81.ガイド高崎城 城の見た目は天守が八割?
※本作は空想の歴史を書いたものなので、史実や実在の自称・人物・史跡とは全く色々微妙に異なりますのでゴメンナサイ。
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高速経由で今度は高崎市へ。
高速を降りると、左手に広大な陸軍の基地が。
「センシャー!」「日本の軍隊は強そうだー」「タイにも戦車売ってくれー」
そして新幹線も通る駅の地下を潜ると、目の前に城が。というより土塁が。
三之丸には狭い水堀と建ち並ぶ樹々、「カザシ」と呼ばれ視線を防ぐ壁替わりの木が土塁の向こうに生え、塀も門も無く、ここもやっぱり公園の様な佇まい。
中に入って左右に洋風のお城みたいな高崎県庁や音楽ホールが、そして目の前には左右を石垣に固められた二之丸東中門の櫓門、そして中堀が。
「中山道の要衝であるここ高崎は中世には和田氏の城があり、徳川家康が関東に入った際に直臣の井伊直政を封じ、その後17世紀に入って安藤氏三代の手で今の高崎城が完成しました。
利根川を背に本丸、二之丸、三之丸とコの字型に囲む縄張はギサギサに折れ曲がり敵を二方向から攻撃する『横矢掛』を多用した実戦的なものでした。
現在三之丸は県庁や市民ホールとなった音楽堂に、二之丸は初期の県庁に使われ他二之丸御殿と、この跡に県庁となった洋館、そして本丸には御殿と天守替わりの御三階櫓をはじめとする櫓4基があります」
「さっき陸軍の基地があったけど、お城は基地にならなかったの?」
「徳川幕府は19世紀に入ると軍の近代化を推し進めました。
お城では自動車や戦車を使った軍事基地にするには狭いと、郊外の広い場所に新設され、お城は『文化的建築は極力保存すべし』との織田家以来の不文律を適応し、主要な御殿は行政のために有効活用される事になりました。
明治に入ると三之丸や外曲輪にあった武家屋敷が解体され、県庁や市役所、そして学校や市民ホール等の洋館が建てられる様になりました」
「さっきの忍城みたいに埋められたりしなかったの?」
「城の外郭は主に大名の部下の邸で、明治以降その必要性がなくなり、急速に解体されました。
明治政府は空き地になった外側部分を完全な姿で残す必要はないと考え、城の主要部分を残し、外側部分は各都市に任せる事としました。
木造建築は長持ちしますが修理が大変で、維持費がとてもかかったため、各都市は外郭を放棄し、その結果多くが市街地になったり、学校や病院、公共施設の敷地になったりしました」
「お金かあ…ならば仕方ないネ」
「それでも立派な天守や御殿は残したんだ。それもお金かかったろうねえ」
「かかったんだ」
張本人の時サンをジトっと見る。
「スンマセン」
時サンが済まなそうに謝った。
考えてみれば京四城なんて異常だよね。
でも、そのお蔭で関東城ツアーなんて出来る訳だし。
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二之丸御殿は市庁になり内装を洋風に改装され、目下元の姿に戻してる最中。
有効活用という事で城泊にしようなんて案も出ているとか。
実際明治初期には近くの富岡辺りの繊維産業の拡大のため多くの経済人がここで会議を開いたり御殿や空いた藩士の屋敷に宿泊したりしたとか。
そして本丸。馬出状の梅木郭に入って、そこを折れ曲がって槻木門を入る。
本丸の左右には白壁の先に二層櫓。両の櫓とも千鳥破風を備え、妻側の二層目の窓が華頭窓になっているオシャレな櫓。窓の上に長押がアクセントとして入っている。
櫓門の槻木門は中が桝形で奥に高麗門がある。
そして左手に本丸御殿の玄関。
床を板敷きに変え、天井にシャンデリアを付けた洋装のままで公開されていた。
「あそこにも舞台があるよ」
「コンサート、デキマース」
「グラちゃん歌えー!」「イェー!」
「騒ぐなって!」
洋風に改装された大広間の向こうが能舞台ってのも珍風景だね。
