばそれができなかったけど」と付け加える。

すぐに自分が神に向かって説教してしまったのに気付き、

盛大に恐縮する。

勢いに任せて、とんでもないことを言ってしまった。

<葵。本当にそう思う?>

葵の思いとは裏腹に、フォルトゥーナは切実な表情で言った。

首を縦に何度も振って見せる。

その様子が面白かったのか、フォルトゥーナはようやく笑った。

<きっとミーミルは偶然を装い、すみやかに人類を

絶滅させようとしています。

私はそうしたくない。人にはあなたのような者がいるのだから。

だから、生き返ったら、あなたには頑張って生きて欲しい。

葵が生きてくれていたら、私は嬉しい>

その言葉を聞いて、葵は自然と笑顔になった。

「わかりました。生きればいいのね。簡単かんたんっ」

女神が少し目を見開く。思ったよりも神は感情豊かだ。

<え。え。生きるのも大変なのよ。

これから、世界が変わって、

ミーミルも細工をしているのだから>

フォルトゥーナが手を前に出して、

そんなに簡単な事じゃないのよ、

とおろおろした様子なのが面白い。

「ああ、そっかそっか。でも、頑張ります」

女神の手が握り返してくる。

体に力が流れ込んでくるみたいだった。

確かに生き返ったからといって、別の人生が待っているわけではない。

死ぬ前と同じ、地獄の日々に帰っていくのだから。

クラスメートの顔が思い浮かび、苦々しい気持ちになる。

だがそれでも、自分にはちゃんとやれることがあるような気がする。

今だけはこころからそう思える。

最後に、何か欲しいものはないか、と尋ねられた。

白い空間が、その質問を期に淡く輝き始める。

「私が欲しかったのは、信頼できる家族です」

伝えると、フォルトゥーナは心底驚いたような表情を見せた。

その拍子に、フォルトゥーナの閉じていた双眸が開く。

「うわぁ・・・」

瞼の奥には、海を思わせる生命の大いなる混流が見えた。

頭の後ろがしびれてしまうくらいに美しかった。

<驚いた。きっと何かの巡り合わせがあったに違いない。

あなたには、『真実を見通す目』と相性の良い、

『四人の従者』の力を与えます>

「よ、『四人の従者』って何ですか?」

質問には答えず、フォルトゥーナは動物の皮で

できた小袋を手渡してきた。

「これは・・・?」

威厳の塊のような女神が、少しいたずらっぽい表情をして言った。

もしかしたら、さっきの葵を真似したのかもしれない。

<言えません。言うと力が弱くなる。

そういうものなの。でも、きっと役に立つから、

大事に持っていて下さい>

釈然としない気持ちでいる葵を慰めるように、

フォルトゥーナが頬に触れてきた。

女神に触れられるのが気持ち良くて、

撫でられると目を閉じてしまう猫の気持ちが、

わかるような気がした。

淡かった光は次第に大きくなり、部屋を覆いつくす輝きとなった。

すぐ傍にいるはずのフォルトゥーナを確認することもできない。

葵が不安になって手を伸ばすと、

女神の手がしっかりと掴んでくれた。

<葵。最後に、言いたいことが>

「な、なんですか?!」

<信頼できる家族は―――あなたが―――頑張って作るのよ>

言葉が終わると、葵は栓を抜かれた水のように、

回転しながら下へ下へと落ちていった。

まるで砂時計の中に入ったみたいだと、葵は思う。

暗い世界をどんどん下へ降りていく。

「へ・・・あ・・・」

目を開けると、葵はずぶ濡れで停車したばかりの

電車の前に立っていた。 


   ◇


白昼夢から醒めたばかりの葵は、

後ろから来た誰かの肩にぶつかって舌打ちをされた。

「ごめんなさい」

縮んだバネが解放されたようにしてびくりと頭を上げた後、

おずおずと流れに従って電車に乗り込んだ。

遅い時間だったので、車内には学生の他にサラリーマンやOLの姿がある。

自分の体は濡れていて、濃い塩素の匂いがした。

目立つかもしれないと心配したが、

化粧品や汗、その他さまざまな匂いの充満する車内では、

塩素の匂いはさほど強いものではないようだ。

周りを見ると、俯いて目を閉じていたり、スマホを触っていたり

目の前に集まっている男子学生のように

友人と他愛のない会話をしていたりと、

みんなそれぞれが自分の世界の中にいる。

安堵の息を吐いた葵は、

窓の方を見て流れる景色に意識を向けた。

窓の外にはたくさんの光があった。

フォルトゥーナの指先の中と同じ。

光のひとつひとつに歴史があり、人の命があるのだ。

葵の意識は少しずつ車内から離れていった。

喧噪も人の気配も後方に置き去りにして、

意識は一つの終着点に到着する。

あの白い部屋だ。

記憶は脳に直接彫られたごとく鮮明であり、

女神フォルトゥーナが放っていた空気感や匂い、

触れられた時の感触まで、しっかりと思い出すことができる。

そこに浮かんできた人物がいた。

一体誰だろう。

立っていたのは、いじめグループのリーダー平野だった。

駆け寄ってきた平野は、笑いながら

いつものように平手打ちをしてきた。

以前、平野の指が葵の目に入ったことがあったが、

あの時は痛くて、しばらく片目が見えなかったことがある。

記憶の中でこそ、怖くて痛いものがある。

景色が変わる。

記憶の隙間を縫って入り込んできたのは、

山崎君にいじめを目撃されたときの光景だった。

奥歯を食いしばって、痛みに耐える。

少しの間、忘れていた胃の痛みも一緒になって蘇ってくる。

そうだった。

いろいろあって忘れていたが、自分の人生はこんな感じだった。

