表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/135

14話 葵

14話です。

一気に書いたので、ちょっと長めです。

よろしくお願いいたします。

挿絵(By みてみん)

視力が下がってきた小学6年生の夏休み、

父親と母親が選んでくれた眼鏡を、葵はまだ使っている。

丈夫で長く使えるからと、大きな輪が2つ並んでいる

いかにも古めかしいデザインの眼鏡を選んだ父親は、

「いろいろ新しいのもあるけど、

逆にこういうのが良いよね」と言った。

フレームレスのお洒落れなものが欲しかった葵は、

助けを求めるように母親の方を向いた。

だが母親は父親の肩に優しく触れてきながら

「そうそう」と笑った。

葵はもう諦めるしかないと思って、

ため息交じりに頷いた。

頷く葵をみて、両親が顔を合わせて笑う。

見ているこちらが恥ずかしくなるくらい仲の良かった両親は、

葵が高校生1年生の時に離婚してしまった。

当時父親は頻繁に不貞をしていたようだった。

葵は母親から父親の愚痴を聞かされ続けた。

母親の愚痴は、時には葵の心臓を突き刺し、

時には退屈させた。

そうして散々しゃべりつくした後の母親は、

少しだけ機嫌が良くなった。

だからだろうか、2人の離婚が決まった時、

最初に感じたのは徒労だった。

人はそんな葵を冷たい子どもだと思うかもしれない。

小学生の頃の葵は、小鳥の友情を描いた物語を読んで、

涙するような子どもだった。

いじめられているスズメの家に、

たった一人の友人であるシジュウカラが、

他の誘いを断ってまで誕生日を祝いに向かったシーンは、

何度読んでも号泣したものだ。

シジュウカラのような友人ができるのを信じていた葵も、

母親から父親の愚痴を散々聞かされていくうちに

男の人はもちろん、周囲の大人に対しても、

こころから信頼することはなく、

どこか冷めた目で見るようになっていた。

たくさんのお金を使って、たくさんの人を集め、

永遠の愛を誓った両親も、やがて見せかけの関係になり

最終的に別れてしまったのだから、

子どもだった葵が、

何を信用したら良いのか分からなくなるなど、

当然のことだと思う。

葵と同じように、他人を信用することを

諦めてしまうような子は、他にもたくさんいた。

両親の離婚を経験した子なんて、今時珍しくもない。

他の同級生と葵の感覚が、特別異なっていたとは思わない。

にもかかわらず両親の離婚後、葵は見えないところで、

複数の女子から嫌がらせを受けるようになった。

きっかけはほんの些細なことだった。

両親が離婚したことで葵の苗字は、

母親の旧姓の『赤井』に変わった。

それで名前は『赤井 葵』になった。

平仮名読みにすると、あかいあおい。

ちょっとおかしな名前かもしれない。

だが、気にしない人にとっては、どうでもいいことだろう。

だが同級生達には、それが葵に嫌がらせをする

大義名分になった。

嫌がらせをしてくる同級生達を見て、

高校生にもなって、名前で人をいじめるなんて幼すぎる、

と葵は思った。

自分の名前は、自分でつけたわけではない。

母親の旧姓なんて、離婚があるまで知らなかった。

だからそんなことを理由にして、

俄雨のように突然降りかかってきた嫌がらせの理不尽さは、

とてつもなく大きかった。

最初の頃は「変な名前」とすれ違いざまに言われた。

顔を上げて相手と目が合っても、

戸惑うばかりで何も言い返せなかった。

それに、何を言い返したら正解なのか、

葵にはいくら考えてもわからない。

だからこころの中では傷ついて泣いていても、

言われたときは気にしないふりをして、

家に帰ったあとは独り布団の中で泣いた。

途中から、髪を引っ張られたり、後ろから蹴られたりと、

暴力を振るわれるようになった。

人の居ないところに呼び出され、

陰でやられるのはまだ良かった。

暴力を振るうのに慣れてきた同級生達は、

次第に人目を憚ることなく教室や廊下でやるようになってきた。

葵が一番辛かったのは、

いじめられている姿を人に見られることだった。

ああ、驚いた。

ああ、可哀想。

自分はああはなりたくない。

