106話 前編 結希 葵
葵は、学校が見える位置まで帰ってきていたものの、
物陰に隠れて背中を丸めていた。
<葵。
はやく帰ろうにゃあ~>
丸めた背中を虎の肉球でペタペタと押される。
「うーん、でもぉ・・・」
出て行く前の自分の振る舞いを思うと、
どうしても動き出せない。
<葵さま、帰りましょうよ>
三毛が虎のペタペタに加わってきた。
「そんなこと言っても、
どんな顔をして帰ったらいいのよ・・・」
<皆さまに謝って、許してもらえば良いのです>
簡単に言うが、それができたら苦労はしない。
葵は両手を顔を覆って、さらに身体を丸めた。
「でも、私、自分のことばっかりで。
さっきも、みんなに助けてもらって。
クロエさんのことも、全部私のせいなのに」
虎が大きなため息をついた。
<葵はそればっかりにゃあ。
やってしまったものは仕方ないにゃあ>
「・・・うええぇぇぇ」
泣き始めた葵の頭を、虎と三毛が交互に撫ぜてくれる。
三毛虎の<早く帰ろう>から、
葵の「どんな顔して帰ったらいいの」からの号泣ループを、
この数時間で何度繰り返したかわからない。
<泣いてばかりいても仕方ないですよ>
「わかってるわよ・・・そんなこと・・・」
泣いてばかりいたせいで、頭に鈍い痛みがする。
強く息を吹きかけられ、前髪が吹き上がった。
顔を上げると、そこに銀の鼻先がある。
「銀」
銀の首すじに手を伸ばして、しがみつくように身を寄せた。
「びええええん」
<少し聞きなさい>母親のように優しい口吻だった。
「・・・うん」
<私が―――>
動物が息をつくときの独特の間があった。
その時間を利用して、ゆっくりと彼の匂いを嗅いだ。
<私が、おまえに話すようになったのは、理由がある>
「うん。
ずっと、話してくれなかったから、寂しかった」
<本当は話す気はなかった。
だが。
どうしてもおまえが愚かで見ていられなかった>
大きな喉がくつくつと鳴る。
「あんたも私を馬鹿にするんだ」
また泣きそうになったところ、<それは違うな>と否定される。
彼の毛先という毛先に、わずかな憤りが混じった。
「じゃあ、なんなの?」
<おまえは、少し自分を許せ>
あまりにも意外な言葉で、息をするのを忘れてしまった。
驚愕に目を見開いたまま、
機械仕掛けの人形のように三毛を見る。
<いや、こちらを見られましても・・・>
三毛にツッコミを入れられて、再度視線を戻す。
「銀ってば、何の話なの?」
言いながらも、葵の胸には鋭い痛みがあった。
心臓よりも深い部分を突かれた思いがする。
<おまえの怒りは、おまえを焼いている。
『呪視』に目を抉られたのを思い出してみろ>
葵は回想した。
あの時の痛みは、今までで一番だった。
「あのね、銀。
目が痛むのは、『呪視』に力を借りているからで・・・」
<私が彼奴の力を噛み切らなければ、おまえは死んでいた>
葵は閉口した。
銀が言っていることが、大げさではない。
<おまえは自分の力を、まだ分かっていない>
「それなら、銀がまた助けてくれればいいんじゃないの?」
強く言い返した言葉は、一笑に付された。
<違う。
この愚か者めが>
開かない瞼を、銀がそっと舐めた。
包帯がずれたので、あわてて戻す。
<私はおまえが不憫でならない>優しい声。
「わ・・・私が、私を許せって、そういうこと?」
葵は動揺を隠せなかった。
<そうだよ、小娘>
1秒の間で、地獄と現を行き来したような気分になって、
銀の首にしがみつく。
「ごめん。
できない」
目を閉じるといつも、赤いものが奥に見える。
それは葵自身のオーラともいえる。
赤く燃えるオーラは、どれだけ時間が経っても衰えることはない。
そうでなくてはならない。
<葵さまー>三毛の声に顔を上げる。
校門の方に、こちらを見ている者がいた。
「あ」
結希だった。
「ど、どどどど、どうしようっ。
見つかっちゃった」
銀に頬を舐められる。
<今は、若に抱かれておけ>
