87充実した夏休み5
日が傾き始めた頃、命とレイトが無事に家にに辿り着くと祈達が出迎えてきた。
「ちーちゃん、おかえり!」
「ヒナちゃん!」
命はまだ幼い甥のヒナタが自分を覚えていてくれたことに感激して思わず抱っこした。
「ちょっとちーちゃん汚れたままでヒナタを抱っこしないの!」
魔物を排除しながらの帰宅だったため、命とレイトは泥と魔物の血で汚れていた。祈の指摘で命はヒナタを下ろす。
「ごめんごめん。えっとどうしよう、お義兄さんお風呂先に入る?」
「いや、命ちゃん先どうぞ。俺はヒナタを入れないといけないからな」
「はーい、じゃあ入ってこようっと」
トランクから着替えを取り出すと、風呂にお湯をはるために命は浴室に向かった。
「一緒に入れば良かったのに」
茶化す祈にレイトは苦笑して首を振る。
「それは冗談で言ったとしてもトキワに殺される案件だ。それより親子三人で入るか?」
「えーやだー!」
「何だよそこまで嫌がる事ないだろ?」
露骨に嫌がる祈にレイトは内心傷つきながら、不満を漏らす。
「どうせ親子で入るなら、温泉の貸し切り露天風呂がいいなーと思ったのよ」
要は家族サービスの要求らしい。祈はレイトの背中を撫でながら小さい声で笑う。
「今度休みを調整しておく」
「やったー!レイちゃん大好き!」
すっかり上機嫌の祈を見て、自分は祈にすっかり尻に敷かれているなとレイトはこっそり自嘲するのだった。
その夜命は久々の光の料理を囲み家族でそれぞれの近況を話し楽しんでから、診療所の桜の元を訪ねた。
「おかえり、ちょっと痩せたんじゃないのか?」
「残念、料理が豪華で太りました。胸が」
もうこれ以上大きくならないだろうと命は高を括って、入学時に下着を質の良いものに一新したのにも関わらず、食生活の変化が影響してか、サイズアップしたため、泣く泣く買い直した苦い事情があった。
「相変わらずスクスク育っているようだな。まあ変質者に気をつけろよ。学校はどうだ楽しいか?」
「うん、楽しい!いつも新しい発見があって凄く勉強になる!」
学校といえば命はふとアレクシスのことを話すと、桜はどんな顔をするのかが気になり、話題に出すことにした。
「そういえば桜先生を知ってる人がいました。アレクシス先生ていうんだけど、最初私を見た時に桜先生と間違えたんですよ」
かつての恋人、アレクシスの名前に桜は真顔になり、診察室に沈黙が流れる。
「あいつは私との事をどこまで話した?」
静寂を破った桜の問いに、命は緊張した面持ちで言葉を選んだ。
「元恋人同士で求婚までした関係だと聞きましたけど。本当ですか?」
命の返答に桜は頭を抱えてため息をついた。彼女にとって苦い思い出のようだ。
「本当だよ。はあ。まさか学校で教師をしてるとはな。てっきりもう結婚して子爵を継いでると思っていた」
「アレクシス先生は生涯独身を貫いて、来年教師を辞めて子爵を継いだら、甥っ子さんを養子にするって言ってました」
夏休みに入る前に命がアレクシスに呼び止められて聞いた話だった。結局アレクシスは桜を選ばなかったのだ。
「バカな奴だな。私に遠慮することなく幸せになればいいものを」
泣きそうな顔で笑いながら、桜は深いため息をついた。今も桜なりにアレクシスを愛しているのかもしれないと命は推測した。
「桜先生が独身なのはアレクシス先生の事があるからですか?」
命が知る限り桜に浮いた話は一つもなかった。あってせいぜい患者から持ちかけられた見合い話だったが、全部断っていた。
「そうだな。最初は未練があって他の誰かを好きになるなんて出来なかった。でも独身じゃ世間体が悪い、そう焦り出した頃、兄さんが『さっちゃんは自分達の家族だから無理に離れて行かないでくれ』って大号泣されてさ。ここが自分の居場所でいいんだって思えた」
あの人ならやりかねないと命は今は亡き父、シュウに思いを馳せた。彼は一度たりとも桜が独身である事を茶化さず、むしろお嫁に行かないで欲しいと思っている様子だった。
「あとはお前が悪いんだぞ。私が学校を卒業後医者になって村に帰ってきて、初めてちーと出会ってから、ずっと私に懐いて可愛かったから……自分の子供はちーでいいやって、独身でも幸せになってしまったんだ」
女として結婚や妊娠出産にこだわらなくていい。そんな価値観をシュウと命が与えてくれたおかげで、桜は肩の力を抜いてこれまで幸せに生きてこれたとそう感じていた。
「私はあいつの手を取らないで村に帰った事を一切後悔していない。大体私が子爵夫人とかあり得ないだろう?」
戯けて同意を求める桜に命はくすくす声を立てて笑う。
「そうですね。初めて聞いた時は笑いを堪えるのに必死でした」
「お前何気に酷いな。まあ、この件については途中で連絡を絶った私も悪いから、あいつに謝罪の手紙でも書くか。渡してくれるよな?」
自分ばかり幸せじゃいけない気がした桜はアレクシスとの関係にけじめをつけることにした。
「わかりました。必ず渡しますね」
「ありがとな、ちー。お前も疲れてるし、明日早いんだろ?もう寝な」
「はーい、おやすみなさい」
明日はハヤトと南の結婚式だ。桜は命に就寝を促して出て行ったのを確認すると、机の上の引き出しから便箋を取り出してペンを握った。