そんな視線を向けられる度、底辺まで落ちた自尊心が

ミキサーにかけられるような思いがした。

一般的な考えでは、暴力より持ち物を壊された方が

まだ楽だと思われるかもしれない。

だが、葵は逆だった。

芳しくない家の経済状況から、

教科書をどこかに捨てられたり、靴を捨てられたりするのは

暴力以上に辛いことだった。

土汚れで半分以上が茶色く染まった国語の教科書を、

先生に見つからないように、左手で隠しながら使い続けた。

学校でも、家庭でも辛いことが多かった。

だが、いいこともあった。

葵は小さい頃にシジュウカラとスズメの物語を

読んでから、本を読むのが好きになった。

本好きは高校に入っても継続し、

週に最低でも10冊は読んだ。

教科書を破り捨てられても、

暴力を受けても、押しピンが指に刺さっても、

図書館で本を選んでいる時や、

お気に入りの作家が書いた本を読んでいる時は、

孤独や辛さから逃げられた。

通っていた図書館に最近、井上伊都子という若い女性司書が就職した。

伊都子は図書館に足繁く通う葵に、いつも声をかけてくれた。

「また来たね」

「もう読んだの?」

「それ良いよね」

「最近は、これがオススメ」

前髪を短く切り揃えている伊都子はいつも明るく、

暗くて地味な葵に声をかけくれた。

それなのに葵は、憮然とした表情で、

「はぁ」とか「まぁ」とかしか返事ができなかった。

本当はもっと話したい。本のことをたくさん聞きたい。

伊都子の笑顔に、自分も笑顔で応じたい。

頭の中ではそう思っていても、固く閉ざされた扉に阻まれ、

葵は感情を外に出せなかった。

伊都子は無表情で俯き加減で、

めったに視線の合わない葵に対して、

絶えず笑顔を向けてくれていた。

嫌なことがあっても、葵が何とか立ち直れていたのは

きっと伊都子と本のおかげだった。


   ◇


葵には苗字が変わる前から、ずっと仲の良かった友人がいた。

同じクラスの女子で、名前はすずという。

元気な性格で、声が大きく言いたいことをはっきりと言う。

頭の回転が早く、葵の10倍は口が達者で、

先生すら言い負かしてしまうこともある。

綺麗な二重瞼と勝ち気な太めの眉、白くて透明感のある肌、

形の整った真っ直ぐな鼻、唇はいつもピンク色でしっとりしていた。

髪も染めていないし、ピアスも開けていないけれど、

173センチの高身長で、綺麗な容姿を持つすずは、

目立つ同級生達や先生達よりも立場が上で、

特に女子達の憧れの的だった。

もちろん男子にも絶大な人気がある。

葵は幾度となくすず目当てに

教室にやってくる男子を見てきた。

付き合う男子を絶えず変えていたすずは、

「いい男というか、良い人間がこの世には少ない」

とよく漏らしていた。

そんなすずと葵の友人関係は、

いじめが始まった後も維持していた。

見えないところで同級生達から、

仲良くするのを辞めるように言われているはずなのに、

すずは葵と話すのをやめなかった。

友達を続けてくれるシジュウカラのようなすずに、

葵はこころから感謝していた。

春を過ぎて、だんだん暑くなり始めた日だった。

その頃は、テストが近づいていることもあってか、

いじめは少し落ち着いて、

ちょっとした嫌がらせに留まっていた。

次は移動教室だったので、皆が行ってしまったのを確認してから、

葵は廊下に出た。

葵はぎょっとした。

数人の男子が口元を緩ませながら、

廊下の左右に分かれて立っている。

嫌悪感が湧き上がる。

葵には大嫌いな口の形がある。

底意地が悪くて、葵のような人なら、

どんな傷つけ方をしても良いと思っている人達がする口元。

捻じれて醜い腐臭のしそうな口。

葵を認めると、男子達はそれをさらに捻じ曲げた。

吐き気がする。

「来た来た」

愉快そうにしている声。

説明できない程、軽薄で歪な響きが耳に残る。

聞いた瞬間、胃がきゅっと縮まった。

男子達は葵に嫌がらせをするために、廊下で待っていたのだ。

女子のいじめがエスカレートするにしたがって、

今では男子も混ざって嫌がらせをしてくるようになっていた。

同じことをされたとしても、

同性にされるのと、異性にされるのとでは重みが違う。

