10.「いつかまた、会えるといいなぁ」
「そういえば、僕も一つだけ聞いても良い?」
アルベールがそう聞いてきたのは、食事がある程度進み、もうそろそろ学園に帰ろうかというときだった。レイラは目を瞬かせながら「なんですか?」と首を捻る。
「今日、僕のことを『アル』って呼んでくれたよね? あれは、どうして?」
アルベールの問いにレイラは「へ?」という間抜けな声を出して固まった。そしてしばらくの逡巡の後、瞬間湯沸かし器のように、かあぁあぁっ、と顔を赤くする。
「す、すみません! 実はあのとき、ちょっと混乱してて……」
「混乱?」
「気を失ってる間に夢を見たんです。幼い頃の記憶、だと思うんですけど。そこに、ちょうどたまたま『アル』って少年が出てきて……」
「そっか。……どんな夢だったの?」
「えっと、そうですね。――って、あれ? どんな夢だったっけ? 確か、えっと。水遊び、してたのかな? えっと」
レイラは必死に夢の内容を思い出そうとする。しかしいくら思い出そうとしても頭の中に白い靄がかかっているような感じがして、少しも思い出せないのだ。ただ一言だけ、『アル。また、遊ぼうね』という約束をした事だけ、鮮明に覚えている。
「あれ、おかしいな……」
なんでこんなに思い出せないのだろう。思い出せないのならどうして最後の約束だけはあんなに鮮明に覚えているのだろう。そのちぐはぐな感じにレイラは口元を押さえ、地面をじっと見つめた。こんなの、まるで何かで無理矢理忘れさせられているみたいじゃないか。
「忘れてるって事は、きっとそこまで大切な記憶じゃないんだよ」
アルベールの言葉にレイラは「え?」と顔を上げた。目が合った彼は、どこまでも優しい表情を浮かべている。その顔が、どこか少し安堵しているような表情に見えるのは、気のせいだろうか。
「ごめんね、無理を言って。ちょっと気になっただけなんだ。それよりも――」
「あの! 確かに今は思い出せないんですけど!」
レイラは思わず立ち上がった。けれど、どうしてその衝動が走ったのかはわからない。ただなんとなく、それをこのまま肯定してはいけないと思ったのだ。レイラは突然生まれた衝動に突き動かされるまま、次の言葉を口にする。
「大切な記憶だったと思います! すごく、大切な!」
「……」
「なんだか、とても良い夢だった気がするんですよ。楽しかった、って言えばいいんですかね? とにかく嫌な気は全然しなくて! いや、全然じゃないか。なんかもやっとするところもあったような気がするんですが、こう区別的には『素敵な思い出』みたいなカテゴリーで!」
必死に言葉を重ねるレイラをアルベールはじっと見つめていた。その視線に気がついたレイラは「どうかしたんですか?」と彼を覗き込んだ。
「ううん。特に何も。ただ……」
「ただ?」
「君の記憶に良い思い出として残ってるなら、その子はすごく嬉しいだろうなって思ったんだよ。すごくすごく嬉しくて、きっと泣いてしまうぐらい嬉しいだろうなって」
「……大げさですよ」
「大げさじゃないよ」
アルベールは視線を地面に落としたまま口元だけの笑みを浮かべる。その表情がなぜだか本当に泣きそうな表情に見えて、レイラは目を大きく見開いた。しかし、いつまで経っても彼の表情が崩れることはなくて、彼の泣きそうだと思っていた表情が自分の勘違いだということがわかり、レイラは恥ずかしさに頬を染めた。
その時、レイラの脳裏にふっと数時間前の記憶が蘇ってきた。
「あ、そういえば! まだ謝ってなかった!」
「謝る?」
「今回は、ごめんなさい!」
深々と頭を下げたレイラに、不思議そうな声を出す。
「ごめん。ちょっと何に謝ってもらってるか、わからないんだけど……」
「ピエールたちのことです」
「あぁ。やっぱり、あれじゃ甘かったって? 今からでも――」
「ち、違います! あれはあの処理で良かったと思います!」
出来ればもう少し優しくしてあげても良かったと思うのだが、というかむしろ別に罰は求めてなかったのだが、レイラが起きたときにはもう現場は地獄絵図だったのだ。あそこからのもっていき方として、あれがベストな処理だった。
