はじめに 結希
はじめます。よろしくお願いいたします。
たくさんのことを教えてくれた、Tさんにささげます。
佐藤結希 23歳。
今彼は自宅アパートのクローゼット内で首を吊ろうとしている。
結希は利己的な両親の元に生まれた。
父親は仕事もせず、外に女を作って遊びで散財し、
母親は仕事をしない父親にどうにか仕事をさせる
理由作りのために、結希を産んだ。
しかし、父親は結希に大して興味を持たなかった。
父親の興味の対象は、もっぱら他所で作った女のことだったからだ。
母親はやがて父親が仕事をする理由として、
結希が全く役に立たないと気づくと、すぐに愛情をかけるのをやめた。
そんな両親に育てられるうちに、
自然と他人を信頼できなくなった。
結希は子ども時代の結希は他人と交わることを避けて、
独りで過ごしていた。
クラスメイトがそれぞれの友人と仲良くしている時、
結希だけが一人でいることは、自分をできそこないだと
認めざるを得ない体験のひとつだった。
中学生になる頃、参観日や運動会に一度も来ない両親が、
他の両親とは違うことに気付いた。
約束を反故にされることは数知れず、
そのうち結希は両親に期待するのをやめた。
だから大学へ進学するために
高校1年の春からアルバイトを始めた。
年寄りにレトルト食品を届けるアルバイトは、
人との交流を避けて生きる結希には適当だった。
高校卒業後は、貯めたバイト代で半ば家出をするように、
県外の大学に進学をした。
最後に家を出る日、結希が見たのは、
女に自慢するために購入した高級外車を磨いている父親の後ろ姿だった。
結希はアルバイトをして稼いだ金と、奨学金との折半で学費を賄った。
自分のどこからそんなバイタリティが
生まれていたのか分からない。
目的に向かって精力的に生きていたというよりは
身の内に生じる濁流にのみ込まれ、
ただただ押し流されているような感覚だった。
およそ青春と呼べるような体験は1つもなかった結希だが、
運よく一部上場している企業に就職することができた。
会社は近年でさらに大きくなり、これから新事業に乗り出すか、
今ある事業を拡大するかを検討するような過渡期にあった。
結希は忙しい部署に配置されたが、
ストレスや疲労には慣れていたので、
長い残業は全く苦にならなかった。
アパートに帰ってもやることがないため、
率先して残業をしていた結希を、
直属の上司は何かと気にかけてくれた。
遅くなった日、上司はよく食事に誘ってくれ、
仕事の助言をくれた。
上司の口癖は、「無理をするな」と「無理してないか」だった。
人と交わる経験が少なかった結希は、
当初上司のことが信用できなかった。
入職して半年の間、繰り返し「よぉ」と肩を叩いてくる上司に対して、
結希は少しずつこころを許すようになった。
だが、ある出来事が何もかも台無しにしてしまう。
上司は会社を裏切って、情報を他会社に売っていた。
結希自身、実は以前からこのことを知っていた。
知っていたが、それをどうしたらいいのかわからなかった。
事実は目の前にあるにも関わらず、
上司がそんなことをするはずがないと、自分の目を疑った。
そんな心境だった結希には、
周囲に相談や報告ができるはずもなかった。
結希は今までたくさん勉強してきたつもりだった。
だが、勉強というのは人生に対して無力だ。
自分の唯一信頼に値する人物が、
所属する組織を裏切っていた時、
どうするべきかなんて周囲の大人も教科書も、
結希に教えてはくれなかったのだから。
草木のように結希はただ踏みつけられ、蹂躙された。
会社で問題が発覚すると、上司は結希に全責任を押し付けた。
その時の衝撃は、今でも忘れられない。
なぜ、よりによって自分なのか。
少ない肥料と少ない水分で、枯れないように、枯れないように
何年もかけて大事に育てた花を、
咲こうとした瞬間目の前で引き抜かれたような
絶望感に胸を抉られた。
結希は、会社の担当設問員から何度も問い詰められた。
しかし、最後の最後まで結希は自分を守ることも、
上司がやっていたという証拠を、会社に提出することもできなかった。
結希にとっての大きな苦痛は、後ろ指を指されることでも、
会社の上役に問い詰められることでもなく、
短い人生でやっと得た、信頼できる相手を失うことだった。
その日、足を引き摺りながら出勤すると、
すぐに呼び出され、結希に上役から懲戒解雇が言い渡された。
数人から汚いものを見るような視線と、
午前中の内に荷物をまとめて退社しろという命令を受けて、
結希は部屋を出た。
自分のデスクに戻ると、誰が置いたのだろう
佐藤とマジックで書かれた段ボールが置いてあった。
無造作に名前の書かれた使用済み段ボールが、
自分の人生に対する総評だと思った。
上司からもらった本や、プレゼントされたペンを淡々と
詰め終わると、テーブルの上へ、
上役から言われた通りに退職届を置く。
退職届けに触れた最後の指先は、朝顔のように淡い色をしていた。
その時結希は、同僚が何度か目配せをしてきているのを
背中に感じた。