男子は女子よりも圧倒的に力が強く、

抗う術がないため絶望感が大きい。

それに男子にいじめられるというのは、

葵へ脳を焦がすような羞恥心を与えてくるのだ。

きっと足を引っかけられて、転ばされてしまう。

転んだ時に、スカートが見えたらどうしよう。

そう思うと、胃に針を刺したような痛みが走った。

男子達の間を通るのは無理だと判断した葵は、

急いで後ろを振り向いた。

大きく迂回することになるが、

別の道で教室に向かうことにしたのだ。

だが、振り向いた側には、

いつも自分をいじめてくる女子達が立っていた。

胃から何かがこみ上げて来て、

吐き出してしまいそうになる。

「ふぅ・・・ふぅ」

なるべく胃に刺激を与えないように、浅く呼吸を繰り返す。

誰かに背中をつつかれた。

どきりとして振り返ると、すずが立っていた。

「邪魔なんだけど」

すずに言われて、葵が脇に避ける。

まったく着飾っていないのに、化粧品のCMに

出ていた女優のような優雅さで、すずが廊下に出た。

左右に男子と女子がいるのを確認すると、

すずは得心が至ったように頷く。

男子も女子も、すずを見ると先程とは違う、

照れたような表情を浮かべる。

いじめの始まりそうな空気が、

すずの威光によってかき消されてしまった。

葵はすずの後ろに下僕のようについて行き、

難を逃れることができるのだ。

すずは気まぐれにこうやって声をかけてくれる。

それは想像以上に、いじめの抑止力になっていた。

すずは同級生達の前で振り返り、

葵の顔をじっと見た。

「目ヤニ。きもいよ」

「えっ。え」

葵は思わず袖で目を擦ろうとすると、

すずが素早くその手を掴んだ。

「ねぇ汚い。なんで袖なんかで擦るの?」

すずがそのまま葵を引っ張り、

トイレまで連れて行ってくれる。

言われるままに、

トイレの鏡を見ながら目についた汚れを取っていると、

隣で手を洗っているすずが言った。

「あんたきもいよね」

葵が答えられずにいると、綺麗な人形のような

すずの顔が少しだけ歪んだ。

なんとか愛想笑いを返す。

すずが大きなため息をついた。

「ほんとにきもい。

てかさ、放課後、いつもどっか行ってる?」

すずが言っているのは、図書館のことだろう。

最近は毎日のように通っていたので、

たまに一緒に帰ることのあるすずに

気付かれていてもおかしくはない。

「え、えっと・・・」

しかし、図書館に通っていることは、

学校にいる人には秘密にしている。

秘密といっても、いじめが始まってからは、

すず以外葵に話しかけてくる人など居ないから、

秘密も何もないのだが。

それでも、いじめグループの誰かに気付かれたら、

わずかな息抜きの時間すら、

奪われてしまうかもしれない。

図書館に通っていることは、誰にも話す訳にはいかなかった。

「どこにも行ってない」

「嘘ばっかね。どいつもこいつも」

鋭い洞察力を持つすずが吐き捨てた。

まごまごしている葵はまたもや「きも」と言われてしまう。

やっぱり黙っているのは駄目だ。

すずと自分の友情を信じている、

だから正直に言おうと思った、その時だった。

先程廊下で男子と一緒に待ち伏せをしていた女子達が、

トイレの中に入ってきた。

話そうとしていた口を噤む。

いじめの主犯格の連中にだけは、死んでも知られたくない。

「お取込み中?」

いじめをしているグループのリーダーの平野が、

葵の方をじっと見ながらすずに尋ねる。

すずは声をかけてきた相手を一瞥するが、返事はしなかった。

無視された憤りを表に出す代わりに、

平野が鋭い視線をこちらに刺してくる。

視線に怯えながらすずの方を見る。

すずはすずで、まだ葵が質問の答えを言ってないとばかりに

こちらを凝視している。

2つの視線に串刺しにされた葵に逃げ場は無い。

「もしかして、彼氏でもできたの?」

口調まで波立ってはいないが、

すずの目は明らかに苛立っている。

「ないない」とリーダーの脇にいる子が言った。

まるで白人至上主義者が、

自分にアフリカ系の血は一切混じっていないと

主張した時のような、確信めいた言い方だった。

さらに険しくなった目つきを葵に向けたまま、

「ねぇ。あんた。あたしたちの話に入ってこないで」

