100話 月子 結希
しっかり休養を取ったおかげで、歩くことができるようになった。
紫と伊都子は、キーラの手伝いや家事に追われて
忙しそうに走り回っている。
こころ苦しかったのは、彼らが月子の手伝いを断ったことだ。
いくら言っても、絶対に手伝わせてくれない。
仕方なく、辺りを思うままに歩くことにした。
置き場のないこころと相反するように、天気はとても良かった。
校舎裏には、妹との戦いの痕跡があった。
それらはありありと、月子の剣の傲慢と意志の弱さを追跡させる。
呼吸が苦しくなってきたとき、
裏門のそばに少女が立っているのを見つけた。
広い距離を置いて2人の視線が交わる。
月子は会釈をしたが、彼女はそれに反応しなかった。
「・・・」
少女はこちらの視界から外れるように、
なおかつこちらに近付かないように、大きく迂回して離れていく。
彼女の移動を妨げないよう、月子は逆側に歩いていった。
多量の血痕と焦げた地面に辿り着く。
ここは、自分が斬られた場所だ。
地獄に落ちていきそうな気分を救ったのは、水の香りだった。
近くに、水が流れている場所がある。
「うん」
わずかに香る水の匂いに導かれ、ゆっくりと歩いた。
それこそ、月のようにゆっくりと。
校庭に出ると、ソーニャが走ってきた。
「月子―」
「ソーニャちゃん」
彼女は月子が話せるようになったことを喜び、
ペットボトルの水を飲ませてくれた。
「ありがと」
「いいよー」
細い髪の毛が汗で濡れて地肌が見える場所を、
手のひらで撫でてみた。
ソーニャは喜び、月子も少しだけ喜んだ。
少女と別れてそのまま校門を出ると、
目の前に横たわる川が飛び込んできた。
幅広で立派な川だった。
声を出して泣きたい気持ちを押さえて、
よろよろとガードレールに手を添えた。
ゆっくりと跨いで、乗り越えようとしたとき、
「わあっ」盛大に転んだ。
幸いなことに、ついたのがお尻だったことと、
下に草が生えていたことで、大事には至らない。
「・・・ふ」
失笑しながら―――するしかない―――ゆっくりと立ち上がり、
川の畔へ向かう。
水は音もなく深緑色に濁っていた。
すぐに汚れた泥のような匂いがしてくる。
月子はそこに座ると、返陽月を脇に置いた。
ふと、左腕を見る。
右手があるべき場所に触れようとしたが、もちろん何も掴めない。
砂のような不確かさが、足元を崩すごとく不安を浴びせてくる。
患部に巻かれた包帯を取り去り、ポケットに仕舞う。
月子は剥き出しになったかつての切断部に触れようとした。
傷はもうふさがっているから、大したことではないのかもしれない。
だが、月子にとっては、勇気を必要とする作業だった。
「くっ・・・うう」
目をきつく閉じて、唸りながら指先で触れると、
未知の領域が広がっていた。
この部分は柔らかく、暖かかった。
触れていると、切断面は腕に向かって平行ではなく、
肘の外から内に向かって、やや斜めになっていたと知る。
こうなっていたのか
というのが月子の率直な感想だった。
もっと、いろいろな感想が出ると思っていた。
マイナスイメージの、何か、恐ろしいものが湧き出てくるような。
だから、自分の率直さに驚く。
手の平で包むように触れたり、指先でなぞったり、
つついたり、叩いたりしてみた。
どのようにしても、事実は変わらない。
しかし、時間を追うごとに率直さを失っていった月子は、
次のように思った。
こうなってしまったのか。
たちまちこころは平衡を失い、失意に溺れ始める。
剣術を、産土流を失ったのだという実感が溢れてくる。
自らの感情に翻弄されて泣いた。
「・・・ううう・・・」
拳の中で、爪が突き刺さる。
地面に叩きつけようが、叫ぼうが、やはり何も変わらなかった。
◇
結希は紫に荷物の整理を手伝うと申し出たが、
やんわりと断られた。
「もういいって。
十分手伝ってもらったよ」
食事の準備をしている伊都子も同様だった。
「佐藤さんはゆっくりしてて」
自分から何かを見つけるような精神力は無かった。
与えられるものがない結希は、すぐに手持ち無沙汰になった。
こんなとき、結希は自分がからっぽな人間だと思い知らされる。
歩くと裏門の近くに、空っぽの花壇を見つけた。
学校に生徒が通っていた時は、ここに花でも植えられていたのだろうか。
「・・・」
会社員だった頃、結希は指示待ち人間だった。
君には言葉がない。
言葉をしっかり持った方がいいよ。
言葉がないのは、意志がないのと同義かもしれない。
葵との最後のやり取りが、凄まじい勢いで脳裏を焼いた。
彼女には強い思いがあった。
助けてくれたら良かったじゃない
羽生先生も、植山先生も、クロエさんも
あんたがスーパーマンみたいに、全部全部
助けてくれたら良かったんだ
何が違うって言うの?