だが、応じる気力は残っていない。
ささくれ立った段ボールの端が腕に触れた時、
隣席の女性社員が声をかけてきた。
だが、結希はもう何も聞きたくなかった。
「あの・・・○×□△」
こころを閉ざすと、不思議と何も聞こえなくなる。
オフィスを後にした結希は、
持ち物すべてを詰めた段ボールを、
廃品置き場に山積みにされているゴミに紛れ込ませた。
よく考えると、自分は懲戒解雇なので、
退職届はいらなかったのかもしれない、と結希は思った。
だが、思っただけで終わる。
外に出ると、職員が社長の車を洗っているのが見えた。
どこかで見たような光景だが、いつだったか思い出せない。
車の上には綺麗な虹が出来ている。
結希は歩き、いつものコンビニに寄った。
本を読むのは好きだが、雑誌は読まない主義だ。
そんな結希が雑誌コーナーで足を止めた。
何事もなく動いていた足が、そこから一歩も動かなくなる。
いつの間にか、結希は立ち尽くした。
数時間経ったとき、店長らしき男に注意された。
困ります。おかしいでしょう。
そろそろ出ていってください。
他にも何か言われただろうが、うまく聞き取れなかった。
「す、すみま・・・せん」
謝るために出した声をきっかけにして、
まるで建物の影からのぞいた太陽光のように、
結希の頭に洞察が流れ込んできた。
しかし、その洞察は太陽のように生易しいものではなかった
上司は、最初から結希を利用するつもりだった。
今頃気付いたのかと言われそうなことだが、
今のいままで結希はそのことを思いもしなかった。
あの時、上司は家族や友人の居ない結希を、
罪をなすりつけるターゲットとして適切だと判断した。
だから、優しくしてくれたのだ。
結希の中で、何かが潰れる音がした。
持ち上げた右足の先が、奈落に続いているような浮遊感。
結希は滑落する。
まるで凍った雪山を滑り落ちるように。
分かっていても止められない恐怖。
これまで、長い旅だったような気がする。
振り返る暇もなく、生きてきた気がする。
その道程は、最後の最後に信じた相手に裏切られる為だった。
店員に謝ると、結希は据わりの悪い首を腕で支えながら、
食べる気のないサンドイッチを1つと、
飲む気のないコーヒーを2本買った。
帰り道、何か考えに耽っていたら、
いつの間にかアパートに着いていた。
不思議なことに、どう歩いて帰ったのか全く覚えていない。
部屋のある3階まで上がり、玄関前まで来る。
鍵を取り出そうとすると、いつものように手が震えた。
頭の中心から全身にかけて、強い焦りと恐怖が広がっていく。
結希は反射的に、左右に人が居ないか確認をした。
幸いなことに誰もいない
持ちやすいようにゴムのグリップをつけた鍵を、
やっとの思いでポケットから取り出す。
しかし今度は、鍵穴に差し込むことができない。
結希は舌打ちをして、眉間にしわを寄せる。
自分の額に、白い汗がにじんできているのがわかった。
力任せに激しくカギを差し込んで、勢いよくドアを開けて入る。
ドアを閉め切るまで、理不尽な緊張感は続く。
力を入れてノブを引っ張ると、大きな音がした。
少し強く閉めすぎたかもしれない。
隣人の迷惑にはならなかっただろうか。
荒い息を吐きながら内鍵をかけると、
焦りと不安は霧のように消えていった。
「ふー・・・」
玄関の前に来ると、結希はひどく慌ててしまう。
これは幼い頃から結希にある症状で、もう長い付き合いになる。
大人になってから何度か病院に行ったが、
心因性のもので治療のしようがないと医者には言われた。
自分の額が熱くなっているのが分かる。
結希の人生はこんなにも変わってしまったのに、
症状はだけは相変わらず自分を苦しめてくるのか。
結希は憤り、気が付いたら痛いほどに歯噛みをしていた。
見慣れた狭いキッチンを通り抜けて、
ドアを開けるとリビングがある。
リビングの中心にあるテーブルにコンビニ袋を置くと、
コーヒー缶が倒れて袋から転がり出てきた。
このままだと落ちてしまうが、
結希はあえてその動きを止めなかった。
缶はテーブルから落ちて、角に小さな凹みを作って動きを止める。
結希は茫洋とした目で缶を見つめ、まるで自分みたいだと思った。
ゆっくりとネクタイを解き、首に巻き付けて片結びをする。
試しに少し引っ張ってみたら、首の骨が小さく鳴った。
これならきっと解けない。
寝室にあるクローゼットに向かう。
洋服掛けから全ての服を足元に落として、ネクタイを結ぶ。
肩よりも上にあげた腕があまりに重かった。
もしかしたら、身体も解放されるのを願っているのかもしれない。
肩が疲れたので一度だけ両手を下げた。
その間、自分の人生に死ぬことに躊躇するような
出来事があっただろうかと考える。
頭に靄がかかったようで何も思い浮かばない。
ないのか。
声に出したつもりだったが、かすれた息が出ただけだった。
膝の力を抜いて、ネクタイに全体重をかける。
そのまま少し待つと、すぐに何も見えなくなった。
1話目は、たくさん見直して、たくさん文章を変えながら書きました。
お見苦しい点がありましたら、申し訳ありません。