「そうじゃなくて! 私のことを階段から突き落とそうとしたのは彼らだったのに、アルベール様を一方的に責めてしまって……」
「別にいいよ。彼らが階段から落ちるのを助けなかったのは、レイラに何かするのを見たからだったけれど。助けに向かわせなかったのは、レイラが僕以外の男に触れるのが嫌だったからだし。抱き起こすところなんて見た暁には、今度は僕が事故を起こしてしまいそうだったしね。魔法の暴発っていう……」
つまり、あのときアルベールがレイラを止めたのは結果的にピエールたちのためにもなったと言うことだろうか。
「でもそうだね。もし謝ってくれるっていうのなら、一つだけ願い事を聞いてくれない? それでチャラにしてあげるからさ」
「願い事?」
「うん。願い事」
この世のものとは思えないほどの美しい相貌が覗き込んでくる。もうそれだけで、なんでも願い事を叶えてあげたい気分になってしまうが、それはダメだと思いとどまった。ここは慎重に行かなくてはならない。なんせ相手はあのアルベールだ。何を願われるかわかったものじゃない。……だとしても絶対に嫌だと突っぱねることも出来ない状況なのだが。
「えっと。できるだけ善処はしてみますので、先に願い事というのを聞いてもいいですか?」
「大丈夫。変なことは言わないよ?」
「念のためです」
アルベールは「えー」と不満そうな声を上げたが、このやりとりも予想済みだったようで、彼はすぐに口を開く。
「レイラ。僕のことを『アル』って呼んで」
「へ?」
「さっき君にそう呼ばれて、すごく嬉しかったんだよね。あと、敬語も嫌だな。様なんかつけたらダメだからね?」
「あ、あれは、勢いで言ってしまっただけで……」
「それに、実は羨ましかったんだ。君の友人のダミアンって子が。僕もレイラからあんな風に親密に呼んでもらいたいな」
甘えるような声が耳に毒だ。しかも願い事もいい塩梅をついている。突っぱねるには弱いし、許容するにはちょっと勇気がいる願い事だ。
悩むレイラにアルベールは更に身を乗り出してきた。
「それに、よく考えてみて。ダミアンはレイラの友人なんだよね?」
「そうですね」
「僕は、レイラの恋人だよね?」
「…………そうですね」
「恋人より親密な友人っていらないと思わない?」
(ダミアンの命が危ない!)
これは本気の声色だ。彼がダミアンの存在を面白く思っていないのは薄々感じていたけれど、そのトーンの声色をだしてくるほど面白く思っていないとは思わなかった。
「というか、そんなことで許してくれるんですか?」
「許すよ。というか、そもそも怒ってないんだけどね」
アルベールは早く早くと目で急かしてくる。レイラはじんわりと頬を染めた。
「えっと……」「うん?」「あのね。あ、あ……」
数時間前は何度もそう呼んだのに、いざ改めて呼ぶとなると緊張してしまう。
レイラは腹に力を込めて、声を絞り出した。
「アル?」
瞬間、花が綻ぶようにアルベールは微笑んだ。
「ありがとう」
性懲りもなく、その顔にちょっとキュンとしてしまった。
二人は食事を終え、学園に向かって歩き出す。認識阻害の魔法はちゃんと効いていて、だけど前から歩いてくる人が自分たちにぶつかることもなかった。話も聞こえてないみたいで、レイラがどれだけ声を上げようと周りの人は誰も振り返りもしない。アルベールは認識阻害の魔法を便利な魔法だといっていたが、確かにこれは常用したくなる。
「ところで。どうしてアルは私のところに駆けつけることが出来たんです……じゃなくて、出来たの?」
気を抜いたら敬語に戻ってしまう口調を無理矢理直しながらそう聞くと、アルベールは「ん?」と首を傾げた。
「私がピエールたちに水の中に入れられてたとき。あそこ、校舎の外から見えないし、私、助けだって呼べなかったのに……」
レイラの言葉に、アルベールは少し斜め上を向きながら「あー……、それは、たまたまかな?」と適当に返してくる。レイラがいぶかしみながら「たまたま?」と声を低くさせると、彼は「そう。たまたま通りかかって」と妙ににこやかな笑顔を浮かべた。
(あんなところ、たまたま通りかかる人なんているの?)