とすずが静かに言う。

シンプルな言葉だが、内に多くの意味が込められている。

聞いた全員の顔から表情が消えた。

すずの両親は葵より3年早く離婚している。

言葉も感情も上手く出せなくなった葵と違い、

彼女は堂々と真上を向いて叫ぶように生きているように見える。

葵を含めた他の人とすずとでは格が違うのだ。

すずは、果汁たっぷりの怒りを上から押し潰したような声で続けた。

「なんで黙ってるの?あたしには言いたくないってこと?」

このままでは駄目だ。

もう、誰に聞かれていても良い。正直に言おう。

「すずちゃん。私っ・・・」

焦った葵は一歩、すずに向かって踏み出した。

これから起こることは、運が悪かったとしか言いようがない。

用を足そうと奥の個室に向かおうとしたいじめグループの子が、

葵の背中にぶつかってきたのだ。

葵の体は大きく押されるようにして、すずに正面衝突した。

「きゃっ」

ごん、と鈍い痛みが額に生じたと思ったら、

すずが後ろに倒れて盛大に尻餅をついた。

「ごめんっ」

葵は思わず額を押さえて、謝罪しながら手を差し出す。

そこに、誰かの吹き出す声が聞こえた。

「ぷ。くくっ」

振り向くと、

平野と取り巻き達が口を押さえて笑っているのが見えた。

背後ですずが素早く立ち上がる。

「あ、すずちゃん」

すずの真っ赤な顔を見て、葵は呼吸を止めた。

笑い声が止まり、静寂が訪れる。

時間も呼吸も、葵もすずも、周りの同級生も、

みんな止まってしまったかのようだった。

耳鳴りが始まる。

ひんやりした汗が額に溜まって零れ落ちそうだ。

内なる何かが警鐘を鳴らしている。

これから起こることの恐怖を、

葵は本能的に感じ取る。

千年も以前から、集団行動を余儀なくされてきた

日本という孤島に暮らしている人が

もっとも恐れているもの。

孤立だ。

これから、葵は孤立して、死ぬのだ。

「もうやだっ。汚いの大嫌い!!」

すずが叫ぶ。

耳から入って脳を突き刺し、中身を抉り出すような声は、

葵への死の宣告だった。

すずは洗面所まで駆け寄り、手を洗い始めた。

まだ頬を赤く染めたままのすずに声をかけようとしたが、

間に数人が割り込んでくる。

「もういいってさ」

「そもそも、今までがおかしかったのよね」

「このゴミとすずは今日で縁を切りまーす」

「すずちゃん。ごめん」

「うるさいでーす。ゴミは黙ってー」

「もうすずはあんたとは話さないから」

口々に言う女子達の言葉をすずは否定しない。

すずを見ると、目に涙を浮かべながら、まだ手を洗い続けている。

彼女を傷つけてしまった。

自分は本当にとんでもないことをしてしまった。

すずがトイレから出ていく。

平野が「すず、後でね」と言って、ひらひらと手を振る。

放心していると、「あんた終わったね」と誰かが言う。

本当にその通りだった。

葵とすずの友情は、冬の野外で吐く息のように、

宙に浮かんで地面に落ちる前に消えたのだ。


   ◇


母親の髪は、癖毛の葵と違って綺麗なストレートである。

また、鼻の低い葵と違って、目鼻立ちがしっかりしており、

色白でとても美人である。

物腰が柔らかく、「そうなのー」と語尾を伸ばすような

言い方をする温和な人だ。

それに、よく気付く人だった。

父親の体調管理に目を光らせており、滋養のある食事を準備し、

晴れの日は布団を日干しすることを欠かさなかった。

父親から聞いた話では、葵は夜泣きをすることがなかったそうだ。

なぜなら、赤ん坊だった葵が泣き始める予兆を感じて、

母親が前もって完璧なケアをしていたからだ。

葵が大きくなった後も、母親は控えめに言って

理想的な母を体現していたように思う。

思春期の娘の機微をよく捉え、干渉し過ぎず、

自由を尊重するようなサポートをしてくれた。

父親も葵も、母親が大好きだった。

最初に父親の不貞が発覚したのは、中学1年の時だった。

こんな母親を裏切って不貞を働くなんて、

どんな神経をしているのか葵には理解できない。

今まで家庭に存在した大切な何もかもが、奪い去られていく。

母親はそれでも耐え、

よき妻でよき母親であろうとし続けたように見えた。

父親の帰りが遅い日は、リビングの灯りを消さず、