忘れていた味を口に含んで思い出すかのように、

葵は何もかも思い出した。

はいはいわかっています、とこころの中で頷く。

次に見えたのはトイレで倒れたすずの姿だった。

「汚いの嫌なのにっ!」

すずが真っ赤な顔をして手を洗っている。

スライドするように、葵とすずは離れて行く。

まって。

手を伸ばしたが届かない。

すずと入れ替わりになって、秋山が姿を現わした。

秋山の下品な笑い方が、葵の嫌悪感を煽った。

葵は動くのも考えるのもやめた。息もやめた。

何もかもあきらめたくなったのだ。

今までずっとそうやってきたのだから。

これが葵の現実だ。


<葵が生きてくれていたら、私は嬉しい>


その声は晴天に走る飛行機雲のように、

暗転した世界を切り裂いた。

平野も山崎も秋山も、すずさえも、葵の前から消え去った。

フォルトゥーナは別れ際に、不安だった葵の手を握ってくれた。

下から支えるような、持ち上げて引き上げるような握り方だった。

これもまた、葵の現実だ。

現実をあきらめることを許さない。

これはある意味、女神は葵に酷だと言えるだろう。

無意識に、熱を持ったその手を見る。

手の中には皮でできた小さな小袋が収まっていた。

「え」

いつの間に、こんなものを持っていたのだろう。

ずっと気付かなかった。

葵は小袋の口を縛っている、乾燥させられたつる性植物でできた紐を

引っ張って外した。

「わ」

中を見ると、髪留めにちょうど良さそうな4本のリボンが、

丁寧に畳まれた状態で入っていた。

今までに味わったことのない触り心地なのに、

生まれた時から触れていたかのように指先に馴染む。

最初に目についた赤いリボンを手に取った。

火を噴く竜をモチーフにした細かい刺繍が施されている。

「きれい・・・」

驚くべきことに、リボンの刺繍は両面にしてあった。

一体どうやって作ったのだろうか。

表裏に異なる竜が刺繍されていることから、

ずいぶん手間をかけて作られたものだと分かる。

葵は他のリボンも手に取って見てみた。

金の刺繍がされたリボンは、隙間なく生い茂る麦畑で、

他のリボンよりも重たい。

銀の刺繍がされたリボンには、荒野を走る狼が表現されている。

作りは他のものと変わらないのに、この上なく柔らかい。

最後に葵は、青を基調としたリボンを手にした。

青のリボンには星々が描かれており、フォルトゥーナの瞳を連想させた。

「ふ 、フォルトゥーナ様・・・。ほんとなの?」

涙で決壊した瞳は、女神が残したリボンをいつまでも見つめていた。


   ◇


アパートに戻ると、塩素の匂いが染み付いた制服を

急いで脱いで洗濯機に放り込んだ。

適当に洗剤を入れて、洗濯機を回し始める。

母親に気付かれるのは嫌だった。

胃が痛くなったが、激痛とまではいかない。

洗濯物を片付けて、食事を済ませる。

素早く食べている間は何も考えずに済むから好きだ。

だが、食器を洗っている間は駄目だ。

どうしてもいろいろなことを考えてしまう。

学校にはいじめがある。

登校すれば、また同じ日々の繰り返しだろう。

このまま家にいれば葵が傷つけられることはない。

一度死んで葵はそのことに気付いた。

死ねば誰も葵に手を出すことはできないと思ったが、

そこまでしなくとも、学校に行きさえしなければ良かったのだ。

学校以外で、暴力をふるったり、プールに突き落としたり、

そんなことをしたら犯罪になってしまう。

学校の外なら確実に犯罪になることが、

学校の内ではなぜ犯罪にならないのか疑問だったが、

それは今考えることではない。

「よし。もう、行くのをやめよう」

葵は明日から学校に行くのをやめた。

そうすると問題になるのは母親だが、

母親は朝早くからパートの仕事に行くので、

しばらく行かなくても気付かない。

担任から母親に連絡がいくかもしれないが、

葵から休むと連絡をしておけば、その可能性もかなり減る。

だが、それでもいつかはバレてしまうだろう。

きっと大騒ぎになってしまうと思う。

その時はその時だ。

死んでしまうよりはマシだ。

冷たい息を吐いてから、奥歯を噛み締めた。

葵には小さなころから奥歯を噛む癖があった。

いじめが始まってからは、寝ている間にもするようになったみたいで、

朝起きるといつも顎が痛かった。

明日からは、顎の痛みも少しは減るだろうか。

背伸びをしながら時計を見れば、もう就寝する時間だった。

こんな時間になっても、

朝早くに出かけた母親は帰ってくる気配がなかった。

仕事が忙しいのか、それともまた秋山と会っているのか。

考えただけで怖気がする。

翌日、いつも通りの時間に葵は目を覚ました。

「うぅーん」

葵は布団ベッドの中で背伸びをした。

いろいろあり過ぎて疲れていたので、まだ起き上がりたくなかった。

だが、リビングの方で母親の気配がしたので起き上がる。

本当のことを言った方が良いのではないか。

そう思った瞬間、心臓が痛いくらいに跳ねて、胃にぶつかってくる。

部屋から出ると、母親がテーブルで化粧をしていた。

いつもの時間、いつもの光景だ。

学校へ向かわなくてはならないと、

自分に言い聞かせ続ける憂鬱で気怠い時間。

葵は今が一日のうちで一番嫌いな時間帯だった。

「おはよう」

葵が言うと、しっかり口紅を塗った母親が「ああ」と頷いた。

「お母さん。あのね」

「何?またお金が要るの?」

お金が要るなんて、ここ数ヶ月母親に言ったことはない。

