125話 月子
あとは、陽子の切っ先が下ろされるのを待つだけだ。
あきらめて力を抜くと、痛みが薄れたような気がした。
死を前にして安らぎを感じるなんて滑稽だが、
これが自分に与えられた最後の救いなのかもしれない。
月子は強いよ。
その声は確かに聞こえた。
いつも不機嫌で悩んでいて、それでいて頼りになる、
ロシア生まれの小さな男の子。
夢が覚めたように、腹の激痛が復活してくる。
わたしたち、『妹ちゃん守りたい同盟』だったよね。
気が付いたら、月子の身体は生きるためにあがいていた。
身体をねじって、地面に手のひらを叩きつける。
月子の動きを察して、陽子がすかさず蹴りを放ってきた。
「うっ」
顔面にまともに食らい、視界が真っ黒に塗りつぶされる。
だが月子の手は、返陽月の柄を固く握り締めていた。
「死ね」妹が刀を振り上げたのを感じる。
返陽月にはもう刀身が無い。
それでも腕を持ち上げて、どうにか受け止めようとする。
◇
両腕に渾身の力を込めた時、霞んだ視界の先に、
道着姿の祖父が立っているのが見えた。
祖父の姿で、一番多いのが道着だった。
祖父が怒っているような、困っているような顔をする。
「しっかりしなさい」
容赦ない言葉を聞いて、思わずため息をついた。
自分の幻想とはいえ、祖父は相変わらず手厳しい。
それが死に際の孫に言うことなの?
片腕じゃあ、陽子ちゃんの力を受け止めきれない。
刀は折れちゃったし。すごくお腹痛い。
月子は久しぶりに見る祖父へ、続けざまに言った。
祖父がわざとらしく咳払いをした。
「まぁ・・・そうだな」
彼はうっすらと笑っているように見えた。
え・・・。
祖父の首肯に唖然とした。
「まぁ。
月子は小さな頃から根が暗いというか、
言いたいことをはっきり言えない子どもだったしな」
回顧の表情で祖父が腕を組み、上を見上げた。
「いいじゃないか。
もう終わりなんだろう?」
う、うん。
そうよ。
祖父は声を上げて笑った。
「もうおしまいだ、と弱音を吐けるようになっただけ、
マシだということだな」
祖父の言に、月子はがっくりと肩を落とした。
マシになったのって、そこだけなの?
祖父が満足そうに頷いた。
「友達に感謝するんだな」
元気な声で話してくれた、大きな輪っか眼鏡の女の子を思い出す。
「力も弱かった。
陽子の半分あればいいくらいだった」
はいはい。どーせ私は。
「自信がなくて、子ども達の指導をさせようとしても、
なかなかやらなかった」
そうだったね。
月子は過去を懐かしむように、一度目を閉じた。
幾度も泣き、乾いた頬にまた一筋が伝った。
「それに、今のおまえは片腕だ。
確かに、力では陽子に勝てないだろう」
そう。
戦う前から、勝負は決まっていたのかも。
「優しい気概のお前は、
そもそも剣術には向いていなかったのかもしれない」
・・・。
ため息交じりの言葉が、なぜか胸に刺さってくる。
なぜ自分は、いまさら傷つくのだろうか。
「だが」
陽子の脇を通り過ぎて、祖父がこちらに近づいた。
「お前は毎日素振りをかかさなかった。
高熱を出した日ですら、道場へ向かった」
月子は驚きのあまり目を開いた。
「偶然、見たんだよ」
高熱が出た日、確かに月子は道場で素振りをしたことがある。
剣の伴わない自分に、一切の価値が無いような気がしたからだ。
だが、どんなに努力をしても陽子には敵わなかった。
小さな頃から妹との力の差を、嫌という程見せつけられてきた。
家族はみんな、美しく輝かしい陽子に注目していた。
祖父はそんな時も、月子を見てくれていたのかもしれない。
柄だけになった刀を見た。
刀身が水によって、みるみる形成されていく。
「確かに、眩しさは太陽にはかなわないよな」
祖父が言った。
「だが、水面にうつった月は、どれだけ荒らされようとも、
再び本来の姿に戻るものだ」
◇
火の太刀と水の刀がぶつかると、
焦げるような、穿つような小気味よい音が耳を震わせた。
凄まじい蒸発が反発力を生み、刃同士が弾かれる。
「ぐっ!」
陽子が顔を引き攣らせながら退いた。
生じた隙に乗じて柄を放し、手を地面につける。
そこを支点にして身を支えて、下を蹴って素早く起き上がった。
柄から水が迸り、月子の目線の高さまで飛び上がった。
姉妹の名が刻まれた刀を握ると、鞘と柄を再会させる。
鞘の中で水の圧力を増す。
戦えと返陽月が叫んでいるように感じる。
噴出する勢いのまま、陽子の顔に柄を叩きこんだ。
「ぐがっ」不意をつかれた陽子は頬から血を流して後ろに倒れた。
起こした顔は強い打撃を受けたショックで青ざめていた。
いまこそ、攻勢に出る時だ。
月子は全身を奮い立たせて一歩前進する。
その瞬間、喉の奥から熱いものがこみ上げてきた。
