13話 結希
13話目です。
よろしくお願いいたします。
結希は半ば放心したように街を歩いていた。
帰路につく気にはならなかった。
ただ、呆然と歩きながら、これまでの人生であった様々なこと、
最近あったいろいろなことに思いを巡らせていた。
車のライトがまぶしくて目を背けると、その先には路地があった。
通勤時間はとうに過ぎているので人通りは少ないが、
2つの月が夜を明るく照らしているので、怖い感じはなかった。
結希は路地に入っていく。
先程、葵は「また、明日」と結希に言った。
同じ言葉を紡ぐと、肩の力が抜けて、心が軽くなった気がした。
気付いたら走っていた。
風を切って進んでいくと、汗が蒸発して首筋がひんやりする。
どれだけ走っただろうか。
トレーニングで使っていた運動公園に、
いつの間にか結希は辿り着いていた。
「どうして・・・」
自分に問いかけるが、答えは出ない。
もしかしたら、無意識的に運動をしたくなったのかもしれない。
公園をぐるっと大きく周回するようにして、
結希はランニングを始めた。
少数だが他にも人がいたので、
迷惑にならないようにゆっくりと走る。
しばらくすると、心地よい程度に体が温まり、
動きやすくなってきたのを感じた。
余力は十分にあるので、まだまだ走れる。
結希はフォルトゥーナの声が聞こえるまで、走り続けて見たくなった。
少しスピードを上げた時、遠くから声が上がった。
日常生活では全く聞く機会のない種類のものだ。
少し驚いたり、痛かったりした時にも、人は声を上げることがある。
結希はそういう場面を、何度も見かけたことがある。
しかし、この声は違った。
聞いただけで命を削り取られてしまいそうな、
大きな危険を孕んだ悲鳴だった。
聞いた途端、結希の頭はぼんやりとして、
身体の動きが鈍くなった。
もう一度、悲鳴が上がる。
結希は縮められたバネが反動で跳び上がるみたいに、
頭を上げて声のした方向を見た。
結希の右肩が、電気ショックをかけられたように持ち上がる。
人の悲鳴というのは、聞いた人にも恐怖と不安を与えるのだと、
初めて知った。
横たわった1つの影と、立っている2つの影が見える。
何か事故でもあったのだろうか。
「どうしましたか?」
結希が駆け寄りながら大きな声を出すと、
立っている影が、隣にいる影に何かを突き立てた。
「う、うあっ!」
結希は動揺を吐き出しながら、その場に立ち止まった。
足があまりにフラフラするので、反動で倒れてしまいそうになる。
何かを突き立てた方の影が、悠長ともいえる動きで
引き抜く動作をすると、前にいる影が崩れるように倒れた。
宙に上がった飛沫のようなものが、月夜の光を反射させる。
倒れた影は、致命に至ったのか、少しも動かない。
「し、死に」
何者かが、何者かに、何かを突き刺して殺した。
殺人が起こったのだ。しかも、目の前で。
「ど、どうして・・・」
目の前で起こっている非現実な光景が、
結希の後ろ頭を痺れさせる。
今や殺人犯となった影が、呆然と立ち尽くす結希に気付いた。
「っ!」
結希は思わず後退るが、
影はまるで結希が逃げ出さないと確信しているかのような、
悠長な動きで追って来る。
極限の緊張感を前に、結希の呼吸は荒くなる。
「な・・・なんで?!」
足全体が痺れたように痛んだ。
近付いて来た影が、結希の前に姿を晒す。
結希は逃げるのも忘れて、その姿に見入ってしまった。
身長は結希の胸元程度。
体表は血塗られているので分かりにいが、
濃い緑色をしている。
2本の足は極端に蟹股で、
指には猛禽類のような鋭い爪が伸びている。
頭が非常に大きく、髪の毛はない。
頭頂部と額に不規則な凹凸があり、見る者の吐き気を誘った。
これは鬼だ、結希は思った。
日本に古来より言い伝えられる鬼が、目の前にいるのだ。
イメージしていたのよりは小さいので、小鬼といったところだろうか。
小鬼の両手には、ナイフのような鋭い得物が握られている。
先程倒れた人は、このナイフによって攻撃を受けたのだろう。
こんなこと、信じられない。
ランニングによって温まっていた結希の体は、
身が震えて寒気がする程に冷えきっている。
結希は少しでも小鬼から離れようと、足を動かしたが、
想像の半分くらいしか動かない。
緊張と恐怖が、思考だけでなく、体も鈍らせている。
このままではいけない。殺されてしまう。
