178.ガイド掛川城 城と地震の傷跡
※本作は空想の歴史を書いたものなので、史実や実在の自称・人物・史跡とは全く色々微妙に異なりますのでゴメンナサイ。
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新幹線は、諏訪湖を源流とする天竜川を渡る。そしてあっという間に掛川へ。
逆川の南、東海道の旧街道のもちょっと南に国鉄の駅がある。
更に浜松市の北をぐる~っと山裾をなぞる様に迂回して豊橋の手前まで繋ぐ二俣線もここから出発している。
駅から北へ、東海道の旧道、古い建物が曳家され道幅を広げた観光道路を過ぎて…
「帰りここ寄って見ましょうよ~」
ショッピングも旅の醍醐味よね。
堂々とした楼門、大手門へ。
逆川に出ると、城のある岡の裾野、初層が下見板張り、三層の太鼓櫓がこっちを睨む。
川の向こうの楼門を渡った左手、今度は二層櫓が守る曲り角の奥、薬医門の蕗門を過ぎる。
南側に公園となっている三之丸、北側に御殿が保存されている二之丸の間の道を通ると、その先に三層の下見板張り、若干頭でっかちな黒っぽい天守が聳える。
「この辺りは16世紀半ばは徳川と武田の領地争いの舞台でしたが、家康江戸移封後に「内助の功」で有名な山内一豊が豊臣配下として入城して近世化しました。
後に大坂の乱後に山内家は土佐へ移封し、高知城をこの掛川城を参考に築きました。
徳川の世になり、かつて江戸城を築いた太田道灌の末裔がこの地に入りました」
さっきの浜松城の天守も松江城天守に反映されたし、同じ人が築いた兄弟天守みたいなのって寛永江戸城天守、寛永大坂城天守とかを除くと…後は洲本城天守を転封先の大洲城で再現した脇坂家とかかな?
設計図を色々廻した津山城、小倉城、佐賀城の天守も兄弟っていや兄弟だけどね。
「ここも石垣があまりないのねえ」
うわ!マニアックな考えを一般人の鋭いツッコミが粉砕した。
「石垣や天守を持つ城は、西日本の城なのよ。
東日本は基本的に土の城で天守は無いの。
あるのは豊臣家の臣下が築いた近世の城か、徳川家が天下に威光を示す為の城程度よ」
「埼玉にも大坂城とか姫路城みたいなお城が近くにあったらいいのにねえ」
う~ん。気持ちはわかるけど
「埼玉なんて将軍家のお膝元にそんな立派な城があったら、謀反を疑われるでしょ」
「世知辛いわねえ」
「その通りなんですよー」
気を取り直して。
「でも、立派さか、歴史遺産かで見たら、東日本の城は発展途上の中世らしさを現在まで残しているタイムカプセルみたいなものよ。
さっきの女城主の曳馬城みたいに」
どうでしょう母上?
「やっぱ大坂城みたいなのがいいわあ」
「江戸城があるでしょが!」
「都会のど真ん中だとねえ」
「大坂城も名古屋城も都会のど真ん中でしょが!」
「遠くに来た感じしないもの」
「案内士になろう!社が丁寧にご案内しますので年金貯めてね」
「司ちゃんが連れてってよ~」
日本人の中産階級向けの企画は、あんまし儲けられそうにありません、雅姐姐。
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唐破風の玄関から御殿に入る。
しかし各部屋とも障壁画が無い。
「二之丸御殿は江戸時代何度も地震で大破し、都度修理され改築されました。
しかし19世紀半ばの安政東海地震では障壁画の殆どが大破し、大部分が修復されないまま現在に至っています」
「だから質素なのねえ」
「破損した障壁画や透かし彫りは保存されており、20世紀初頭から修復されはじめ、完成したものは美術館で展示される様になりました。でも…」
「でも?」
「駿府県内の美大生が中心になっている所為か、修復の出来がイマイチだったり」
「多少ヘタでもキンキラしてればお城っぽく見えるものよ」
母、アバウト過ぎ。
「ま、まあ修復と同時に複製も進んでて、大広間とかは豪華な姿に戻ってるんで。ホラ」
御殿の中心部、大広間は金の障壁画と極彩色の透かし彫りに囲まれていた。
「い~わね~、こ~ゆ~の」
でもよく見ると、濃淡が付いてても良さそうな所がベタっとした印象だったり、もう少し落ち着いた配色にすべきかなって思う所が原色っぽかったり…。
「絵の修復って、学生にやらせちゃダメだよね」
「いーんじゃない?人間失敗がつきものだし」
「文化財が失敗しちゃダメでしょ」
「また誰かが直すでしょ?」
それでいいのか?
