12話 結希
12話目です。よろしくお願いいたします。
「私、帰ります」と葵が短く言ったので、
結希は『真実を見通す目』について聞くことができなかった。
翌日に会う約束をして、その日は解散する。
話している間とは違い、別れ際の葵はとても素っ気なかった。
帰路の間、結希は葵に嫌われてしまったのではないかと心配した。
考え始めると、
結希の頭は処理しきれない思考で埋まりきって、
破裂しそうになった。
歩いていた結希は、次第に歩を早めていき、最後には走り出す。
悩んでいる時は頭を空っぽにして、身体を動かすのが良い。
少し油断すると、また思考の波が襲って来る。
だから、スピードを緩めるわけにはいかなかった。
2時間ほどランニングをして、帰宅後には激しい筋トレをする。
そうして床に倒れたのが、深夜の1時だった。
荒い呼吸が落ち着いてくると、結局はまた葵のことを思い出した。
まん丸輪っか眼鏡の奥にある琥珀の瞳。
不意に目が合うと、胸の奥が刺されたように痛んだ。
近付くと呼吸が苦しくなるのに、離れがたかった。
頬に触れたい。
思った瞬間、結希は眉間を寄せた。
「・・・今、何て思った」
自分自身に問いかけると、強い後ろめたさが首をもたげた。
頭を振って、戸惑いも、後ろめたさも、
思い切り握りつぶして胸の奥に押し込む。
首から上が火照っているのを感じ、結希は急いで冷水シャワーを浴びた。
いくら水が頭を冷やしても、脳裏にはずっと葵の姿があった。
数分浴びると、熱は少し治まった。
髪を濡らしたまま倒れるように横になり、
一度大きく息を吸うと、落ちるような眠りが結希に訪れた。
◇
約束の時間30分前、結希は噴水公園に到着した。
噴水の縁に座って待っていると、
人混みの中に黒いセーラー服が見つけた。
それだけで鼓動が早くなる。
今日は上に可愛らしいパーカーを羽織っている。
心臓が大きく波打って痛いくらいだ。
学生の頃は腐るほど見たのに何も感じなかったセーラー服と、
葵の着ているセーラー服とでは何が違うのだろうか。
葵は結希の目の前まで来ると、小さく跳ねた。
「佐藤さんっ。頭、振動した。私も!!」
息を切らして、興奮しながら葵が言った。
丸い輪っかの下は、笑顔でいっぱいだ。
頭が振動することに喜んでいいものかと思ったが、
結希の方も笑顔でガッツポーズをした。
葵が掌を結希に向けて差し出してきた。
結希は戸惑ったが、葵があまりにも嬉しそうなので両手を出す。
葵は結希の手を握ったまま、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。
スカートが見えないか少し心配になる。
それにしても、怪しい無職の男が女子高生と
手を合わせてはしゃいでいる、この状況は恥ずかしい。
結希が耐えられなくなって下を向くと、
葵は飛び跳ねるのをやめて、すばやく手を引っ込めた。
「あ・・・うるさくしてごめんなさい。」
葵が眉間にしわを寄せ、俯きながら謝った。
「あ・・・い、いえ」
結希はおずおずと周りを見ながら、頭を掻く。
周りを見たが、
こちらに視線を向けている人はいなかった。
みんなそれぞれが、楽しそうに会話をしている。
結希は安堵して訊いた。
「運動をしているときに聞こえたんですか?」
「い、いや、それが」
葵は身振り手振りを交えて、当時の状況を説明してくれた。
しかし、葵の説明は感覚的で、情緒的で結局よくわからなかった。
「えっと・・・」
結希が困った様子を見せると、
「すみません。よくわかんないですよね」
葵は申し訳なさそうに目を閉じる。
結希の方こそ申し訳ない気持ちになる。
その時、葵がこちらに一歩踏み込んで言った。
眉間は寄ったままだが、目の端が潤んでいる。
「あれから考えたんです。もし良かったら、
これからも会ってくれませんか。私達って同類だし」
目を伏しがちに葵が付け加えた。
同類とは思わぬ言葉だった。
結希が狼狽えていると、
返事をするまでに時間をかけすぎたのか、
葵の表情がだんだん暗くなっていく。
「はい!はーい。もちろん!!