壁画とか江戸時代のままで更にカオスな事になってて面白いけど。
その能舞台の左手、土塁の上に、三層の端正な姿の御三階櫓が聳える。
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その姿は、土塁の上に建ってるのが石垣上の天守に比べやや雄々しさが無いけど、棟側初層の屋根に肥沃千鳥破風、二層の屋根に千鳥破風が並び、他の櫓同様窓の上に長押が巡り、更に妻側最上層には花頭窓が並んでいて、他の櫓とデザインも合っていて格調高さを感じさせる。
さっきの忍城三階櫓とは違った、バランス良さを感じるなあ。
その御三階櫓の最上層から見る城外、西側は…利根川の支流、烏川。その手前は内堀の先を走る国道17号線、中山道。
川の対岸からは御三階櫓と白壁、乾櫓が並んで見えるだろうなあ。
「おなじ土のお城でも、こっちは見応えあったねえ」
「テンシュがキレイだとお城はグッと締まるネ!」
ランとミキ的にはグっと来たみたいだ。
「お城の価値は天守で決まるの?」
「ソリャ人も見た目が八割、って聞きましたヨー」
ドライだなあ。
「近代化と伝統の入り乱れた御殿も中々。でも川越城の展示物も中々だったよ」
スーはそっちか。
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「因みにさ時サン…」例によって小声で聞くと。
「三之丸の堀と土塁を残して完全消滅。この本丸のド真ん中に対岸まで道路が走ってた。
そもそも明治に陸軍の駐屯地になって内堀とか全部埋められたからね」
「うへえ」
高速降りた辺りに駐屯地が出来たお蔭でここが県庁になって存続したんだ。
「そう。最初はここが県庁所在地だったけど陸軍に取られたんで前橋に県庁が移ったんだ」
「なんだか散々だねえそっちの高崎」
「そうそう、駐屯地に因んだ小話を」
「こっちの歴史には駐屯地ないんだから聞いても意味無いしー、うっかり喋ったらヘンな目で見られるんだけど」
「トホホ」
後で聞いたら、高崎城が駐屯地になった際、本丸西側の小さい曲輪群=高崎城の前身の和田城は土塁だけそのまま残って射撃訓練所になって、中でもひときわ高い「櫓台」と言われた場所は「203高地」と呼ばれてたそうな。
「こっちの歴史では日露戦争も大した事なく勝っちゃったし、203高地最初から艦砲攻撃で墜ちたし」
「ショボーン」
チャンチャン。
バスは一旦城の南へ、そして川沿いの国道を北上。
さっき昇っていた御三階櫓を左手に眺めて高崎を去る。
「あれ?」
本丸から見た時には無かった、東北隅に付き櫓があった。
「なんかああいう付け櫓とかあると雰囲気替わるね」
「アンシンメトリー(左右非対称)の美、だね」
流石お次画伯。手の動きが見えない。
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※高崎城を鳥観図で復元した絵や模型は、ネットで探した限りありませんでした。
自分で描くしか!…ムリ~。
下記ページでは平面・立面を復元考証し、中にはほとんど出版物で見ることの無い本丸櫓の古写真等も使って紹介しています。
以前模型雑誌でかの島充様が福知山城復元模型を紹介した際ご自分で古書店から購入した古写真を角度分析していましたが、その際「古写真の発見は自力で」みたいな事を書かれていた様な。
書籍で使える古写真には所有権等で制約があるのでしょうかね?
http://takasakijou.web.fc2.com/index.html
※203高地のネタ元、高崎城に居たのは15連隊で日本の戦争に全部参戦した部隊だったそうです(上記サイトから)。
今では和田城跡、内堀西側共々国道17号線の拡張工事で消滅しています。
もし楽しんで頂けたら、また読者様ご自身の旅の思い出などお聞かせいただけたら今後の創作の参考とさせて頂きますのでお気軽に感想をお書き下さい。




