207.ガイド白河城 戦国浮き沈み伝
※本作は空想の歴史を書いたものなので、史実や実在の自称・人物・史跡とは全く色々微妙に異なりますのでゴメンナサイ。
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10泊11日、大体一人20万アンダーで家族4人60~70万、日本への往復を含め150万円アンダー。
富裕層なら10倍の価格でも屁とも思わないだろ。
富裕でなくとも一生に何度かのイベントで実現できる数字の範囲内だ。
勿論お安い片道ツアーへ編集も可能だ。
んで一同上野駅から東北新幹線に乗って
「「「カンパーイ!!!」」」
女4人気ままな色気無し旅だー!チキショー!
早速新幹線で乾杯だ、おっさんかよ?!でもビールうめー!
私達はそれぞれの会社で正月も仕事をこなした。
と言っても大体東京周辺の日帰りか、多くて小田原箱根か日光中禅寺湖へ1泊程度だ。
私は元旦の混雑リスクを回避して、年末年始それぞれに小田原城・小田原御在所案内と上野東照宮~寛永寺~将軍家霊廟案内を務めて、歴史に詳しい海外客から質問攻めに遭った。
混雑一直線の宮城~江戸城見学コースをやっちまった飴ズは、途中はぐれたり散々だったそうな。そらそうだろ。
でも私の四国の話を聞いて親に子供の手と手をつなぐ様指導し、それでもすりぬけた子は捕まえて手を引いていたので、迷子になる事はなかったのが不幸中の幸いだ。
「また司ンに借りが出来たな~」とリーダーのスー。
新幹線は城下町を南北に縦断し、城の西南に位置する新白河駅で止まる。
新白河駅から城まで1km程。遠くに小柄な三階櫓が見える。
そこから一駅だけ在来線に乗り、三の丸大手の南にある白河駅で降りた。
木造ながら欧風で直線的な、モダンな駅舎だ。
その向こうに、三階櫓や、その周囲の壁が見える。
「このメンツでお城来るの久々だねー」
「そりゃ仕事引きずってんのさ」ミキとスーが言う。
私達は堀を渡って大手の枡形門を過ぎ、かつて駐屯地だった三の丸を過ぎる。
兵舎だった煉瓦建築は今や商店や飲食店に転用され、司令部の大きな洋風建築は裁判所を経て博物館になっている。
その先、本丸正門である清水門を守る二重の堀構えを成す三の丸門と太鼓門を渡り…
「凄ぇなあ」
「ほんと立派な石垣ネー」
本丸南面の石垣は、そりゃもう立派だった。
「じゃ、司ンからな」
「お、おう。
白河城は、古くは中世14世紀半ばに結城氏が小峰城を築いたのが始まりです。
豊臣秀吉の奥州平定後会津の蒲生氏の配下になるなどを経て、17世紀前半に徳川家の采配で丹羽長重が入封し、今の城を3年掛りで築きました。
この丹羽長重、父は丹羽長秀で、織田信長の重臣でした。豊臣秀吉も羽柴姓を名乗った際、その一字を丹羽長秀から頂戴した程の人物でした。
しかし長秀が病死した後、離反の嫌疑をかけられ120万石の太守から4万石まで落とされ、臣下も召し上げられるという不遇を受けました。
江戸に入って家康によって御伽衆、つまり相談役に採用され、10万石以上に加増され家臣団も復帰しました。
そして棚倉城主となり、ここ白河城主となり、東北の大大名に対する牽制の砦として堅固な石垣を持つ白河城を完成させたのです。
ある意味、戦国に運面を翻弄されながら、返り咲いた幸運の人だったのかも知れません」
「「「ほえ~」」」
飴ズが目を点にして聞いてる。
「その人生起伏物語、どっから拾ったんだ?」
「ネットで調べた」
「どんだけ調べたよ!!」
スーが納得いかなさそうだが知らん。
「城ってさ、建物や縄張りそのものによっぽど特徴ないとさ、城にちなんだ人物物語を語って関心持ってもらうしかないんだよ。
江戸城や大坂城みたく一目でわかる凄さがあれば、その凄さを説明して。
こういう地方の城はやっぱ人物エピソードで…言い方悪いけど、釣る、のかな?」
「「「ふむふむ」」」
「そしてもう一つ特徴的なのは、正面の清水門の櫓門や天守に続く門と塀は瓦葺ですが、他の壁は板葺き、櫓は赤瓦葺きとなっていて、雪害に備えている点です」
「「「おー」」」
そう。東端の竹之丸角二重櫓、西端の月見櫓は赤瓦葺き、他の本丸富士見櫓、雪見櫓なんかもそうだ。屋根がカラフルだねえ。