それは、こちらこそおねがいします」
実は結希の方も、そうなればいいなと思っていた。
地球の変化についても、フォルトゥーナから与えられた力のことも、
少しずつ分かってきたが、どこか現実味がなくて、
この先どうなるのか不安だったからだ。
結希は同志が出来た喜びをかみしめた。
葵はこちらを見て、それまで引き結んでいた唇を、
ふっと緩ませた。
「笑ってる」
「え」
結希は思わず自分の頬に手を触れた。
「佐藤さんあんまり笑わないから」
葵はメモ帳を取り出した。
「ハイ。注目して下さい!
これからした方が良いと思うことを、
自分なりにまとめてきました」
「お・・・うおお」
手帳に『これからやることリスト』
と題名が付いているのが見えた。
「それじゃあ、1つ目!
食料と生活用品の備蓄をすること。
これからどうなるかわからないので、
災害対策もできれば良いですね」
それを聞いて、結希は思わず膝を叩いた。
「そうか!まったく思いつかなかった。
1つ目は最優先にしましょう!」
葵が満足そうに頷く。
「よろしいっ!
では、2つ目は、私の能力をもっと知れるように、
佐藤さんも頑張ってください!!」
「え・・・それって、どうしたらいいんですか?」
「わかりません。ごめんなさい」
葵はガクッと頭を下げた。
「え・・・えっと。調べるとか」
「佐藤さんみたいに図書館に行って調べたんですけど、
何も見つからなくて」
よく見ると、葵の顔が真っ赤だ。
髪の生え際まで真っ赤になっているのを見て、
結希は笑った。
「はいーだめー!!笑ってもいいけど、
馬鹿にして笑うのはだめー!」
葵が結希の胸を押してくる。
きっと葵は2人を盛り上げようとしてくれたのだ。
「わかりました。何か考えましょう」
葵はいい子だ。
彼女に困ったことがあって、
自分に何かできるなら助けてあげたい。
「じゃあ、こうしましょう」
2人は話し合い、1つ目の目標である
食料と生活用品の備蓄をすることに決めた。
どのくらいの量にするかは、葵と話し合い、
まずは2週間くらい生活できる量を目指すことにした。
「結構な量ね。どこに保存しましょうか。
私の部屋はお母さんにバレたら大変だし」
葵の言に結希が頷く。
「備蓄場所は、とりあえず僕の部屋にしましょう」
2人は結希のアパート付近にある業務用スーパーに向かう。
大きめのカートを取ると、葵が手際よくカゴを3つ載せてくれる。
葵がメモ帳を持ちながら先行し、結希が後を追う。
歩く度、彼女の捻転毛がふわふわと動くので、とても可愛らしい。
葵が時折後ろを振り返って、結希がついてきているか確認をする。
散歩をしている犬はこんな感じなのかもしれない。
日持ちのする缶詰や、カップラーメン、レトルト食品を、
数えながらカゴに入れていく。
「すみません」
大きな荷物を抱えた店員とすれ違うために、2人は脇に避けた。
身体が近付いて、葵の肩と結希の胸が触れる。
首が熱くなると、なかなか冷めない。
手うちわで首を冷やそうとしている結希を見て、
葵が目を細めた。
「具合悪いんですか?」
「ど、どうして?」
「いやぁ」と葵が結希の額辺りを指さす。
「なんか、オーラ?の色が変わったから」
「気のせいですっ」
恥ずかしくなって結希はカートを押して先に進む。
あぶないあぶない。
『真実を見通す目』の能力は、気持ちが分かるのだった。
あまり動揺を見せないようにしないと。
レトルトコーナーに到着する。
今日の買い物はここがメインになるだろう。
「種類がたくさんあるんですね」
「え。ああ、はい」
葵がカートの脇に回り込んでくる。
「やっぱり色が変わってるんだよなぁ」
また感情を見抜かれたのかと思い、結希がそっぽを向く。
「だから、違うって」
