第13話 side 魔王の妹アスタロト
浄瑠璃寺明日香、十四歳。都内の中学に通う女子学生。取り立てて人に自慢出来るような特技はないけれど、物心付く前からやっている水泳はちょっとだけ得意で、自己紹介をすると必ず名前を覚えてくれる事が特徴だろうか。テストの答案用紙に名前を書く時は、父方へ殺意が湧いてくるけれど。
自慢出来るようなものはないが、その逆はある。それは他人には言いたくない事、特に学校の友達には決して知られたくない事。
それが私の兄、浄瑠璃寺健太だ。兄は三つ年上の十七歳だったが、中学一年の頃から引き籠もりになり、その長さは五年間に渡っていた。昔は近所でも評判になるような自慢の兄だったけれど、今では兄の事を聞かれるのさえ嫌だった。
だからその日、両親が仕事で遅くなった日、私は兄と喧嘩になった。
きっかけは私が近所のスーパーで買ってきた、夕食用のお惣菜を兄が勝手に食べた事だった。引き籠もりにも程度があり、兄には兄の言い分があり、兄が近所のスーパーにさえ出掛けられないのには理由があるのだろう。
けれど、十四歳の私には、そんな傍若無人な兄の行動も、その兄の行動を許している両親も、到底許容出来るものではなかった。
なんで生まれてきたのか、恥ずかしくて堪らない、早く自殺してくれ、くらいは言った。怒り狂った兄は私に襲い掛かってきて、何度も何度も殴られた。私は運動部に所属していて、それなりに鍛えているつもりだったけれど、やっぱり男女の差は埋められるものではなくて、喧嘩は一方的なものになった。
そんな時だ。
頭の中へ声が響いた。
“今”を変えたいか、そんな問い掛けだったと思う。私も、そして兄も、それに答えた。
それは更に私たちへ語り掛ける。
お前たちへ魔王ベルゼビュートと魔王アスタロトの力を授けた。その力をどう使うのかは自由だ。
次の瞬間には、自宅の窓の外の光景が見知った都内の住宅街ではなく、どこかの森、それも大勢の兵隊に取り囲まれた場所になっていた。
私たち兄妹は、大いなる存在にとてつもない力を与えられて異世界へやって来た。
異世界にやって来た当初は現地の国に快く迎えられて、人間が倒せないような魔物を授かった力で倒し、感謝されるような毎日を送っていた。
兄は人が変わったように明るくなり、元の世界へ帰るなど考えてもいないようだった。けれども私は諦めずに元の世界へ帰る方法を探し続け、その糸口さえ見つけられずに意気消沈する日々。
それが変わったのは、土地のほとんどから魔物の脅威が無くなり、人間同士の争いが、国家間戦争が始まった頃からだ。
その頃から、私も兄も日常的に命を狙われるようになる。異世界に来たばかりの頃から私たち兄妹が世話になった人は、真っ先に人質に取られて殺された。友人になれた人たちは、その家族を殺されて私たち兄妹を罵倒した。兄が愛するようになった現地の女性は、それは見るに堪えない責め苦の果てに自ら命を断った。
そうして兄は狂い出した。戦う相手を、魔物から人間に変えた。情け容赦なく人間を殺していく姿は、身も心も魔王ベルゼビュートになったかのようだった。
ただ、狂った兄をたった一つだけ繋ぎ止めていたものがあった。
私だ。
兄は私の前だけでは、必ず笑顔を見せ、こう言い続けた。
「大丈夫。お前だけは守る。不甲斐ない、他人に言えない恥ずかしい兄だったけど、守らせてくれ。そして絶対に元の世界へ返してやるからな。お前だけは、絶対に」
兄は召喚魔法の知識を得るため、魔物を使って次々と国を攻め落とした。その邪魔をする者にも容赦はしなかった。
そうしていつしか、魔物の脅威から人々を守る勇者は、魔王と呼ばれるようになった。
私は魔王となった兄に立ち向かった。それが唯一の家族である妹の役割だと思ったからだ。
けれど、異世界に来てからずっと逃げる事ばかり考えていた私と、積極的に異世界で戦っていた兄では勝負にならなかった。
「お休み、明日香。次に目覚める時は、必ずお前を元の世界へ戻してやる」
私は水晶の中で長い眠りに就くことになる。
「ここ、は………?」
私が目を覚ましたのは、空中ブランコにでも乗せられているような不安定な体制だった。兄に敗北して眠っていた私が、こんな状況で目を覚ますなど信じられない。
「ようやく起きたか」
「………本当にどこ?」
「デュラリオン王国の東にある森の中。今からさ、オリエンスって奴をぶっ殺しに行くから」
「オリエンス………………それより、この腕、何?」
オリエンスは、兄が従えていた魔物の一匹だ。私は爬虫類が苦手なので、正直言って好きになれなかった。何より近付いた者を敵味方関係無しに毒殺してしまう点が信じられない。
「何? 運び方が気に食わない? お姫様抱っこだよ」
「そういう次元じゃないと思う」