戸惑う葵は鼻先で肩を突かれ、前へ一歩押し出される。
その脇で、三毛と虎が何度も頷いていた。
◇
夕食後、結希は校庭へ出た。
緑の増えた校庭の中央に、スカーと清十郎がいる白いテントが見える。
邪魔をしないように大きく回り込んで、校門の方へ向かう。
門の両脇には大きな桜の木がある。
ソーニャの力によって、季節外れの満開を迎えた花が、
膝や肩に振りかかってきた。
一陣の風が、視界をうすい桜色に染めていく。
自然の美しさにひとたび、思いを寄せる。
月子との禅のおかげで、結希は透き通ったように純粋でいられた。
踏みしめる砂の音を味わうように、慎重に歩んでいく。
中空にぼんやりと光が見えた。ベルだ。
ベルがくるくると宙を舞って降りた先に、伊都子がいた。
「伊都子さん」
結希が手を振りながら近づくと、
彼女は何かが伝い落ちるように笑った。
「どうしたんですか?」
伊都子は返事をせず、頭上に何かを思い描いている。
そして「ちょっと話せますか?」
問いは天地の理のごとくであり、結希は頷くしかなかった。
伊都子は微笑みを浮かべたまま、耳に齧りついているベルを撫でた。
耳や首が所々赤くなっているが、気にした様子はない。
彼女が鉄の門へゆっくりと背を預けた。
「覚えていますか?
図書館で会った時のこと」
結希は回想する。
濃密な日々のせいで、伊都子との出会いが遥か以前に感じられた。
あの頃のただただ必死で、自分を保つのに精いっぱいだった。
そんな結希に、伊都子は親切にしてくれたのだ。
「ええ。
覚えています」
結希が頷くと、彼女は間を置かずに言った。
「佐藤さん。
人にとって一番大切なものって、何だと思いますか?」
その問いには真剣に答えるべきだと思った。
額に手を当てながら考えていると伊都子が笑う。
「そういうところが、好きだった」
「え・・・?」
逡巡する結希の前で、伊都子が目尻を拭う。
「私は、記憶だと思うんです」
「記憶?」
「いろんな思い出。
結果ではなくて、経緯、文脈、過程のこと」
伊都子の滑らかな物言いのおかげか、言葉がすっと胸に入ってくる。
確かに、人にとって記憶は大切なものだ。
「あと、何日ここで生活できるでしょうか?」
目を細めた横顔に、「このままずっと」と言いたかった。
それが自分の役目だとも思った。
だが、結局駄目だった。
様々な思いを含んだだろう複雑な眼差しをこちらに向けると、
「ここまで本当に大変だったけど、
私はみなさんのことを忘れません」
伊都子はベルを空中に放った。
光が空を飛んで行く。
「今、毎日が本当に楽しくて」
伊都子が背伸びをすると、桜色の校門から背を離した。
「葵ちゃん。帰って来てますよ」
伊都子が右手を指さす。
「・・え?」
「さっきベルが見つけたんです。
ちょっと歩いて、建物の陰に隠れているみたい」
「あ、あの・・・伊都子さん」
校舎へ向かおうとする彼女を慌てて引き留めた。
振り向いた顏は笑っていた。
美しさというものが一体何なのか、その本質をあらわすような笑顔だった。
「聞いてくれてありがとうございました」
◇
結希の視線を浴びたとき、寒気にも似た感覚が全身に生じた。
呼吸が前倒しにならないよう気をつける。
「・・・結希」
彼は様変わりしていた。
以前の結希のオーラは、例えるなら精神力を燃料に燃え上がる火だった。
それが、今のオーラは結希と完全に密着して、
熱を内部に秘めているような形をしている。
より研ぎ澄まされ、隙や無駄が省かれたイメージだ。
隙や無駄は、いうなれば気の迷いだ。
思えば彼はいつも、何かと何かの狭間で迷っていた。
葵は結希の変化に合点がいった。
きっと、彼は彼なりに何かを決めたのだろう。
再会の場面で、結希だけが歩いて来てくれた、
ということになっては申し開きもない。
遅ればせながら、葵も一歩を踏み出した。
「結希」「葵」
向かい合った2人が、同時に口を開いた。
気付けば彼の腕の中にいた。