葵が商品を手に取って見せる。
「これ、ちょっと前まで、パッケージが真っ黒だったんですよ」
「ああ・・・そっち」
結希は肩を落とす。
いつも見られている訳ではないのかもしれない。
「どの味がいいですか?」
葵が真剣な表情で、手に持った商品を結希に見せながら言った。
ああ、あー、と結希がはっきりしない返事をすると、
琥珀色の視線にこめかみを撃ち抜かれた。
「言わないと、勝手に入れちゃいますよ」
結希が何か言おうとしたときには、
葵はもう安売りされているトマト缶とサバ缶を見比べていた。
「佐藤さんは、嫌いなものありますか」
「あ・・・いや、好き嫌いはあんまりないです」
「でも、同じ物ばかりだと飽きますよね・・・
ちょっと高いけど、いろいろ入れておきます」
「は、はい」
缶詰をいくつも連続で渡され、急いでカゴに入れる。
指先が何度も触れる。
結希は動揺が葵に見られないように祈った。
次は飲料コーナーにやってきた。
「こっちもたくさんですね。結構水が安い」
葵が顎に手をやり、メモを取っている。
「飲み物って、好みあります?」
「あ。じ、じつは最近コーヒーがダメになって」
葵のペットボトルを持った手が止まる。
コーヒーが駄目なんて、大人なのにみっともないだろうか。
結希が反射的に俯くと、葵の口が笑ったのが視界の端に見えた。
「そうですか。じゃ、コーヒーは無しですね」
安堵して顔を上げると、笑顔のままの葵が
ペットボトルを渡してきた。
「好きなジュース入れますか?」
「あんまりわかんなくて」
「じゃあ、お茶とお水にしましょう」
嬉しそうに買い物をする葵に見惚れないように気を付ける。
プロテインのコーナーで立ち止まり、
物色していると葵が気付いて近づいてきた。
「これは何ですか」
「プロテインです。健康食品みたいなものですね」
結希が簡単にプロテインの説明をすると、
「詳しいですね」と葵が腕を組んだ。
運動をたくさんするなら、これから葵にも必要になるだろう。
結希はそれとなく、好みの味を聞いた。
「私、カルピスが好きなんです」
「ああ。おいしいですよね」
最近は全く飲んだことの無い飲み物だったので、
結希は味を思い出そうとした。
「そういう味もあるんですか?」
結希が探してみると、500gの小さなパッケージだったが、
『おいしいカルピス味』のプロテインを見つけた。
「おお。あったっ」
「おいしそうですね!!」
葵が結希から商品を受け取ると、成分表を読み始めた。
「よく分からないんですけど、何が良いんですか?」
「たんぱく質がたくさん入っているんです」
「そうなんですね。ほんとたくさん入ってる」
「そうそう。だから効果あるんですよ」
葵が頷くのにつれて、頭の頂点に一本だけ立っているあほ毛が、
ふらふらと揺れる。
とても可愛らしい。
「買いましょう」
結希が言うと、葵が輝くような笑顔を見せた。
心臓が締め付けられるように痛くなり、足が硬直する。
「ん?」
何で動かないのだろうか。息もうまくできない。
心臓だけが、頭を叩くように鼓動している。
ややあって、結希は身体の硬直が取れたことに気付いた。
「わ・・・今の」
他の商品を見ていた葵が、こちらに視線を戻す。
結希の顔色が悪かったのか、心配そうに眉を寄せる。
「どうしたんですか。佐藤さん。顔色が」
「い、いや、なんでもないです。」
まだ心配そうにしている葵の背中を無理やり押して、
買い物を再開させる。
買い物は全部でカゴ山盛り4つ分の量になった。
「これって・・・」
葵が絶句しながら言った。
続けて結希が、持って帰れるかな、とつぶやいた。
荷物はなるべく多くを結希が持ち、
なるべく軽い袋を葵に持ってもらった。
日々の筋トレのおかげか、