日中ならいざ知らず、放課後だ。周りに何もない場所なので生徒も寄りつかないし、普通にしていたら雑多りに誰も立ち寄らないだろう。だからこそ、ピエールたちもあそこをたまり場にしていたのだろうし。それに、先ほどの彼の態度だって、あからさまに『何かを隠しています』という感じだった。
「アル。私、嘘つく人嫌いよ?」「……」「アル?」「怒らない?」「理由による」「……」「じゃぁ、できるだけ怒らないようにする」
そこでようやくアルベールは何かを諦めたように息をつく。そして、レイラから視線を外した。
「実は、君に万が一のことがあってはいけないから、追跡魔法で常に監視をしていたんだ」
「え? つい、せき……?」
「盗聴魔法も仕込んでいて。あぁ、でも、君に拒否されてからは聞いてないんだけど」
「とうちょう?」
背筋がぞわっとした。一体いつのタイミングでどのように魔法をかけられたのだろう。全くわからない。一瞬、前世のことなども聞かれたのかと焦ったが、それならもうちょっと突っ込んで話を聞いてくるはずだと思い、ほっと一息をつく。
(いや、だとしても、盗聴って!)
レイラは困惑したままの声を出した。
「ちょっと待って、盗聴って、どこまで!?」
「レイラの寝言って可愛いよね? この前なんか、大きな林檎を食べるみたいな夢見てたでしょ? 可愛いなって思って、録音しちゃった」
瞬間、レイラの顔が真っ赤に染まった。
「アル!」
「あはは、ごめんね?」
まったく反省していない様子のアルベールに、レイラは今度は怒りで顔を赤くした。
二人が学園に着いたのは、寮の門限ギリギリの午後十時手前だった。
「ったくもぉ、アルってば……」
部屋に戻ったレイラは窓の外を見ながらため息を吐く。最初は抵抗があった『アル』という呼び名だが、思ったよりも口になじんでしまうのが早く、学園に着く頃にはもうほとんど違和感がなくなってしまっていた。まるで昔からそう呼んでいたように……とは言いすぎかもしれないが、今日呼び方を変えたとは思えないほどスムーズに自分の中に浸透していった。
レイラは怒濤の一日を振り返りながら、星が輝く紺色の空を見上げる。怖かったり、恐ろしかったり、美味しかったり、楽しかったり、怒ったりしてしまった一日だったが、何故か不思議と満足感が胸を満たしていた。
「そういえば、『アル』って誰だったんだろ……」
レイラの言う『アル』はアルベールの事ではなく、夢で見た少年の方だ。正直なところ、まったく容姿も思い出せないし、もしかしたら少女だったのかもしれないとは思っているのだが、自身の勘が『少年だ』というので、おそらくきっと少年なのだと思う。彼との思い出は何一つ思い出せない。本当にまるっとその部分だけ消え失せていて、どれだけ記憶を掘っても『アル』のかけらさえも見当たらないのだ。
「アルだから、アルベールの小さい頃とか? ……まさかねぇ」
それはレイラが『アル』という名を思い出してからずっとしていた問答だったけれど、アルベールは隣国の人間な上、王族なのだ。幼い頃のレイラが会うなんて事、普通に考えたらあり得ない。それに、アルベールに比べて『アル』はすごく素直な子供だったと思うのだ。素直で純粋で優しい少年。きっと笑った顔も可愛かったのではないのだろうかと思う。
……まぁ、何も思い出せないので、どうやっても勘なのだが。
「いつかまた、会えるといいなぁ」
レイラのその声は、開け放った窓から広がって、誰にも届くことなくかき消えた。
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