113.ガイド和歌山城 御三家にしては
※本作は空想の歴史を書いたものなので、史実や実在の自称・人物・史跡とは全く色々微妙に異なりますのでゴメンナサイ。
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ゴージャスリムジンバスは当然の様に私を乗せて京奈和道を西へ、和歌山へ。
そして和歌山市内へ。
「「「ほ~」」」
城の東側、広大な東堀の向こうに、横矢掛で美しい層、というか段を成す二之丸の多門櫓、それに連結した二層櫓群が見えて来る。
バスは城の北東隅にある大手門前の駐車場で停車。右手を二層櫓に見守られた、櫓門を持たない高麗門だけの大手門。ちょっと弱弱しいかな?
しかしその内側は、御三家らしい豪華な御殿。
「和歌山城は最初は大坂を守るため豊臣秀吉の弟、秀長の命令で築城されました。
その後徳川配下の浅野家により近世城郭として整備されました。
そして更に徳川頼宣が55万石で入場したのです。
当初天守をはじめとする建築は下見板張りでしたが、幕末に白亜塗籠に改められました」
「徳川の重要な城って割にはショボいねえ」
ある意味持姐姐の言う通りだ。
この和歌山城は近世城郭初期の色を濃く残す城だ。
「持姐姐、関東のもっとショボイの見たら腰抜かすよ」
「ハオ。あたしゃアンタがとびっきりのイケメンと出来婚しても腰なんざ抜かす程のババアじゃないよ」
「何気に傷付く反撃だなあ」
「ハハッ。水戸の城の土蔵みたいな天守だろ?ま、確かに20代だったけどヘンチクリンさに腰は退いたさ」
「もう知ってたんだ。流石だね」
「まあでもアレもヘンチクリンだったけど、こっちの天守も…中々不思議な格好だね」
そうなのよ。和歌山城の天守と、それに繋がる小天守と二基の櫓、どれも正方形でも長方形でもない、不等辺四角形。
これは土台となる天守曲輪の石垣の歪さのままに天守以下を築いたからだ。
そのために上に建つ天守や櫓の屋根も歪になる。
安土城と同じ歪さ。江戸城等の日本の城の完成形と真逆のワイルドさ。それがいいって人もいる。
「建築技術が未熟で、長方形に石垣を築けなかった時代の名残です。
一階が菱型、二階が正方形。
その間を繋ぐ屋根が斜めに線を描いている、そういう姿です」
「へえ。面白いねえ」
持姐姐はそう言って二之丸御殿へ行った。
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二之丸御殿は広大なのだけど、その後ろは広大な芝生の庭園だ。
「後宮でもあったのかしらー」
こういう話題に敏感だなあ増姐姐。
「その通りです。この和歌山城は徳川御三家、家康の十男頼宣の居城であり、江戸城や名古屋城同様大奥という名の後宮がありました。
明治を前に大奥は廃止され、災害時の避難場所となりました」
「やっぱ徳川はヘナ…」
「ストーップ!今でも伯爵家として続いているんですよ!」
「う~ん。伯爵様は味方にしておきたいわよねえ」
「では二之丸御殿の大広間へ」
何やら壮大っぽい話が聞こえたけど無視無視!