かなりの量になっているにも関わらず、
運ぶのに苦労はしない。
100メートルくらい進んだところで、
葵の額が光っているのが見えた。
「大丈夫ですか?」
結希が聞くと、葵は無言で数回頷いた。
「ご・・・ごめんなさい。
ちょっと、しか持ってない、のに」
「大丈夫ですよ」
結希はもう1つ袋を受け取って、歩くペースを落とした。
アパートに到着した時の葵は息も絶え絶えで汗だくで、
早く休ませないと倒れてしまいそうな様子だった。
「ちょっと待っててくださいっ!。
荷物置いて来ますから」
結希は葵を一階に備え付けてあるベンチ座らせ、
飲み物を渡し、3階まで走って上がった。
本当は葵から目を離したくはなかったが、仕方がない。
それに、玄関前で症状が出ているのを見られたくない。
素早く荷物を置いて玄関に向き直る。
「ああ、もうっ・・・」
耳鳴りのような焦燥感が結希に襲いかかってきた。
手がいつも以上に震えている。
すぐに葵の所に帰らないと、そう思ったときだった。
はーち。きゅーう。じゅう。じゅう。じゅう。
また、あの声がした。聞き覚えのある子どもの声。
「う・・・うるさい」
ぎゅっとつままれたように頭が痛くなる。
徐々に呼吸が苦しくなってくる。
だが、少しくらいなら呼吸をしなくても耐えられる。
息を止めてでも何とか鍵を差し込もうと、思った瞬間だった。
暗い記憶が幕を下ろすようにして、
たちまち結希の視界を乗っ取った。
◇
小さな頃。
大きな男が脅すような大きな声で何かを叫んでいる。
これは、自分の父親だ。
結希は慄いた。
何か怒られるようなことをしてしまったのだろうか。
難しい言葉だったので、
何を言われているのか内容までは分からない。
ただ、結希のことをなじっているのだけはわかる。
父親が叫んだあとを追うように、
母親が同じことを言った。
結希は地獄の底にいる。
それを見た母親はなんだか嬉しそうで、
笑顔を浮かべてさえいる。
不意に、関節が抜けてしまうのでは、と思うほど
強く引っ張り上げられ、結希は外に放り出される。
外は真っ暗だった。
闇に飲み込まれそうな恐怖に包まれる。
100まで数えたら、中に入れてあげる。
母親は半ば狂気的で、金切り声で言った。
結希は必死で中に入ろうとするが、
思いっきり突き飛ばされて後ろに転んだ。
中に入れて。
再度立ち上がり、玄関のドアに手を伸ばしたとき、
カチリと絶望の音がした。鍵が閉まったのだ。
すぐに玄関の灯りは消えて、人の気配が離れて行くのが分かった。
結希は怖くて叫んだが、もう近くに両親はいない。
暗くて寒くて、死んでしまうほど怖い。
必死で、100まで数えようとする。
いーち。にーい。さーん。よーん。ごーお。
声が震える。涙が止まらない。
ろーく。しーち。はーち。きゅーう。じゅーう。
でも、どうしても、じゅうから先が数えられない。
じゅーう。じゅう。じゅう。
指をつかって、数えようと思った。
しかし、指は10本しかないので、そこから先が言えない。
全身ががたがたと震えだす。
自分の体を抱き抱えるようにして、
寒さと、恐さと、孤独に耐えようとする。
でも、そんなに長くは続かない。
徐々に息が苦しくなる。
頭がぼんやりとしてくる。
お母さん。お父さん。こわい。たすけて。
◇
「・・・さん。佐藤さん」
最初は小さな声だった。結希を呼ぶ声がする。
声は少しずつ大きくなってくる。
返事が出来ないでいると、声の主が苛立っている
様子が伝わってきた。
「起きろってば!」
大きな声がして、乱暴に背中を叩かれる。
目を開けると、すぐ横に葵の頬があった。
「あ。・・・はい」
何とか返事をしたが、声が掠れていた。
「あ、はい。じゃないですよ!
