80それぞれの日常7
「母の名前だと?」
早朝一番珍しく早く起きていた楓に早速トキワは光の神子である祖母の名前を尋ねた。
「お前自分の祖母の名前も知らずに生きてきたのか。母の名前はな、名前は……」
言葉を詰まらせ楓は腕を組みしばらく考え込む。どうやら忘れてしまったらしい。
「私も知らん!」
忘れたどころか知らないと曰う楓にトキワは驚きながらも嘲笑した。
「母さんは自分の母親の名前も知らずに生きてきたんだねー」
さっきの楓の言葉をトキワはそっくりそのまま返してから見下した視線を向ける。
「仕方なかろう!家族内では母としか呼ばれないし、本人も母としか言わなかった。それに神殿内の人間も母の事を光の神子としか呼ばないからな!」
それは水鏡族の光の神子と闇の神子が一人しか存在しないが故の現象だった。ちなみに現在闇の神子はトキワの叔父であるイザナが死んで以来不在だ。
「おまたせ、朝ごはん出来たよ。二人とも何話してたの?」
朝食をトレーに乗せて食卓に現れたトキオをトキワと楓は一斉に見てきた。
「トキオさん、あなたは私の母の名前を知っているか!?」
「流石に父さんは知ってるよね」
立て続けに妻と息子に問われモテモテ気分のトキオは朝食を並べて席に着いてから、考える姿勢を見せた。
「そんな風に聞かれると自信がないが…確か絆さんじゃなかったかな?」
「じゃあそれだな。トキオさんが間違えるわけがない」
勝ち誇った様な表情で楓は食事の挨拶をしてから、目玉焼きに辛味調味料をかける。
「楓さんに信頼されて嬉しいな。しかしいきなりどうしてそんな話題になったんだ?」
お茶を人数分淹れながらトキオは問う。
「秘密」
命からの手紙の内容は自分だけの物にしたかったので、トキワは精一杯の猫を被って可愛らしく言えばトキオの目尻は下がり口元が緩む。
「そっかー、秘密ならしょうがないね!」
骨抜きにされたトキオはそれ以上問うことはなく、楓のために朝食のパンにバターを塗り始めた。
トキワは目玉焼きを食べながら、明日の休日は風の神子に魔術を習う日だから、早めに神殿に行って祖母から改めて名前を確認した上で、命の下宿先であるアンドレアナム家の前当主にまつわるエピソードを聞いて、それを彼女への手紙に書こうと決めた。
「そろそろ学校行かないと遅刻するぞ」
三つ目のパンに手を出そうとしていたトキワに食後のコーヒーを飲みながら楓が忠告する。時計は確かに登校時間を差していた。トキワはパンを咥えたまま立ち上がり、鞄を持って家を出て行った。
パンを食べ終わったら走ろうと思いつつ、トキワは歩いて学校に向かっていると木陰にピンクの可憐な野花が咲いているのを見つけた。命が好きそうだと思い、残りのパンを口に放り込んでから花を手折ると、鞄からノートを取り出して挟んだ。これを押し花の栞にして手紙に同封するつもりだ。
命と離れ離れになってからトキワが落ち込んでいたある日、桜が押し花の栞を渡してきた。その花は日頃トキワが命に捧げていた野花を命が毎回丁寧に押し花にして、それを同じくトキワが渡していたメッセージカードに貼って栞にした物の一つだと告げられた時は嬉しさと愛しさで涙が出そうになった。まさか近くにいないのに更に命を好きになるとは思わなかった。
ノートを鞄に戻して口の中のパンが無くなったのを確認したトキワは本当に遅刻しそうな予感がしたので魔術で風を纏わせて学校へと急いで登校して行った。