いつでも食事を暖められるように待ち続けた。

結局その日は帰ってこなかったとしても、

それが予想できたとしても、決してやめなかった。

母親のストレスは大変なものだったと思う。

元々国家公務員でエリートだった母親は、

職場の同僚だった父親と結婚した後、

これからは家庭を守っていくと決心して主婦となった。

結婚さえしなければ、葵さえ生まなければ、

国に仕える立派な仕事を、

ここよりも広い世界で続けていたのかもしれない。

だが、今や母親の居場所は、

家の隅にあるキッチンだけだ。

母親はそこで小さくなって、静かに酒を飲むようになった。

やがて、酒を飲むことによって押し殺し続けた感情が、

母親の身体を突き破って外に出てくるようになる。

家の中は、母親のこころを体現したように荒れ果てた。

ゴミは放置され異臭を放ち始め、

カーテン、ソファ、布団、カーペットなど、

柔らかいものは全てハサミで八つ裂きになり、

食器類や陶器でできた花瓶、壺などは壁に叩きつけられて

バラバラに飛び散った。

それでも、父親は不貞をやめなかった。

葵は泣きながら、何度も荒らされたリビングを片付けた。

何とかして家族を元通りにしたかった。

しかし、葵が意見を言うと母親からは平手打ちをされ、

父親に相談すると、尚更家に近づかなくなった。

何をしても、もう手遅れだった。

やがて両親の離婚が決まる。

葵はボロボロになってしまった母親を見捨てることができず、

一緒に住むことに決めた。

母親はひどくやつれ、素行はおかしかったが、

以前の美しかった名残は十分にあり、

離婚後一か月で恋人ができた。

それが死ぬほど嫌だった。

母親が大切にしてきた父親への愛や、

自分への愛を偽りだったと認めてしまう行為だと思ったからだ。

だが葵は、母親が立ち直るきっかけになればと思い、

私情を押し殺す。

母親は家で酒を飲みながら、酔いつぶれるまでの間、

父親への恨みや、新しくできた恋人のことを話す。

葵は酒を注ぎながら、合間に家事をして、

また酒を注いでという生活を繰り返した。

葵が当初予想した通り、母親はすぐに恋人と別れた。

その夜、母親は鬼のような形相で部屋を荒らした。

葵は一晩中、母親がめちゃくちゃにした家財道具を整理し続けた。

辛い思いをしたばかりなのに、母親はそれでも

すぐに新しい相手を見つけてきた。

何度も何度も。

時には複数人の男と同時に付き合っていたようだった。

いじめがエスカレートしていき、すずに見捨てられた頃、

また母親に恋人ができた。

「なんていう名前なの?」

アルコール中毒製造機といわれる缶チューハイを

すでに5本開けて真っ赤になった母親は、

甘ったるい声で「秋山さんよ」と教えてくれた。

葵は飲み続けている母親の顔が赤から土器色に変わるのが

不安で仕方がない。

だから葵は母親の新しい恋人の苗字と、

自分の名前との相性を考えることで気を紛らわせた。

秋山葵か。赤井葵よりもマシかな。

秋山は住んでいるアパートに入り浸るようになった。

面倒くさいパターンだ。

付き合っている女の家に連れ子である若い娘が

いるにも関わらず、遠慮なく家に上がってくる男は、

例外なく屑ばかりだったというのは葵の経験則だ。

葵の部屋のドアを無遠慮に開ける秋山のことが、

こころの底から嫌いなるまでに時間はかからなかった。


   ◇


葵が好きだったのは、

いつも黙々と弓道の練習に励んでいる山﨑君だった。

山﨑君は今時珍しく頭を丸めており、

手入れをしていないので眉毛が繫がりそうになっている、

2つ離れたクラスの同級生だ。

山﨑君は、一定数いる不良の子達のように

息巻いているわけでもなく、

運動部の子達のように目立つわけでもないが、

黙々と部活動に取り組む姿は、

わき目を振らない求道者のようで格好良く、

ひそかに葵は憧れていた。

黙々と自分のやるべきことに集中している人というのは、

たくさんいるようで実は少ない。

ちなみに、葵の短い人生でそういう類の人に会ったのは、

山﨑君ただ一人だ。

夏休みが終わって数日が過ぎたある日の放課後、

教室の掃除当番を、同級生達に押し付けられた。

ホームルームが終わってから15分後に、