教科書だって、参考書だって、欲しくても買わずに済ませている。

閉口した葵を見て図星と思ったのか、

母親は大げさにため息をした。

あのね。お母さん朝から夜まで働いているの。

どうしても必要ならアルバイトでもして稼ぎなさい。

そしたら、少しでも家にお金を入れてくれてもいいのよ。

お母さん、そのくらいのことはしてきたと思うけど。

母親の言葉が背に首に、頭に重くのしかかってくる。

本当のことなんて、言えるわけがなかった。

じっと黙っている葵に向かって、母親はもう一度ため息をついた。

そんなことだから、いつまでたっても子どもなのよ。

少しは頑張りなさい。

足音は玄関から外に出て、廊下を渡っていき、すぐに聞こえなくなった。

葵はようやく息を吐いて、その場に膝をついた。

「ああ」

学校に行かなくては。

母親に余計な心配をかけてはいけない。

葵はのろのろ立ち上がった。

洗面所に行って、顔を洗って歯を磨く。

歯磨き粉の匂いが鼻腔を刺激して、くしゃみが出そうになる。

「っくし!」

くしゃみと一緒に、口内の歯磨き粉が飛び散って洗面所を汚してしまう。

「うわわ~。あーあ・・・」

鏡にもたくさん泡がついている。

その奥に見えた自分の間抜け顏が見えた。

「・・・・くく」

葵は思わず吹き出した。

一旦はじまった笑いは止まらず、お腹が痛くなる。

「あ~おもしろ・・・」

しばらくして思い至る。

自分は学校に行かないことを決めたのではなかったか。

「ああ。そうだよね・・・」

学校には行かない。

こころの中で繰り返すと、気持ちが少し楽になる。

鼻から息を吸って、大きく吐く。

笑ったせいで、背筋とお腹の筋が痛い。

左右に傾けると、筋が伸びて気持ちが良かった。

葵はもっと体を動かしたくなったのでラジオ体操やってみた。

調子が上がってきたので、

母親が残していった洗い物を片付けて、フローリングの掃除をした。

「ふんふん、ふふふ~ん」

葵が口ずさんでいるのは、

ケイト・グッドダイバーという海外の女性シンガーが、

ひたすら愛を叫ぶ曲だった。

ケイトは貧しい地域の貧しい家で生まれたが、

幼い頃から持ち前の才能を発揮し14歳でデビュー。

その後は第一線で作曲活動をしている。

容姿端麗だが女性らしさというものに

自由度があることを訴えるため―—―

少なくともメディアはそう言っている―――

髪型はいつもベリーショートかスキンヘッドにしている。

歯に衣着せぬ言葉でテレビを騒がす破天荒ぶりや、

お金はあるはずなのに、

幼い頃に抜けてしまった八重歯をいつまでも治療しないという

妙なこだわりも、何もかも檻に閉じ込められたような

毎日を送っている葵には憧れそのものだった。

葵は彼女が作った曲が大好きで、

スマホに入れて毎日のように聞いている。

機嫌良く動き続けた結果、

気が付いたらいつもしている掃除と朝の準備を終えて、

制服に着替えていた。

「私ってば・・・制服はないでしょ」

習慣というのは恐ろしい。

リビングの椅子に腰かけて、初めてこの制服を

パンフレットで見た中学3年生の時を思い出す。

すぐこの制服を好きになった。

スカートの裾に白いラインが入っているところも、

リボンに捻りが入っているところも、

襟に付けられたラインが、角の所でくるりと円を描いているところも。

それが一年後に恐怖のシンボルになってしまうなんて、

当時は思いもよらなかった。

制服に罪はないのに、本当にもったいない。

本当は部屋着に着替えるのが面倒だったたけだが、

もったいないを言い訳にして、

葵はそのままの格好で過ごすことにした。

「よし」

葵は息を吐きながら言うと、気合を入れた。

今から学校に欠席の連絡を入れるのだ。

電話帳から学校の連絡先を出すと、葵は発信をタップした。

電話には誰か先生が出ると思っていたが、

聞いたこともない名前の人が出た。事務員の人かもしれない。

担任の先生の名前を伝えると、少しの間沈黙があってから、

まだ出勤してきていませんね、という返事があった。

葵は自分の名前を伝えると、高熱が出ているので、

数日は学校を休むことを説明した。

相手の人は声色を優しくして、

「わかりました。お大事にね」と言ってくれた。

腹の底に罪悪感が落ちてきたが、それもわずかな間だけだった。

通話を終え、よろよろと椅子に腰かけた葵は、

じんわりとした安心感に満たされていく。

「よかった。何とかなったー」

担任の先生に直接言うと、いろいろ聞かれるかもしれなかったので、

事務の人で良かったと思う。

今の時刻をメモして、明日も同じ時間に連絡を入れることに決める。

運が良ければ、またあの事務の人が出てくれるかもしれない。

これで一安心だ。

座ったままテレビの電源を入れた。

唐突においしそうなマリトッツォが画面いっぱいに映し出される。

「うわぁ~」

朝も早くから食レポ番組に当たったようだ。

葵はしばらくの間番組に魅入っていたが、

次々に紹介される食べ物を見ていると、

胃が重たくなってきたのでやめた。

部屋に匂いが入って来たわけでもないのに、

気持ち悪さを払しょくしたくて窓を開け放つ。

移動販売車が出すメロディーが聞こえてくる。

こんな時間まで家に居たことがないので、

近くに販売車が来ることを始めて知った。

学校に行かなくてもいいのか。

このままでいいのか。

将来はどうなるのだろうか。

焦りと不安が胸を刺してくる。

それは現実に何かが刺さったのかと思うくらいの痛みだった。