いつまで経っても帰って来ないんだからっ」
ばかっ、あほっ、と、元気のよい悪口が聞こえる。
繰り返される悪口に涙が混ざった。
心配してくれたのだと嬉しくなる。
なんだか安心した。
結希は自分が跪いて、うずくまっているのに気付く。
わずかに身動ぎすると、耳の裏から汗が滴って、
口元に滑り込んできた。
体を起こそうとしたけど、手足がパンパンに張っていて動かない。
限界まで走ったあとみだいだった。
体を起こそうとしていると、
葵が優しく肩を支えて起こしてくれた。
「すみません」
血の巡りが変わったのか、目の前が真っ白になる。
再度倒れそうになって、葵に抱きとめられる。
「ああ。あれ、どうして・・・」
まだうまく頭が働かない。
何とか立ち上がろうとすると、
葵が肩を押して結希の動きを制した。
「まだ動かない方がいいです。
ちょっとじっとしてて下さい」
葵の手の重さに、身動ぎ一つできなくなる。
観念して身体の力を抜くと、
葵がハンカチで汗を拭いてくれる。
「こんなに汗かいて。私が荷物を持たせたから」
結希は頭を振ったが、それだけで景色が白んで頭痛がした。
「すみません。3階まで歩いて、来て、もらって・・・」
「良いんです。私は平気です」
葵は結希に障らないよう、小さな声で言った。
すごい汗、と真剣な声が聞こえる。
自分の息がいつもよりずっと冷たく感じる。
「私のせいで無理しちゃったんですよね」
うまく声が出るか不安だったが、違う、と言ってみた。
葵の声は聞こえるのに、自分の声が聞こえなかった。
それでも、何かは伝わったのかもしれない。
葵が何か声をかけてくることはなかった。
しばらく葵の腕の中で休んでいると、血流が戻ってきたのだろう、
体温が上がってくるのを感じた。
立ち上がって、鍵を取り出そうとするが、また手が震えた。
「ポケットに鍵があるんですよね?」
葵がそう言ってから、鍵を出しくれる。
ポケットの中に入っていく葵の手の感覚が残っていて、
居心地の悪さを感じる。
支えられてなんとか部屋に入る。
恥ずかしくて仕方がない。
後悔が次々と、目の前で花火のように破裂した。
ソファーに結希を腰掛けさせると、
葵は何もいわずに、外に置いてきた荷物を取り込んでくれた。
何度も往復してやってくるの葵に合わせて、
結希は「すみません」と謝罪を繰り返した。
「いいんですよ」と葵はその度に応えてくれる。
運び終えると、「この椅子おしゃれですね、座って良いですか」
と葵が明るく言う。
飲み物を準備するために立ち上がろうとする結希を押し留めて、
葵が立ち上がった。
「だめです。私がやります」
「ええ。なんで」
「ええ。じゃないわっ!
そんなんじゃ、こぼすでしょうが」
これって、こうだっけ、こうしたらいいよね、
と独り言をいいながら、葵がコップにお茶を注いでいる。
手渡されたコップには、端から零れたお茶で濡れていた。
「・・・あ、あの」
結希の掠れた声を聞いて、葵が手を止めた。
コップに反射した光が瞳に当たって、琥珀色に輝いている。
「玄関の前に来ると、いつも焦るんです」
葵は用心深く、「そう」とだけ言った。
「多分、中学生の頃だったと思います。はじまったの」
声が面白いくらい震えていて、
どうにかしたくて唇に触れると、
その手も隠しようがないくらい、震えていた。
「早く開けなきゃって、思えば、思うほど慌てちゃって」
葵はさぞかし困るだろう。
もしかしたら、うんざりするかもしれない。
結希の気持ちを知ってか知らずか、葵が口を開いた。
「私には、わかりません」
結希が謝ろうとすると、素早く葵が続けた。
「でも、佐藤さんは悪くないと思います」
喉が震えた。お礼を伝えようと思っても、声が出なかった。
だから代わりに頷くと、
葵はほっとしたような笑顔を浮かべてくれた。
しばしの沈黙のあと、
「あ、そうだ」と葵が両手を合わせた。
彼女は冷蔵庫前に置かれた買い物袋のところへ向かう。
葵が後ろ手に何かを持って、結希の隣まで来た。
「じゃーん」