担任の先生が終わったか確認に来ることになっている。

係の子達はどこかに行ってしまったので、

15分の間に、1人でなんとか掃除を終わらせなくてはいけない。

言いつけられるのが少し遅かったので、

残り時間は9分前にまで迫っていた。

朝から胸が苦しくて、胃の辺りがじくじくと痛んでいたので、

今日だけは早く帰りたかったのに。

葵は大急ぎでみんなの机を動かし始めた。

掃除の時間になっているのに、机に突っ伏したままの生徒がいる。

すずだ。

以前なら声をかけることもできただろう。

もしかしたら、気まぐれに手伝ってくれたかもしれない。

だが、今はそれを望むべくもない。

これでは掃除が進まない。どうしよう。

背中から、おかしくなったみたいに汗が流れてきた。

胃が実際にぎりぎりと悲鳴を上げているのが聞こえる。

そこに様子を見に来た見張り役の子が舌打ちをして、

「早くっ」と言ってきたので、心臓が破裂しそうになる。

焦りがピークに達した時、胃か絞られたみたいに動き回った。

「うっ!」

喉から上がってきた大量の内容物で、

瞬間的に口の中が満杯になる。

こんなところで吐いたら、学校中の笑いものだ。

絶対に吐き出す訳にはいかないと、

両手で無理矢理口を押さえつけた。

それでも、何度か胃が絞られるのが抑えられず、

唇のすき間から液体が漏れてきた。

葵は口を押さえたままトイレに駆け込む。

空いている個室に入ると、鍵をかけるのも、

便座を上げるのも忘れて吐いた。

「うっ・・・う・・・」

目の前が真っ赤になる。

ストレスが限界になると、人は血を吐く。

その時外で人の気配がした。見張り役の子が来たのだろうか。

葵はあわてて個室のドアを音が立たないように閉めた。

息を止めて吐くのをこらえる。

「ちょっと」

誰かに呼ばれる声がして、すぐに気配は出て行ってしまう。

すべて吐き出し終えると、痛みはあるが胃のむかつきが少し楽になる。

汚いトイレの床に座り込んで、便座に額をつけた。

荒い呼吸を整えていると、瞼の力が抜けて、

自分の目が遠くを映すような感覚になる。


私は、きっと死ぬ。


達観したような気分になり、

しばらく赤の奥にあるものを見つめ続ける。

しばらくして我に返った葵は声を上げた。

どれだけトイレで過ごしていたのかはわからない。

どうしよう。どうしよう。

念入りにトイレを掃除してから、

金臭い口をうがいして教室に走った。

教室には見張り番の子、クラスの違う山﨑君と、

担任の先生と、すずがいた。

「え」

掃除の進捗状況は、もう終盤にさしかかっている。

葵が教室に一歩入った場所で茫然としていると、

怒られるかと思ったのに、見張り役の子は笑顔まで浮かべて言った。

「ちょうどよかった。赤井さんも手伝って」

「は、はい」

これはどういうことだろう、思いながら葵は机を運んだ。

息を吸うと胃がひどく痛んだが、我慢できない程ではない。

内臓に刺激を与えないように、ゆっくりと動く。

放っておくと傾いていきそうな体に気を付けながら、

みんなの様子を観察する。

担任の先生はぶつぶつと文句を言いながらも、

掃除を手伝ってくれている。

時折、すずが先生に向かって笑顔で何かを言う。

聞いた先生は、美しいすずの笑顔に

まんざらでもない表情をする。

なぜか手伝ってくれている山﨑君は、

黒板消しを丁寧に掃除機にかけている。

すずが見張り役の子に、「高橋さんありがとう」と伝える。

高橋さんと呼ばれた子は「とんでもない。私なんか」

と両手を振り、顔すら赤らめて応じている。

葵は息を呑んだ。

見張り役である高橋さんの責任も、

そうじを押し付けられた葵の責任も、

掃除が終わっていないと気付いた先生の不満も何もかも、

すずがうまくまとめて解決したのだ。

でもなぜ。

掃除を終えるとすぐに、

見張り役の高橋さんと山﨑君にお礼を伝える。

山﨑君と話したのは初めてだったので、

首の下から熱が上がってきた。

「や、山﨑くん。なんで手伝ってくれたの?

クラス違うのに」

「ああ。先生に言われたんだ。僕のクラスはもう掃除終わってたから」

「そ、そっか。でも、ありがとう」

それを見て、「なんで赤井がお礼言ってんの?