「いいんだ。死ぬよりマシだ。・・・死ぬよりマシだ」

体を抱え込み、呪文のように唱える。

呪文とは本来こういう役割なのかもしれない。

部屋に入ってくるそよ風に合わせてゆっくりと呼吸をしていると、

痛みが落ち着いてきた。

いつの間にか食レポ番組は終わり、ニュースが始まった。

ニュースでは月が二つ観測できたという内容を、

興奮したキャスターが説明していた。

もしかしたら、これはフェイクニュースを叩くための

ニュースなのではないかと、どうでも良いことを考える。

「最近は合成とかがすぐにできるからなぁ」

葵は目を細めた。

<これから世界は、過酷になっていきます>

フォルトゥーナの言葉が浮かんだ。

過酷になっていくというのは少子高齢化が進み、

税金は上がって人々の生活は困窮していくというような、

これからの日本に起こり得るような過酷さではない。

人を絶滅させてしまうような、とんでもないことが始まるのだ。

「なーんてね」

月について興奮した様子の学者が話している

平和な光景に、葵は気の抜けたため息を一つ出すと、

テーブルに突っ伏した。

それでもポケットの中に入れた

小袋を握りしめるのをやめられなかった。

夜になると、母親にバレないように、

リビングを片付けて制服を洗濯し、

いつも通り風呂に入った。

秋山が来る可能性もあったので、

用事を済ませた後は部屋で息を潜めた。

今日は母親の帰りが思わず早かった。

何か言われるのではないかと不安になったが、

母親はシャワーを浴びて着替えると、

出かけて行ってしまった。

また秋山のところだろう。

学校を休んだことがバレなくて良かったという気持ちと、

母親が自分のことに気付かない寂しさが同時にこみ上げてくる。

思わず部屋から出て、玄関を飛び出して母親の所へ走って行きたくなる。

ねぇお母さん、今日学校サボっちゃった。

そう言った葵に、母親は何て言うだろう。

怒るだろうか、叩くだろうか、それでもいい。

自分に対してくれているのだから。

一番辛いのは何も反応がないことだ。

でも、言えない、言えるわけがない。

胃が重くなって息も苦しくなってきたので、

物干しも満足に置けないくらいの小さなベランダに出た。

隅に体育座りをすると、昼間の温かさがお尻に伝わって来た。

少し楽になる。

葵はもっとたくさん息を吸うために、顎を上げた。

「あ」

空に月が2つ並んでいるのが見えた。

「本当に2つある」

あれはなんだろう。2つの月を結ぶ銀の帯のようなものが見える。

目を凝らしてみていると、それは星々の連なりだった。

まるでへその緒みたいだと葵は思った。

母親と子を繋ぐ絆。過去、母親と葵にも確かにあった繋がり。

並んでいる月を見ていると鼻の奥に痛みが走った。

葵は自分が泣いていることに気が付いた。

<それはあなたが、これから頑張って作るのよ>

月は葵が生まれるずっと前から独りだったが、今は違う。

「良かったね」と喉を震わせて言ってみる。

今は相棒ができた月がうらやましい。

自分にも、そんな人ができるだろうか。

拭っても抗うように流れ出てくる涙を、

面倒になってそのまま月を見続けた。



葵は4日前と同じように、母親が家を出た後、学校に電話をした。

しかしそれは、1日目よりも少し早い時間だった。

2日目にも電話に出てくれた事務員の羽生が、

そうするように言ってくれたのだ。

学校で担任と話をしたのかわからないが、

羽生は葵の立場を何となく理解しているようだった。

「赤井さんおはよう」

スマホの奥から、羽生の声が聞こえた。

羽生が出てくれると分かっていても、この瞬間は緊張する。

「おはようございます。羽生さん」

調子はどう、と羽生が聞いてきた。

あれから数日の間、大きな問題なく学校を休むことができている。

幸いなことに、母親にも知られていない。

羽生が葵のために何かしてくれているような気配もあったが、

詳細はわからない。

「調子はどう?」

「まだちょっと熱があって」

「大変ね」

羽生はきっと葵に熱がないことに気付いている。

根拠はないがなんとなくそんな気がした。

「ご飯は食べてるの?」

「はい。でも、今は柔らかいものしか食べられなくて―――」

家で単調な生活を繰り返す葵とは逆に、

ニュースでは新手の事件が報道されていた。

二駅離れたところに、突如大きな噴水のある公園が出現したらしい。

しかも同じようなものが世界各地に、同時出現したという。

テレビに映った噴水公園からは、フォルトゥーナとミーミルの気配があった。

他にも、都内を少し出た場所にあるアミューズメントパーク

『キラリーランド』が、

突如大きな森林になってしまったことも話題になっている。

日本を代表するアニメや物語をモチーフにした、

大人も子どもも楽しめる巨大施設が噴水公園の例と同じく一晩で消滅し、

敷地一面森林に生まれ変わってしまったのだ。

『キラリーランド』には葵も小さい頃、何度か行ったことがある。

当時ハマっていたアニメのコーナーからなかなか出ようとせず、

父親と母親を困らせたことを思い出す。

「元気になったら、赤井さんの好きなところに行くと良いよ」

それまで当たり障りのない会話しかしていなかった羽生が、

突然言ったので、葵は自分の考えていたことが分かったのかと驚いた。

そうだ。葵は森に変わってしまったキラリーランドに行ってみたい。

「は、羽生さん。どうして・・・」

葵が紡ごうとした言葉を、「あーほらっ」と羽生がさえぎった。

「元気になったらって話だからね」

