20.「レイラ、ごめんね」
「やばいね。本当に暴走だ」
「シモンくん……」
「なにやだ! あれ、気持ちが悪い!!」
シモンの変化が恐ろしいのだろう、ミアは縋るようにレイラの服の袖を掴む。その手は小刻みに震えていた。地面に広がる水から、じゅぅ……、と何かが焼けるような音が聞こえる。見れば、水の下にある芝生が全て枯れたようになっていた。水が広がる端から妙な煙も上がりはじめる。
レイラはそれを見ながら声を震わせた。
「なにこれ……」
「暴走というのは、それぞれのマナの特徴を強化する傾向があるんだよ。今回強化された特徴は腐食みたいだね」
「腐食? でも水って……」
「水はありとあらゆるものを腐食するよ。生物だろうが、金属だろうが、なんだって、ね? 普段問題にならないのは、腐食するのに時間がかかるからだ」
生物の死体が水の中で膨張して腐敗するように、金属が錆びるように。
つまり、普段腐食にかかる時間をあの水は極端に短縮しているということだろうか。
その説明にミアがヒステリックな声を上げる。
「ということは、あの水に触れたら私達も腐っちゃうんですか!?」
「そういうことだね」
「そういうことだねって……」
「シモンくんは大丈夫なの?」
視線の先にいるシモンは、うずくまったまま動かなくなっていた。もしかすると気を失っているのかもしれない
「どうだろう。僕も暴走した人間をそんなに沢山見たことがあるわけではないから、なんとも言えないね。ただ、気を失っても魔力が垂れ流されているところを見るに、あのままだと死ぬんじゃないかな。魔力を使い切ってね」
「そんな……」
「レイラ、シモンを助けたい?」
アルベールの問いに、レイラはシモンに向けていた顔を上げる。
「当たり前でしょ!」
「僕が助けてあげようか?」
「出来るの?」
「出来ないとでも思った?」
こちらを見下ろすアルベールの顔には、余裕の笑みが浮かんでいる。きっとどうすれば彼が助かるのかアルベールは知っているのだろう。
「レイラの頼みなら、シモンの事、助けてあげてもいいよ」
そのセリフにレイラはアルベールのことをすぐさま頼りそうになる。しかし、ここまでもったいつけているのだ、もしかすると彼はまた何か対価を要求してくるのかもしれない。躾のときのご褒美のときのように。
「アル」「ん?」
レイラはアルベールの袖を引く。そして、そのままの勢いでかかとを上げた。彼の肩に手を置き、体重をかけて無理矢理顔をこちらに傾かせると、レイラはアルベールの頬に唇を落とした。
「……え?」「お願い」
甘えるわけでもなく、かといって怒った風でもなく、レイラはそう呟いた。顔を背けたのは頬の赤みを少しでも見られないようにするため。彼の頬にキスしたのは、強請られてからするのが癪だったからだ。それに、毎回毎回翻弄されっぱなしというのも、なんとなく情けない。
レイラからキスしてくるとは思わなかったのだろう、アルベールは頬を押さえたまま固まっていた。そんな彼をレイラは覗き込む。
「ダメ?」「……」「アル?」
アルベールは、額を押さえて大きく息をつくと、首を振った。そして「あぁ、僕?のレイラは可愛いなぁ」と何やらぶつくさ呟きはじめる。その呟きが聞こえていないレイラは、少しだけ不安そうな顔になった。
「アル? やっぱりダメだった?」
「……そんなわけないよ。すごくやる気になった」
これまでにない優しい笑顔で、アルベールは桃色に染まるレイラの頬を優しく撫でた。隣ではミアが「なに二人でいちゃついてるんですか! 早くなんとかしてくださいよ!」と騒いでいる。シモンから溢れた粘度のある水は、三人の足元にもうすぐたどり着こうとしていた。
「二人は隠れてて。この水に触れると危ないからね」
そう言って、アルベールは制服の内ポケットから黒い杖を出した。
ミアとレイラが木の後ろに隠れたのを確認して、アルベールが一歩踏み出すと、何か危険を察知したのか、水がまるで槍の先端のような形になり、彼を刺しに来た。アルベールが上体を反らしその切っ先をよけると、それを見越していたかのようにいつの間にか彼の周りを囲っていた水が同時に三本の切っ先に変化し、中心にいる彼を襲う。
これにはレイラも声を上げた。
「あぶ――」
「上手な戦い方をするね」
アルベールはまるで褒めるようにそう言い、地面を蹴った。すると何かに弾かれるように身体が上空に舞った。きっと過集中させた風のマナを自分の下で爆発させて宙に飛び上がったのだろう。
「アルベール様、すごーい!」