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「現在でも二之丸御殿は紀州徳川家が祭事等に使用することがあり…」
そう。この壮大な御殿もまた全国でいくつか使用され続けている、現在も貴族として続いている大名家の所有物である。不要となり解体された大奥を除いては。
そしてもう一つの御殿、本丸御殿へ。
和歌山城の中心は二つの丘から成り、西側が天守のある天守曲輪、そして東側が本丸御殿となっている。
この御殿も紀伊徳川家の所有で、好意で一般公開されている。
その南面は石垣上に載せられ、大広間から城下を展望できる造りになっている。
この眺めと解放感に叔母さん達も一息。
眼下に天守台みたいな巨大な櫓台が見える。石垣の造りも相当進んで立派なものだ。
「ありゃ何だい?何か建ってたとか?」持姐姐の質問。
「はい、実はこの和歌山城、18世紀に改修する話があったのですがあまりに大工事になって幕府への謀反が疑われ、途中で計画を幾つか中断したのです。
その名残りではないかと」
「やっぱその辺は厳しいもんだねえ」
「この本丸御殿、徳川領になる前の浅野家の次代には姫君の春姫が住んでいました。
後に春姫が尾張名古屋城主にして家康九男の徳川義直に輿入れする事となりました。
これに因んで尾張徳川家と紀伊徳川家、ゲストに浅野家を招いて交流の催事が行われています」
「あら珍しくいい話だねえ」
「政略結婚なんてどこまでいい話だか」
「なお義直は春姫を愛し、彼女が亡くなるまで側室を取らなかったそうです」
「やっぱりいい話じゃないか」
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そして城の中心、天守曲輪へ。
「随分変な石垣だねえ」
そう。二之丸周辺の美しい切り込みハギ、布積みの石垣と違って天守曲輪はガサガサな自然石を積み上げた形だ。
「普通城は中心にある天守、本丸から年々外部へ拡張されます。
この天守曲輪は和歌山城の最初の姿を残しており、石垣も緑色片岩の自然石を積み上げたワイルドな印象を与えています」
「あ、ホントに緑色だ」
「良く見ると白い縞模様が入っています。ここ和歌山や紀伊水道を挟んで対岸の四国にある徳島城も緑泥片石で築かれており、中央構造帯に位置する独特な石垣と言えるでしょう」
「石垣の歴史ねえ…」
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そして西側の丘の上、天守曲輪。
「和歌山城天守は姫路城や伊予松山城と並ぶ連立式天守、天守と複数の小天守や櫓を渡り廊下で連結して一つの曲輪を成す形の代表例です。
高い防御力を感じさせ、三層ながら敵の侵入を睨みつける様な天守群は和歌山の人々の心の誇りとなっています」
一行は天守としては珍しい唐破風の入口から内部へ。
「石垣の加工能力の低かった16世紀末の天守台だけあって、平面は不等辺四角形です。
こうして中から見ると、外壁の歪さを無理やり初層の屋根で納めようとする歪さがありありと見えて、面白い姿を楽しめます」
「最初見た時はショボいかと思ったけど、結構面白い見所があるものねえ」
「色々な城に、技術の進歩や試行錯誤、作った人達のエピソードがあって飽きる事はありません」
「いや。司ンのお話が面白いからかも知れないね」
「お褒めに預かり、有難う御座いまーす」
おっとっと、あまり有頂天にならない様に。でも嬉しー!
おお、また毘姐姐とちびっ子が渡り櫓を駆けだした!文化財は大切にしようね。
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天守を降りて再度二之丸から見上げる。
「確かに、面白い格好の天守かもねえ」
持姐姐の言葉が、改めて嬉しかった。
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※徳川御三家、司ンが最後に訪れたのが和歌山城。途中の文にもありますが、拡張計画を中断させたやや歪な姿を復元した図は下記サイトの中ごろにあります。
他にもCGによる二之丸からの眺望等も掲載されいています。
http://www.iobtg.com/J.Wakayama.htm
※現在の天守はアメリカ軍の爆撃で焼失した後、藤岡道夫先生の設計でコンクリで復元されたものです。
コンクリ復元を一概に批判する向きがありますが、落成式で和歌山市長曰く「素材は変わっても、街から見上げる姿は何の違いも無い」との賛辞こそがこの問題への一つの答えではないでしょうか。
幸い現在は復元当時より木造建築への理解が高まっており、現コンクリ天守が耐用年数を超えた後には木造による復元をと求める声も上がっています。
もし楽しんで頂けたら、また読者様ご自身の旅の思い出などお聞かせいただけたら今後の創作の参考とさせて頂きますのでお気軽に感想をお書き下さい。