羽生の方も少しまずいと思ったらしく、声がうわずっていた。

「それって・・・」

「ご、ごめんね。じゃあまたね。

担任の先生にはちゃんと言っておくから」

羽生は慌ただしく話を終えて電話を切った。

呆気にとられていた葵だったが、暗くなったスマホの画面には、

口角を上げた顔が映っていた。

学校関係者であれば休んでいる生徒には、

学校に来るように言うのが当たり前だ。

だが、羽生は好きなところへ行けと言った。

不思議な人だ。

葵はスマホでキラリ―ランドへ行く電車を調べた。

キラリ―ランドは、電車に乗って一時間の距離にある。

母親に知られない範囲で家を出たとしても、

一日の内に行って戻ってくることは不可能ではない。

葵は先日録画しておいた、キラリーランドの映像を見た。

「え・・・」

敷地内のほとんどが森になってしまったキラリ―ランドから、

目が離せなくなる。

「わ・・・・」

景色が回転する。

テレビ画面に吸いこまれそうになる。

葵は森の中心部から、自分を引き寄せようとする

不可視の力を感じた。

震える手でテレビ画面を消すと、弾かれたように葵の体が後ろに倒れた。

「うぎゃ」

テーブルの角に頭をぶつけた葵は、おそるおそるテレビ画面を見た。

「こ・・・こっわ」

今は何も感じない。

「呼んでいる・・・とか」

葵はキラリ―ランドに呼ばれている。

いや、あの森に呼ばれているのだ。

思いがした。

「どうしよう。学校にも行ってないのに、

キラリ―ランドに行くなんてダメだよね」

誰に聞かせるでもなく葵は言った。

外に出るということは、葵を知っている人に出会うリスクもある。

もしかしたら、平野やいじめグループの子達に会ってしまうかも、

そう思うと胃が締め付けられる

「みんな我慢して学校に行っているのに、

サボってる私が遊ぶなんていけないよね」

願望を抑えつけるための呪文を唱える。

「親切な人にも嘘ばっかり言って。

私には外に出る資格なんか・・・」

今自分が抑えつけようとしているのは、

何なのだろうか、何のためなのだろうか。

「お母さんにバレたら、大騒ぎになっちゃうし。

それに・・・それに」

このままでいいのか。

フォルトゥーナに一度は失った生を与えられたのに、

自分の気持ちを抑え込んで、またそうやって生きていくのか。

「もうっ!」とテーブルを叩いて立ち上がった葵は、

夕方にするはずだった片づけを終わらせてアパートを出た。


   ◇


電車内は、小さな子ども連れの母親や、

ご老人がちらほらいるだけで空いていた。

通学と通勤の時間を過ぎていたので、当然といえば当然なのだが、

葵にとってはありがたいことだった。

いつもとは逆の方向に進んでいるだけなのに、

電車に乗っていることがとても新鮮に感じる。

葵は今まで、周りの状況に合せて生きてきたように思う。

両親やすず、いじめてくる子達、学校の先生、

葵は自分にふりかかる全てのことを、

そういった周りの人達のせいにしていたのだ。

それはある意味、楽なことだった。

何もしなければ、責任は生じないからだ。

でも、今は違う。

学校を休んだのも、電車に乗ってキラリ―ランドに向かうのも、

何もかも自分の意志でやっていることだ。

葵が感じている新鮮さは、そんなところにあるのかもしれない。

『キラリ―ランド駅』に到着すると、電車の窓からは森の一部が見えた。

3階建てのビルに影を落とす木を見つけて、葵はため息をついた。

「樹齢何年行っているんだろう・・・」

ああそうだった、樹齢一晩だった。

一年に一度、前年の覇権アニメをモチーフにして作りかえられる、

キラリ―ランド名物の巨大ゲートがあった場所に葵はやって来た。

巨大ゲートはどこにも見当たらず、隆々と萌たつ木々だけがある。

もっと奥に行って様子を見たかったが、

平日だというのに、変わり果てたキラリーランドを

一目見ようと人だかりができていて、なかなかゲートまでは近づけない。

「すみません・・・すみません」

人ごみをかき分けてなんとか奥まで到着する。

キラリーランドの敷地には頑丈そうな柵がしてあり、

中には入れないようになっていた。

よく見ると、柵には一定の距離毎に進入禁止の張り紙がしてあるようだ。

仕方がないので、人だかりから離れて柵の外側を歩いて回ることにする。

少し歩いたところに、おそらく無許可でやっているだろう屋台があった。

ちゃっかりとキラリーランドにちなんでアニメのキャラクターのグッズや、

人気キャラクターのイメージカラーを使用したかき氷や、

アイスクリームなどを販売している。

屋台にはたくさんの人が並んでいたので、

葵は大きく遠回りをしながら歩く。

歩いていると、少し柵が低くなっている場所があった。

数人の人が中をのぞいている。

後ろの方から少し覗いてみたが、暗くてよく見えない。

「ん・・・?」

何かが動いたのが見えた。

追うように視線を動かすと、

銀色の筋が素早く通り過ぎていくのが見えた。

もっと回り込んでみよう。きっと何かが見つかるはずだ。

歩いていると、葵は人気の少ない奥まったところに入った。

大きな木が柵の上までせり出していて、辺りは少し暗くなっていた。

やがて葵は、潜れば中に入れそうな穴が

柵の下の方に開いているのを見つけた。

胃が重くなる。恐怖がこころを満たしていく。

それでも葵は何か見えない力に手を引かれるようにして、

穴を通り抜けた。

「は、はいっちゃった」

挿絵(By みてみん)

