10話 結希
10話目です。よろしくお願いします。
翌日はいつもより早く目覚めた。
朝食を摂って体を念入りにストレッチすると、
かなり体の調子が良いことが分かった。
体を動かすごとに、血流が増えて、どんどん気分が良くなっていく。
筋トレをして少し休み、結希は新調したトレーニングウェアに着替えた。
今まで着ていたジャージとは違い、お洒落なデザインになっている。
いつもの運動公園に到着すると、
誰もいない隅っこでダッシュをする。
どれだけ走っても、結希はあまり疲れない。
結希は最近、身体の感覚が以前とはかけ離れてきているのを感じている。
自分の体力がどのくらい減って、どのくらい残っているのか、
予想が出来ない。
『困難を与えられるほどに強くなる肉体』は、
結希の体を少し休むだけで全快させ、
トレーニングを繰り返す毎に強くたくましくしてくれるが、
成長の幅が大きすぎるため、結希の認識が追いつかないのだ。
1時間ほど全力ダッシュを繰り返していると、声をかけられた。
中年の男性だ。
「お、おい。あんた」
「は、はいっ」
直立になった結希が緊張しながら返事をすると、
男性は顔の前で手を振った。
何かを咎めようというつもりではない、というジェスチャーだ。
「ずっと走ってるよね。何のスポーツ?プロ?」
「え・・・いや、えっと、健康のために・・・」
男性がぎょっとした顔をする。
「うそうそ。あんなに走ってるのに」
「いや、本当にそうなんです」
男性は何度か食い下がるが、結希が折れないので仕方なく頷いた。
「じゃあさ、メニュー考えてあげるよ」
男性はサッカー観戦が好きらしく、
プロスポーツ選手のトレーニングに詳しいらしかった。
スポーツドリンクをおごってもらい、
サーキットトレーニングというものを教えてもらう。
「やってみます」
頭を下げると、「俺、ここにはよく来るから。頑張ってね」
というと男性は嬉しそうに手を振った。
話が終わった後、男性は何が目的だったのだろうか、
と結希はふと思った。
男性から教わったサーキットトレーニングというものを
試しながら考える。
男性は何も結希に求めなかった。
もしかしたら、ただの好意だろうか。
そうかもしれない。
利害関係でしか好意の理由を探せない自分に辟易する。
「確かに、僕はそういうところあるかも」
一通りやってみると、体内のカロリーを使い切ってしまったのか、
さすがに疲れてきた。
ふと、今朝のニュースで出ていた
~ギリシャ調の噴水公園が突如現る~
というテロップを思い出す。
男性にもらったスポーツドリンクを飲みながら、
結希は惹かれるように、
近所に出現したという噴水公園に向かっていく。
噴水公園には、ニュースの影響か、
不思議な光景を見に来ようと、たくさんの人だかりができていた。
人々は、楽しそうにスマホで公園を撮影している。
周りの迷惑にならないように気を付けながら、噴水に近づいていくと、
不思議な感覚があった。
暖かい、柔らかい。
近付く度に、結希の胸を安らぎが満たしていく。
なぜだか分からないが、この場所には妙な安心感がある。
結希は他の人もしているように、縁に腰かけて噴水の水に手を触れた。
人目があるにも関わらず、声をもらしてしまう。
「これって・・・・」
触っている間に、みるみる体の疲労感がとれていく。
間違いない、この噴水はトールが傷を癒した泉と同じものだ。
「こんなに・・・」
こんなにやさしいものは、きっとあの女神が作ったのだ。
結希は確信した。
無意識に笑みを浮かべた結希の隣で、
中年くらいの婦人が笑っているのが聞こえた。
結希が見ると、婦人は柔らかい笑顔のまま会釈をする。
戸惑いながらも会釈を返すと、「ここは良いわね」と婦人が言った。
教養のあるまなざしを噴水の方で一巡りさせてから、
また結希を見る。