唇を窄ませたが間に合わず、月子は地面に向けてがふがふと吐血する。
すばやく立ち上がった陽子が、まっすぐ打ち下ろしてきた。
痺れた指先では受けきれない。
下がって躱すが、直後に逆袈裟がくる。
彼女の太刀筋は非常に鋭く、躱せたのは運が良かった。
居合の構えを作りながら1歩下がったら、
数時間走り込んだみたいに足が痙攣した。
「ふーっ! ふーー! ふがぁーーー!!」
空気を血とともに肺に送り込む。
素振りを欠かさなかったのは、身体を折らずにいるため。
長い沈黙を破り、話せるようになったのは、陽子に伝えるため。
その矜持が、命を燃やす。
月子は前へ出た。
こちらは重症で、放っておいても勝手に死ぬ。
だから、前へ出るしかないのだ。
しかし、陽子の方こそ苛烈に攻めてきた。
「・・・!!」
そういえば、剣道の試合でいくら有利な場面になったときでも、
彼女は時間切れを待つようなことはしなかった。
月子はそんな陽子を尊敬していた。
いくら変わってしまっても、剣は彼女の中に生きている。
白炎は水の刀を蒸発させてしまうので、受け続けるのは難しい。
だから躱すことに専念した。専念したとて必死の連続だ。
首のすぐそばを太刀が通り過ぎ、皮膚が焼けた。
陽子がこちらの呼吸を読んで、一瞬だけ動きを止めた。
虚を突かれてすぐに離れようとしたが、それも読まれた。
月子が下がる足に合わせて、陽子が踏み込む。
下がっても、下がっても踏み込まれ続けた。
月子は内腿を膝で蹴られて、バランスを崩す。
「おかえしだ」
太刀を包んだ炎が一層大きくなり、首めがけて落ちてくる。
月子は返陽月から水流を作り出し、
その流れでもって陽子の太刀を受け流した。
蒸気をくぐってきた陽子に袖を掴まれた。
絡まれてしまったら、力のない負けが確定する。
すぐさま手首を回転させて逃れるが、その手は偽りの仕掛けだった。
動きの中に隠された膝蹴りが、月子の下腹に突き刺さる。
「う」
とっさに衝撃を逃がしたが、傷ついた内臓は堪えられなかった。
凄まじい痛みは月子の血流を滞らせ、痺れさせ、全身に圧力をかけた。
耳の奥が破裂したみたいに、音が消えて前後不覚に陥る。
頭に、はっきりと死の文字が浮かんだ。
だが。
「っ!!」
のたうち回る痛みを地に叩きつけ、月子は前を向いた。
それがどれだけ強靭なことか、凄まじいことか陽子は感じたようだった。
妹は正眼に構えたまま、
「月姉ぇ顔色やばいよ死ぬんじゃない?」
軽口を言ったが、表情には微塵の油断もない。
痛みに肩を痙攣させながら、月子は血みどろの笑みで応じた。
「まだ・・・元気」
死んでもいい。今だけは充実させてくれ。
濡れた服から、大気中の水分から、川から、
たくさんの水が返陽月に集まってくる。
「言いたいことが・・・あるんだ」
水を極限まで凝縮させた刀身を鞘に納める。
河原の大きな石の芯を正確に踏み抜いて、
妹が間合いを詰めてきた。
しかし、必殺の間合いに入っても彼女は何もしなかった。
一瞬の空白。
陽子は先手を取りながらも、こちらの動きを見ていた。
この場面で、真剣同士の戦いで、後の先を取ろうとしたのだ。
天賦の才を目の当たりにした月子は一歩も動けなかった。
しかし、これが幸いする。
もし、少しでも動いていたなら初動に反応されて斬られていただろうが、
2人の間には間合いを詰める以外のことは起こらなかった。
その後、密着する。
八相のまま陽子が肩をぶつけて来た。体が少し後ろに流れた。
内臓が傷ついているので、少しの衝撃があっても激痛がくる。
「なんで動かないの?」
陽子の表情からは、何が起こったとしても対応して見せる、
という気概を感じた。
頼もしくなって月子は笑う。最高に幸せだった。
月子が肩を押し返すと、陽子が歯茎を見せた。
「なんで笑えるの?」
押し返したことで生じたわずかな空間に、
月子は返陽月の切っ先を滑り込ませる。
そこに陽子が太刀を立てて待ち受けた。擦れるように刃がぶつかり合う。
刀身が跳ね返ってくる可能性があるため、やや右に眉間を寄せる。
刀身に映った陽子の目。そこに血飛沫がかかった。
刃を押し返されると、右足で相手の足を払いながら半歩回り込む。
そうすることで、陽子の脇が見えた。
陽子の側頭部めがけて、思いきり頭突きを放つ。
額のやや上が、陽子の頬にぶつかった。
身体がよろめいたところに、月子の横一文字が走った。
「でぇりぃいやあぁぁーー!!」
撫で斬りで血風が舞い、負傷した陽子が下がる。
月子は血の混じった刀身を睨みつけた後、
疲労しきった利き腕をだらりと下げた。
「・・・はぁっ・・・はぁ・・・っ。
陽子ちゃん・・・あんたばっかりって言ったよね」
傷口を押さえた妹が激昂する。
「ああそうだよ!!