森の中は外から見た時は暗かったのに、中に入ると明るい。

引かれる感じが強くなってきて抗えず、

葵はそのまま中心部に向かって歩き始めた。

森の中は初めて来たはずなのに、既視感のようなものがあった。

「フォルトゥーナ様」

葵は額の汗を指で掬いながら、

世界中の誰にも聞こえないような声でつぶやいた。

女神の名前は口に出すと、魔法のように

恐怖心を拭ってくれた。

一際大きな木があったので触れつつ仰ぎ見た。

差し込んでくる木漏れ日、歩いている地面、触れている木々、

いたるところにフォルトゥーナの気配があった。

葵の足取りはいつの間に軽くなり、どんどん森の中を進んでいく。

額や背中にじっとりと汗をかき始めた頃、

奥の方で人の声がした。

感嘆、感心、感慨、などを含む様々な声だ。

数十人はいるらしいが、比較的若い声ばかりだ。

葵と同じところから入り込んだのだろうか。

フォルトゥーナの匂いのする森を夢中で歩いていた葵は、

何だか邪魔された気がした。

声の主達のいる場所を迂回するようして奥に向かう。

葵がちょうど集団の真横まで来た時、

唐突に女性の叫び声が聞こえた。

「あっちに何かいる!」

まずは数人の女性が悲鳴を上げた。それから男性の叫び声も後に続く。

「逃げろ!危ない!!」

たくさんの人達が口々に注意を促す言葉を言いながら、

葵が歩いてきた方向に走っていく。

木の陰に隠れて皆が走っていくのを見ていた時、

一人の男性が「ばけもの」と言ったのがはっきり聞こえた。

それなのに、葵の鼓動は平時よりも落ち着いていた。

むしろ、フォルトゥーナの匂いが次第に濃くなっていく森の奥から、

目が離せなくなる。

木々のあるところを抜けると、中心部に低い草だけの広場があった。

太陽の光が差し込んで、広場全体が照らされている。

一か所だけ光が強く反射して眩い場所があった。

それは小さな池だった。

葵は広場を見渡しながら、ゆっくりと池に向かって歩いた。

「きれいなところ・・・」

池の畔には腰かけるのに丁度良い石があったので、

座って休むことにした。

深く息をする。

空気がおいしいという表現があるが、まさにそれだった。

しばらくすると、葵は眠くなってきた。

草を布団代わりにして横になるのは、いつぶりだろうか。

小さな頃、父親と母親と一緒に行った郊外のキャンプ場が

最後だった気がする。

服を汚してしまったから母親は怒っていたが、父親は笑っていた。

最後には母親も笑って葵も笑ったから、みんな笑ったことになる。

喉の奥からこみ上げるものを抑えるために目を閉じ、

鮮明になってきた森の声を聞いた。

木々を避けながら、森の隅々まで行き届く風。

風に揺らされて擦れる葉。

仲間達と楽しそうに戯れる鳥の声。

その中に動物の足音があった。

静かでしなやかな足取りだったので、

今の葵でなければ気付かなかったかもしれない。

それが不意に跳び上がった。

葵は想像を絶する脚力を持った生き物を想像した。

管楽器のような音を立てて葵の傍らに着地したその生き物が、

小さく喉を鳴らした。

音は大型犬の威嚇音に似ていたが、それよりも数倍は迫力がある。

葵は瞼以外の体の動きを止めたまま、ゆっくりと目を開いた。

すぐ近くに白銀に輝く狼が立っていた。

狼は葵に一瞥くれると、欠伸一つと身震い一つをした。

揺れる毛先の一本一本が人間など足元にも及ばないほどの

気高さを湛えている。

そして、動物園のライオンなど一捻りしてしまいそうな程の

力強さがある。

狼が正面からこちらを見たので、葵は本能的に目を逸らした。

自分の心臓が爆発しそうなくらいに高鳴っている。

狼が顔を近づけてきた。

プレッシャーに堪えきれなくなった葵は、

危険だと分かっていながら少しずつ体を起こした。

極度の緊張で吐き気が始まったので、

ぐっと喉に力を入れてこらえる。

その様子が気に入らなかったのか、狼が少しだけ唇を剥いた。

あまりにも恐ろしくて、一竦みもできない。

今まで分泌したことのない類の冷たい汗が額から落ちて目に入った。

沁みて痛かったが、目を閉じることは出来ない。

狼が大きな息の塊と鼻から吐きだすと、葵の前髪が全部浮き上がった。

たくましい獣の匂いがした。

黒くてまっすぐな目とこちらの目が合う。

すぐにでも食い殺されるかもしれないという緊張と、

惹かれるような甘美さが両立した。

狼の目の端に苦痛が浮かんだ。

何か気がかりがあって苛立っているように見える。

葵は狼の視線を追うと、

ちょうど後ろ脚の付け根あたりに、狼のきれいな毛並みにそぐわない、

赤い腫瘍のようなものを見つけた。

少量だが血が流れていて痛々しい。

「痛そう・・・」と呟いた時、急に狼が轟と唸り声をあげた。

跳び上がるくらい驚いた胸を鼻先で突かれて息が詰まる。

間髪入れず、よろめいた葵の肩口を狼が噛みついた。

「!!」

悲鳴は出ない。

顎は大きく、前歯が葵の胸の中心まで届いていた。

狼が戯れにといった様子で首を振ると、

葵の足が宙に浮いて全体重が牙にかかった。

圧力は骨に及びゴリゴリと体の内側から聞こえてくる。

「や・・・やめて」

噛まれた側の手は、しびれて感覚がなくなった。

文字通り命を握られ、力を抜くことも入れることもできない。

狼は顎を持ち上げて何をするのかと思ったら、葵を地面に落とした。

柔らかい草の上にある身体は完全に死に体となっていて、

呼吸もまともにできない状態だった。

葵は何とか顔を動かして狼の方を見た。

狼は葵が歩いてきたのとは逆の方向をじっと見ている。

何かいる。小さな生き物の気配が2つ草の下に隠れている。

そこから2つ小さな石が飛んできた。

綺麗な放物線を描いた石は、狼の足元に落ちて転がった。

それを見て眉間にしわを寄せた狼は、

小さく咆哮すると、石が飛んできた場所めがけて走って行った。

「・・・」

九死に一生を得た葵は、狼が戻ってこないことを祈りながら、

必死に呼吸を続けた。

自分の意志以外で呼吸を止めるということが、

あんなに怖いことだとは思わなかった。

音を立てないように、身体に障らないように体を起こす。

背中も腰も、胸もひどく痛んだ。

肩をほんの少しだけ動かしてみると、

肩甲骨の辺りから小さなクリック音がして激痛が走った。

「い、い痛っつつ・・・・」

