124話 月子
水の魚が跳ねた。
「ぷはっ」
その下から陽子が顔を出す。
彼女はこちらの位置を確認しながら、岸へ向かって泳ぎ始めた。
今が好機だ。
月子は川辺に屈んで、返陽月を水面に浸けた。
ゆっくりと引き抜くと、
折れている刀に、透明な水の切っ先が作り上げられる。
対する陽子は水の中にいるせいで、
太刀から炎を出すことが出来ないようだ。
地の利はこちらにある。
月子が願うと水魚が生まれ出てくる。
水魚は月子の思うままに動き、妹に襲いかかった。
陽子は水中でやみくもに太刀を振るうが、
炎を宿さない斬撃など無意味だった。
水を中心に戦えば、何が起こっても負ける気はしない。
ゆっくりと靴を脱いで川に足を浸けると、
その思いはより一層強くなる。
川の上流には巨大な山があり、更に上には雲と空がある。
何もかもが水を通してよく見える。
「なんなんだお前!!」
水のあぶくを吹き出しながら、陽子が叫んでいる。
「なんでお前だけっなんでもかんでも持って行くんだ!!」
魚達が叫びごと陽子を飲み込んで、水の中に沈めてしまう。
これで陽子の苦しそうな声は聞こえない。
月子は水面を歩いて、彼女の真上まで到達する。
気を失っているのか、水に沈んだままぴくりとも動かない。
覆い被さるようにして、陽子の心臓へ先端を下に向ける。
水は澄んでいて、白い顔がよく見えた。
まるで眠っているような、安らかな顔だった。
水が流れを失ったかのように、しんと静まり返っている。
冷たい空気で肺が痛い。
大切な家族を失い、自らも死に、神に拾われた。
現世に戻ってからは生きるのに必死な日々だった。
そして仲間に出会った。
束の間の安らぎ。
そして。
死んだと思っていた陽子が生きていた。
陽子がたくさんの人を殺してきたなんて、信じられなかった。
「陽子ちゃん・・・」
このまま体重をかけて、刃ごと体を落とせばすべてが終わる。
果物を切るようにたやすく、胸に切っ先が入り込むのを想像する。
堰を切ったように何かが入り込んできたのは、
陽子を愛おしく思う気持ち。
「・・・ううっ」
何とか飲み込んで、歯を食いしばる。
陽子はあの事件をきっかけにして、何もかも憎むようになった。
今や、自ら生み出した狂気に取りつかれているのだ。
「ふぅー。ふぅー」
月子がしっかりやらなければ。
「ふぅー!ふぅー!!」
こころを無にするために、腹に空気を入れる。
「ふうーーーー。うーーーーっ」
やれ。みんなを守るために、陽子を解放するために。
死に体となった陽子の体が、魚の顎に支えられて浮かび上がってきた。
刃と心臓の距離が近くなる。
いつでも目の前の命を絶つことができる。
真っ青になった陽子の顔を見た。
「うーーーーーー!うぅーーーーーー!!」
陽子ちゃん。陽子ちゃん。陽子ちゃん。
陽子ちゃん。陽子ちゃん。陽子ちゃん。
陽子ちゃん。陽子ちゃん。
唇の肉が小さく千切れる音を聞きながら、
月子は刃を振り下ろした。
「ぅうううあああああああああああああああっ!!」
だめだ
腰が、膝が、刺さる寸前のところで制止する。
彼女の瞼がうっすらと開いた。
何かを悟ったような穏やかな目が、月子を見上げてくる。
「お、おねぇちゃん」
声を聞いた瞬間、胸を削り取られるような痛みが走る。
「お願い。
もう殺して」
彼女の目頭に涙が溜まっていた。
「・・・はやくしてっ」陽子が痛みを抑えるように目を閉じた。
「っ!」
ふいに、足裏が熱くなる。
周囲で生じた飛沫は、火傷する程の熱湯だった。
「熱っ・・・」
月子は身の危険を感じて後ろに跳び、河原に着地した。
全身が粟立つ。
流れのある川の水を一瞬で高温にする熱量は、
いったいどれだけのものだろう。
陽子の浸かっている付近の水面から、ぼこぼこと気泡が出ている。
川の水が沸騰しているのだ。