お前も今日は掃除当番じゃないだろう」

と先生が怪訝そうに言う。

焦った葵は笑って誤魔化す。

先生はますます浮かない表情になっていく。

周りを見た葵は、すでにずずが教室から

出て行ってしまっていることに気付いた。

「すず」

みんなの視線を振り切るように、葵は鞄を持って教室を出る。

すずに、なぜ助けてくれたのかを訊きたい。

足音高く廊下に出た葵の前に、

立ち止まってこちらを見ているすずがいた。

「わ」

思わずぶつかりそうになる。

高い位置にあるすずの顔を見上げる。

すずの視線は氷のように冷たかった。

「すず」

小さな悲鳴が漏れて、一歩下がる。

また胃が痛くなって、胸の辺りを服の上から鷲掴みにすると、

氷の中に一瞬だけ動きが見えた。

「なに?」

すずの表情は氷そのものだが、声が苛立っている。

「あの・・・私っ」

すずが左手を持ち上げた。

葵は反射的に叩かれると思ってさらに一歩退いた。

蛇に睨まれた蛙みたいに、葵の足が怖気づいて震える。

すずはふっと息を吐いた。

表情は歪んでいたが、それが喜怒哀楽のどれを表すのか、

葵にはわからない。

かたまってしまった葵を置いて、すずは優雅に踵を返した。


   ◇


帰宅途中の葵はあまりに具合が悪くて、

何度も駅やバス停のベンチで休んだ。

途中で催してコンビニのトイレに駆け込んだが、

胃が痙攣して苦しいだけで吐き出すことはなかった。

意図せずであったとしても、葵はすずに救われ、

山﨑君と初めて言葉を交わすことが出来た。

最近では最良の日であったのに、なぜこんなに辛いのだろうか。

生きることが辛い。

消えてしまいたい。

満身創痍でアパートに戻ると、秋山がいた。

「おう」

「こ、こんにちは」

こころない挨拶を交わした時、葵は不穏な気配を感じていた。

秋山が無精ひげを触りながらじっと葵を見ている。

見ている先は、葵の足元だ。

秋山は一向に視線を逸らす様子はない。

明らかに異常な雰囲気に、足先から頭部に至るまで粟立つ。

いつもなら帰宅後すぐにシャワーを浴びるが、

すぐにタオルを取って逃げるように部屋に入る。

ドアを閉めると、恐怖で肩と膝が震えていた。

「っ・・・こわい」

葵は自らの肩を抱いたまま、しばらく部屋の外に聞き耳を立てる。

秋山はテレビの音に反応して笑ったり、あくびをしたりしているようだ。

なかなか気が抜けなかった葵だったが、

部屋が静かになるとようやく息を抜くことができた。

冷たい汗を拭うために制服を脱ぐ。

突然ノックもせずに、秋山が部屋に入ってきた。

「や」

相手に見えないように、すぐに背中を向ける。

「・・・」

なぜか秋山は、着替え中の葵を見ても出ていかなかった。

「ちょっと。着替えてるんで、

出て、いって・・・下さい」

怒りと、羞恥心と、耐えられないほどの嫌悪感が葵を満たす。

信じられないことに、秋山が進み出て手を掴んできた。

「あ」

あまりの出来事に悲鳴すら出なかった。

掴まれた手から、血管や神経を通って、

全身に毒が回ってくるような気がする。

「やめて!!」

ようやく葵は悲鳴を上げたが、秋山は構わず掴んだ腕を持ち上げる。

怯えた瞳に映った男が浮かべる笑顔の、なんと醜悪なことか。

大嫌いな口の形。

何も見たくない。何も聞きたくない。

葵は感情を遮断しようと、息を止めて目を閉じた。

秋山はなぜかそれが合図になったみたいに、葵の体を触り始めた。

「ふ・・・う・・・うぐ」

そういえば、嫌なことがあっても、辛いことがあっても。

いつも飲み込んで生きてきた。

「う」

葵は口の中に上がって来たものを、喉を鳴らして飲み込む。

後ろに倒されたとき、玄関のドアが開く音がした。

母親だ。

さすがに母親にばれるのはまずいと思ったのだろう。

秋山が慌てている。

「服を着ろ」と秋山に言われ、必死に衣服を整える。

葵も、母親にだけはこのことを知られたくない。

先に部屋を出た秋山の後ろに続く。

人の脳は、左右でちょうど半分に分かれているらしい。

葵の脳が半分は死にながら、

半分で母親に優しく「おかえり」と伝える。

「2人でどうしたの?」

母親が怪訝な顔をする。葵はあわてて嘘をついた。

「秋山さんに、お小遣いもらっちゃった。アイス買って来るね」

葵の話を聞いた母親が、「すみません」と秋山に頭を下げた。

「いやいや」とゲス野郎が大嫌いな口を歪める。

お母さん、そんなやつに頭なんて下げないで。

本当に申し訳なさそうにしている母親の頬が疲れ切っていて、

10歳年増に見えた。

あんなに美しかった母親が、

なんで秋山のような男につかまったのだろう。

自分は、なんでこんなことになってしまったのだろう。

玄関の戸を閉めるのが、ひどくゆっくりと感じられた。

葵は走り出した。

「うう・・・うぅ」

だんだん息が苦しくなってきて、このまま

心臓が止まればいいと思った。

「うああ・・・あああん」

ついに足が止まる。

秋山の唾液がついた首筋を袖で拭いた。

気持ち悪いのに、いくら拭いても不快感は取り除けない。

「う・・・ぐぐ・・・・ああああん」

近所のコンビニ、明るい、標識がクルクル回っている。

信号、走る、明るい、暗い道。

自分の周りで起きていることが目まぐるしく感じて、

