149.ガイド浜田城 海の男の戦い???
※本作は空想の歴史を書いたものなので、史実や実在の自称・人物・史跡とは全く色々微妙に異なりますのでゴメンナサイ。
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『冬は厳しいのだろうなあ』
萩城を去って、山陰の街並みの赤い屋根を眺めてジェフ伯が言った。
『何故そう思われますか?』
『瓦が赤い。恐らく寒暖差による割れを防ぐ特殊な瓦なんじゃないか?』
『はい。普通の瓦より寒さに強いものです。
先ほども言いましたが一時萩城天守でも使われましたが、あまり出来が良くなかったので普通の瓦に戻された経緯があります。
それでも庶民の家には充分だったのでしょう。
それにしても瓦の色で気付くとは、慧眼です』
『世界を旅していると、何となくだが色々な違いが気になるんだよ』
『凄いです…』
こういう観察眼が本物の知識に結び付くんだろうなあ…
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その赤瓦の産地、石見の国の浜田城は、普通の本瓦葺だった。
『ここは…ちょっと浅かったな』
ボートに移乗しての上陸が残念だった様だ。
しかし頭上には、ドッシリとした…いやでっぷりとした?何とも微妙な天守、もとい三階櫓が出迎える。
『本来は船は城の西側にある船蔵に入りますが、今は遊覧船のため大手門までの水路が引かれています。そちらからの入場となります』
ボートは城の東の堀に入り、葦の茂る沼を過ぎて大手門の前へ。
とはいえ大手門は城下に向いた高麗門はあっても櫓門は無い。
更に山上の本丸、二之丸を囲う三之丸、その石垣も大手より奥側は一段低くなっている。
山上のでっぷり三重櫓と言い、ちょっと威容というには足りないかな?
櫓門が無い大手の桝形を通りながらガイドをば。
『浜田城は元々津県、昔の伊勢国の松坂城にいた古田重治が移封されて築いた城です。
古田家は跡継ぎが無く松平家等幕府の臣下が後を継ぎました。
そして18世紀末から日本を狙ったロシアによる沿岸砲撃に際し反撃しましたが苦戦し、山上は砲撃で打撃を受けました』
一行は昼食後の運動とばかり、山上へ。
白亜の櫓門、正面窓の上下の長押を黒く塗った小洒落た櫓門、中の門が私達を迎える。
そこから昇り階段。
そして山上を固める石垣の曲輪には下見板張りの二ノ門。
『この二ノ門の先が二之丸になりますが、敵の砲弾はこの門を直撃し炎上させました。
現在の門はその後再建されたものです』
『古い形のまま再建したんだなあ』
アラン君が至極尤もな感想を述べる。
『でも綺麗じゃない?』とサンドラ。
『その通りだよサンディ』
…ケっ。
『この時焼かれた門の瓦が、屈辱の歴史としてそちらに飾られています』
門脇の石碑、「石見国浜田城被弾之碑」と書かれた石碑の基壇に、焼けて溶けた瓦が積まれていた。それは言われなければ瓦と解らないくらいに焼け爛れ変質していた。
出来立てカップルを羨む喪女の焼け爛れた心とは全く関係ない。関係ないぞ。
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山上の曲輪、二之丸と三之丸には小さな番所以外当時の建物は無い。
二ノ門左手、高麗門の先が本丸。
19世紀後半に建てられた兵舎以外は。煉瓦建てのオシャレな建物が異様な存在感を放つ。
いいんだか悪いんだか。…アリだな。
ここなんか改装して城泊に使えそうなのになあ。
『この三重櫓は、浜田城の実質的な天守です。広い平面に対し高さが低いため、重厚な印象を与えます。
それでも一層目が下見板張り、三層目が窓の上下に長押形を塗り出した形で装飾性を高めています』
『スモウレスラーみたいよねえ』
『萩城の天守を見た後だとねえ』
メアリ伯爵夫人とバージニア子爵夫人が仲良くディスってる。
…同感です。
『この三重櫓は大破しながら砲撃に耐えました。城主が撤退を決意する直前に、萩から軍船が救援に駆け付け、ロシア艦を大破させました。
その時、長州藩が敵艦を沈没させるのではなく、マストや甲板に鉄の破片や粘着性の油を叩き付け、敵艦を上から破壊する榴弾や焼夷弾を使用し、落城寸前の浜田城を救いました。
この兵器が木造船に対し、16世紀以来の貫通弾より安価な有効打を世界に見せつけ、18世紀後半の大政奉還における長州藩の優位を確保しました』
『村田鋳銭、だったかな?対艦榴弾の開発者』
おお流石ジェフ外海軍少将。
『正しい名前は不明です。只の村医者だったそうで、鋳銭は村の名前です。
時代は鉄の船に移ったので長州藩の優位は直ぐに収まりましたが、それでも現在まで続く毛利伯爵家の支えになった一件ではありました』
『そうか。あの距離だと連携を取るのも当時は難しかっただろう。
しかしよくも逆転出来たものだ!』
『当時ロシアは日本を相当甘く見ていたそうだ』
とジョン子爵
『ロシアが自ら負けた海を後に日本海と名付けるとは、面白い話だ!』
『やはり日本は島国、海軍の国だな!』
…言えない。時サンから聞いた
「浜田城は幕府と長州の喧嘩で大村益次郎にボコボコにされて城主が逃げて城と町に火を放ったんだ」なんて言えない!
その村田名前不明さん、時サンの歴史だと大村益次郎のお爺さんだし!
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三重櫓からの眺望もソコソコに、山麓の三之丸にある三層楼で一息。
ジェフ伯がゆっくり言う。
『この城が、この城下を守ったのだなあ』
ヤメテー!
いや、私達の歴史ではそうなんだろうけどさ!
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※石見国を統べる浜田城の復元CGは下記の通りです。
復元設計は広島大学の三浦教授ですが、一城の天守としての美しさに欠けるデザインではあります。
数万石の大名が、このデザインにOKしたかどうか。
日本屈指の現存(ギリギリ幕末)ブサイク天守、伊予松山城は幕末ならではの不格好デザインですが、慶長元和の頃でこのデザインは許されるかどうか。
三浦教授の復元では鳥羽城天守、西尾城天守と並ぶ不細工トリオです。
https://www.youtube.com/watch?v=P0m97X-ZPGY
※大村益次郎、村田蔵六。歴史改変のせいで「陸軍の父」!とまではなりませんでしたが兵器改良や軍医としての功績はあったと思います。もしかしたら有名な下瀬火薬を前倒しで開発してたりして。
彼の父の名は知られても祖父の名までは解りませんでした。
NHK大河ドラマの「花神」、あの主題曲といい、地味ながら明治の新時代に向かう高揚感といい、小学生の頃大好きでした。でも地味過ぎな話ですよね。
※色々アレな日本海という名前は19世紀頭、ロシアのクルーゼンシュテルン提督によるものです。
もし楽しんで頂けたら、また読者様ご自身の旅の思い出などお聞かせいただけたら今後の創作の参考とさせて頂きますのでお気軽に感想をお書き下さい。