葵が結希の目の前に差し出してきたのは、
カルピスソーダのペットボトルだった。
「これおいしいんですよ。オススメですっ!」
葵は無邪気で嬉しそうな声を出した。
「お、おお。飲んだことないかも」
一瞬だけ眉をひそめた葵だったが、すぐにグラスを洗ってから、
結希に注いでくれた。
カルピスソーダは濃厚な甘さで口内を満たしたが、
炭酸の爽快感がすぐさまそれを中和する。
結果、甘すぎるが甘すぎないという絶妙なおいしさになる。
「う、うまい」
「でしょー」
結希の反応を待っていたのか、
自分のグラスにはまだ注いでいなかった葵が頷く。
「あと1本あるんですけど、それは後で飲んでくださいね」
そう言ってから、葵はグラス1杯のカルピスソーダを一気に飲み干した。
中身の残ったペットボトルを冷蔵庫に入れて戻ってくると、
葵が神妙な面持ちで言った。
「私、買い物中に、佐藤さん以外の人のオーラも
見えるようになってきたんです」
「そうなんだ。どんな風に見えるの?」
「なんか湯気みたいな感じ。それぞれ色がついてて。
それ以外にも、形があったり、なかったり」
「なんか大変そう」
「あんまり注目しなければ見えないんです。だから平気」
葵は少し黙ったまま、話す内容を吟味している様子を見せてから
「さっき、佐藤さんを見つけたとき、
とても嫌な予感がしたんです」と言った。
「嫌な感じ?」
「うん。なんか景色が少し暗くて、嫌な感じ」
「そっか」
「だから、必死で探したんです。
そしたらなんか、佐藤さんの色が階段に残ってて。
見えるかどうかってくらいだったんですけど。
迷わずに、探し出せました。
これって、『真実を見通す目』の力だと思います。
これが私の能力なんだなぁって」
葵が嬉しそうに笑った。
「あ、あと、連絡先を交換しませんか?」
「え」
「だ、だから、連絡先だってば」
葵の頬が朱に染まる。結希もつられて赤くなる。
「あんたがまた倒れたら大変でしょうが!!
・・・私が助けに行きますから」
「すみません」
スマホを操作していると、葵が結希の手元をじっと見つめた。
「どうしました?」
「いえ。そのスマホけっこう古い型ですよね。
大事に使ってるんだなって」
葵が顔を近づけてきた。
彼女の頭が手に触れそうになったので、体を仰け反らせる。
「佐藤さんの『困難を与えられるほどに強くなる体』って、
本当にすぐ元気になるんですか?」
葵が言った。
「あ、うん。少し寝たら元気」
どういう意味かわからずにそう伝えると、
葵は大きなため息をついた。
小さく、そっか、良かったぁ、と聞こえる。
この子は、優しい子だ。
結希が呆然としているのを見て、葵が突然立ち上がる。
「そういえば、佐藤さんってば、
本当に電気を出すことなんてできるんですか?」
さっきから話題があちこちに飛んで退屈しない。
「ああ。うん。僕も最初は出来るはずないって思ったんだけど」
結希自身も、最初は懐疑的だった。
信じられる材料はそろっていても、
実際に何かを見るまでは確信できないものだ。
だから結希は言った。
「見てみます?」
もしかしたら、言い方が怖かっただろうか。
聞いた葵の頬が青くなる。
無理しなくてもいいけど、と伝えると
「いえ。見たいっす」と彼女が頷く。
結希は葵と距離をとって、右手の指先に電気を発生させた。
かなり弱くしているので、まだ目には見えない。
結希が左手を右手へ近づけていく。
あと数センチというところで、右手から生じた一筋の光が
左手に渡っていった。
パリパリと乾いた音が部屋に響く。
「わわっ」と声を上げて葵が仰け反った。
足元から静電気が伝わったようで、葵の捻転毛がわずかに逆立つ。
「わわ!静電気きたぁ」と葵が目をまん丸にして声を上げる。
「すごい。電気が出てる。本当にできるんですね」
葵が近づいてきて指に触れようとしたので、結希は手を引っ込めた。
「いやいや!危ないって」
「えーケチ!もっと見せてくださいよ」
触らないんなら良いですよ、と言って結希が渋々電気を出す。