結希の迷いのなさに、わかっていても戸惑わざるを得ない。
「ゆき・・・」
「また会えて、良かった」
結希のかすれた声と熱い体温が、葵の涙を押し出した。
「ごめんなさいぃぃ・・・」
ずっと言いたかった。
何度謝っても、足りなかった。
「ごめんねぇ。結希っ」
「いいんだ。僕もごめん」
「ううん。私の方が悪い。
極悪人よ。私は」
「ええ? い、いや。そんなことないよ・・・」
「クロエさんのこともっ。
スカウトさんのこともっ。全部私のせい」
「ちょっと待ってよ。違うよ」
「それなのに、逃げてごめんなさいぃぃ」
「あのっ! ちょっと待ってっ!」
肩を掴まれ、強い力で引き剥がされた。
彼の頬は朱に染まっていた。
葵は当然のことだと思い、頭を下げようとする。
そこへ結希の手が伸びてきて、顔を両側から挟んだ。
「ぶえ・・・?」
頬っぺたの皮を中央に寄せられ、唇がぐにゅっと突き出る。
「うっうぶぶぶ」恥ずかしかったが、
彼の手を退けることは、今だけはどうしてもできない。
仕方なくものすごく変な顔をしているだろうそのままの状態で、
葵は結希を見つめ返した。
「葵はさ。
おこがましい、と思うよ」
彼の手は力を失ったが、頬に触れたままだ。
「おこがましい?」
「うん」結希は素早く首肯した。
自分に責を置くことすら、おこがましいというのか。
ショックのあまり言葉を失うが、彼には続きがあった。
「僕は、僕の判断で、ここの人達を助けようって思った」
涙を拭ってくれる優しい指先。
「で、でも、私が言ったのがきっかけで」
「だとしても、最後に判断したのは僕だ。
みんなもそうだ。
それぞれがどうにかしようって気持ちで、取り組んだんだよ」
彼は毅然としていた。
「でも、クロエさんが」
言い募ると、
「クロエさんのことも、葵だけのせいじゃない。
僕が強かったら、あんなことにはならなかった」
結希は穏やかだが隙のない口吻で言った。
「結希は悪くないよ」慌てて言い返す。
「じゃあ、葵だって悪くないだろ」
彼の白い額が光った
「みんなそれぞれが命がけで頑張った。
それを自分一人で背負うなんて、おこがましいよ」
結希の目が真っ赤になっている。
「クロエさんの死は、君だけのものじゃない」
ああ、私はなんて未熟なのだ。
全部自分一人が背負ったつもりになって。
彼の言う通り、自分は本当におこがましかった。
「ごめんなさい」
結希の手が、下げた葵の頭にのせられた。何だかぴりぴりする。
「葵のその『目』が負担だった」
「え」
「何でもかんでも、見抜かれているみたいで、辛かった」
「ご、ごめん」
「でも、辛かったのは、自分のせいだったんだ」
「自分のせい?」
「僕がちゃんと正直じゃなかったから。
だから僕は葵の『目』が嫌だった。
でも、結局それって、自分の責任でしかなかったんだ」
彼の視線が熱のように伝わってきた。
「僕は、葵の『目』に対して、いや、葵自身に対して、
ちゃんと言葉にしなきゃいけない」
「言葉にする?」
「うん。
僕は負けない。もっともっと強くなるから。
だから、力を貸してほしい」
言葉はすべて葵の琴線に触れるものだった。
この人は、なんてすごい人なんだろう。
頭がぼうっとする程の感動があった。
「それとさ、好きだよ」
葵は結希の胸に顔を埋めた。
「わああ・・・・あああああ・・・なんなのなんなの?」
恥ずかしくて顔があげられなくなる。
「い・・・いま?!
いいいいいぃぃ、今なの?!」
「だ、だめだった?」
「だめじゃない。だめじゃないけどっ」
そこへ従者達がやってきた。
<よかったにゃ~>
<これで一安心ですね>
銀が結希の顔を舐める。
<丸く収まったか。
さすがは若だな>
近くまできた銀の目は、寒気がするほど優しかった。
2人は手と顔を向かい合わせて。
「ただいま、結希」
「おかえり、葵」
ありがとうございました。
106話は前後編になっております。
後編もすぐに更新をいたします。