上手く説明できない。

足の裏に何かが刺さっている。

「あ・・・」

靴を履いて来るのを忘れていたのだ。

靴を履いていないのに気付けば、

母親がおかしいと思うかもしれない。

だが、どうしてもアパートに戻りたくなかった。

そのまま静かな通りを歩く。

耳には、自分の呼吸音だけが響いている。

このまま呼吸が苦しくなって、どんどんどんどん苦しくなって、

死んでしまったら良いのに。

このまま、葵の体が萎れて、消えてしまえばいいのに。

葵はアパートに戻り、履いていない靴を脱ぐ真似をしてから、

リビングに入った。

「アイスは?」と何気なく聞いた母親の言葉に、

「食べちゃった」と生き残った脳の半分で応じる。

「この子は本当に自分勝手で・・・」

母親が笑いながら秋山の肩にしなだれかかる。。

結局誰も、葵の穴の開いた靴下にも、

傷ついた足の裏にも気付かない。

そんなものだ。自分の存在なんて。

また明日から、いつもと変わらない生活が続く。


   ◇


抵抗は一切しなかった。

天地がひっくり返るような衝撃とともに、葵は落ちて沈んでいった。

夏の終わりのプールは少し冷たく、少し緑色に濁っていた。

いじめグループ子達が盛り上がっているのが、

水中にいてもわかった。

このまま沈んでいたい。

しかし、すぐに立ち上がって苦しい顏か困った顔を見せないと、

みんなは満足しないだろう。

どんな顔で上がればいいか考えながら、水面から顔を出す。

葵を見て、みんながまるで青春の1ページのように笑った。

自分は今、どんな顔をしているのだろう。

そんなにおかしい顔をしているのだろうか。

中途半端に開いたままの手を、

葵は水中でそのまま手放そうとした。

「そんなに・・・」

みすぼらしいか。

おもしろいか。

みっともないか。

そこへ「どうしたのー?」という間の抜けた声が響いた。

葵にはそれが、山﨑君の声だとすぐに分かる。

反射的に顔を背ける。

何でこんなときに。

胃を丸々吐き出して雑巾にように絞ったら、

このくらい痛いだろうか。

粘り気のある澱のようなものが、体中にへばりついてくる。

その中で、俯いたまま身動きできない。

学校や家庭で溜まった鬱憤を向けてくる子は、

今や同じクラスに留まらない。

プールの脇に立っている、山崎君と同じ弓道部の男子もその一人だ。

フェンスに手をかけながら、山﨑君がその男子に声をかけている。

見ないで。見られたくない。

そう思っているのに、どうしても視線は山﨑君を追ってしまう。

目が合うのは、時間の問題だった。

葵を見つけると、彼は目を見開いた。

適度に焼けた肌が一気に青ざめていく。

他の子達は、山﨑君がどんな反応をするのか見逃さないよう、

葵が大嫌いな口の形をしたまま、静かに様子を見守っている。

「じゃ、じゃあ、俺部活あるから」

引き攣った笑顔でみんなにあいさつをしてから、

山﨑君は離れていく。

葵が少しだけ視線を向けた時、

タイミングよく、彼もこちらを見ていた。

その時の目が、辛かった。

トイレ掃除の当番になった思春期の男子高校生が、

汚れているのを発見した時のような、

そんな落胆した目つきだったから。

「・・・」

こころに沈黙が訪れる。


好きだった。尊敬していた。


そんな風に見られたら、とても耐えられない。

小さなサイレンのような唸り声を出しながら、葵は泣いた。

あーあ、泣いた。きも。やば。

でたーガチ泣き。

これ、泣いたら許されると思ってるやつじゃん。

葵を見下ろして、雀の鳴き声のように絶えない謗り。

次々に溢れる涙を拭いながら、

水面と一緒にゆらゆら揺れて、葵は思った。

今日だけはこんな想像しても良いだろう。

それは、他の誘いを断ってでも助けに来てくれる、

シジュウカラのような友達が、

自分を救い出してくれる想像だった。

当然のことだが、そんな奇跡は現実には起きない。

「つまんね。もう行こう」

いつまでも泣いている葵に白けたのか、

同級生の一人がいじめグループのリーダーである

平野が言った。

誰もいなくなったプールに、葵は一人取り残された。

ただ泣いただけなのに、身体は疲れ切っていて力が入らない。

プールサイドに上がろうとして、何度も失敗する。

どうにか上がると、葵は行き場のない幽鬼のごとく歩き始めた。

挿絵(By みてみん)

ずぶ濡れのまま駅のホームに立つ。

決めていた。

身体が冷えたことで身震いが生じた。

身震いは吐き気を誘ったが、胃に拳を押し当てて我慢する。

様子のおかしい葵に気付いた駅員が、

声をかけようとこちらに向かってくる。

今、掴まる訳にはいかない。

背を伸ばした葵は、今後大きな後悔を背負うだろう

駅員に向けて笑顔を見せる。

駅員が眉を寄せる。

葵はゆっくりとした手つきで顔を拭った。

駅員が頭を掻きながら離れていくのを見送ったとき、

葵はほんの少しだけ自分を誇らしく思った―――

けたたましいサイレンとともに、快速の電車が構内に入ってくる

―――が、我慢するはもう二度と嫌だった。

葵は、中学生の時に考えた人物です。

次の話も、すぐに更新いたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