突然全身に入ったふっと力が抜ける。
結希はご婦人の話しやすい雰囲気に後押しされて口を開いた。
「そうですね」
最近はこういうことが多いな、と結希は思う。
「ここは家から一番近い銀行だったから、よく通っていたの」
「そうなんですね」
「それが突然。こんな素敵な公園になるんだもの。
びっくりしちゃったわ~」
「そうなんですね」
「クロエです」
クロエと名乗ったご婦人は、手を差し出してきた。
結希は手を握りながら、「佐藤です」と言った。
「佐藤さん。下のお名前もお聞きしたいわ」
「結希です」
「字はどう書くの?」
結希が漢字を教えると、クロエは小さく唸った。
「いい名前ね。きっと良い親御さんなのね」
そんなことはない、と強く思う。
しかし、それをそのまま言う訳にはいかないので、
結希は苦笑いをして誤魔化した。
「私はそろそろ家に帰らなきゃ・・・いたたた」
腰痛があるのか、クロエは背中を押さえながら立ち上がった。
その時、結希は横顔に視線を感じた。
視線を巡らせると、前に立っていた女の子と目が合う。
「・・・・え」
まだ高校生くらいだろうか。黒いセーラー服を着ている。
結希はなぜか、女の子から視線を逸らせなかった。
女の子は、大きな輪っかのような縁の眼鏡をしている。
その奥にある瞳が、太陽に反射して琥珀色に光っていた。
琥珀色の目も、逸らさず結希のことをじっと見ている。
睫毛がとても長い。
「あっ・・・」
結希は我に返り、下を向いた。
女の子をじっと見つめるなんて、失礼なことをしてしまった。
「あ、あの」
視界の端に映った女の子は結希を見たままじっと佇んでいる。
結希は次第に恐怖を感じ始めた。
我慢できなくなって顔を上げると、
女の子は思ったよりも近くに来ていた。
その目はほとんどこちらを睨みつけていた。
「・・・・わ」
結希が声を上げると同時に、彼女が結希を指さした。
「あ、あんた!!1000兆人目でしょ!?」
大きな声で叫ばれた結希は目を白黒させる。
「え・・・あ・・・あの」
唖然としている結希の前を通って、
ゆっくりとクロエが女の子の元へ向かう。
クロエは笑顔をたたえたまま、
何やら女の子に向かって話し始める。
クロエに頷いた女の子は、再び結希を睨みつけてくる。
「えっと・・・あの・・・」
結希が口を開くと、頬を赤く染めたまま、
彼女は走り去ってしまった。
いったい、なんだったのだろうか。
結希がまだ茫然としていると、クロエが言った。
「佐藤さん。また後日、こちらにいらしてね」
思考停止していた結希は、その時どう答えたのか覚えていない。
気が付いたら結希は、岐路についていた。
もしかしたら、ここに来るまでに少し走ったのだろうか、
呼吸が大きく乱れている。
女の子の琥珀色の目を思い出す。
彼女を思うと、考えなくてはならないことがたくさんあるのに
頭がうまく働かない。
結希は茫然としながら、図書館に向かった。
以前、伊都子に教えてもらった個人用ブースに行く。
深呼吸をして、考えをまとめようとしたとき、
後ろに気配を感じた。
振り向くと、たくさん本を抱えた伊都子がこちらに声をかけようと
口を開けているところだった。
伊都子は静かに笑い、つられて結希も笑った。
「どうしたんですか」
小さな声で伊都子が言う。
なんのことだろうと思ったが、自分の手元を見て理解する。
本を一冊も持たずにブースに入って佇んでいたのだから、
伊都子が不思議に思うのも無理はない。
「いえ。ちょっとぼうっとしちゃってて」
「ああ。そうだったんですか。
難しい顔をしてたから」
伊都子は安堵の表情を浮かべた後、
口の動きで「あとですこしいいですか」と伝えてきた。
頷くと伊都子は嬉しそうに笑って、仕事に戻っていった。
伊都子を待っている間、サッカー選手の本を読んだ。
本はよくまとまっていて読みやすい上、