結希に何がわかるの?
理屈もないくせに、感情だけで否定しないで
私は行く。ついてこないで
自分の奥底から湧き出る思いを、彼女は言葉にしていた。
その言葉に対して、結希は何も言い返せなかった。
あの時の自分は、ただ丸く収めようとするだけで、
伝えるだけの何かを持っていなかった。
自分は薄っぺらで、人に伝えられるような言葉を持っていない。
だから、ダニエルにも負けたのかもしれない。
悔しい気持ちよりも、当然だと納得する気持ちの方が強かった。
何の思いも言葉も持たずに、彼と戦った自分がおこがましくもある。
結希は少し盛ってある土の上に、長息を落とした。
みんなを守りたいという気持ちは確かだが、
それだけでは圧倒的に足りなかった。
◇
月子は乱れたこころを落ち着けるため、
姿勢を正して深呼吸をした。
こころを落ち着ける、禅という方法で。
禅は。
鍛錬に倦んだ姉妹に、祖父がよくやらせてくれた。
「自分の心臓と、呼吸に集中しなさい」と祖父は教えた。
最初は退屈過ぎて、小学生だった月子は5分で音を上げたものだ。
自分の呼吸に集中するだけで、
あとはひたすらじっとしているなんて、あまりに苦痛だったのだ。
月子は「これなら、鍛錬の方がましです」と、
陽子は「テレビ見たい」とそれぞれ祖父に言ったような記憶がある。
そんな2人に、「まぁ、そうだろうな」と祖父は同調した。
「世の中には、いろんな面白いことがある」
優しい口調だった。
「だが、お前たちは、面白いと思ったものが、
本当に面白いことなのか、考えたことはあるか?」
祖父の言いたいことがわからず、姉妹は首を傾げた。
「正しいと思ったことが、
間違っているかもしれないと思ったことは?」
正義はいつも自分のこころにある。
それが矛盾することなど、ありえない。
「こころが嘘をつくなどありえません」と月子は言った。
未熟な月子を可笑しく思ったのだろう、祖父は少し笑った。
当時は子ども扱いされて嘲られたと思ったが、
大人になって、その笑みが祖父自身に向いていたことに気付く。
「若い頃、俺はたくさん間違えた。
面白いと思っていたことが、実は面白くないことだと
気付いたこともあった。
要するに、道に迷ったんだ」
祖父は姉妹の頭をわしわしと撫ぜた。
「道に迷った時は、これをしろ。
今は、まぁ、形だけで良い」
剣術については峻烈な祖父だったので、
形だけで良い、と言われたのは意外だった。
月子は思慕を丁寧に折りたたんで、こころの隅に置く。
禅をするために。
大きく息を吸う。
手足がじんわりと暖かくなるのを感じる。
すると、今になって少しだけ、
祖父の言っていたことがわかるような気がした。
「・・・ふぅ」
呼吸を続けていると、頭の中にたくさんの後悔が湧いてきた。
焦ってはだめだと自分に言い聞かせるが、止まらなかった。
ああ、雑念が多すぎて困る。
しっかりとした呼吸ができなくなる。
きちんとしようとし過ぎているのかもしれない。
完璧を求めてはだめだ。
なぜなら月子にはもう、左腕がない。
大事なものが欠けてしまった身体なのだ。
辛い気持ちに飲み込まれそうになる。
「だめだ。
もう一回」
何度も何度も、一から戻って呼吸を繰り返した。
◇
結希は歩き続け、彼女と最後に話した校門の前までやってきた。
そうすることで、自分の中から言葉が生まれる気がした。
ああ言えば良かった、こう言えば良かった。
いかにも些末な答えたちが、頭に浮かんでは消えていく。
だが、ふと考える。
あの時うまいことを言って、その結果葵が帰って来たとしたら。
結希は、ほっとしただろうか。
2人に、その先はあっただろうか。