月姉ぇばっかり教えてもらって特別扱いされてただろ!!」
目を血走らせ、噛みつかんとした勢いだった。
「ちがう!」
月子は喉から悲痛な声を絞り出した。
「陽子ちゃんは何もわかってないっ!」
命を吐き出すような声に、陽子が一瞬気圧されたような顔をした。
「私は、弱かった・・・!!
卑屈で暗い自分が大嫌いだった!
でも、陽子ちゃんがすごかったから、救われたんだ・・・。
陽子ちゃんが帰ってくるまで、あなたが家を継ぐ日まで、
待っていられたらよかったんだ!!」
陽子が太刀を地面に叩きつけると、火花が生まれて火炎が出流る。
「ウソだ!!」
「嘘じゃない!!」
月子と陽子の叫びはぶつかって爆発する。
上から陽子の血が振りかかってきた。
「私は、ずっと、陽子ちゃんが道場を継ぐって・・・っ!」
触れた熱い血が、瞬時に蒸発する。
「今更ぁぁぁああああああああ!」
次は下から来る。
剣道にはない、剣術のみに残された手筋を、身体を反らして躱した。
あまりにもぎりぎりだったので、顎を割られたかと思った。
「強いのは陽子ちゃんの方。
私はただ繰り返しただけ」
次を言うために、息を吸った。
息が続かないのが悔しくて仕方がない。
「月姉がすごいから私は剣道に行ったんだ!!
おじいちゃんにも言われたんだ!」
痛烈な言葉だった。
陽子が左右から来る。
白炎に紛れて、どちらが本物かわからない。
思わず両方を斬ったが、それらすら本物ではなかった。
次の動きは賭けだった。
腕を胸元まで持ち上げて、虚空に向かって叫ぶ。
「あなたがそう思ったとしても!!」
やみくもに返陽月を突き出すと、
陽子の横一文字に噛みあうようにして、刀同士がぶつかり合う。
まさに九死に一生だった。
陽子がぱたぱたと多量の血を石の上に落とし、出足を止めた。
「私なら、誰も傷つかなかった」
陽子が怒りに頬を染めた。
首筋から額まで真っ赤にして、金切り声を出す。
「そうやって自分を下げて傷ついたふりをして
あたしが無様にもがいている横から持っていく
むかつくんだよっこの性悪女!」
前進を止めるために突き出された切っ先を払って、
月子は狂ったように斬り込んだ。
「私は、何も得てないんだよ。
陽子ちゃんを失ったんだから」
幾度も斬撃を繰り出した。喉が焼けるように熱い。
勢いのまま鍔迫り合いに持ち込むが、非力な月子はやはり押し返される。
視界が滲む。雨が降り始めたのかもしれない。
水が手足に絡んできて、追い風のように体を動かす。
流れに沿うと、月子は更なる力を得ることができた。
「陽子ちゃんがすごいから、生きてこられた。
あなたを見ながら、生きるのがすごく楽しかった」
陽子の全部が濡れている。彼女も泣いているのだろうか。
「あの時、見せかけの愛情とか、言葉とか、言えなかった」
鍔迫り合いは五分になる。
「でも、言えばよかったんだ。ずっとそばにいるって。
たとえ噛みつかれても、
陽子ちゃんのそばにいたいって・・・」
◇
竹刀と違い、重さのある刀は、シャープに扱うのが難しい。
だが、陽子は剣道と剣術を見事に融合させ、
隙の無い素早い攻撃を可能にしていた。
大小あれ、剣の軌道はいつも弧を描く。
陽子の太刀は、小さな弧をいくつも作り出し、
春の花のように、月子の周りで咲き乱れた。
月子の剣は湖面に生じた波紋のように、
最初は小さく、徐々に大きくなって、春の花と交わった。
花に触れた波紋は、火花と霧を生じさせて、
雲から覗く太陽の光を歪ませた。
夢のような、美しい光景だった。
これが私のしたかったこと。
