183.ガイド駿府城2・御殿の天守
※本作は空想の歴史を書いたものなので、史実や実在の自称・人物・史跡とは全く色々微妙に異なりますのでゴメンナサイ。
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駿府城北西隅の巨大な天守台の前。私と母は茫然としていた。
江戸城や伏見城、名古屋城同様目の前がキラキラ状態で本丸北東に聳える天守…
「黒と金でこっちも豪華ねえ。電車から見た時は白かったり緑だったりしたのに」
そらそうだ。下から見上げたら瓦は金の軒瓦しか見えない。
「それに、この石垣の上は天守じゃないのね?」
そう。バカみたいに巨大な天守台だけど、その上の四隅には二層櫓が建ち、その間は多門櫓が連結している。
「姫路城ともちょっと違うし」
「こういう、天守の周りを多門櫓と小天守で繋げるのを連立式天守って言って、京の淀城や美作の津山城なんかがそういう形なのよ。姫路城もその一種として見られているよ」
「それにしても他の建物は白いのに、天守は黒いのね」
「駿府城天守は、織田信長の安土城を相当意識して上げられた、装飾過剰とも言える豪華建築です」
ちょっと案内士モード。
「壁は下見板張り黒漆塗り、破風板等を金具え飾り、屋根瓦は財力の豊かさを象徴するため金属を使い、最上層を銅瓦、それ以外を鉛瓦で葺いています。
それらの色のコントラストで、江戸城同様天下人の城であることを主張しているのです。
そして、安土城や天正期大坂城同様、内部も豪華ですよ~」
「行ってみましょー!」
母は「豪華」に弱い。
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天守台の構造は、名古屋城に似ている。
先ずは小天守へ入り、そこからUターンする様に大天守…駿府城の場合は大天守台に入る。
それにしてもこの小天守も巨大だ。
しかし構造は昔っぽい重箱二層の巨大な櫓に望楼を載せたもの。
小天守とはいう物の、そんじょそこらの天守なんかより遥かに巨大だ。
小天守内は徳川記念館!という程家康公の遺品、書簡、そして今川の人質時代から東照大権現となるまでの資料や説明が並べられていた。
そして最上層からは、眼前の天守が大迫力で眺められる。
「まああ~、天守は廻りの櫓の中の空き地に建ってるのねえ」
「空き地…詳しい事は資料が残ってないけど、もしかしたら最初はこの巨大な天守台一杯に、江戸城よりも一回りも大きな巨大天守を建てる計画があって、そりゃムリだって解ってこうしたんじゃないか~、なんて説もあるのよ」
「でもこっちも箱庭みたいで可愛いわねえ。一階から三階まで、ベランダ付よ?御殿みたいねえ!」
おや?母の指摘、正しいし面白いぞ?
何かヘンな物でも食べた?あ、食事はずっと私と同じか。
「そうよ、駿府城天守は内部が御殿造りで、最後の居住可能な天守と考えられているわ。
そして五層六重七階という日本最多階、江戸城や名古屋城と並ぶ最大級の天守だったのよ」
「でも名古屋城みたいな大きさが感じられないわねえ」
「それは天守台を含めて見上げる事が出来ないからね。
最大の江戸城天守が50mクラス、この駿府城天守も名古屋城天守も大体同じなの。
でもここは天守台を櫓と多門が囲っていて、相対的に天守が小さく見えてしまうのね。
「なんかどんでもなく大きいってのは解ったわ~」
「じゃあ、あの御殿みたいな天守にいってみましょうか」
「どんなのかしら~」
名古屋城同様、大小天守は両側を壁で囲まれた通路を通って、大天守「台」へ。
目の前には天守曲輪の入口となる門。その部分だけ多門櫓が途切れていて、高麗門が建っている。
その向こうには天守入口、銅瓦葺き唐破風の小さな玄関が迎える。
「御殿みたいねえ」
天守の初層から三層目は同寸で、二層目と三層目には赤い欄干が付いた高欄があり、三層目には瓦葺の庇が巡っている。
壁も白亜塗籠でも下見板でもない、御殿と同じ障子窓で、三階目には四隅に雨戸を仕舞う戸袋がある。
「こんな御殿と天守建築が合体した天守は…松本城月見櫓くらいかなあ?」
そして見上げる上層部は、真壁造り、下見板張り。更には柱の部分も黒漆で塗り、随所に金銀の飾り金具を打ち付けてある。
巨大な千鳥破風の妻板はこれも漆塗りの格子で飾られている。
これが進化して江戸城天守の妻板の、銅板漆塗り、鱗紋になるんだろうなあ…
そんな不思議で巨大な建物が、周囲を多門櫓に囲まれて建っている。
「中はどうかしら?」
母に腕を引っ張られて玄関の先へ…
うわ!さっきの本丸御殿同様、デカイ御殿だわー!
まあ、屋外に見えるのは大天守台の多門櫓を支える石垣なんだけど。
おまけに結構柱が建っているし。そりゃ高層建築だもの。
三階まで登ると、家康公の座する上段の間へ。ちょっと外が多門櫓の向こうに見える。
「かつて歴代の天皇陛下も行幸遊ばされた、天守内で最も格式が高い上段の間です。
周囲の障壁画も帝鑑図、中国の理想の統治者の姿を描いたものです。
後には天皇陛下行幸の際にも歓迎の宴が開かれた事もあります」
「天皇陛下が来る、ってなったら迎える側も大変だったでしょうねえ」
今でも数十億なんて軽く吹っ飛ぶよ?