人の歴史の中には、困難には意味があると言った偉人達がいる。
結希や葵の苦しみにも、意味があるのだろうか。
少なくとも、『葵が出て行ったことで、
結希は考えるきっかけを与えられた』という意味がある気がする。
そんな考え方が許されるのならば、だが。
「そうか」
言葉や意志を持つ意味を、失敗をしないための方策だと思っていた。
しかし、それは違ったのだ。
言葉や意志は、その後の成否に関係なく、ただそこにあるものだ。
自分が自分であるために、ただあるものだ。
葵は、葵が葵であるために、此処を出て行った。
だったら、自分は。
「うん」
校門を出たあと、導かれるように歩いた。
川がある。
昼間なのに、夜のような色をして、横たわっている。
ガードレールから下を覗くと、降りたところに月子の姿があった。
「月子さん」
声を上げると、振り返った月子が微笑んだ。
邪魔をしては悪いので、会釈だけをして立ち去ろうとすると、
月子はちょいちょいと手を動かして手招きをした。
「お邪魔じゃあないですか?」
自分の顎を指しながら聞くと、
月子は微笑みをさらに綻ばせた。
「邪魔じゃないですぅ」
月子の所まで降りていくと、隣に立った。
「そういえば、月子さん・・・声」
初めて聞いた月子の声は、
刀を振っている姿からはまるで想像もつかない、
のんびりおっとり優しい声だった。
唖然とした結希に、月子が首を傾げる。
「どうしたんですか?」
「い、いや、思ったような声と違ってて」
彼女は恥ずかしそうに身を捩り、背後で長い髪を揺らした。
「どんな声を想像していたんですか?」
「・・・もっと、ビシっとした感じかな・・・」
月子は笑って結希の肩に肘をくれた。
「猫かぶりがばれちゃいました。
実は・・・こんな感じなんです。
ぼうっとしてて、よく祖父に稽古中怒られて」
2人の視線は自然と、流れの見えない川を臨んでいた。
「ここ、こんな風になっていたんですね」
「ええ」
気軽にしゃべる月子の喪失した腕を見て、
結希のこころは憂きに落ちた。
腕を切り落としたのは、月子の実の妹である陽子だ。
こちらの思いを察し、わずかに陰りを見せた月子が口を開く。
「禅を、していたんです」
乾いた声だった。
「禅?」
「はい。
ずっと前、祖父に教えられたんです」
懐古する目が、川よりさらに奥を見つめている。
「禅って、確かお坊さんがやるやつですよね?」
「そうそう。
やってみたくなっちゃって」
気軽な様子に引き摺られるようにして、結希も笑顔になる。
だが、美しい青空のさらに奥に、漆黒の宇宙が広がっているように、
月子の笑顔の裏には、深い傷があるように思えてならない。
「でも、久しぶりにやったら、全然できないんですよ」
「すごいなぁ。月子さんは」
「すごくなんて、ない」ふと見た横顔は、やはり蒼白であった。
声には、静かに滞り続け、
こころの奥に堆積したかのような怒りが込められている。
静かだからこそ、秘められた感情の深さがうかがえる怒りだ。
「佐藤さん・・・あの」
「はい」
「一緒に、やってみませんか?
私、教えますから」
「え・・・僕も?」
「はい。
私ひとりじゃあ、何だかうまくいかなくって」
結論からいうと、いつも孤独の淵から力を得ていた結希にとって、
月子の提案は素晴らしいものだった。
誰かと一緒に困難を乗り越える、
または困難に対峙するという初体験が、
2人の強さに幅と、新たな発見をもたらす。
「ぜひ、お願いしますっ」
勢いよく結希が言うと、月子は目を見開いて驚いたが、
すぐに笑顔で頷いた。
ありがとうございました。
100話まで書けたことがうれしいです。
次回もすぐに更新を致します。




