103話 月子 結希
りーん、りーんと、鈴の音が聞える。
「・・・」
2人で禅を始めて丸1日が経過した。
呼吸に集中していると、
自らの体と目の前にある川が、少しずつ同化していくのを感じた。
濁り滞っているように見えるが、この川は流れを完全に失ったわけではない。
川と同化した意識は流れを遡り、原流へと向かい始めた。
川は幾度も支流を作りながら、1つの山へ繫がっている。
山からいずる清流は、目映い程の美しさだった。
月子は清流に身をゆだねた。
感動しながら、父と母たる清流の懐で抱かれた。
もといた川とは違い、そこにはたくさんの魚や虫や木々があった。
いつの間に、あれだけの濁りへと姿を変えてしまったのだろう。
いや、変わったのではなく、
時間の経過とともに、そうなっただけだ。
変わったと思うのは、
ただ自分がそれを認めようとしなかっただけなのかもしれない。
失ったり、得たりしたように見えるものは、
実は表面的なものでしかなく、本質は何も変わらない。
月子は父と母たる清流の力を借りて、自然な流れを生み出すことにした。
力は上流から、下流へどんどん流れていく。
形にこだわるのはやめよう。ただ、そこに流れがあれば良い。
繰り返す自らの息吹が、それを証明してくれる。
自分はその中にいるだけなのだ。
◇
結希は月子に言われた通り、
あぐらをかいて背筋を伸ばし、深い呼吸を続けている。
そうしていると、何度も頭の中に心配事が浮かんできた。
満足に戦えなかった自分。
そのせいで亡くなったクロエ。
離れていった葵。
休まず頑張っている伊都子や紫、そしてソーニャとキーラ。
『3人』を押さえているスカーと清十郎。
言うことをきかない『雷竜』。
それらを、一旦こころの片隅へ棚上げする。
少しだけこころに余白ができる。
結希は、この方法がとても自分に合っていると思った。
こころいっぱいにあるものを手放し、
中身を無にすることで、余白が生まれていく。
余白は、結希の禅をさらに研ぎ澄ます。
余白こそが自らだと錯覚するようになった頃、
頭にあることが浮かんできた。
それは遠い過去の思い出だ。
自分の幼少期についてはあまり覚えていないから、
何だか勿体なくてその思い出を拾い上げることにした。
これはまだ幼い頃の記憶。
実家の食卓で、結希は背中を丸めて座っている。
正面にはよれよれのポロシャツを着た父親がいた。
水の音がしたので振り返ると、母親が台所に立っているのが見えた。
「良いことを教えてやろうか」
父親は言うと、台所にいる母親を見ながらテレビの音量を上げた。
父親の言う「良いこと」は、母親に聞かれては困る話題なのだ。
手招きをされたので、結希は父親の方へ乗り出した。
近付いた父親の顔は、宝物をこっそり見せる子どものようだった。
「なぁに?」
「父さんの恋人の写真だ」
見せてくれたのは、父親と知らない女が、
仲良さそうに映っている写真だった。
「イイ女だろ。
母さんには秘密だぞ」
知らない女は、父親よりも年上に見えたし、
お世辞にも綺麗とは思えなかった。
「・・・」
嬉しそうに笑っている父親へ、当時の結希はどんな反応をしただろう。
嫌悪感に顔を背けたか、それとも父親を批判する言葉を放ったか。
あまり覚えていない。
大人になり、いろいろなことを経験してきた結希は、
目を背けず父親の顔を見続けることくらいはできる。
父親は、相変わらず無邪気な子どもの顔をしていた。
結希が喜んで話に乗ってくるだろうと確信しているようだ。
ああ、確かに彼はこんな顔だった。
何の悪びれもせず、ただ結希と喜びを共有したがっている顔。
この不倫が母親を苦しめ、家族を追い詰めたことは間違いない。
だが。
父親には友人がいなかった。
当たり前だ。
子どもに不倫相手の写真を自慢するような男と
友人になろうとする人は少ない。
だからこそ、寂しくて虚しい孤独な父親は、
たったひとり関わりのある結希と、
喜びを共有しようとしたのかもしれない。
ほかならぬ結希に。
だからといって許される行為ではない。
しかし、水面下にあった父親の感情や意図に対して、
結希はただ、『そうだったのだな』 と思うことができる。
「・・・」
沈黙の最中、哀れで醜い父親の笑顔をじっと見つめた。
このくそ野郎が、結希にとってはたった一人の父親だった。
「で、楽しかったのかよ?」
結希は確かにそう言った。
葵に出会い、たくさんの大切な人達に出会い、