頭の芯に燃えるような熱があってめまいがする。

葵は時間をかけて立ち上がり、先程見つけた池の畔に膝をついた。

水がきれいなのを確認し、一掬いするとそれで頬を濡らしてみた。

熱が少し引いて、楽になったのを感じる。

「この水・・・」

葵は池の水をじっと見つめた。

「わぁっ」

池の中心には地表を動かすほどの生命力が秘められていた。

生命力はキラリ―ランドを覆う森林すべてに行き届き、

今もまだ広がろうとしている。

この池は言うなれば森の心臓なのだ。

池の水でハンカチを濡らして、今度は痛む首筋に当ててみる。

首にあったひどい痛みが霧のように消えた。

葵は上着を脱ぎ、軽く畳んで膝の上に置く。

肩口と胸を見ると、赤黒い歯型からは所々出血している。

引いてしまうほどの傷に頭が白んだので、

葵はいったん目を閉じて、森の心音に耳を澄ませた。

何度か深呼吸をして、頭を下げる。

「すみません。お水、いただきます」

葵は恭しい気持ちでハンカチを濡らした。

幾度か傷口を拭いていき、痛みがほとんどなくなった時だった。

後ろの方から草を分ける音がした。

「ひ」

狼が来たのかもしれない。

葵は素早く上着を手に取って駆けだした。

後方からは葵を追いかけてくる何かの気配がある。

指先が痺れるような不安が、胃の中のものをせり上げようともがいている。

「はぁ・・はぁ・・!」

恐怖心が足運びを荒くさせたためか。

葵は浮き上がった木の根に引っかかって盛大に転んだ。

「いだっ」

痛かったが土と草の上だったので、強く痛む場所はない。

両手を突いてすぐさま起き上がって走る。

走りに走って、葵は柵に空いた穴まで辿りついた。

いつの間にか、追ってきていた気配はなくなっていた。

「あ!」

ポケットに入れていた皮の小袋がなくなっている。

祈るような思いで上着をひっくり返してみたが、

どこにも見当たらなかった。

もしかしたら、転んだ時に落としたのかもしれない。

葵は戻ろうかと振り返ったが、

狼に噛まれたときの恐怖心が蘇ってきて、

どうしても足が前に進まなかった。

葵は奥歯を噛んで、その場にしゃがみ込んだ。


   ◇


帰り道も、家に帰ってからも、葵のこころはじっとして動かなかった。

フォルトゥーナにもらったリボンを落としてしまったことは、

葵の胸に黒い気持ちを落としてくる。

あのリボンはフォルトゥーナとの出会いが本当だった

ということを証明する唯一の証拠だった。

そんな大事なものを落とすなんて、

なんて自分は不甲斐ないのだろうか。

あっという間に時間は過ぎていき、

そろそろ母親が戻ってくる時間になった。

葵はのろのろとバスルームに向かった。

上着とキャミソールを脱いで、ああ、

これは洗濯しておかなくてはならなかったのにと思い出したあと、

ややあって鏡を見たとき、葵は雷に打たれたような衝撃を受けた。

「え」

曼荼羅模様というのだろうか―――

ネットでストレス解消に、曼荼羅の塗り絵をしたら良いという

広告を見ていたので葵は知っていた―――

それが葵の肩から胸の中心にかけて描かれている。


「ぎゃーーー!!!」


狼の歯型に合せるようにして連なるように刻まれている曼荼羅を、

葵は掌で擦った。

「とれろとれろ!!」

いくら擦っても曼荼羅は取れない。

おそるおそる後ろを向いて背中側も見てみたら、

そちらの方がむしろ広範囲に広がっていた。

「なんでなんでぇ・・・」

葵は泣きながら、垢すりに石鹸をいっぱい付けて、

たくさん擦ってみた。

皮膚が痛くなり、少し血がにじんできたが、曼荼羅の色は

さらにその奥に刻まれているように見えた。

鏡を見ながら、曼荼羅の表面を指でなぞってみる。

滑らかでひっかかりがない。

やはり完全に皮膚の下にある。

「どうしてどうして・・・」

もしかして、これはタトゥーかもしれない、と葵は思い至る。

昨日まで自分の体にはこんなものなかった。

一生このままなのだろうか。

タトゥーなんて入れた覚えなんてない。

プールとか体育とかの時はどうしたらいいのか。

訳がわからなくなって、葵は裸のまま硬直した。

気分が悪くなって浴室から出たら、リビングに母親の気配がした。

「っつ!!」

物音を立てないようにして、耳を澄ます。

どうやら秋山は一緒ではないようだ。

ひとまず安どした葵は、急いで体を拭く。

「葵。ただいま。いるの?」

声をかけられただけなのに、心臓が飛び出しそうになる。

葵が持っているパジャマは少し襟元が開いていたので、

念のためタオルをかけてからリビングに向かった。

「おかえり」

母親にタトゥーが見えていないか心配で、

何度もタオルを触りながら葵は言った。

見られたら、叩かれるどころじゃ済まない。

「葵」

鋭く呼ばれて葵は内心跳び上がった。

「なに?」

「これ要る?」

体を強張らせて近づいた葵に母親が差し出したのは、

100円の棒アイスだった。

チョコレート味。

「あんたそれ好きよね」

別に好きではない。一番安いから買っていただけのそれを、

母親の顔色を窺いながら食べる。

どうやら、今日は機嫌が良いみたい。

「ほら」

母親は少し笑って食べかけの味のアイスを一口くれた。

ストロベリー味。

口の中がストロベリーチョコ味になった。

「ありがと」

機嫌のよさそうな顔を見ていると、

本当のことを言いたくなる。

学校に行ってないの。いじめられているの。

数日前に一度死んでしまったの。

「・・・おいしいね」

「うん。安い割にはね」

母親の顔から出ている穏やかな笑みを奪いたくなくて、

葵は真実を言うのをやめた。

代わりに「今日は何かあったの」と訊いてみる。

母親は訊かれるのが好きだ。

「お母さん、今度旅行に行くから」

なぜ母親の機嫌が良いのか理解した葵は、

そっか、と内心落胆する。

母親の肩から、日焼けした画用紙色の蒸気が上がっている。

優しい色だな、と茫然と思ってから我に返る。

「ん?」

葵は母親の傍らに立ち、湯気に触れてみる。

少し暖かい。

なんでこんなものが、母親の体から上がっているのだろう。

母親に触れてみる。

母親の肩は葵の手よりも冷たくて、痩せていた。

湯気など出るはずがない。

でも、見える。はっきりと。

いつから葵はこんなものが見えるようになったのだろう。

