106.ガイド津城 築城名人台無し
※本作は空想の歴史を書いたものなので、史実や実在の自称・人物・史跡とは全く色々微妙に異なりますのでゴメンナサイ。
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もう、ぼちぼち逃げられなさそーな同乗同泊のお誘いをブッチ千切って次のスポットまでニンジャレース!…???
だが今度も僅差で勝った!
関西第二の国鉄、地味な塗装で派手な内装、近鉄特急30分で津へ!
直線距離なら高速頼みのバスには負けないよ~?
でも城と駅の間の往復で差が縮まるんだよなあ~。
「何なんだコイツラ」
「だから売られた喧嘩は」
「もうそろそろ限界だろな」
「あ"~」ちょっとヤーティンさんに相談いれとこう。
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「ニンジャー!ハヤイー!」「ハヤイー!」「あ~も~止め止め」
さしもの毘姐姐もやる気なくしたっぽい。
「ニンジャ、スゴ~イ!」あ、何かとても柔らかい物に抱き潰された。
増姐姐の極楽抱擁からスルっと抜け出し。
「津城は、二重の堀に囲まれた城です。
元は織田信長の弟、信包が築き、五層の天守を上げました。
その後大坂の乱に備え築城の名手と言われた藤堂高虎が徳川家康の命でこの地に入封、現在の津城へと改修しました」
シレっとガイドに強制リターン。
「司ン質モーン!」
「はい毘姐姐!」
「ヒッヒッヒ…」その瞬間またしてもスーがギクっとしたのを私は見たよ。
「築城の名手だったら、何でアソコの天守?何にも無いんだ?」
「それは天下を掌握する権力者、徳川家康に遠慮したからです」
「んだぁ?」あ、周囲の気温が下がった。
「大坂の陣は、誰が見ても大坂の負けが確定でした。
しかし、徳川家康は入念にこれを包囲しました。
もしかしたらその後に起こり得る、西国大名による反乱を意識したのかも知れません。
そして藤堂高虎は、実戦的な城を作りました。
その反面、既に戦いは大砲の時代。
そして徳川が勝てば天下の戦いはもう終わる。
高い場所から敵を見渡すという古い目的の天守、改めて徳川の権威を示す必要もなくなった天守を改めて築く事で、派手嫌いの家康から嫌われるのを恐れたのかも知れません」
「天守の無い日本の城なんざ、×××が無ェヤローみたいなもんじゃねえか!」
うひゃー、言い切った!
「城に何を求めるか、でしょうね」
「ほう?」
「16世紀の、裸一貫から強い武将の下に付いて、俺様の城を持てた喜びに満ちた西国の城」
「アタシはそれがいいな!」
「17世紀で世の中が刀と鉄砲の時代から鉄の船と大砲、鉄道や蒸気機関の世の中になった中で地方の産業を任された中での城」
「権力の腰巾着って奴だ!」
「藤堂高虎は後者です。戦いに適した城の平面計画を描き、政治の趨勢を見越して天守をバッサリ無視する。築城の名手と言うより世渡りの名手でしょうか」
「アタシゃ嫌だねそんなXX(以下略)」
「言うねー毘姐姐!」
「だってそーだろこんな中々結構な城なのにXX(以下略)」
あー日本全国天守大好きオジサン達が言いたくても言わなかった事をこの人バッサリと!
「えー近年、16世紀に存在して17世紀に解体された天守を復元しようという計画が随所で起きており、ここ津でもその基金が開始されています。
今度皆さんがこの地を訪れる時は、織田家家臣の五層天守が復元されているかも知れません」
「ホー。そうあって欲しいもんだな!」
「やっぱ日本人、街の真ん中に天守が欲しいんですよ」
「そうだろそうだろ!」何故だか毘姐姐がゴキゲンになった。
「よーしトットと宿行って酒飲むゾー!!」
え"~?!
「ちゃんと見物していくわよ!もちっと我慢なさいこの子は!」
60過ぎでこの子呼ばわりかー!やっぱ深入りしちゃダメだこの人達。
「ぐぬ~!司ン!しっかりガイドしなさいよ!」
「はい!ではこちら、この津城は天守台以外は多門櫓と二層、三層櫓で囲われているので名古屋城同様に本丸をぐる~っと回遊できます」
そう。津城本丸は破風の無い層塔式三層櫓、それも長押を出したク~ルな三層櫓が四隅を囲み、その間を多門櫓、二層櫓、そして二つの桝形門をコの字型に多門櫓で固めた、天守が無い事以外は堅牢にしてスタイリッシュな構えなのだ!
…そう考えると天守無いの益々勿体ないよね。
例によって毘姐姐とちびっ子を先頭に、本丸多聞&櫓昇りツアーが始まったー!
走るなよー!
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「いやー!名古屋城もだけど多聞櫓で行き来出来る櫓って楽しーなー!」「なー!」「なー!」
うん。毘姐姐、子供の心を忘れない素敵な叔母さんだね!
「では、明日松坂城でお会いしましょう!さよーな…」
何か柔らか~い物にぶつかって、バスの中にはじき返されてしまった!
「あらん司ンってば積極的!」
またしても増姐姐の豊かなバストだ!なんか狙いを付けられた?!
「よっしゃ!捕まえた!」
と毘姐姐が私を軽々抱き上げた。
あ"~!とうとう捕まったかあ!
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※藤堂高虎が整備した津城の復元模型は下記の通りです。
https://www.info.city.tsu.mie.jp/www/contents/1001000011267/simple/23141.pdf
※津城天守については整理すると下記の通り
・織田家五層天守・?層小天守建設→関ケ原の合戦で焼亡
・富田家三層天守・二層小天守→17世紀半ば焼亡
・藤堂家入封、城改築(17世紀初頭)
なので、藤堂家津城には半世紀の間富田家の三層下見板張りの天守があったのかも知れません。
そうなると毘姐姐、言いがかり。…でもないかな?
もし楽しんで頂けたら、また読者様ご自身の旅の思い出などお聞かせいただけたら今後の創作の参考とさせて頂きますのでお気軽に感想をお書き下さい。