葵は無邪気に、もっと強くしてみて、と要求してくる。
炸裂音が大きくなるので、ある程度の強度に抑えながら力を強める。
ふと葵が「でも、痛くないんですか」と心配そうにつぶやく。
結希は用心深く電気を吸収していき、
出しているエネルギーをゼロにした。
「大丈夫です。最初はすごく痛い目にあいましたけど。
『困難を与えられるほどに強くなる体』がその時に
僕の体を強くしてくれたみたいで、全然平気になりました」
「なるほどー」
また葵が聞いたことをメモに取っている。
メモが終わると、佐藤さんひとつ良いですか、
と視線を向けられる。
「この先、どうなるのか分かりませんが、
こんな力を2人とも与えられた訳ですから」
「はいっ」
「きっと、女神様の言う通り、
大変なことがたくさん起こると思います。
だから、体力だけじゃなくて、食べ物とか飲み物とか、
住む場所とかも大切になると思います」
「はい」
結希が何度も頷くと、お返しとばかりに葵が吹き出した。
「あ、な、なんだよ!」
結希が声を出すと、葵はまた笑った。
「ご、ごめんなさい。私みたいな子どもの話すことを、
真面目に聞いてくれるから」
目が大きいから涙も多く出るのだろうか、
葵の睫毛が濡れている。
結希は見惚れたのを悟られないように、視線をずらした。
「僕もそんなに大人じゃないです。5、6歳上なだけだし」
「そうですね。まだまだお子様ね」
ふざけて葵が頭を撫でようとする。
彼女は結希の作った距離を難なく超えてくる。
それが全然嫌ではなかった。
「葵さんよりは子どもじゃあないです」
時間を見ると、すでに16時だった。
まだ高校生の葵は、そろそろ帰る時間だ。
結希が時間を告げながら立ち上がるが、葵は立たなかった。
「今日はいいんです」
瞳が黒く濁る。
窓から差し込む光すら暗くなったように感じて、
結希は思わず外を見た。
「あの、どこかご飯食べに行きませんか
「今日は家に帰っても何もないんです」
眉間にしわを寄せたままなのに、
目尻を下げて口角を上げた笑顔は、
何かを押し殺しているように見える。
「そうですね。僕も腹減りました。行きましょう」
結希は努めて明るく返事をした。
買った食料品を使っていない部屋に押し込み、
2人はファミレスに入った。
最初よりも打ち解けたはずなのに、深い溝ができたようで、
上手く話せない。
2人は口数少なく食事を終える。
何が原因でそうなっているのか、
原因が分かれば近付くことができるのか。
そもそも、結希は葵に近づきたいのか。
駅まで葵を送ることになった。辺りは少し暗くなっている。
「佐藤さん。今日はありがとうございました」
「いえ。僕の方こそ。買い物に付き合ってもらって」
「また明日」
目を伏せて、葵は少し大きな声で言った。
葵はアパートを出てからずっと元気がない。
葵さん、僕に出来ることがありますか、
そう伝えたかった。
意気地なしの自分を責めたくて、思わず歯噛みする。
「あの、佐藤さん。
私はまだ高校生なんだから、もう敬語はやめてください」
歯を見せて笑う葵の顔が、切れたように痛々しく見える。
結希は一呼吸の間、絶句して声が出ない。
結希の人生にいろいろなことが起こったように、
葵の人生にも何かが起こっている。
それなのに、結希は「ああ、すみません。わかりました」
と後ろ頭を掻きながら頷いた。
「だからそれが敬語だって」
葵が言い終えると、断罪するように電車が来た。
彼女が電車に乗り、ドアが閉まる。
結希は思わず手を伸ばした。
葵の口が「え」という形になったと思うと、
左右に引っ張られて引き結ばれる。
こちらに来ようとする葵の体が、ドアに阻まれる。
今にも泣きだしそうな、琥珀色の瞳が何かを訴えかけてくる。
自分は今、どんな顔をしているのだろう。
わからない。
こうして2人はあっけなく別れた。
「ユング心理学入門」という本を参考に致しました。
難解な本で、読むのに2年くらいかかりました。
次話もありますので、すぐに更新いたします。