結希はふくらはぎに力を入れて、数度体を跳ねさせた。
身体が動きにくいと感じた時にやっていた動きだ。
その動きに警戒したのか、小鬼が今にも跳び出して
来そうな程姿勢を低くして、威嚇声を出す。
結希は反射的に膝を折って、相手の動きに対応しようとする。
足は重たく痺れも残っているが、少し動けるようになった。
小鬼の動向に気を配りながら、肩の力を抜いて深呼吸をする。
吸って、吐いて、吸って吐いて。
固まった筋肉がわずかに緩む。
しっかりしろ、と自分に叱咤する。
「多分」
こいつは、ニュースでやっていた通り魔事件の犯人。
フォルトゥーナの言っていた、変革が始まったのだ。
そこまで考えたところで、小鬼が猛獣のような雄叫びを上げて、
跳びかかってきた。
結希の方は後退りしながら、なんとか両手を前に出す。
小鬼の腕が目の前を通り過ぎると、両腕に熱い痛みが走った。
無理やり皮を剥ぎ取られたような、猛烈な痛みだ。
「うああ」
恐怖で頭がいっぱいになる。
結希は痛む両腕を抱えながら、不器用に足を引きずって逃げた。
相手はこちらに手傷を負わせたことで満足したのか、
それ以上追ってこない。
不思議に思って振り返ると、感情のない爬虫類のような目と、
頬の半ばまで裂けた口の中に、
研いだ針のように鋭い歯が見えた。
その表情がゆっくりと、醜く歪む。
笑っているのだ。
小鬼は、奇声を上げながら猿のようにはしゃぎ始めた。
相手は結希の命を弄ぶつもりだ。
両腕からは、袖から染み出した血がとめどなく流れている。
傷口を押さえた掌はあっという間に、血濡れてしまった。
景色が白んでくる。
耳の中に心臓があるのかと疑うほどに、鼓動がうるさい。
呼吸は浅く、死んでしまいそうなほど小さい。
いくら走ってもいくら筋トレをしても疲れにくい体に
なったと思っていたのに、今の結希は疲労困憊だった。
「もう、だめだ・・・無理だ」
少しずつ結希に近づいて来ていた小鬼がふと、後ろを振り返った。
視線の先には、先程小鬼に襲われて倒れた影があった。
その影が、わずかに動いている。
まだ生きている。
小鬼が上がった口角を下げると、
面倒くさそうにそちらに向かい始めた。
おそらくとどめを刺すつもりだろう。
許せない。
「やめろっ」
口に出した激昂が、実際は掠れた声が出ただけだった。
気を引くために、地面を足で踏みつけて音を立てる。
小鬼は肩を震わせながら、倒れている影とこちらを見比べた。
「ぎぎぎぎ」小鬼は警戒しているような声を出しながら、
結希の方に向き直った。
攻撃対象を、変更したのだ。
すぐに後悔した。
他の人が襲われている隙に、自分は逃げ出せば良かったのに。
そうすれば、もしかしたら逃げ切れたかもしれないのに。
結希は口元をゆがませた。
小鬼が唸るのが聞こえたので、
わけもわからず結希は真似をして声を出した。
「うう~~!!」
声を出すと、息が抜けて、膝が深く曲がるようになる。
小鬼は結希の動きを見て、わずかに後ろに下がった。
結希はさらに声を出した。
「うがぁ!!おらぁ!!」
原初的で、野性的な声だった。
人がまだ森林の中で生活していた頃、
狩られる側だった頃の、生きるための声。
一瞬だけ、脳裏に葵の笑顔が浮かぶ。
「うわぁぁああああ!!」
結希は両腕を大きく上げて、小鬼を威嚇した。
まだ、ここでは終われない。葵にまた会いたい。
会って、お礼が言いたい。
小鬼が深く沈み込んでから一転、
素早い動きで結希の右側に回り込んできた。
不意を突かれた結希は、それでも右手で硬く握った拳を、
上から叩きつける。
拳は小鬼の肩に直撃し、大きく態勢を崩させた。
結希はすぐに距離を取ろうとしたが、
小鬼の首が信じられない方向にぐるりと回転し、
結希の腕に噛みついた。
「うぁああああ!」
結希は叫びながら、小鬼の顔面に肘を叩きつける。
「うがぁぁぁああああ!!」
小鬼の顔面は硬く、数度繰り返しただけで、
こちらの肘が痺れてきた。
ようやく小鬼は口を開いて離れた。
小鬼の足元がぐらついている。
少しは効いたのかもしれない。
対して、結希の受けた傷は甚大だった。
噛まれた腕は服ごと皮を剥ぎ取られて、大量に出血している。
結希は小さく舌打ちをした。
「くそ・・・。
人の手めちゃくちゃにしやがって」
血を流したからか、叫んだからか分からないが、
吐く息が火を灯しそうなほど、身体が熱を帯びてくる。