時折交える冗談や本音の語り口が面白くて、
あっという間に読了してしまった。
最近のスポーツ選手は、文才もあるのかもしれない。
全て読み終えた頃、伊都子がやってきた。
「あ、あの・・・今から休憩なんです。
お腹空いていますか? 近くにオススメの店があって」
小声で遠慮がちに言われてから、
それがどういうことか頭で整理するまでに時間がかかる。
理解した結希はすぐに赤面して俯いた。
伊都子が案内してくれたのは、
図書館から5分程歩いたところにある
小さなレストランだった。
入口には、どこから持ってきたのか、
長い間漂流していたような木の板が貼りつけてある。
そこには綺麗なゴシック体で『キッチンGAKU』と書いてあった。
中にはテーブル席が3つ、カウンター席が4つある。
落ち着いた内装で、よく掃除が行き届いている。
結希はすぐに静かなお店の雰囲気が好きになった。
勧められるまま、一番奥のテーブル席に座ると、
なぜか伊都子はキッチンのある場所へ入っていき、
水の入ったグラスを二つ、お盆に乗せてやってきた。
結希が首を傾げていると、伊都子は恥ずかしそうに言った。
「ここ、私の父親がやってる店なんです」
「ええっ。すごい」
結希は思わず声を上げて驚いた。
素直な感想だったが、伊都子は首を振って
「大したことないです。お客さんも常連さんだけだし」
音も立てずにグラスを置いた伊都子は、すぐに奥に戻っていく。
結希は座り心地の良い椅子に背をもたれると、
店内を見回した。
控えめだが上品なインテリアの数々が目に入る。
結希はその中でも、テーブル席の端に並んでいる、
2つの写真立てが気になった。
片方の写真は、女の子と背が高く髪の長い男が写っている。
小さな頃の伊都子と父親かもしれない。
先程見たゴシック体の看板が見えるので、
店の前で撮ったのだろう。2人とも良い笑顔で写っている。
もう一つは、家の前で若い男性と、女性が並んでいる写真だ。
男性の方は少し若いが、背が高くて髪が長いのですぐに分かった。
ならば、女性の方は伊都子の母親だろうか。
そこまで考えたとき、奥から声がした。
「手伝うって。いつもそうじゃない」
「いい。
今日はいい。お前はあっちに行ってなさい」
何度か押し問答が繰り返され、大きなため息が終了の合図となり、
伊都子が戻ってきた。
「追い出されちゃいました」
席に座りながら伊都子は大きくため息をついた。
ややあってから、結希の身体が写真立ての方を向いているのに
気付いた伊都子が、小さく頷いた。
「あれ、私と父です。もう一つは、父と以前結婚していた人です」
結希が伊都子に視線を戻す。
「素敵な人ですよね。写真だけでも分かるわ。
なんで別れちゃたんだか」
結希が何も言えずにいると、窓の外を眺めながら伊都子は言った。
「私、実は里子なんです。別れた後に、みたいなんですけど、
父に引き取られたんです」
結希の中で作り上げられていた、伊都子の人物像が崩れ落ちた。
大きな図書館の司書さんで、真面目に仕事して、
大人しい人だけど、本のことになると大きな声を出して話す、
可愛らしい女性。
自分からしたら、うらやましいくらい綺麗な人生を
歩んできたように見えていた。
しかし、伊都子は里子だった。
きっと、人に言えないようなたくさんの苦労をしてきたのだろう。
他人の人生は、外にいる人からは見えない。
そんな当たり前のことに今更気付く。
しかしなぜ、伊都子は会ったばかりの結希に
こんな話をしたのだろうか。
ただの世間話だろうか。
結希が口を開こうとした瞬間、奥からコック姿の男性が
皿をいくつも抱えてやってきた。
黒髪は白くなり、短く刈った髪型に変わっているが、
すぐに分かった。伊都子と写真に写っていた男性だ。
整った口ひげを上下させて男性が話し始める。