孤独の本当の苦しさに気付き、
大切な人を無くし、時間と命が有限であることを知り、
戦うことの恐怖を知った結希でなくては、この言葉はありえなかった。
多くの人が体験し、地上に蔓延する数えきれないほどの過去の憂いは、
このようにして流されていったに違いない。
周りには光が溢れている。
清々しい水の流れも感じる。
血ように馴染んだ雷の力が、結希の生命を前へ促そうとしている。
目の前をゆっくりと泳ぐように、
あの赤黒い『トールの雷竜』が通り過ぎていく。
痛々しい赤と黒が、彼の鱗の大半を剥いでいた。
だが彼は、この上なく不遜で凛々しい。
雷が落ちてきて、背景を真っ二つに切り裂いた。
『雷竜』は、次の場面へ向かう準備をしている。
結希は、彼の誘いに乗って進んでいくことにする。
真希子さん。
それが上司の名前。
人形のように綺麗な人だった。
そして、恐ろしい程、間違いを嫌う人。
本当に、ほんの少しのミスも許さないから、
同僚達はいつも残業して、間違えの原因を探さなくてはならなかった。
彼女の下で働くみんなは疲れ切っているように見えたが、
結希だけは苦にしない。
思春期に味わった苦しみに比べたら、取るに足らない負担だった。
気付いたら結希は、真希子の完璧なまでの正しさに惹かれていた。
真希子の姿は両親を反面教師にしてきた結希の理想を、
体現したようだったからかもしれない。
真希子はいろいろな話を結希にしてくれた。
幹部のパワハラとセクハラ、別れた旦那のこと、
会うことのできない子どものこと、そして孤独な自分のこと。
ただ彼女が愚痴を吐き出しているだけだったとしても、
言葉をかけてくれることが嬉しかった。
生まれて初めて手料理を振る舞われた時は、言葉にならなかった。
やがて結希は真希子を信じるようになる。
信仰、盲信と言ってもいいのかもしれない。
真希子が会社と自分を裏切っていることが分かっていても、
何かの間違いだろう、心配はただの杞憂なのだと、
必死で思い込もうとした。
結果としてやはり結希は裏切られた。
人生で2度目となる裏切りだった。
赤黒い『雷竜』が目の前に舞い降りてくる。
雷の鱗が全て剥がれると、
『雷竜』は輪郭を変え、真紀子の姿を形作った。
「・・・そうか」
結希の中には、こんなにも鮮明な未練があったのだ。
自分の中にある赤と黒を、
『雷竜』が引き受けてくれていたことに気付く。
ずっと、彼は苦しんでいた。だから力もうまく扱えなくなった。
「ごめん、もう大丈夫」
一歩を踏み出した。
真紀子にはきっと何かを犠牲にしても、達成したいことがあった。
それが一体何なのか、今の結希には知る由もない。
「でも」
彼女がどうあろうと、残された結希がすることは変わらない。
ただ、立ち直るのだ。
自分が大切に思う誰かのために。
それ以上に、自分自身のために。
真紀子の肩に触れると、結希は彼女の身体から赤と黒をはぎとった。
これは、自分を裏切った両親と真紀子への、失意と憎しみ。
触れているだけで、指先が溶けていきそうだ。
「・・・ぐ」
意を決する。
その赤と黒を、結希は頭の上から被った。
この痛みは、すべて自分のものだ。
誇りにして、生きていくのだ。
◇
月子はゆっくりと目を開けた。
なぜだろう、目には涙が溢れている。
隣にいる結希を見たら、彼もたくさん泣いていた。
「佐藤さん」彼が目を開く。
なんて綺麗で、壊れてしまいそうな涙なのだろう。
「あ・・・はい」
彼は慌てなかった。「でも」
「でも?」
結希が濡れたまつ毛を拭う間、月子は待った。
彼を見ていると、こちらの方が泣けてくる。
「なんか、昔を思い出したんです」
「昔?」
「とてもいい思い出で」
「そうですか」
自分も、夢を見ていた。
父と母に抱かれ、清流を流れていく夢。
結希が前を向いたので、月子もそれを追った。
雲一つない晴れだった。
「私も、水を感じることができた」
結希が身じろぎした。
「わ。月子さん。
水が」
川の水がお尻まで来ていた。いつの間にか増水したのだ。
「・・・わぁ、大変ね」言いながら、頬が緩む。
月子は懐かしい気持ちになって、そっと水面に触れた。
「月子さん、いいんですか。
ずぶ濡れですよ」
水遊びを始めた月子を、結希は少し訝しんだが、
「ふふ。
そうですねぇ」
続けていると静かに隣へ座ってくれた。
「ああ・・・気持ちいいかも」
「でしょう?」
川の水は澄んでいて、流れがある。
「ん・・・?