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二之丸を出て右に向かうと、薬医門の四足門と、楼門の本丸門が構成する喰違桝形。L字型に曲がるのではなく、クランク状に進む桝形だ。
そして本丸御殿。小ぶりな御殿を見学し、丘の上に聳える黒い天守へ向かう階段へ。
天守は二層が下見板張り、三層が内望楼で望楼部つまり壁の下半分が黒漆塗り。
二層目棟側(南北側)に出窓があり、華頭窓が設けられ、その上の軒は軒唐破風という洒落たデザインになっている。
しかし、初層と三層が真壁造り?で四隅の柱が黒く塗り出されていて、相当にクラシカルな雰囲気を持った天守になっている。
ただ、恐らく創建時の望楼を無理やり壁で囲ったせいか、天辺の入母屋屋根が小さくて…
松本城とか以上にバランスが悪いなあ~。
「この天守は、後に土佐へ移封し大出世を果たした山内一豊が高知城天守で似た形を再現しています。
向こうは白亜塗籠で、望楼も壁で覆っていないため相当スマートに見えるので印象は全く異なりますが」
「やっぱり小っちゃい天守ねえ。バランスもイマイチだし」
母、ヒデェ。
「恐らく江戸時代に壁の修理を簡単にするため下見多張りになって、三層目の望楼にも雨による腐食に備えて壁を付け加えたためと考えられています。
もしかしたら今後創建当時の姿に戻す、なんて話が起きるかもしれませんね」
階段の上にも楼門が構えられている。
それを潜って天守を登る。
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天守内は震災修理記録の博物館だった。
私が子供の頃も、東海大地震が起きるー!とか東京に直下型地震が―!とか、ヒドイと日本が沈む―!とかテレビでやってたな。
お父さんが何か録画して繰り返し見てた。
うん。お父さん子供だ。
弟ですら「オモチャ壊してんじゃん」ってバカにしてたな。
小さい頃は本当のことだと勘違いして泣いて怖がってたのになあ、お互い。
「日本各地に残る城は、16世紀後半から防火、耐震、解体修理等の現在でも通用する高度な維持管理によって守り伝えられた物です。
そのため維持費は高額になり、18世紀から城の保存は限定的となり、外郭の門や櫓、使用されない御殿の間引きが行われました。
一方で、その破壊を惜しんだ大名は、国内外の要人を宿泊させる迎賓館として改装し維持費を捻出する努力を始め、今では城泊というムーブメントを生み出すに至っています」
「こんな天守でも解体修理とか大変なのねえ」
「檜は高いからね。松とか杉を使う天守もあるけど、長持ちで言ったら檜なのよ」
「江戸城なんかすごく大きな木が要るでしょうねえ」
「そんな大きくない木で大丈夫だよ?」
「え~?姫路城より大きいじゃない?」
「江戸城の柱は精々2階分しか無くて、各階で二階建ての箱を互い違いに重ねる様に建ってるのよ。
大きな木が少なくなったんで何とかする為と、その方が地震に強いって考えられたお蔭ね」
「司ちゃんよく知ってるわねえ」
「知らないとガイドできないもんで」
色々時サンに教わったお蔭でもある。
このわずか三層の天守でも、天守内に張り出された「地震で崩れた天守台の修理報告」とか見ると、建物を守り続ける大変さはひしひしと感じられる。
私の説明に、母は
「色々苦労してんのねえ」だって。
でもその一言で何かが報われた気がしたよ。
天下の安土城天守なんて、修理繰り返して創建時の部材は半分以下だそうな。
金食い虫だろうなあ。
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さて、お次の目的地に向かうべく、掛川駅から西へ。
「あら?南に行くんじゃないの?」
「西から行くのよ、西に」
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※この物語では珍しく、ほぼ現実と同じ場所にある掛川駅。
ここから二俣へ浜松市北側を通って東海道本線新所原駅へ至る旧国鉄支線二俣線とは、現在の天竜浜名湖鉄道浜名湖線の事です。
※掛川城の縄張は下記の様になっていて、岡崎城や浜松城同様、中世っぽいうねうねした土塁の城を一部石垣で覆って近世化した様な造りになっています。
https://blog.goo.ne.jp/midorishako/e/ffcc42a7e7707587f877fe4c650db96e
※実際に現存する掛川城二之丸御殿。震度7の安政東海地震で倒壊し、その後、幕末に再建された物です。
そのため玄関の唐破風も軒反りのない起り(むくり)屋根、全て桟瓦葺きという江戸後期仕様になっています。
この世界では耐震構造とか耐火建築という概念が16世紀から出来てしまったので、創建当時の御殿が現存しています。
尚、劇中にある本丸御殿が老朽化と災害で破損した結果二之丸に御殿を造営したそうで、史実で両者が同時に存在したかは確認できませんでした。
ただあの狭い本丸では藩政に耐えられないだろうとも思いますが。
※こんな所にポッコリ出てきた文化財修復話。
世間一般ではスペインの例のキリスト像修復失敗で有名になった話ですが、実はそこまで酷く無くても(??)日光東照宮の三猿とかでも同様の失敗があり、監修者が「自分の目が悪くなったかと思った」と酷評したケースがありました。
※劇中の掛川城天守は、安政東海地震の前(前ですよ)、嘉永の地震で天守台北面が崩壊した際の修理届(下記参照)を元に描写しており、現在の木造復原天守とは相当様子が違っています。その理由は劇中で説明した通りです。
設計後に望楼廻縁を内部化した天守では松本城、完成後だと福山城、最初から内縁にしたのは松江城、姫路城等でしょうか。
http://naganokai.com/kakegawa-jyou/
もし楽しんで頂けたら、また読者様ご自身の旅の思い出などお聞かせいただけたら今後の創作の参考とさせて頂きますのでお気軽に感想をお書き下さい。