148.ガイド萩城2 上下二段の城
※本作は空想の歴史を書いたものなので、史実や実在の自称・人物・史跡とは全く色々微妙に異なりますのでゴメンナサイ。
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本丸御殿から天守へ。
ジョン卿の言う通り、日本の人気天守トップ10に上る美しさを誇る天守だ。
でも本丸側から見ると付け櫓が美しさの邪魔をしている様な気がしないでも、逆にどっしり頼もしく見えないでもない。
中は無骨な、他の城同様の倉庫みたいだ。
しかしその三層目には、上段の間という畳敷きの一室がある。
『ここだけ住める、という様には見えないな』
『はい、ここは江戸に呼び出された藩主が帰国した際、家臣に儀式的に土産を取らせるための部屋で、普段は畳も調度品も置かれていませんでした』
更に上層へ。
最上層も畳敷きだ。藩主の儀式を意図したものだろう。
『一説では、毎年正月に、幕府討伐の準備が整ったので出撃を、と言う臣下に対し藩主が、まだその時ではない、と答える儀式が行われたと言われています。
実際は…出城が攻められたので救援を、救援に成功した祝いの宴だ!と交わす儀式だったそうです。
しかしそんな俗説が広まる程毛利家の恨みは深かった事が解りますね』
天守の外は青い海。
『そう考えると、この景色も悲しく見えるなあ。良い景色なんだが』
ジェフ伯が残念そうに言った。
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天守を降りて東側、大きな泉を持った「東園」と呼ばれる御殿の裏から、ロープウェーが山頂の二層櫓の並ぶ「詰めの城」まで登っている。
普通に歩くと山道を20分くらいかかるとか、ロープウェイありがたや。
江戸幕府解散の後、毛利家は山口へ中心地を移動し萩は政治経済から取り残され、城と城下町が残った。
天守から見た以上に、山から見ると整然とした三之丸の城下町、藩士屋敷が綺麗に残っているのが解る。
『萩城は大大名の居城としての山麓部、そして万一の決戦の場としての山上の区画と、二段階の構造を持っています。
御覧の通り二層櫓を6棟も備え2郭に別れた構造は、亀居城や櫛崎城といった支城の中心部を思わせる規模で、最後まで抵抗する毛利の意地を見せつけるかの様です』
『遠くから見たら綺麗だって思うだけなのにね』
今度はメアリ夫人が残念そうに言った。
山上二之丸、要害門から中へ。西側を二棟の二層櫓が守り、番所が建つ。
右手に折れ、門を潜ると山上の本丸。長大な二層櫓の拾間櫓が聳える。
休憩所として開放されている拾間櫓の二階からの眺めは、もうひたすら海だ。
『この海の先には東南アジアがあり、その先にはインド洋、アフリカ、そしてヨーロッパがある。
この地で生きた者達にはそんな想いがあって、徳川以上に近代化を目指して努力出来たのだろうか』
遠い海を眺めて語ったジョン卿。
私は心の中で呟いた。
違います、ほぼ時サンの気まぐれの所為です。
実際の歴史ではそうだったんだけども。
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山から下りた私達は、本丸東側から二之丸東門へ出る。
鳥観図大好きジョン卿が声を上げた。
『凄い迫力だね!姫路城の桜門の様だ』
『こちら東門は、二層の時刻櫓と三層の東櫓に守られた、非常に強固な門です』
二之丸の外に出ると、改めて厳重過ぎる構えを感じる。
中堀を沿って西へ。二之丸南面も、横矢掛で堀に張り出しした二層の青海櫓と塩櫓が、南門の左右を見守る。
そして南門。普通の桝形門かと思いきや、高麗門を入り右手に曲がったら櫓門は石垣の壁を超えた更に左手。
手前を遮る石垣の裏には守りの兵を隠す武者溜りとなっている。
その上このクランク状に曲がる門の北一面は多門櫓と櫓門で固められ、強力な俯射を浴びせることができるというこれまた殺意マシマシな凶悪門である。