姉妹でやりたかった夢。
炎と、水。
交わらないなんて、誰が決めたのだろう。
だってこんなに綺麗なのに。
月子は、柄を握る陽子の手が燃えているのを見た。
指先が炭のように黒く染まっている。
よく見ると、首筋も肘も、太ももも、黒く滲んでいる。
月子の右手も、いつ千切れてもおかしくないくらい、
軋んだ音をさせていた。
蜘蛛の糸を渡るような均衡を、月子と陽子はひたすら続ける。
誘うと懐に入ってきた、素直な陽子。
長くは続かぬ夢を前に、月子は思わず微笑む。
陽子は水の刀を上から叩きつけて切断し、空中で蒸発させる。
その衝撃で柄から手が離れてしまった。
陽子はもう一歩踏み出すと、体重をかけたものを振り下ろしてくる。
月子は無心で懐に手を滑り込ませた。
指先に、返陽月の切っ先が触れる。
一度は折られた刃を、もう一度ぐっと握り締めた。
「あ」と「う」から始まる叫びがぶつかり合って渦を巻く。
刃が交差し、悲鳴が上がった。
どちらの悲鳴なのか、すぐには分からなかった。
◇
月子は目を開いた。
腹の痛みに耐えながら身体を起こす。
「月、おね、ちゃん・・・」
長い旅をしてきた少女の、疲れ果てた声が聞こえた。
その胸には、返陽月の刃が深々と刺さっている。
「よかっ・・・た。起きて、くれて」
「ま、まって・・・」
月子は渾身の力で起き上がり、
炭のように黒く染まった陽子の手を取った。
他の部位も体の中心に向かって、徐々に黒く染まっていく。
「陽子ちゃん、そんなっ」
「さいしょっか、ら・・・わかってた
でも、おねぇ、ちゃんに・・・勝ちたかった・・・から」
月子の涙が陽子の頬に当たって蒸発する。
「ごめんね」陽子の頬が深く割れた。
天に向かって、陽子は何も悪くない、と叫ぶ。
「そうやって、すぐ甘やかす」妹がひび割れた笑みを浮かべる。
その瞬間、強くて明るくて大好きだった妹が目の前に現れた。
ずっと会いたかった彼女が遠くの空を見た。
「い、今思えばさ・・・」
まるで月子と陽子のいる場所だけ照らすように、
雲の切れ間から光が落ちてくる。
「おじい、ちゃんが、何を言ってもさ、
2人で、道場・・・継げばよかったよね」
内緒話みたいに陽子が言った。
「確かにそうだね」泣きながら月子は笑った。
「私・・・は、全国・・・優勝して、箔がついたし。
剣術と護身術は、月おねぇちゃん、ができるし」
陽子の体のあちこちが、灰になって風に流されていく。
「うん」
「ふふ。月おねぇ、ちゃん、すごく綺麗だから。
多分、売れっ子、道場になったと・・・思うんだよねぇ」
「陽子ちゃんの方が、人気あるよ。
剣道通信の表紙、何度も載ってたし」
「・・・そう、だね」
素直に認めたのが面白くて、月子は吹き出した。
満足そうに笑った陽子の目に小さな亀裂が入って、やがて黒ずんでいく。
「おねぇちゃん・・・」
陽子が月子に手を伸ばす。頬に触れた手は熱かった。
月子も手の甲で彼女に触れた。きっと彼女には冷たかっただろう。
笑みが収まると、陽子はひどく怯えたような顔になった。
「ね、ねぇ・・・。お、おねぇちゃん。
私、どうして、こんなこと・・・」
すべてをかけて笑った。
月子は陽子の姉でいると決めたのだ。
「大したことない。
陽子ちゃんのいたずらってば、ぜんぜん大したことない」
笑顔でもって陽子の背景全てを吹き飛ばす。
「月姉ぇ・・・大好き」
「私も大好き。もう絶対に離さない」
名前を呼び合いながら2人は抱き合った。
そして、姉妹の戦いが終わった。
月子の戦いが終わりました。
ありがとうございました。