高圧電流が辺り構わずのたうち回り、
耳障りなほどの炸裂音を公園内に響かせる。
気付けば、結希の腕を『トールの雷』が包んでいた。
「わ・・・」
流れている血潮が、電流が炸裂するごとに、
花火のように霧散していく。
その一部が顔にかかると、はじめは熱く、
そして次に冷たくなって固まった。
傷口を絞るように腕に絡みつく雷の蛇が、
小鬼の顔を眩しいほどに照らす。
小鬼の顔が、今までにないほど恐怖で歪んでいる。
少し押せば尻餅をついてしまうかもしれない。
「びびってら。ざ、ざまぁみろ」
こころに余裕が生まれる。
小鬼がわけのわからないことを叫びながら、
手に持った刃物をむやみやたらに振り回しながら走ってくる。
何だかさっきよりも遅く見える。
小鬼の持った刃物が結希の太ももと切り裂いたが、
そこまでの痛みは感じない。
結希は構わずに右手を突き出して、小鬼を掴もうとした。
出血の影響からか、腕の動きはこれまでに無いくらい緩慢で、
小鬼に余裕で躱される。
「ぐくっ。くそ」
今の攻撃で捕まえたかった。
トールの雷を纏った手で触れれば、
どんな生き物でも卒倒するに違いない。
触れることさえできれば、どうにかなるのに。
身体が少しずつ重くなっているのを感じて、
結希は歯噛みする。
あまり時間がない。
長引けば長引くほど不利になるのはこちらの方だ。
結希は小鬼と出会ってから、初めて攻勢に出た。
トールの力を弱めないように気をつけながら、一歩前進する。
少しずつ近づいて行くと、
小鬼はプレッシャーに堪えられなくなったのか、
正面向かって襲い掛かってきた。
結希は顔面を守るように構える。
小鬼はすぐにターゲットを足元に変更する。
小鬼の持った刃物が、足の甲に突き刺さる。
息もつけないような痛みに、頭部の毛が逆立った。
「うおあああああ!!」
すかさず『トールの雷』を足に流し込む。
結希の足に刺さった刃物を伝って、
蛇のごとく電流が小鬼の腕に噛みついた。
「・・・カ・・・・カカカカ」
小鬼は声にならない悲鳴を上げながら、
泡を吹いて痙攣し始める。
「ま、・・・まだまだ」
結希は電流を止めなかった。
やがて小鬼は白目を剥いて卒倒する。
一瞬だけ雷を弱めて小鬼が完全に沈黙したのを確認すると、
念のため30秒ほど電流を頭部に流した。
その時だった。
小鬼の体が光に包まれた後、
掌を叩いたような音を立てて消滅する。
「・・・え」
思わぬ光景を前にして、結希は立ち尽くした。
もしかしたら、どこかに隠れたのかもしれないと思い、
すぐに周囲を見渡すが、小鬼らしき姿は見えない。
広い公園の真ん中で、突然姿を消すことなど通常ではありえない。
「き、消えた・・・」
幾度も首を振って周りを見るが、あるのは
命を懸けて激しく戦っていたとは思えないほどの静寂だった。
安堵すると、最初は耳鳴り、次に頭痛、吐き気、痛み、疲労が
順番に結希を襲ってきた。
苦痛に次ぐ苦痛。
結希は気力を振り絞って、何とか倒れないように足を踏ん張った。
頭を下げると、幾分頭痛が収まる。
そういえば、小鬼に刺された人はどうなったのだろうか。
結希は無理やり頭を上げて、半分白くなった視界で探し回った。
月夜で明るいはずなのに、倒れた影はとても黒かった。
近付くと、倒れているのは中年の男性だとわかった。
「ああ!!」
男性は以前公園で会った人だった。
「だ、大丈夫ですか」
男性は胸の辺りにくぼみがあって、
そこから大量に出血している。
「ま、まずいまずい」
結希は上着を脱いで、そっと傷口に当てた。
一刻も早く出血が止まって欲しい。
祈るような思いで、手に力を込める。
「がんばってっ。すぐに救急車を呼びますから」
結希はスマホを取り出して、すぐに救急車を呼んだ。
電話口からは、冷静な女性の声が聞こえてくる。
「すぐに向かいます」
女性がそう言ったのを確認すると、
結希は頭が揺れるのを感じた。
「これ・・・」
頭が振動している。それも連続で。
こんなに長い間揺れていることは今までなかった。
トレーニングを積めば揺れるのではなかったのか。
「違ったんだ。これは・・・」
結希は思い至る。
この振動は、カウントダウンだったのだ。
今倒れるわけにはいかない。
葵にこのことを伝えないと。
だが、結希はとても疲れていた。
不覚にも目を閉じてしまう。
意識はすぐさま奈落に落ちていった。
次話は来週になります。
頑張ります。