警備とかも大変だし。
「でもそんな由緒ある場所に、こうして入って座れるのって、凄い事よね~」
「畳替えとか大変そうだけどね。
大規模な御殿だと結構観光客の出入りで畳が擦り切れて、文部省とかでは外から見学するだけにしようって意見もあったんだけど」
「どうなったの?」
「国民が城を愛さなければ、維持費の負担も納得しないだろう、って立入公開を維持したの。
だから障壁画も複製して本物は美術館へ、城と美術を肌で感じられる保存を選んだのよ」
「お役所らしくない、身を切った考えねえ」
「修理代の嵩む巨大な木造建築が山も度ある城。それを維持するためには、それこそ今の城泊だって歴史イベントだってやってかないとねえ」
高欄に出て、天守初層を囲む多門櫓と四隅の二層櫓を眺める。
「この天守を設計、建設したのは、今の江戸城や大坂城、全国の城の建物、作事や造園で活躍した日本建築史の偉人、小堀遠江守政一。
江戸城二之丸の、内堀に続く池の上に釣り殿を備えた御殿や、桂離宮を建てたのも小堀遠州よ。
でも台風や大雨の時はこの多門櫓の屋根が弾いた雨水が御殿の中に入って大変だったそうで、家康公に怒られた、なんて話も残ってるのよ」
「うふふー。そんな偉い人でも失敗するもんなのねえ」
「他には大坂の乱の前、豊臣家が住む大坂城に家康が入城して、自分が住む西の丸に天守を挙げて、白亜の壁に鉛瓦、真っ白に輝く天守を上げちゃって家康公から『やり過ぎだ!対立を過剰に煽ってどうすんだ!』って怒られたのよ」
「よくクビにならなかったもんねえ」
「それでも凄く沢山の城の御殿や櫓、天守を作り上げた天才なのよ。茶の名人としても有名よ」
「凄い人でも失敗するもんねえ」
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最上層、七階。
ここも眺望を考えてか、御殿の様な格式になっている。
高欄は無いので、窓は小さい。
「富士山だあ~」
「そうねえ」
遠くに、と言っても江戸東京や埼玉よりはよっぽど近く見える。
「かつては東海道を往く旅人に、この天守の白く輝く鉛瓦と富士山の城さは並んで賞賛されたものなのよ」
「でしょうねえ」
そして眼下には三重の堀。
本丸は大坂城、名古屋城同様、随所の二層櫓の間を多門櫓で連結している。
江戸城は、外観上の演出のためか、全ての櫓と多門櫓の間に隙間を設け、短い壁で繋ぎ、多門櫓に入母屋屋根を持たせていた。そっちが最高の格式、なんだろうなあ。
でもこっちも凄い迫力だ。
「なんだか四角い堀が外側に行くとちょっとズレてる感じね」
そう、本丸と二之丸はほど同心の、ほぼ方形なんだけど、三之丸だけ左に捩じった様に角度がついている。
「その理由はイマイチ解らないけど、外から侵入した敵と真正面に敵対するより、角度を付けて敵の攻撃を分散させるか、二之丸の横矢掛りを効果的にするためなのか…
ちょっと不勉強です」
「がんばってねー」
母よ、がんばります。
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天守を出て、天守下御門から二之丸へ。
本丸の北側、二之丸から内堀を経て天守を見ると…でかいわ~。
「おっきいわねえ~!」
流石の母もビックリだ。
更に西側に向かうと、その南にある小天守の偉観も相まって、更にスゴく見える。
「名古屋城も凄かったけど、徳川家康って凄いのねー」
「凄いのよー」
江戸城みたいに三層櫓は無いけど、それでも天守台上の二層櫓と小天守、更に本丸の西と南を守る二層櫓とそれを繋ぐ多門櫓の窓の並びに、圧倒的な迫力を感じる。
確かに、江戸、大坂、名古屋に次ぐ徳川第4の牙城だ。
「お父さんも、司ちゃんの案内で来たかっただろうねえ」
「今夜には会えるんだしいいじゃない」
「また連れて来てね、今度は温泉とセットで」
「いいよ」
「どうせもう会社辞めちゃってるかも知れないしね!」
「え?!そ、それはどっかなあ~?」
大丈夫かな?東京に帰るのが心配になって来たよ!
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※数多くの記録があり、数多くの復元案がある駿府城天守。どれが正解なのかは決め手が無く、したがって静岡市民悲願の天守復元も不可能な状態です。
そもそも小天守台に小天守がなかった説もありますが、本作ではあった説で行きます。
その方が豪華っぽいから。
ちなみに、そんな諸説を纏めて列記したのは、城復元考証でもかなりブっ飛んだ記述を続けている下記サイト、ちょっと下の方です。
中でも、豊臣家大坂城を中井家が残した絵図から模型で復元した櫻井重廣先生の案。
巨大天守台一杯に巨大天守が建っていたら、という名古屋城をビッグバンプログレス巨大モンガー化させた様なムチャな復元模型は、作者の子供心にキョーレツに訴えるモノがありました。
過去の作品で登場した江戸城日比谷櫓を上回る、やらかし案件ではないでしょうか?
https://castles.chicappa.jp/2013sp/2013report
※天守が御殿造りだったって事は内部には徳川家康の座する上段の間があった筈、と勝手に書きました。
それは御殿部分の最上部と、天守最上層にあったとは思います。
最上層はさておき、御殿部分の最上層が復元案によって二階なのか三階なのか違うのですが、ここでは三階部分としています。
そして記録にない最上階も御殿造りにしています。
その方が豪華っぽいから。
もし楽しんで頂けたら、また読者様ご自身の旅の思い出などお聞かせいただけたら今後の創作の参考とさせて頂きますのでお気軽に感想をお書き下さい。