「今日のランチをご用意いたしました。えと・・」
「佐藤です」
「佐藤さん。
来て下さってありがとうございます。
お口に合うと良いのですが」
男性が話している間に、伊都子は立ち上がりお皿を取って
テーブルに並べていく。
結希はすぐに、柔和な雰囲気の男性が好きになった。
目の前に並べられたのは、ハンバーグにハーフサイズのオムライス、
コーンスープにサラダという豪華なものだった。
以前の結希なら食べきれなかっただろうが、
今なら腹八分目といったところだろう。
伊都子の方を見ると、サラダとオムライスが並んでいる。
「すみません。好き嫌いはありませんか?」
伊都子が気にした様子で言ったので、結希は頭を振った。
「好き嫌いはありません。おいしそう」
「そうですか。良かったぁ。それじゃあ、食べましょうか」
2人は食べ終えるまで、一切の会話をしなかったが、
気を遣う感じはしなかった。
残った水を一気してから、結希が「最近はコーヒーが苦手になって」
と言うと、伊都子が吹き出して笑った。
「ご、ごめんなさい。おかしかったですか」
「いえ、時間差がすごかったから」
伊都子はぱっつん前髪を揺らして、しばらく笑い続けた。
お皿を下げてから、テーブルを拭いた後、
伊都子は鞄から一冊の本を取り出した
それは以前読んだ、トールの本だった。
「これ・・・」
「昨日図書館で整理があって、この本は廃棄が決まりました」
結希は心臓を突かれたように息を詰まらせた。
このタイミングで廃棄なんて。
「そ、そうですか」
「調べてみたのですが、英語の本ということもあって、
貸し出しも長い間なかったみたいでした。
最後に、佐藤さんに読んでもらって良かったと思います」
言いつつ、伊都子は本を結希に差し出した。
「もしよかったら、この本は差し上げます。
特別な本なんですよね?」
伊都子の言葉を受けて、結希は沈黙した。
ゆっくりと本の表紙に触れてみる。
瞬間、噴水の前で会った女の子の大きな瞳が、
目の奥に浮かんで消えた。
「痛っ」
本に触れていた指先に、痺れるような感覚が走り、
結希は反射的に指を引く。
「どうしました?」
「い、いえ・・・」
結希は指先を撫でる。
一度読んだのだから、もうお前には必要ないだろう、
と本に言われたような気がする。
「・・・」
「井上さん。ありがとうございます。でも・・・」
せっかくの進言を断るのには憚られ、言葉を濁していると
伊都子が頷いた。
「わかりました。これは私が処分しますね」
少しだけ伊都子の頬が青く見える。
無理をしてでも受け取った方が良かっただろうか。
そこへ、丁度良いタイミングで伊都子の父親がデザートを持ってきた。
「これ、自家製なんです」といって指さしたお皿の上には、
真ん丸のアイスとウェハースがあった。
「すごい。自家製なんですね」
「そうそう。ミルクが濃厚ですよ」
伊都子が食べたのを見てから、結希も一口頂くと、
濃厚なミルクの香りが口内に充満した。
後味がまろやかに変化したのは、自家製ならではなのろうか。
「すごい。おいしい!」
あまりのおいしさに結希が興奮気味に言うと、
伊都子は何度も頷いた。
「よかったです」
食べ終えると、「今日はありがとうございました」
伊都子が丁寧にお辞儀した。
「いいえ。こちらこそ」
結希が財布を出そうとすると、伊都子が手を出して制した。
「翻訳してもらったお礼です」
結希が食い下がったが、伊都子は頑として受け入れなかった。
入口には伊都子と伊都子の父親が見送りに出てくる。
「また図書館で」
伊都子が言うと、隣の父親も頷いた。
結希はお辞儀をして、家路についた。
登場する人の台詞を考えるのが楽しいです。
このひとなら、どんなことを言うのかなって考えていると、
自分でも考えていなかった台詞が出てきたりして、驚くこともあります。




