135.ガイド鞆城 瀬戸内迎賓館
※本作は空想の歴史を書いたものなので、史実や実在の自称・人物・史跡とは全く色々微妙に異なりますのでゴメンナサイ。
******
多島海である瀬戸内海は、島と本州、更に四国を結ぶフェリーが大小無数に出ているし、大都市や大工場へ向かう大型船舶も行き交う、正に洋上の大動脈だ。
そこに個人用メガヨットがチョロチョロするのは定期便にとっては面倒な事だろうなあ、と勝手に推測する。
そう思いつつ、福山城を後にして南下したホワイトキャッスル号は福山圏最南端、鞆の浦へ。
天皇陛下御宿泊の名勝、仙酔島の外側を回り、フェリーが行き来する鞆港へ入港する。
時間が止まった様な、古い家並みが並ぶ街の後ろの丘に、三層の白い天守と、建物や白壁が連なる。
そして、小舟が無数停泊する桟橋の手前には、小さい石の灯台…大きな石灯篭というべきだろうか?
『あんな小さな灯りがあるだけでも、船乗りにとっては心強い。大きな光なんだよ』
ブリッジでジェフ伯は舵を取りながら、恐らく心中では航海の無事をあの小さな灯台に祈っているのだろう。
『結構船が多いが、漁船はもう引き払っている。よし』
ジェフ卿、いやキャプテンジェフの操舵で50mのホワイトキャッスル号は桟橋に接舷した。
例によって人だかりは出来ていたが…
おお!中にはユニオンジャックを振っている人もいる。
古い、額に入った写真を抱えている老人もいる。
一行の男性陣は写真に向かって敬礼し、婦人たちは深く頭を下げた。
ああ。成程。
******
一同は古びた街並みを、城の大手へ向かう。
『この鞆の街には、あの海に突き出した岩、大きな屋根の寺があるあたりに大可島城という中世の砦があり、村上水軍の拠点にもなりました。
今では地続きになっていますが、ちょうどあの岩山と、その向かいの寺の間は海でした』
『『『ほ~う』』』
陸地が昔海でした、って言われると驚くよね。
『16世紀後半、織田信長が京から最後の足利将軍義昭を追放すると、中国の有力大名毛利家がこれを迎え入れ、この地に邸を築いたのが城の始まりです。
足利義昭はここから織田家の敵に指示を与えました。これを鞆幕府、という者もいます。
この後、毛利家が広島から萩へ追放され、後に入った豊臣秀吉の部下であった福島正則がこの地を抑えます。
正則は広島の護りとしてこの屋敷が拡張され、三層の天守を持った城になります。
他に正則は領内の各地に堅固な城を築いたため幕府から敵対視され、ついに追放されます。
その後を治めた浅野家の下、この城を始め各地の支城は幕府軍が駐留する事となりました』
『幸いなのは破壊されずに運良く残されたことだ。下津井城といい、瀬戸内海の風景によく溶け込んでいる。
いつだったかこの城を始めとする瀬戸内海の城を描いた、銅版画状の絵を買った事がある』
『あ"』
もしかしてそれ描いたのって…
『そう言えばツカサン、学園祭の展示で優れた城のスケッチを使ったと言うが…』
『ネットの拾い物なので詳しくはワッカリーマセーン!』
誤魔化した。誤魔化せた?
一行はかつて海だった堀を渡り大手門へ。
『長い江戸時代の間にここまで市街になっていますが、かつては船が入っていました。
鞆城は村上水軍の血を受け継いだ海上要塞でもあったのです』
『その姿を失ったのは残念だ。今瀬戸内海で海に面している城は残っているのかな?』
『海に近い、というのであればここや尼崎城、赤穂城、後に訪れる亀居城ですが、港としての機能が残っているのは三原城だけです』
『世界最深の鉄製蒸気船を持っていた日本海軍も、19世紀には船のサイズが桁違いになってしまったからなあ。せめて記念館の水上パレード等は残してほしかったなあ』
******
東西に細長い丘の上の城に、西から東に向かい三段階になっている縄張。
その中腹の御殿で一行は眺望を楽しんだ。
『この御殿は貴国やオランダ、和平後のポルトガルや明王朝の施設の宿泊にも充てられました。
あちらに見える大可島城跡の円福寺も、その対岸の福善寺も迎賓館に使われました。
鞆の浦は海外使節団を迎える外交官の休息の地でした。
先ほど歓迎に来てくれた方々はそ明治以降の寄港の際にも歓迎してくれた人達かと思います』
大広間では一同に城の管理スタッフがポルトワインを用意してくれた。
グラスに丁寧にワインが注がれていく。
『当時の外交官達が伝えた者でしょうか、この地にはポルトワインの産地が多くあります。
城下町にもワイン蔵が多くあり、今でも名産品として重宝されています』
少量を注がれたジェフ伯が音頭を下した。
『400年の長きに亘り、この地を訪れた国王、女王陛下の海軍の先達。そして歓迎してくれたこの地の友人に乾杯!』
『乾杯!』
甘!これは時サンにもお土産に買っておこう。深酒用じゃなくて、食前酒用だな。
あ、もう一つの鞆の浦名物も買わなくちゃ。
******
丘の上に聳える天守からの眺めは、変化に富んだものだった。
南には瀬戸の島々。
北の方にはちっちゃな蒸気機関車が海沿いの道を走っている。かわいいかも。
西の山には、葡萄畑が見える。あのワインもあそこで採れたのかな?