丹羽家二代の苦楽を釣りの餌にしつつ私達は本丸下段の竹之丸へ入った。
で。
「こちらが円弧を描く様に積まれた、白河城名物の円弧石垣です。
江戸城や姫路城にも類例はありますが、地方で小規模の城でこの様な洒落た細工の石垣は珍しく、白河城の石垣の優秀さを示す一例と見做されています」
「「「ほうほう」」」
「初っ端からハードル高ぇなあ」
スーが顔に皺を作る。
これこれ、折角の徐家譲りの美形が台無しだぞ。造作は兎も角中身大抵みんなアレだが。
そのまま本丸の正門、三階櫓から綺麗な階段状の風景を成す御前門へ。
本丸側塁上には多門櫓が横たわって守りを固める。
そして門を潜ると。
目の前に本丸御殿の玄関。
中に上がり、大広間へ。
天下を目指した織田家重臣から地方大名に落とされ、何とか二桁代の大名に返り咲いた丹羽家の苦悩が偲ばれる。
でも棚倉、白河と二回の築城と織田家以来離散した家臣の再雇用で丹羽家、火の車だったとも言うらしい。
そして天守代わりの三階櫓へ。
小さい。
でも、とても綺麗に纏まっている。
逓減率が大きいのと、二層目の、会津城天守を思わせる出窓のインパクト、そして階段状に連なる壁の波が視覚的な安定感、丹精さを与えているんだなあ。
「…視覚的な安定感を与えています」
「「「ぬぬぬ…」」」
スーだけじゃなくて飴ズが顔に皺作ってる。
この状態で弟呼んでやろうか。二度と会わせろとか言って来なくなるぞ。
「ミキ、あんたここまでスラスラやれるか?」
「ムリヨー!!」
「私も出来ない自信ありますー!」
「いやいや。もちっと頑張ろうよ」
「でも何つうか見てきたみたいな語り口だぞ?
さてはお前、あの渡財団の長と!手取り足取り!腰取り胸取り?!」
「「不潔ー!!」」
「それはこっちの台詞ダー!!」
「ぎゃー!あべし!」
ちなみに三階櫓は現在の基準では三層目は少人数しか入れない。交代制だ。
二層目の窓から阿武隈川の北岸を見る。
「近いネー」
「でも結構北側の堀は広いぞ?」
「この城強いのかな?」
飴ズの質問への答えは無い。この私達の歴史では。
「かつてかの仙台城主伊達政宗がこの地を訪れ、この城が対岸から丸見えだと言ったところ、『果たしてそうかな?』的な事を丹羽長重が返したそうです。
結局、幸いなことにその実力を示す機会は今まで来ていません」
「「「んん~??」」」
今度は三人考え込んだ。
そうだ。
時サンから聞いた歴史では、19世紀後半に行われた幕府残党と朝廷軍の内乱の舞台となり、最初幕府側が守ったが敵の誘導で城を失い、今度は朝廷軍の守る城を幕府軍が攻めきれなかったと聞いた、しかも戦いの舞台は阿武隈川がある北面じゃなくって南面だと。
じゃあ、この城は脆かったかと言えばそうでもなくて、敗因は幕府残党軍が統率を取れていなくて個別撃破されて城を奪われた上奪回出来ず敗退したそうな。
結局、城も道具に過ぎず、使う人次第。
そして、戦いのさ中に城は炎上して石垣が残るだけだったと。
「ま、城も道具も、使う人次第。戦いは兵站と作戦と統率次第、かな」
「「「さ、流石世紀末覇王!!!」」」
「んだとオラァ!」
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※例によって駅は現実と違って城の近くに位置します。
唯、東北本線と新幹線の駅が若干離れています。
※北を睨む幕府の守り白河城、その中心部である本丸の復元図は下記の通りです。
http://home.h05.itscom.net/tomi/rekisi/sirakawa/bosin/furoku2/komine/komine-4.jpg
全体の縄張り図は下記の通りで、白河駅は現実では二の丸を潰して存在します。
http://home.h05.itscom.net/tomi/rekisi/sirakawa/bosin/furoku2/komine/komine-2.jpg
東日本大震災で石垣が崩壊するなど被災しましたが、石垣の修復を終え、目下清水門の木造復元などを目指している様で、是非実現して欲しいと思います。
もし楽しんで頂けたら、また読者様ご自身の旅の思い出などお聞かせいただけたら今後の創作の参考とさせて頂きますのでお気軽に感想をお書き下さい。




