116話 月子
少しまずいな、と思った。
切り札である虹の鯉を使い切ってしまったからだ。
あの力をまた使うには、父と母のいる川に浸からなくてはならない。
それでも月子は、ソーニャの庭園を陽子の火が燃やすのを
見過ごすことはできなかったのだ。
「ふぅ」ひと息つく。
戦術よりも感情を優先させてしまうというミスは、
以前なら後悔したかもしれない。
しかし、今はこの愚を選択した自分を誇りに思える。
月子には、陽子に勝つことよりも、はるかに重要な使命があった。
◇
昨夜、月子はスカーに呼び出された。
月の綺麗な夜だった。
彼女はこちらの顔を見るなり、
「どの曲が、好きなんだ?」と訊いてきた。
当たり前に一緒に生活しているが、
スカーはもともと世界的に有名な歌手であり、
月子はデビューした時から彼女のファンだった。
興奮を抑えながら、ヘビロテしていた曲名を言った。
英語だけれど、そらで歌えるくらい大好きな曲。
だが、それを聞いたスカーの反応は微妙だった。
「『over my dead』?
ああ、あの・・・クソみたいな歌ね。
でも、クソがお望みなら、もっと・・・良いのがある」
彼女は蒼白な頬を上げながら歌った。
「~♪」
初めて聞いた彼女の生歌は日本語だった。
明るく軽快な曲調だったが、歌詞は壮絶だった。
何もかもを失った女が、たった一つのものを取り戻す歌。
そのために、命すら失ってしまう歌。
「はい、終わり。
短くてスマンな」
「なんていう、曲なんですか?」
スカーは芝居じみた仕草とともに、
「『purity and ease』(純粋さと安易さ)」と言った。
スカーは力を使い切ったような笑顔だった。
「月子の為に作った」その言葉に手足が痺れた。
スカーは片目を閉じると、
「壮絶なエピソードが失わせたものを取り戻す行為には、
純粋さと安易さが必要だろ?」
芝居じみた台詞を口にした。
スカーがあまりにも格好良くて、月子はうっとりとした。
「わ、私のために・・・?」
「そうだっつってんだろ。
あんたにぴったりの、クソな歌さ」
スカーが陽気な調子で言った。
純粋さと安易さ。
長い間、月子が持ち得なかったものだ。
「月子はかなり・・・変わったな」
スカーが月子の額に指先をつけた。
「あたしも、最初は、歌なんて、無理だと思ったんだ」
「そうなんですか?」
想像もつかない。だって彼女の歌はこんなにも素晴らしかった。
そうさ、とスカーは煙草に火をつけた。
「でも、気付いたら馴染んでた。
生まれた、時から、あったみたいに・・・」
首を垂れたい気持ちに従い、神妙に頷いた。
「月子は、剣が好きか?」
「え?」
スカーが返陽月を指さす。
「その剣。
会った時よりも、似合ってるぜ」
思わぬことを言われ、笑いがこみ上げてくる。
「似合ってるって・・・くすくす」
「おかしいかよ」スカーが煙を吐き出しながら肩を竦める。
「おかしいですよ。だって、そんなの関係ないし」
肉体的な強さ、精神的な強さ、そして剣の強さ。
月子はずっと強さを求め続けてきた。
それなのに、スカーは月子に剣が似合っている、なんて言うのだ。
「でも、似合ってる・・・か」
月子の剣は、それでいいのだ。
この時、月子の剣に、純粋さと安易さが加わった。
剣が変わったことで、凝り固まった月子のこころが溶けた。
全てが変わったのだ。
◇
残っている手で喉元に触れると、
表面から湯気が上がっているのを感じた。
動いてすぐに汗が出てくるようになったのは、いつ頃からだろう。
あれから月子は、何もかもが良い方向に変わった。
「月子。陽子とタイマンになるんだ」キーラの声で我に返る。
「OK。タイマンなら任しといて」調子良く言い返す。
「月子」彼の声は震えていた。
「うん」
「月子は強いよ。忘れないで」
通信が途切れる。
暁雲を垣間見ながら、抱いてくれたキーラの匂いを思い出す。
優しくて誠実な彼の目が、脳裏で輝いている。
それを踏みにじるかのように、陽子が地面を焦がしながら歩いてきた。
月子を前に、彼女が目を閉じそうなほど顔を歪ませた。
「無様な恰好ね」嘲る言葉は義手をさしている。
だが、月子は笑みさえ浮かべて、静かに頷いてみせた。
それが仲間達との思い出を守るための、
もっとも適切な方法だとわかっていた。
妹の舌打ちが響いたので、月子は心底満足する。
<ダニエル。
葵達が逃げてくよ>
無邪気な子どものような声でロックが言った。
「さて」
ダニエルが思案するように腕を組む。
「早く月姉ぐちゃぐちゃにしてやりたい」
陽子が大きく円を描くように太刀を振った。
酸素を喰らい高熱を発した刀が、燃える薪のように火の粉を舞わせる。
離れているのに、顔に当たる熱が痛い。
陽子の殺気がみるみる大きくなっているのを感じる。
彼女は前に会った時より数段強く、恐ろしく見えた。
でも、月子が臆することはない。
「陽子ちゃん」
「なんだよ?」
「あの日、私が代わりになれたらよかった」
「今更なに言ってんの」陽子の声は逆族を炙るかのように熱かった。
鞘に納めた返陽月がカタカタと震える。
圧縮された水が吹き出そうともがいている。
義手が柄に加えられた力を敏感に察知し、緩やかな稼働をみせる。
生身の腕でしていたように、鞘を前に出してから、
腰の回転に合わせて引く。
キーラの技術と、月子の剣技、そして水の力が一体化し、
地上でもっとも速い居合いが完成する。
太刀筋は水の円月を作り出し、
陽子の熱気を切り裂き、眼前にまで辿りついた。
彼女の頬が横に薄く切れる。
「前のように甘くはないから」臨むように見ると、
「面白い」陽子が狂暴に笑った。
一歩進んだ陽子に、ダニエルが声をかける。
「陽子」
「邪魔したら殺す」
ダニエルは警官に拳銃を突きつけられた犯罪者のように手を上げた。
「わかった。
好きにしていいよ」
陽子が月子を指さし、ついで顎で校門の外へ出るように促した。
行く前に、雷を宿した結希の瞳をじっと見つめた。
死に際であることが嘘であるかのように、彼は穏やかだった。
「勝ちそうだね」結希が微笑む。
「うん」月子も笑った。
「ほいっと」彼がペットボトルを高く放り投げた。
舞い上がるまでに2回転したボトルが、
今度は底を下にして真っすぐ落ちてきた。
素早く抜き、唐竹割りにする。
鞘に収めて上向くと、中身がシャワーのように降り注いだ。
「すごいっ!」結希がぱちぱちと拍手してくれる。
俄然気合が入った。
ありがとうございました。