綺麗になってる」
結希が言った。
「え?」
「水が、綺麗ですよ。前は濁っていたのに」
「そうですねぇ」
光に反射する水面の奥に、数匹の魚を見つけた。
「魚、いたんですね」
「そうですねぇ」
川を見ていると胸がいっぱいになり、また涙が出てきた。
彼もずっと泣いていた。
「お腹、空きましたね」
泣きながら2人は顔を見合わせて、また笑った
しばらくすると、一緒に岸へ向かって歩き出そうとした。
その時だった。
遠くから地響きのようなものが聞えて来た。
何気なく、結希の背後に伸びている上流に目をやる。
すると、月子はとんでもないものを目にした。
「さ・・・・佐藤さん」
地響きのような音と共に、
ものすごい勢いの鉄砲水がこちらに向かってきている。
「な、ななな、なん・・・!!」
高さは3メートル以上、大きさは川幅を越えている。
巻き込まれたら死ぬかもしれない。
月子は悲鳴を上げた。
「き、きゃあああぁー!!」
「月子さんっ!
とにかく、逃げないとっ!」
結希が素早く月子を抱え上げた。
月子は必死で結希にしがみつく。
結希は川岸へ逃れようと思ったようだが、鉄砲水の方が速い。
「まに、あわない・・・っ」
無理だと判断して、下流に向かって浅瀬を走り出す。
「うおおおおおっ」
後ろを見ると、水がすぐ背後まで迫って来ていた。
「きゃあああっ!」
「どうなってますかっ?!」
「き、来てますきてますぅっ!」
瞬間、彼の身体に雷が生じた。
間近くで黄金の花火が炸裂したように見えた。
『雷獣』の力だ。
結希と月子の身体が、信じられないスピードで加速する。
雷鳴が響き、踏む抜いた石が砕け散り、さらに速くなる。
月子は結希の踏み込みに合わせて、体重移動をした。
2人の身体はさらに軽くなり、風のように進んでいく。
後ろを見ると、鉄砲水との距離がわずかにひらいていた。
月子は返陽月に触れた。
「私が・・・私のせいだ・・・呼んだから」
「呼んだってっ、何をですか?!」
「私が、呼んじゃったみたい!
あの、水を」
「ええ?!」
話している間に結希の背中や肩を捕まえようと、
水が左右から流れてきた。
「つ、つき、こさん・・・っ。
どうにかならなんですかぁ?!」
「そ、そうね。どうにかしなきゃ!」
その時月子は、水流のひとつが大きな魚の姿をしているのを見た。
「・・・ん?」
大きな魚の姿をした水は、結希の左右で飛び跳ねながらついてくる。
「あれって、お魚の群れなんだ。
でも、水のお魚だから、水ってこと?」
頭がこんがらがってきたとき、
一際大きな水魚が隣に着水して、巨大な波を作った。
その波が、数えきれない程の水魚たちを噴き出させた。
「まずい!」
飲み込まれるのを避けるため、結希が石を踏んで飛んだ。
そこへ群がるように小さな水の魚たちが飛んでくる。
まるで戯れるように。
水魚の体当たりを受けて、2人は大きくバランスを崩し、
空中に投げ出された。
「うわああああ」
「きゃああああ」
2人は抱き合ったまま、錐揉み状態になりながら落ちていく。
着地する場所に足場は無かった。
そこへ怒涛のごとく迫る水魚達。
だめだ、このままでは飲み込まれる。
「っ!!」
結希にしがみついていた月子は、手を放して返陽月を抜いた。
あの水魚達は、間違いなく月子が呼んだものだ。
だから、あの力は月子の一部である。
一か八か。
「でえええやあああああああ!!」
月子は渾身の力を込めて、『返陽月』を振り下ろした。
鈴の音、渦巻く水流が剣先に生じる。
片腕の握力では耐えられないほどの圧力がかかっていた。
「うわあああああああ!!」
水流は水底から救いあげるように水を奪い、
巨大な何かを作り出していく。
月子達の足元に、虹色の立派な鯉が頭を出した。
「え」
そのまま落ちると、サーフボードくらいある虹の鯉が、
月子達を水面まで持ち上げてくれた。
鯉はすぐに、鉄砲水に負けない速さで泳ぎ始めた。
「し、沈まない・・・」虹の鯉には薄い被膜があった。
震える手で鯉に触れると、その身体は水そのものだった。
深いため息をつく。
「これ・・・月子さんがやったんですか?」
月子は不明のまま頭を振る。
「わからないです。夢中で。
でも、何だか、言うことをきいてくれそうな・・・」
月子が返陽月を左右に振ると、
虹の鯉が手綱を引かれた馬のように従った。
「すごい。
やっぱり、月子さんの力なんだ」
「そ、そうなのかな・・・」
スピードを上げつつ、大きなカーブにさしかかった。
「曲がりますっ」
月子は結希につかまるように言うと、体を傾けた。
するすると鯉が水面を流れていく。