私を運んでいるのは、小学校低学年くらいの女の子だった。私が寝ている間に、こんな小さな子供が、馬を走らせながらこれほどの魔法を行使出来るようになっているらしい。
今、この異世界はどうなっているのだろうか。兄はまだ生きているのか。気になる事はいくらでもあった。
女の子Kは、色々な意味でおかしな子だった。とりあえず名前に突っ込んでしまった。
Kって、さすがに人の名前ではないだろう。
まあ名前は我慢するとして、Kが何者かが問題だ。Kの自称によれば、彼女は勇者らしい。兄を殺すため、私を人質にするつもりだろうか。
「流星の耀き!」
あ、これ違うわ。だってもう何もかも違う。巨大な隕石がすべてを薙ぎ払うって何だろうか。私たちが学校の水泳でタイムを競い合っていたら、セザール=シエロと勝負する事になった感じ。
ついでに言うと、Kはこの年齢なのに兄と同じオタクで、私はメイド服を着る事になった。ハッキリ言って恥ずかしいが、Kに力を与えた神々が望むなら拒否は出来ない。
私とKの力の差を考えれば、私に力を与えた存在と、Kに力を与えたらしい神々の差は歴然だと分かる。そんな神々を怒らせようものなら、Kの起こした天変地異どころではない神罰が下ってしまうかも知れない。
馬車での移動時間に、王子だという男の子と世相に詳しそうな初老の男性から慎重に話を聞いて、少しずつ今の状況が分かってきた。私が眠らされてから何年経ったのか、正確な年月までは分からないけれど、相当な時間が経っていていくつもの国が魔王―――兄に滅ぼされている事を知った。
兄は何十年、ひょっとしたら何百年も、ずっと一人で元の世界へ帰る方法。いや私を元の世界へ帰す方法を探し続けているらしい。本当に馬鹿な兄だ。一人で引き籠もっていたあの頃と、何も変わらない。
私が目覚めてから、まだ丸一日も経過していない。それにも関わらず四天王がそれぞれの城塞ごと塵になっていた。
Kはこの勢いで魔王となった兄を倒すだろう。他の四天王と同じように、顔も見る事なく塵にしてしまうかも知れない。長い時間が経っているのだとすれば、元の世界へ帰っても両親も友達も誰も残っていないだろう。そうなれば兄だけが、私を知っている人で、私の唯一の肉親だ。
私は唐突に怖くなった。
Kに連れられて戻って来た木造二階建ての浄瑠璃寺家。壁や家具が壊れているのは、ほとんど兄の仕業だ。中には異世界に来る前に壊した物も混じっている。
私は写真立てに飾られた赤ん坊を抱えた若い夫婦と笑顔の少年が映った写真を手に取り、少しの間眺めてから懐へ仕舞う。
私が兄を止める。その決意を新たにした。
久しぶりの兄は変わっていなかった。いや外見こそ変わっていなかったけれど、中身はもう私の知っている兄ではなくなっている。
浄瑠璃寺家の前では余り話せなかったけれど、デュラリオン王国の王の間では対峙する事が出来た。Kにボコボコにされた後に。
「あ、悪いんだけど、私日本人じゃないんだよね。ていうか、日本って私が生まれる前に無くなっちゃったし」
「え?」
「え?」
Kが信じられない事を言う。年号が変わるくらいは有り得ると思ってたけれど、日本という国が無くなるなんて思ってもみなかった。
「令和二十一年に革命が起きて体制が変わったんだよ。詳しくは教科書でも捲れ。帰って勉強しろ」
元の世界へ戻っても、自分の住んでいた国さえ無くなっている。私もショックだったけれど、兄の衝撃はそれ以上だっただろう。
魔王ベルゼビュートの力が暴走を始める。
以前の私は、異世界で魔王となった兄を力尽くで止めようとしていた。それは昔、異世界に来る前も同じ。引き籠もりになった兄を無理矢理外へ出そうとしていた。出せないと分かると、必死に隠そうとした。
私は結局、兄と一度として向き合っていない。
「確かに私たちは、この人たちの都合で召喚された。だけど、それはもうずっと昔の話なんだよ! 聞いたでしょう? 私たちの帰る場所は、もう無いの。今を生きるこの人たちを殺して、何の意味があるの!?」
私は誰かを説得するなんて上手くない。それでも必死に訴えた。だって、もし失敗したらKに殺される。兄が、私の最後の肉親が殺されてしまう。
「違ウ。余ハ、オレハ、オ前ダケデモ、元ノ世界ヘ」
「私は大丈夫だから。ずっと一人で頑張ってくれてたんだよね。ありがとう、私の自慢の兄さん」
「ウ、ウウウゥ」
ごめん、ごめん、明日香。兄は私にだけ聞こえる声で答えてくれた。
まだ戦いは終わっていない。
今度は私もKに協力する。家族と第二の故郷を守るために。
え? WDO? 国連の機関? ああ、なんか学校で習った気がする。WHOが世界保健機関で、WTOが世界貿易機関………いや、習ってない! WDOって何!?