231.ガイド福島城 安眠できない城?
※本作は空想の歴史を書いたものなので、史実や実在の自称・人物・史跡とは全く色々微妙に異なりますのでゴメンナサイ。
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一行は軍の送迎で、ブラックキャッスル号へ戻り、直江津、福島城へ。
キャプテン、ゴキゲン。
『久々に、日本の城へ我が船で乗り付ける事が出来る!これもミスツカサン&アメーズのお陰だよ!』
ボソっとスーが聞いた。
『伯爵、そのアメーズというのはどちらからお伺いになった名前でしょうか?』
『ああ!ミスター亘の麗しいご夫人達からだよ』
トホホ。仲間内の綽名だったのになあ。
…これ、もうキャプテンも仲間って事?それは流石に畏れ多い。
寺泊のカニと長岡の銘酒、久保田を頂きながら。
日本好きなキャプテンとポートメイリヨン卿と城や寺の雑談を楽しみながら。
船は直江津港から福島城へ入港する。
港の奥の堤防の切れ目、本丸西側を流れる小野川の入り口にある武者溜という曲輪に接岸した。
何と言うか…ここでも陸軍の歓迎があった。
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『越後福島城は、村上城や新発田城と同じで、越後一帯を支配した堀家のお城デース!
中世の城の中でもトップクラスで有名な、戦国武将のスター、上杉謙信があちらの山に築いた春日山城!
それも16世紀後半では領地支配には向かなくなって、麓の直江津の港に、新しい城を築きました。
でも堀家は、当時11歳だった当主を巡り後見人の間でお家騒動が起きて、家康は怒って堀家を潰しましたー!
その後に入封したのが家康の6男松平忠輝ですが、彼は関川の上流に高田城を築いて移転してしまいまシター。
その後、福岡城は幕府の支城として、近代では高田の陸軍の港として、上陸時の物資や戦車を送り出したり、上陸作戦を支援する陸軍の空母を送り出したり、世界でも珍しい陸軍港として運営されたのデース!』
武者溜と言われる本丸西の曲輪の先に、石垣で固められた方形の本丸、そして大手門があり、その北に三層の天守が聳える。
『完成した当時は、西に関川、東に…今では城の南を流れる保倉川が流れ、南面を惣堀が覆う、三重の堀に囲まれた、巨大な城でした。
しかし、松平忠輝はここを捨ててしまったのデース!
その理由は、川が氾濫して大変だったから、金沢城の前田藩を監視する北国街道を抑えるためだったから、等言われています。
面白いのは、松平忠輝の奥様で、伊達政宗公のお嬢様、五郎八姫が、波の音がうるさくて寝られナーイ!って言ったから、なんてお話もあるんですヨー!』
お、キャプテン達にはウケた。
「戦国の御姫様はヤワだねえ!」と毘姐姐。海に命を預けた女と一緒にするなて。
『まあそれは移転の、戦略的な理由を隠すためのオモシロ話、ってとこだと思いますヨ?』
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本丸南面には、白亜の二層櫓が横矢を掛けながら三基並んでいる。
結構広めの水堀に面していて、なんとなく今治城を思い出すなあ。
本丸大手門は…ちょっと変わっていた。
L字型に曲がる唯の枡形門じゃなくって、U字型に、しかも横にすんご~く長い道をたどって、二つの櫓門に守られた堅固な門だった。
しかも外側も内側も櫓門で、外側櫓門には二層櫓が繋がってるし、Uターンする一番奥にもさっき見た二層櫓の一番手前の棟が!
門と櫓の4ケ所で上から狙ってるという念の入り様。
そうして入った本丸に、城泊にも使われている御殿。
幕府の支城となった御殿は、城代や駐在兵の使い方が格式張ってなかったせいか、城泊に転用し易いのだろうか?
表向きが床張りで、宿泊に使われる奥向きは土足禁止の畳敷きになっていた。
中には、七重塔が聳える越後国分寺の模型も展示されていた。
今では戦国時代に移転して復興した五智国分寺が関川の対岸にあるそうな。
で、この模型の国分寺は、次に行く高田城の近くだとか。
『ココならピーコック卿も船で乗り付けて、城泊デキマース!
でも今日は一緒にここに来るって知らなかったので、手配出来ませんでした、ソーリー…』
『お嬢ちゃん!次にここに来るときはそうしよう!勿論君も一緒だ!』
とジゴロるキャプテン。
『オー!光栄デース!!』
『元気がいいわね』とバージニア夫人。
『媚び媚びだわあの子』とメアリィ~。まあ間違っちゃいないけど友を悪く言うなゴルァ。
『でかしたぞミキ!』頭で算盤弾いてるな摩耶さん。
『コラ!司ンあんたも負けんな!』無茶言うなて雅姐姐。
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様々な思惑をはらんで、一行は望楼式三層の天守へ。
天守も一層、二層は客室になっている。スイートルームだ。
望楼のある三層がラウンジバーとなっている。
すぐ間近に見下ろすブラックキャッスル号は…大きかった。
『うむ。ここから我が船を眺めながら見る酒も、美味いだろう』
『変わった趣向だけど、悪くありませんね、貴方』
キャプテン夫婦が仲睦まじい。ええこっちゃ。
お、係員さんがグラスを持ってきた。気が利いてるなあ。
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本丸東側の搦手門も櫓門二棟による重厚な構えだった。
こんな堅城を10年足らずで放棄するとは。当時の経済感覚、スゴイなあ。
「堀一門にしてみりゃ、立派な城を築いて足場を固めようって気分と、ぼちぼち徳川政権に媚びて自重しようって気分が半々だった、かな?」
当時を知る貴重なご意見有難う、時サン。
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そこからまた陸軍のリムジンで、関川上流の高田城へ。
五郎八姫安眠の城である。しかも徳川幕府が諸国大名に命じて築かせた、天下普請の城でもある。安眠、プライスレス。
「私達高田連隊の家でもあるんですよ」
と、案内してくれる女性広報員の中尉。さっきからキャプテン相手に英語で話している。
「軍の広報は海外の方を案内する事も多くて、英語力が求められるんです」と苦労話を教えてくれた。
やはり歴史用語の、英語やフランス語での語彙力が大切だそうです。
勉強になります。
飴ズも真剣に中尉さんの話を聞いてメモってた。
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※長岡の誇り、久保田。いや、世界の宝、長岡の久保田は、今、全国のお店で買えます。
昔呑んだ元旦特別醸造の純米吟醸生酒は…とても素晴らしいものでした。
https://www.asahi-shuzo.co.jp/
※現実では堀家の築城から高田城移転までの7年しか存在しなかった幻の福島城。
その復元図は下記の通りです。
https://www.niikei.jp/104531/
※ちらっと登場する越後国分寺。
高田城の東南にある「本長者原廃寺」と呼ばれる記録が断絶した伽藍の跡がそれではないかと言われていますが、遺跡の破損が激しく特定できていない様です。
もし楽しんで頂けたら、また読者様ご自身の旅の思い出などお聞かせいただけたら今後の創作の参考とさせて頂きますのでお気軽に感想をお書き下さい。