「よしっ」
結希が追ってきている水魚の大群を見た。
「月子さん。あいつをどうにかしないとっ!」
「やってみますっ」
月子は目を閉じた。
あの鉄砲水を呼び込んだのが自分で、
虹の鯉を生み出したのが自分で、
自分と『返陽月』には無限の可能性があると信じ込もうとした。
返陽月を鯉の頭に差し込んで、ゆっくりと引き抜くと、
折れたはずの返陽月の切っ先が、
高度に凝縮された水によって復元されていく。
それは自然の息吹を無限に含んだ水の切っ先だ。
「佐藤さん」
月子は追いすがって来る鉄砲水の中心にいる、
一際大きな水魚を指さした。
「力を貸して」
見据える月子の表情を察して、雷を全身に纏った結希が頷いた。
「わかりました。
いきましょう」
結希は月子を抱き上げると、雷の力を極限まで高めていった。
雷鳴が轟くと同時に、虹の鯉が尾を振り上げた。
水飛沫とともに結希と月子は宙を舞い、水魚へ一直線に向かう。
「せーのっ」
2人は空中で体勢を整えると、互いの足裏を合わせた。
「月子さんっ。
いっけぇぇぇえええ!!」
月子は前へ飛び出した。
「やぁぁぁあああああああ!!」
突き込んだ水の切っ先が、水魚へ吸い込まれていく。
弾けるような衝撃が月子の体を突き抜け、
瞬く間に鉄砲水と水魚達は、意志を失った水へと戻った。
「わあああ・・・」
残された反発力で、月子は空中に放り出された。
「・・・だぁぁああ・・・」
そのまま落ちると、今度は2転3転しながら水中へ飲み込まれた。
月子は水の中で音が消えるのを感じた。
するりと何かに頬を撫ぜられて、ゆっくりと目を開く。
穏やかな姿へ変わった水は、透き通るように美しかった。
水中に差し込んでくる光を浴びて、返陽月が煌めいた。
返陽月は折れてもまだ刀のままだ。
月子は真っすぐに手を伸ばしてみた。
手の甲が何かに触れたと思うと、あの虹の鯉が姿を現した。
鯉の表面に触れると、虹が川中に広がっていく。
見えたのは鮮麗な自然の姿だった。
こころが、これまでになく澄んでいくのを感じる。
月子は自らの全てを剣に捧げるべきだと思ってきた。
そうでなくては、陽子や祖父の期待に応えられないと思ったからだ。
しかしそれこそが、月子に硬さを生む原因となった。
強さのためだけではなく、
自分がじぶんとしているために、剣はある。
幼い頃、祖父に教えられたはずなのに、忘れていた。
これからもよろしく。
彼は目の前で一度身を翻すと、川下の方へ泳いでいった。
尾ヒレが手を振っているように見えたので、月子は笑みを浮かべた。
「ぷはっ」
水面に顔を出すと、流されていく結希を見つけた。
「あ・・・大変っ」
月子は返陽月を鞘に納めると、結希の元まで泳いだ。
「佐藤さんっ」
全身を脱力している彼の首を抱える。
「ううう・・・すみません」
力を使った反動で全く体を動かせないようだった。
ゆっくりと横泳ぎをして岸に向かった。
岸に辿りつき、結希を横たえると月子はその場に座り込んだ。
結希だけではなく、月子も疲労困憊だった。
「し、死ぬかと思った」
「私も・・・」
2人はただ荒い呼吸を繰り返すにつとめた。
それは苦しいはずなのに、清々しい時間だった。
「月子さん」
大の字で、天空を見つめたまま彼が呟いた。
「ん?」
「限界を超えました」
「・・・あっごめんなさい」
結希が慌てて手を振った。
「違うんです。
これ以上、無理だと思った限界を、越えたんです」
震える手で髪をかき上げた結希が言う。
口許が笑っていた。
「確かに、すごかったですねぇ」
月子を抱えて、鉄砲水よりも速く走った結希。
あまりにも現実離れしていて、思い出すと笑ってしまう。
「月子さんも、すごかったですよ」
「そうかな?」
「そうですよ」
結希が見ている空には、5色の虹がかかっていた。
「私、佐藤さんに言いたいことがあったんです。
でも、ずっと声が出せなかったから、言えなかった」
結希が身体を起こした。
「何ですか?」
不安そうにしている結希に、月子は笑顔を向けた。
「みんな、あなたを必要としています」
「え・・・」
結希が豆鉄砲をくらったような顔をしたので、月子は吹き出した。
「そんなに笑わなくても」
「ごめんなさい。
でも、ずっと言いたかったから」
彼の十分な深さになった笑みを見れた月子は、
あまりに嬉しくなって寒気がした。
「それにしても、さっきはすごかったですねぇ」
「ええ・・・ホント、死んじゃうかと思った」
「ほんとそうね」
びしょ濡れのまま、いつまでも空を見ていた。
ありがとうございました。
次話も更新を致します。