『以上、この二之丸の強固な二つの門は、岩国城を築いた吉川広家以下毛利家臣下を競わせて築いたものです』
今まで口数の少なかったサム子爵が言う。
『私も台湾やフィリピンの港で聞いたよ。日本の城の平地の門を舐めてかかった東インド会社の軍が、二重の門の中でひたすら射ち殺されるだけだった、と』
『恐ろしい…』バージニア子爵夫人の顔色が良くない。
『今は既に、昔の物語です。兵器が進化し過ぎましたから。
平和が続く事を祈りましょう』
私はテキトーに言葉を濁し、もう一度門を出た。
そこにあるのは、船着き場。
「萩城下観光 船着場」、とある。
『これ楽しみだったのよ!』とサンドラ。アランの手を引っ張って飛んで来た。
『この船は、萩を囲む南の橋本川、北の松本川、その間を繋ぐ三之丸外堀を結ぶ市内観光の遊覧船です』
『自分でこの水路を走って見たかったが、ここはこの地の先輩の邪魔をしないでおこう』
ジェフ伯が苦笑すると…
『感謝します!将軍!』
遊覧船の船頭さんが英語で応え、最敬礼した。
『なんだ!俺も有名になったもんだな!』
皆が笑った。
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船は広い橋本川に出ると、のんびりした水路…三之丸外側を囲む外堀に入った。
かつては三之丸側に茀(かざし・外から見えなくするための、壁替わりの木)の並木が植えられていたが、観光化に伴い城内側が見える様剪定されている。
『城内三之丸の家臣の家の外壁に櫓が設けられ、敵が三之丸に侵入した場合、それぞれの家が小さな城として敵を迎え撃つ機能がありました。その最大のものが江戸の大名屋敷です』
『今ではこんなロマンティックで静かな景色なのに、そう考えると本当に要塞みたいな街なのね』
メアリ伯爵夫人が感心した様に言う。
外堀に架かる橋は明治以降小さな船の往来を考え桁下を高いものに架け替え、道も底上げされている。
城の外側は下士の邸や町屋が迫って、時代に取り残され、静かに佇む城下の姿を伝えてくれている。
船は城下の北、菊ケ浜へ出る。
防波堤の間から、砂浜の先に温泉宿が見える。
『海を眺める温泉かあ…ニッポンのロマンだなあ』
アラン君、何かヘンな事考えてないだろね?
『米子城は温泉が楽しめるそうだ。そこでゆっくりしようじゃないか』
と、若干諌める口調のジェフ伯。
そして船の先には、先ほど通った東門。そしてその先、砂浜の上の石垣の上に並ぶ、白亜の二層櫓の行列。
何というか、毛利「元」百万石の意地を感じる威容だ。
一行からも感嘆が漏れる。東門に繋がる三層の東櫓から、北端の三摩地櫓まで、潮入門を真ん中に据えた指月山東岸の護り。
船はノンビリ指月山を回り、反対の西側から中堀に戻る。
その先には、ホワイトキャッスル号。
伯爵達一行は船頭さんに別れを告げ、北へ、そして東へ進路を取った。
次の寄港地は浜田城、そこまで100km、ランチを楽しみつつ4時間。
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※二基の櫓に囲まれた二之丸東門。堀は埋められていますが、指月川のギリギリで石垣が残っています。
※実際の指月山は山頂まで気に覆われていて眺望はありません。
日本の城跡は樹木の無法地帯となり、眺望上の問題だけでなく、多くの石垣が破壊されています。
※三之丸を囲う外堀、一部は景観が整備されていますが、船が通れるほどではありませんし、角となる部分は埋め立てられています。また外堀城外側は見通しの良い道路になっています。
※三之丸北の菊ケ浜は、温泉宿が並ぶ海水浴場となっています。
私も妻子と親族を連れて行きまして大好評でした。
萩は遠いのですが、行く価値は充分以上にありました。
もし楽しんで頂けたら、また読者様ご自身の旅の思い出などお聞かせいただけたら今後の創作の参考とさせて頂きますのでお気軽に感想をお書き下さい。