不気味の谷
一面の硝子張りからは、高架下の渋滞を望むことが出来る。
町にありふれた車両の中には無表情の自動機械が、主人が管理する自走車によって運ばれていく。そこにはこめかみにライトが在ろうと、蛍光色のマーカーで自動機械と示されていようと、大した違いではない。そもそも、世界はこうした自動機械に両手を預けて久しいのだから。
古いパーソナルコンピュータの、キーボードを叩く音の心地良さといったらない。その指先一つで預けた両手はひとりでに自分の代役を担うのだから。それは手放した時点で分身をするようなものであり、世界が自分の思うままに動くことを実感することが出来る。何よりも、操縦盤に手ごたえがあることこそ、古いパーソナルコンピュータの粋なところである。0と1の往復で、その手ごたえを身近に感じられるのだから。
「マスター、全契約社員の契約更新、終了いたしました」
「ご苦労。君は優秀だな」
無表情のそれは女の身形をしている。結わえたポニーテイルから覗くうなじは好みだ。私はキーボードを叩くのを楽しみながら、彼女に次なる指令を出す。腕時計型の端末に音が鳴ると、彼女は相変わらず無愛想に、「承知いたしました」と答え、彼女は任務に戻っていく。もっとも、「彼女」などと、今となっては笑ってしまう程古臭い物言いだろう。自分の古風さに驚かされるとともに、その遅れた、ポリティカル・コレクトネスの無さに、わが身ながら呆れ果てる。いつ頃更新したのか知らないが、そろそろシナプスも替え時という事だ。
「マスター」
無遠慮に扉を開け開く若い男の身形をしたものが、私に声を掛ける。男は手つかずの書類を持ったままで、私の指示を与える端末も点滅したままであった。
私は肩眉を持ち上げて、キーボードを叩く。そろそろビル清掃会社との同期が始まる頃であろう。弊社のオフィスはとにかく汚れる故に、私はこの同期で自由に指示を出せるようになるのを心待ちにしているのだ。
「おぉ、君か。仕事は終わったのかね」
判り切った事を聞く、そう言う表情をそれがした。顔によく出るものというのは、全くやりやすいものだ。もっとも、それを運ばれていった自動機械が察するか否かは、判断しかねるところだが。
「いえ、少しお尋ねしなければならない事がありまして」
「ほう。質問を賜ろう」
私は早々に清掃会社に指示を出す。機械の駆動音がけたたましくオフィスに鳴り響いた。
「有難うございます。実は、今回、ご依頼主から、契約内容に不備があったため訂正したいとの依頼を受けまして」
私は顔を顰めたが、男の顔を見て、口元を緩める。
「そうか、君は人間だったね。失礼した。エラーはいつ何時起ころうとおかしくはない。君の人間らしさは愛おしいよ」
私はそう言って、キーボードを叩く。送られたデータと同様に契約内容を変更すると、一際心地の良いエンターの音を鳴らした。暫くして、男の端末から音が鳴る。男は「ありがとうございます」と短く礼を述べると、さっそく作業に戻ろうと踵を返した。
「待ちたまえ」
そこで悪戯心が働くのは、私の悪い癖だろう。男は足を止め、訝し気に向き直った。
「そう無機質なものを見るような目はやめてくれ。仲間じゃないか。人間らしさが愛おしいと言ったがね、いつかの人間のように微修正は自分の意志でやってくれる方が嬉しいと言っておかなければならないからね」
人間と自動機械の違いなど大したことではない。微修正を自動機械が出来るようになってからは、人間の方が単調な作業に向いているとさえ思う。気が狂う姿を見るのもまた、楽しいではないか。
「お言葉ですが、マスター。マスターが全ての決定権を持っているのですから、判断はすべてそちらで行うべきかと存じます。それが、『上司の務め』ではないですか」
「これは失敬、ご指摘の通りだね。君たちが各自打ち直すよりも、私が訂正して再送付する方が余程確実で早い」
「その通りです。今となっては、人間も自動機械もありませんからね。では、失礼します」
彼は再び作業に戻っていった。古風なキーボードを叩く音が再開される。掃除の次は人間たちへの指示を出さねばなるまい。
「気味が悪いよな……」
硝子張りの向こうで声がする。哀れな人は、0と1で世界が動くことに慣れられないのだろう。私は口元を緩める。
「ほら、自動機械の癖に……」