自分は、化け物にでもなってしまったのかもしれない。

「葵。どうしたの」

怪訝そうな様子の母親に笑顔を向けて、

肩を揉んで誤魔化す。

「ううん。いつもお仕事お疲れさま」

「急に、どうしたのかしら、この子は」

母親はまんざらでもなさそうに目を閉じた。

目頭が熱くなる。

ごめんなさいお母さん、と口の中だけで言う。

「旅行、楽しんでね。アイスもありがと」

まだ何か言いたそうな母親を残し、葵は部屋に戻った。

学習机に突っ伏して、泣き声を潜める。

「ぐ・・・ぐぅ・・・うう」

涙が自然ととまるまで、時間がかかった。


   ◇


翌日。

鏡を使って自分の体に刻まれたタトゥーを静止画に収めると、

それをヒントにネットで曼荼羅模様を検索してみた。

いくら検索にかけてみても葵のものと一致するものはない。

それもそのはずで、体に刻まれた文字は、

時代を問わず世界中に存在するものとは異なっていた。

「てか、何語なの、これ」

何となく肩に鼻を近づけると、仄かに狼の匂いがする。

キラリ―ランドで出会った狼のことを思う。

狼にはフォルトゥーナと同じ銀の毛並み、

現実の生き物とは思えないような神々しさがあった。

もしかしたら、体に浮かんできたタトゥーは、

あの狼に噛まれたことで浮き出てきたのかもしれない。

「ていうか、それしかないよね」

でも、なんでそんなことになったのだろう。

「ふー」

いろいろ考え過ぎて疲れた。

タトゥーのことはひとまず置いておき、

テレビで紹介されていた噴水公園に行くことにする。

噴水公園も、キラリーランドと同じ、

吸いこまれるような感じがある。

葵は母親が朝アパートを出ていった後、

逸る気持ちを抑えながら玄関を出た。

外に出ることに逸ってしまうなんて、

ここ数日はなかったような気がする。

途中コンビニに寄り、昼食代としてもらっていたお金で朝ご飯を買った。

日曜日だったにも関わらず、学生らしき子達の姿が見える。

部活や塾かもしれないなと思う。

葵はクラスの子達に会ってしまうのではないかと不安になった。

前髪の隙間から左右を確認しながら歩く。

誰も彼も、葵を気に留める人などいない。

それなのに、呼吸も胃も苦しく痛くなる。

自分は正規のレールから振り落とされてしまった、

正確には、振り落とされた挙句に実際に轢かれてしまったのだけれど、

と自虐的に思った。

これからどうやって生きて行ったらいいのだろうか。

「わかんない。でももう、戻れないんだから」

葵は口の中にある極小の粒を吐き出すように言った。

駅から降りて、噴水公園までの道程をゆっくり歩く。

今日はいい天気だ。

空から降り注ぐ太陽光はまだ暑くて、頭皮がじりじりと焼けた。

スマホナビに従って歩いていくと、

人通りの少ないのんびりした雰囲気のある道に入った。

道の脇には、背の低い街路樹が並んでいる。

表面に付着している地衣類と葉っぱの形から、すぐに桜だと分かった。

葵は桜が好きだ。

春にはピンクの花がこの道を彩るのだろう。想像しながら歩く。

通りを抜けると、右手に大きな公園が見えた。

「こんなのあったんだ」

公園の周囲にも桜がたくさん植えてあり、

今は青々と葉を伸ばして気持ち良さそうに日光を浴びている。

入り口に入っていくと、ブランコ、鉄棒、シーソーがあった。

これは良くない、思った時にはもうそこから目が離せなくなっていた。

瞼を覆う膜が厚くなり、見ているものが夢か現かわからなくなる。

軋んだ胸の奥から、小さい頃の記憶が浮上してくる。

以前住んでいた団地には、小さな公園があった。

公園で遊べるような年になってから、

葵は毎週のように公園に行きたいとせがんだ。

今思えばとても手間だったと思うが、母親は3人分の弁当を作ってくれた。

父親は子ども用のボールやスコップなど、

葵が楽しめるようにいろんな準備してくれていた。

ブランコに乗った葵の背中を、飽きるまで父親が押してくれる。

母親を見ると、本から目を上げてこちらに手を振ってくれる。

「お母さん。お父さん」

2人の残像に手を振る。

瞬きをすると、目の前にはブランコだけがあった。

幼い頃に戻っていた葵は、唐突に17歳の葵に戻される。

ふらつきながらなんとかブランコに座る。

コンビニで買った板チョコの入ったデニッシュパンは、

きっともう食べられない。

葵はカフェラテを一口飲んだ。

歯に沁みるくらい甘い。

「・・・っふ・・」

目を伏せると、スカートの上に水滴が落ちた。


   ◇


まだ早朝なのに、連日やっていたニュースの影響か、

噴水公園にはたくさんの人がいた。

煙草の匂いや、化粧品の匂い、いろんな匂いが混ざっている中に、

懐かしい匂いがした。

葵の目が、公園の奥に虹と星々と白銀を捉えた。

噴水はそこに鎮座していた。

揺れる水面に太陽の光が反射して、泣き腫らした目が痛かった。

目を背けると、その先にはジャージを着た男の人がいた。

一見冷たい印象を与える切れ長の目。

その奥には戸惑いと恐怖と少しの温かさ。

触れたらひび割れそうな繊細さ。

「ああ・・・」

肩からにじみ出る色は、

曇天を切り裂く雷そのもの。

すごい人。

頬が紅潮してくるのを感じる。

ああ、この人だ、と葵は思った。

でも、怖い。

理性が少しずつ後ろに下がって踵を返す。

それなのに、身の内には半身を切り裂いてでも

前に出ようとする感情があった。

今まで、

運命という言葉は葵にとって諦めの言葉だった。

だが、それがひっくり返る。

切れ長の目と、葵の目が交差する。

一瞬、彼の目の奥に赤黒い渦巻きが見えた。

見ているだけで、目の表面がひどく乾いたみたいに痛くなる。

「う」

この人は、他の人とは明らかに違う。

一歩を踏み出した足が、痛いくらいに痺れていた。

身体全部が運命を前にして怖気づいているのだ。

もう一歩、もう一歩。ようやく目の前に来た。

あとは見ず知らずの目を惹かれてやまない、

目の前の男の人に声をかけるだけだ。

「あの」

死を経験しなかったら、きっとあのまま帰っていた。

この一言を出すか否かが生死を分けている、そんな声が出た。

住宅地にぽつりぽつりとある公園が好きです。

次話は、来週に更新いたします。

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