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110.ガイド大和郡山城 やっぱり城は金の天守!

※本作は空想の歴史を書いたものなので、史実や実在の自称・人物・史跡とは全く色々微妙に異なりますのでゴメンナサイ。


******


 ここから更に名阪国道を西へ。名君豊臣秀長の故地、大和郡山城。

 三之丸にある、黒鉄門前駐車場で下車。すぐ後ろは近鉄の大和郡山駅。

 何となく御殿っぽい建物だ。

 そして正面黒鉄門は城の中心部に向かう東の固め。五三の桐の金飾りが輝く、格調ある門だ。

 そしてその向こうには黒と金の五層の天守。


「大和郡山城は、東大寺等南都を支配していた仏教勢力に、織田・豊臣政権の対抗策として築かれた大坂城の兄弟城、武士による大和支配のシンボルでした。

 その為有力な社寺に墓石や地蔵、旧跡の礎石まで差し出す様命じられました」

「やるねえ」

 喧嘩上等な毘姐姐。

「郡山城は秀吉の弟の秀長が預かりました。彼は兄秀吉の天才的なアイデアを実現させるため、調整役として各大名との間を奔走したり、質素倹約に勤め、後の南蛮征伐の軍資金の大部分を捻出したと言われています」

「ヒデナガも良い男なのかねぇ」

「この城は大坂の乱に際しては豊臣秀松が籠り、大坂の首魁にして弟である秀頼のいる大坂城を至近距離に捕らえていたのでした」

「壮絶な兄弟喧嘩ねえ」


「でもよ、兄弟だったら何で一緒に徳川と戦わねえんだ?」

 食いつくなあ毘姐姐

「織田信長、豊臣秀松、徳川家康は日本をヨーロッパから守るため団結し、権力を譲り合う約束をしていました。

 これに親馬鹿の淀君とマザコンの秀頼、豊臣一直線の石田三成等々が反対し、ヨーロッパと結託して日本転覆を謀ったのが大坂の乱です」

「う~ん。そこまで話がデカくてショボいと悩むなあ」

 デカいのかショボいのかどっちだ?


「でもなあ、血を分けた兄弟だろ?」

「今の価値観では難しい考えですが、親子、兄弟が敵味方に別れ、どっちが勝っても親族の地は絶やさないという考えが当時の武士にはありました」

「合理的だがドライだね」

 持姐姐、的確だ。

「更に国のため、帝の意に逆らう逆賊を討つためという固い意思もありました。

 国のトップとしては敵と解ってるヨーロッパにホイホイくっつく大坂方は許せなかったのでしょうね」


「カーッ!辛いねえ!」

「私達お団子状態で一緒でよかったわねえ」

 豊満な増姐姐が毘姐姐に抱き着く。


******


 黒鉄門内側左手には、広大な二之丸御殿が広がる。

 その反対側、高石垣の上に毘沙門曲輪の多門櫓が走り、その先に追手門の櫓門と、その左右に二層の古風な櫓が上がる。

 追手門を潜ってUターンするかの様に南に向かうと毘沙門曲輪、そしてその中ほどに本丸に向かう極楽橋だ。

 その先に、中国最古の王の前に現れたと言う伝説の神獣の名を冠した白澤門。

 そこから本丸に入ればその先には仏教国大和を威圧する豪壮な本丸御殿。


 その大広間の漆塗りの柱に金具装飾、極彩色の欄間に金屏風等は豪華大好き4姉妹に受けた。

「ちょっと名古屋城より小さいねえ」

「ここも模写だね。どこの学生さんだか後で調べさせよう」

 などと突っ込みを入れつつだが。

 そして軒の金瓦、破風板の金具もまばゆい天守へ。

 豊臣らしい内部の装飾も手を抜かないゴージャス仕上げだ。


「やっぱり城って多少小ぶりでもこうじゃなきゃねえ」

「大坂城の傘下で仏教勢力に睨みを利かせる権威の城です。

 来る者を圧倒させる力が必要だったのでしょう」

「さっきのナントカって××ヤロウに見せてやりたいぜ!」

 時代が変わったんですよ…とは言えなかったよ毘姐姐相手にゃ。


「毘姐姐も良い事いうねえ。あたしも何だか解る。


 城って、文化でも、戦争の工夫とか戦略でも、歴史でも何でもないんだよ。

 田舎から出てきた乞食同然の奴等がな、成り上がってどんな外道な事でもやりまくって、俺様を神や仏より崇めろー!って、そういう威張り腐ったハッタリの道具なんだよ。


 だからアタシにゃ××な築城名人の城なんかより、こういうキンピカで豪華な城の方がグっとくるんだよ。

 きっと家康って奴はその両方を使い分ける、相当オカシな奴だったなろうなあ」


 持姐姐が言った。ある意味この言葉は正しい。

 恐らく色々成り上がって切った張ったしてきたこの人だから見えるんだろうな。

 権力者の下に付こうとするお行儀のよい城と不躾100%社寺仏閣の世界に殴り込みをかけたこの城との違いが…

 この人でなくてもそりゃわかるか。


******


 本丸を白澤門ではなく、本丸御殿台所の南面に開けられた竹林門から出た。

 その先に広がる広大な二之丸御殿。


 江戸時代を通じて譜代の柳沢家や本多家が使ったこの御殿はフツーの御殿だったのでそこは敢えてスルーしようかな。

 と思ったら「歓迎 徐家様ご一行」と玄関に。

 大広間に通されて、昼食をサービスされた。

 これには4姉妹もご一行もご満足。

「またまた城で宴会かあ?司ンやるじゃん!」

 これはヤーティンさんの援護射撃かな?

 あ、一行の昼食と私の宿泊の予定をキャンセルしといたよってメール来た。


 もう逃げられないねコレ。



※豊臣家の大和威圧拠点、郡山城の最盛期はこんな感じでした。奈良産業大学によるCG復元ですが、本丸御殿は作成されていない様です。

https://www.youtube.com/watch?v=uzxrt3pzUd0


※実際の大和郡山城は関ケ原の合戦で焼失した伏見城を再建するための資材として移築され、天守は二条城へ移築されました。

 その天守も家光の代の二条城拡張工事の際伏見城天守と玉突きで淀城天守に移築され、と数奇な運命を辿りました。

 そのお蔭で現在でも凡その姿をうかがい知る事が出来ます。

 で肝心の元の大和郡山城、江戸時代を通じて天守が無く、オマケに「建設中に仏罰で崩れた」とか「天守は無かった」伝説が出来てしまっています。


※今では文中に描いた追手門と周囲の櫓、多聞櫓が復元され昔日の威容を僅かに物語っていますが、大和郡山市では城の発掘調査や部分的な復元を続けており、天守台の旧状復元や極楽橋の復元も行っています。

 後者については昇り口に石段があり、「バリアフリーの観点から疑問が残る」とか言い出す妙な専門家がいて気が遠くなりそうです。

 もし楽しんで頂けたら、また読者様ご自身の旅の思い出などお聞かせいただけたら今後の創作の参考とさせて頂きますのでお気軽に感想をお書き下さい。

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