「さすが優しいお姉ちゃん可哀想な妹を殺せないってわけ」
先程の苦しそうな表情は消えて、恍惚に近い顏で陽子が言った。
「悲劇を背負ったお姉ちゃんは全部被害者でいつまで経っても
自分に責任はないって思ってる」
陽子が太刀を肩に置いた。肩の布が燃えて、赤く光る。
「殺してくれたら良かったのに」陽子の太刀が白炎を纏った。
熱に苦しむ魚達が、横一文字によって蒸発する。
余波となって生じた熱気が、額にぶつかってくる。
熱くて目を閉じそうになるのを、月子は必死でこらえた。
「あんたにはできたのに」
燃えるような赤い眼が、月子を竦ませる。
「あんたなんてあたしのお姉ちゃんじゃない」
水中から飛び出した陽子が斜め上から振りかぶった。
信じられない程の跳躍から、体重の乗った一撃がくる。
月子はとっさに刀を寝かせて受け止める。
そのまま刃を滑らかに立てていき、
太刀を受け流そうとしたが、陽子の一撃は厚くて重く、
受け流す前に水の刃が蒸発してしまう。
ものすごい熱量が身体の横をすり抜けていく。
返しの刃を、返陽月の短い刀身で受け止めた。
だが、熱はその刀身すら溶かしていく。
「う」
祖父からもらった返陽月が、柄の根元付近から断たれる。
「・・・ああ!!」
月子は無意識に、河原に落ちた刀身を拾いに行こうとした。
回り込んだ陽子が、隙だらけの横腹を蹴り上げる。
つま先は燃えるように熱かった。呼吸が止まり全身が痺れる。
「あんたを殺そうとしてる敵が目の前にいるんだよ」
陽子は倒れた月子に向けて躊躇なく、下段かかと蹴りを見舞う。
腹に力を込めたが、一瞬にして耐えられる限界を超えてしまう。
ポンプのように口から空気を吐き出たと思ったら、
それは空気ではなく血液だった。
「あ・・・あ・・・・」
気管に血液が入るが、全身に力が入らず咳き込むことすらできない。
「あら破裂した?」
陽子が膝をついて月子の頭を抱えてくれる。
顔を横に向けてくれたおかげで、
月子は詰まった血を何とか吐き出すことができる。
「月姉大丈夫?」
陽子が心配そうに顔を覗き込んできた。
だが、その直後に
「もぉ戦えないねぇぎゃはははははぁ!!」
心配そうにしていた陽子の表情が一転、残虐な笑顔に変わる。
月子は絶望して、とめどなく涙を流した。
「も・・・もぉ・・・やあ・・・」
陽子は近くに落ちていた返陽月の刀身を拾うと、
死神のような笑みをさらに深くした。
「これが欲しかったんだろうが
おじいちゃんからもらった刀が!」
陽子は月子の顔に、肉を焦がすほどに熱い刀身を当てた。
月子は悲鳴を上げて顔を背けようとするが、
顎を強い力で掴まれていて動かせない。
肉の焼ける匂い。気が遠くなる。
「あたしは一度も触らしてもらえなかった
でもあんたはひいおじいちゃんの刀も触らせてもらってた!」
月子は尋常ならざる痛みのせいで、抗うことすらできなかった。
「それなのに!!」
刀身が月子の血で滑る。頬が横に裂けた。
「こんなに頑張ってるのに求められるのはいつも月姉!!」
陽子は立ち上がって遥か高みから見下してくる。
とても眩しかった。
「・・・・うぅ」
太陽に比べて、月はちっぽけで弱い光しか出せない。
その光すら、太陽にもらったおこぼれなのだ。
ほんの少し、頬を緩ませた。
それに陽子が気付き、目元を怪訝にする。
「なんなの?」
月子は答えない。
もう負けた。もう勝てない。
何を言っても徒労だろう。
月子はゆっくりと目を閉じた。
「何なのあんた」陽子がため息をついた。
申し訳ない。
「はいはいもう終わりってことね仕方ないなぁ」
ふいに懐かしさがこみ上げる。
いつも面倒をかけて、こんな風に陽子にぼやかれていたっけ。
最後まで、姉らしいことはしてやれなかった。
ありがとうございました。
頑張ります。