そして東にはさっきグルっと外側を廻ってきた仙酔島。小さいフェリーが行き来している。
『あんな海の中の小さい島にもお寺が!』
『あれは弁天島です。
弁天、弁財天はインドから伝わり仏教と混合されたヒンズー教の女神です。
水の神や財産の神として全国で崇拝されています』
『航海の安全を守ってくれるのかしらね』
サンドラが聞いてくる。
『ああいう海を見渡す場所にある寺や神社は、そういう願いを込めて建てられていると思います』
そして水死した人達の魂の安らぎも。
『日本人は本当に、色々なものに祈るのねえ』
城の中を楽しんだ一行は、細かい道が巡る城下を廻って楽しんだ。
古い民家の狭い道が、迷路みたいに思えるのかな?
そのあちこちが店になっていて、宝探しの様に楽しい町並みになっている。
ジェフ伯始め何人かはポルトワインを土産に買った…
…いや!ジェフ伯はもう一瓶何かデカいの買ってるよ!一升瓶で!
もう一つの鞆の浦名産、「保命酒」だー!
『瀬戸内のポルトワインも買ったぞ!マグナムボトルだ!』
いえそれ薬用にチビチビ飲むものなんですってばー!全部明けたら駄目ーッ!!
******
※風光明媚な景色に古い町並み、そして温泉に海産物。名高い観光地である鞆の浦で抜群の知名度の低さを誇るのが鞆城です。みんな元城下町とか思いもしないだろうなあ。
実際、バリバリの堅城築いている事が家康にばれて激怒され、即取り壊したなんて話もありますし、人々の記憶にないのは寧ろ良い事なのかも知れません。
※その結構については、発掘調査報告になにか書かれているのかもしれませんが詳細を確認できませんでした。
例によって余湖さん様の復元図でも、全体的な地形と確認された石垣の塁線しか書かれていません。
他には、下津井城ですら収録してある浅野家「諸国古城之図」でも鞆城は書かれていない(残っていない?)のです。
http://yogokun.my.coocan.jp/hirosima/hukuyamasim.htm
※天守から北に見えたのは、実際には昭和29年に廃線となった鞆軽便鉄道です。
あ、下津井鉄道について注釈入れるの忘れてた。
笠岡城の遺構が残ってて話に描けていれば、井笠鉄道とかも描けたのになあと無念に思います。
※江戸時代では海外使節の宿泊所となった鞆ですが、この世界では唐入りがなく、生糸の国産化も江戸初期から行ったため周辺国との接触は希薄でした。
従って名産の酒も現実の保命酒(屠蘇っぽい薬膳酒)ではなく、ポルトワインに置き換わって…いなかったー!
元々この地は味醂の産地で、これに大坂の漢方医が薬味を付け、来賓に愛飲されるまでになったそうです。それを福山藩が全国に名物として拡販した、鞆の浦でしか作られていない物だそうです。
厳密には養命酒とも違うものです。養命酒は17世紀初めに信州で生まれ、保命酒はそれより半世紀遅れで、大坂の薬剤師の処方によって鞆の浦で生まれています。
なお現在の養命酒は薬品ですが保命酒は薬品ではありません。でも。
※薬膳酒一升瓶、と聞くと思い出すのは。
その昔、とある酒好きの特技監督様が、夜中に酒切らして近所の薬局叩き起こして養〇酒買い込んで、その晩の内に空けてしまった。
「頭が割れるとはまさにあの事だ。
君達、養〇酒を一晩で一升空けるのだけはお勧めしない」
いえフツー日本酒でも一升を一晩で空けません!
って突っ込んで数十年。
天国で偉大な先達やせっかちな後輩、苦しい時代を支えられた方々と良いお酒を飲まれていらっしゃるでしょうか。
もし楽しんで頂けたら、また読者様ご自身の旅の思い出などお聞かせいただけたら今後の創作の参考とさせて頂きますのでお気軽に感想をお書き下さい。