ミアがはしゃいだような声を上げるのと同時に、レイラはアルベールが無事だったことにほっと胸をなでおろす。
宙を舞うアルベールに隙を見いだしたのか、水の槍は更にアルベールを追って何本も生えてくる。アルベールはまるでそれを見越していたかのように空中でよけて、シモンの背後に降り立った。そして、杖の切っ先をまだ水の触れていない地面に刺す。そして何やら小さな声で呪文を唱えた。すると、シモンの下にある地面が地響きと共に盛り上がる。
「わ!」
「あれって、手?」
地面から手が生えている。そう表現するのが最も適切な光景だった。地面から生えた手は手中にいたシモンを握る。その行動にレイラは焦ったような声を上げた。
「え、ちょっと!」
「大丈夫だよ。傷つけるつもりはないから」
「でも……」
「水のマナに強いのは地のマナだからね。そして、地のマナは浄化作用に優れている。あの手に使っている土はシモンの水を浄化し、自らの糧にするように設計してある」
その言葉通りに、シモンから流れ出た水をあの手の形をした土は吸収しているようだった。数歩下がったアルベールに、レイラは木の影から出て近づいた。
「えっと、もう大丈夫なの?」
「処理的にはね。後は刺激をしないようにして生命維持が出来るギリギリのところまでこのまま魔力を削る。そのあとシモンを目覚めさせて自ら魔力を引っ込めてもらえれば、多分大丈夫だよ。さすがに生命維持ギリギリの魔力を制御できない魔法士はいないだろうからね」
「そっか……」
「レイラ、魔力を削り終えるまで近づかないでね」
そうこうしているうちに生徒たちが集まってきた。いきなり地面から手が生えてきてみんな何事かと思って見に来たようだった。「何事ですか!?」と金切り声を上げて走ってくるのは、基礎魔法学を担当するエマニュエル先生だ。
レイラとアルベールがエマニュエル先生に事情を説明する前に、ミアが先生の前に立ち口を開く。
「実は、シモンくんが体調が悪いのに無理しちゃったみたいで、暴走、っていうんですか? その状態になっちゃったみたいで……」
まるでシモンだけが悪いような物言いにレイラは声を荒らげた。
「ちょっと、元を正せば――」
「私はちゃんと『辛くなったら言ってね!』っていってたもん! 私は悪くないもん!」
ミアは叫ぶようにそう言って、地面から生えている手の真下まで行く。そして、上で気を失っているシモンを指差した。
「先生、シモンくんは上に――」
ミアがそう声を上げたときだった。レイラの視界にとんでもないものが映る。それは、シモンの前髪からまだ浄化し切れていない粘り気のある水が、ミアめがけて落ちてくる光景だった。
「ミア、危ない!」
気がついたレイラは咄嗟にミアにタックルする。その突然の行動に、ミアは最初「何するんですか、レイラさん!」と金切り声をあげていたが、自分が立っていた地面が、じゅぅ、という音とともに溶けたのを見て、今度は「きゃあぁぁ!」と情けない悲鳴を上げた。
「レイラ、大丈夫!?」
「うん。大丈夫」
ひっくり返った声を上げるアルベールに、レイラはべったりと地面におしりをつけたまま頷いてみせる。しかし、声が出せたのもそこまでだった。レイラは勢いよく咳込み始める。
(喉が痛い。鼻の奥から変なにおいがする……)
これにはさすがのミアもあせったのだろう、「レイラさん!」とひっくり返った声を上げた。そうしている間にも不快感は喉から胃の方にまで広がっていく。
(なにこれ内臓が……)
「気化した水を吸っちゃったんだね」
アルベールのどこか冷静な声を聞きながら、レイラは、そういえば……、と思い出していた。ミアを助けた直後、転けた自分たちの足元が水の腐食によって抉れているのを見て、レイラは思わずそこをのぞきこんでしまったのだ。そして同時に、そこから立ち上る煙を彼女は吸ってしまった。きっとあれが良くなかったのだ。
アルベールはレイラの膝裏に手を回し、彼女を抱き上げた。そして安全な場所まで移動すると、前髪を払って顔色を確かめてくる。覗き込んでくる彼の真剣な瞳に、苦痛に顔を歪ませるレイラ自身が映り込んでいた。
「レイラ、ごめんね」
最初は何に謝られたのかよくわからなかった。その謝罪の意味に気がついたのはそれから数秒後、瞬きをした直後だった。瞬きをする前に見た彼の瞳が気がついたら目前に迫ってきていて、唇に柔らかいものが押しつけられる。
(え? これって……)
レイラの唇に押しつけられたもの。それは、アルベールの唇だった。
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